佐々木譲第二次世界大戦秘話三部作との再会

録画しておいた「シャーロック・ホームズの冒険」と「シャーロック・ホームズの華麗な挑戦」を観た。久しぶりの前者ビリー・ワイルダー作品は本来四時間超の作品として企画され撮影も出来ていたのに二時間に短縮されたいわくつきのもので、カットされた部分を観たいけれどフィルムは残存していないとの由。ビクトリア朝のロンドンとスコットランドを再現した映像が嬉しい。ワトソン博士死後五十年経ってワトソン自身が事件を語るというスタイルは「サンセット大通り」とおなじで、死者の語る回想はワイルダー好みだ。
後者はハーバート・ロス監督作品で、ホームズがコカイン中毒の治療をフロイド博士から受けながらオリエント急行の上で活劇を展開するのがたのしい。シナリオは「スタートレック」シリーズや「ザ・デイ・アフター」の監督、脚本家として知られ、またホームズもののパステイーシュ作者としても知られるニコラス・メイヤー
いずれもイマジカBSで放送のあったものだが「華麗な挑戦」は検索した限りではDVDになっていないから価値ある録画となった。
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古書店の均一棚にあった佐々木譲『警官の血』『警官の条件』を見てさっそく購入し、快調に読み終えてこの作家の実力をあらためて認識した。
敗戦後の世相と谷中の五重塔炎上を背景として二つの殺人事件を追う天王寺駐在所の安城清二巡査の話にはじまり、おなじく警察官となった息子の民雄、孫の和也の三代にわたる物語。谷中、根津、千駄木のいわゆる谷根千はわが生活の場であり、谷中墓地にある下の写真の天王寺駐在所は散歩でおなじみのところで、これ以上ない身近な地域が傑作ミステリーの場となった。

エンターティメントの世界のなかに三代にわたる警察官の生き方や苦悩がしっかり書き込まれた重厚なミステリーには脇役として腕っこきの暴対担当の刑事が登場してシブい魅力を放っている。
佐々木譲を読んだのは『ベルリン飛行指令』にはじまる第二次世界大戦秘話三部作以来だから『警官の血』は二十年余りを経ての再会となった。これら以外の作品にも手を伸ばしてみたいが、今回は上の三部作を再読することとして、引き続き佐々木ワールドに浸った。この道はいつか来た道を辿り直すのも老いの特権だろう。
東京からベルリンへの零式戦闘機の秘かな冒険飛行(『ベルリン飛行指令』)、日米開戦前夜の情報戦、追う者、終われる者の息詰まる展開(『エトロフ発緊急電』)、終戦間際にストックホルム日本海軍武官が米国の原子爆弾ソビエトの対日参戦、スウェーデン終戦仲介申し出の情報を得て密使を東京に送る物語(『ストックホルムの密使』)いずれもかつて読んだときと同様に読み始めるとたちまち夢中になった。
ストックホルムの密使』はスターリントルーマンの熾烈な戦い、原爆投下とソ連参戦のタイミングの見極め、日本の終戦工作など当時の国内、国際情勢を踏まえながら記述されており、二十年前に読んだときはこれらがどれほど事実に基づいているか判断がつかなかったが今回は長谷川毅『暗闘』という歴史学の成果をとおしてより明確に理解できたように思う。
三部作に共通する歴史的事実に基づく巧みなストーリーテリングは『警官の血』『警官の条件』にも通じている。
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佐々木譲第二次世界大戦秘話三部作はいずれも甲乙つけがたい名作だが、もっとも印象に残る人物としてわたしが挙げるのは『ベルリン飛行指令』の安藤啓一大尉、米国で飛行技術を学んだインテリで優れた職人技を持つ飛行士だ。
昭和15年末日独伊三国同盟のもと零式戦闘機をベルリンに送るよう要請された日本海軍は秘密裡にそれに応える。乗り込んだのは飛行士としては優れながら海軍の札付き的存在である安藤大尉と整備士から叩き上げた優秀な飛行士で安藤を尊敬する乾一空曹の二人だった。
南京での無差別地上掃射を機器の故障を言い立てて行わず抗命の疑いを持たれている安藤大尉だが、ベルリンに向かう戦闘機へは乗り込んだ。南京での虐殺は蛮行であり、零式戦闘機のベルリン飛行空輸は愚行である。「わたしは蛮行と愚行のどちらかを選べと言われたら、ためらうことなく愚行を選びます」。醒めた認識を持つ男のぎりぎりの選択だった。
その二人を『ストックホルムの密使』で中心人物となる海軍本部の大貫少佐は「対米戦は必至だ……そう、大戦争になる。そして大殺戮、大惨劇だ。おれたちはきっと、あの時代遅れの飛行士たちを羨むようになる」とうらやむ。
「時代をまちがえて生まれてきた飛行士」「自分は大航海時代の水先案内人の血を引くパイロット」と自身を語る安藤大尉について新潮文庫解説の藤田宜永氏は「近代市民社会風のモラルと騎士の美学を同時に持ち合わせている人物」と述べている。そう、安藤啓一はどこかフィリップ・マーローを思わせるのだ。
そんな彼に思いを寄せるジャズシンガー由紀が蓄音機に載せるレコードを選びながら「川畑文子って好き?あたし、この人をそっくり真似ることからはじめたの」と嬉しいことを口にしてくれる。「上海バンスキング」の吉田日出子も川畑文子のコピーから歌いはじめたと語っていた。

物語の主筋ではないが『ベルリン飛行指令』で、アメリカ人女性を妻とした海軍中佐が報復人事としか思えない閑職ばかりに追いやられる、なかに、サイパンで士官用の慰安施設を開くための準備の業務がある。いわば女衒まがいの仕事である。
士官用の慰安施設の設置に軍幹部が従事するといった事実はあったのだろうか。佐々木譲はリアリズムと綿密な調査を重視する作家だから何かの典拠があったのかもしれない。永井荷風断腸亭日乗』にも満洲に慰安施設を作らなくてはならないが、娼婦が集まらないと軍人が言っているとの風聞が記されている。
一般論として言えば慰安施設は民間業者が営業するもので、軍人が女衒まがいの仕事に従事するのは考えられない。「朝日新聞」の朝鮮人慰安婦の強制連行は誤報だったのはこの常識を裏付けるものだったが、しかし慰安施設の設置や許認可の問題となるとどうか。誤った記事は正されなければならないがそれをあたかも鬼の首を取ったようにはしゃぎたてる風潮にも疑問を覚える。
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「愛の勝利を ムッソリーニを愛した女」をDVDで観た。
ムッソリーニは妻子ある身を隠してイーダという女性と情を重ねたあげく彼女との間にできた男の子の認知を拒み、邪魔になったイーダを精神病院に送り、成人した息子をも精神病院に収容した。イーダ役は大好きなジョヴァンナ・メッツォジョルノで、最愛の人から裏切られながらも人生を懸けて信念を貫いた女性像を見事に演じている。ただしわたしには彼女の魅力以上にムッソリーニの悪が不愉快で、こういうのをわたしの郷里(高知県)では「へごい男」「ざっとした奴」と言う。左右の全体主義が嫌いだからではなく事実とすれば人間のクズで、こんな男に入れあげた女もどうもなあという気がしないでもない。
趣向を変えようと喫茶店へ行き、雨の降る通りを眺められる椅子に座りiPhoneルーズベルトグリルでのボビー・ハケットとヴィック・デイッケンソンの双頭クィテットのライブを聴いた。ピアノは名手デイヴ・マッケンナ。

リー・ワイリー「ナイト・イン・マンハッタン」はわが女性ジャズボーカルの溺愛盤のひとつで古き良きアメリカのソフィスティケションが堪えられないアルバムだ。ここで錦上花を添えるのがボビー・ハケットのコルネットによるオブリガードで、リー・ワイリーを聴くうちにやがて彼のリーダーアルバム「コースト・コンサート」に巡り会った。爾来モダンな感覚が隠し味となったトラッドなジャズをわたしは愛聴し続けている。ちなみにわがリー・ワイリーのお宝はむかし県外出張の際入手した「想い出のサンフランシスコ」。
ルーズベルトグリルでのライブを聴きながら読んだ寺田寅彦アインシュタイン」の冒頭に1921年(大正十年)バートランド・ラッセルが来日し、いま世界で最も注目すべきはレーニンアインシュタインだと語ったという話があった。同時代の文献に接するのはこういう感覚がわかってありがたい。ムッソリーニの組閣は翌1922年である。