『あのころ、早稲田で』

著者の中野翠さんは一九四六年生まれ、埼玉県立浦和第一女子高を経て一九六五年四月早稲田大学第一政経学部経済学科(当時は夜間部の第二政経学部があった)に入学、六九年三月同校を卒業した。「あのころ」とはそのころを指している。
中野さんの同級および少し上と下とを取りまぜていえば吉永小百合タモリ久米宏田中真紀子、「突破者」の宮崎学呉智英三島由紀夫とともに割腹自殺した森田必勝、村上春樹たちがいたころである。
わたしは一九五0年生まれ、著者が卒業した年の四月に第一政経学部政治学科に入学したから中野さんとは入れ替わりになる。直前の一月には東大安田講堂において全共闘と機動隊との攻防があった。あの時代の空気を吸った一人として、隣り合わせの年代にいる彼女の「あのころ」を見てみたいと興味津々、胸がときめいた。いっぽうで自身の恥ずかしく愚かしい学生時代が思いあわされるのは避けたい気持もあったけれど、しょせんはこの本(文藝春秋二0一七年四月初版)の誘惑には勝てなかった。
懐かしかった。そして頁を繰りながら思い出されたわが愚行のあれこれにはいまさらながら赤面の至りだった。そうしているうちに「私小説」ならぬ「私読書」という言葉が浮かんだ。本書を第三者の物語として客観的に読むのはわたしには不可能であり、中野さんの青春グラフィティ、そしてベビーブーマー第一陣による六十年代後半のクロニクルを自身の体験と重ね合わせて読むほかなかった。「私読書」の所以である。

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中野さんのころ一般教養の「文学論」を担当していたのは文芸評論家の平野謙で、明治大学から出講していた。彼女は高校時代から少しばかり愛読していた平野謙の授業が受けられるのがうれしくて最前列に座っていたところ、平野は彼女のほうをちらっと見て「ここにいるみんなは、大半が戦後生まれなんだなあ。うーん・・・・・・。政経学部は男ばっかりだったから、私は好きだったんだ。それが女も入ってくるようになって・・・・・・不愉快だ」と放言したのだった。
彼女は次の時間もあえて最前列に陣取ったところ平野はハッとして「いやー、私もついよけいなことを言ってしまって・・・・・・。女性でも向学心があるのは結構なことです」と口にしたところで彼女の気は収まり、次の時間からは後方の目立たない席に移動した。成績はもちろん「優」だった。
早稲田の先輩で中野さんより一つ下の「リケジョ」がいて、新入生のときの出欠をとる授業で名前を呼ばれ、返事をすると教師は一瞥して「なんだ、女か」と言い放ったと、卒業してずいぶん経ってからも憤懣やるかたなく語っていた。教師は「子」のつく名前ではないので男と判断していたうえに、理系の女子学生に違和感があったのだろう。セクシャル・ハラスメントという言葉も概念もない時代だった。
「文学論」に話を戻すと、わたしも「文学論」を選択したが平野謙は体調がすぐれないらしく講師を辞していた。平野の授業を受けたかったと残念がる友人もいたが、わたしはかろうじて名前を知るだけだったから何の感想もなかった。
受講した「文学論」の担当はおなじく文芸評論家で法政の教授、そうして平野の盟友(雑誌「近代文学」の同人、ほかに本田秋五、埴谷雄高荒正人佐々木基一山室静がいる)小田切秀雄先生で「政経の文学論は熱心に聞いてくれるからいいよと平野君がいたく勧めるものだから」とリップサービスに努めていたのをおぼえている。もちろん?成績は「優」だった。
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一九六六年一月早稲田では授業料値上げに反対して全学部が無期限ストライキに突入、校舎はバリケード封鎖され、混乱は百五十日におよんだ。ヘルメット、ゲバ棒姿の学生が登場する直前のころだが、大学側の説明に「ナンセンス!」とヤジを飛ばし、学生側の発言には「異議なし!」と応ずるスタイルはすでに定型となっていたと本書で知った。なかには気の利いた、芸のある面白いヤジを飛ばす学生もいて中野さんは尊敬の念をかきたてられたという。
橋本治が「とめてくれるなおっかさん 背中の銀杏が泣いている 男東大どこへ行く」というコピーを打った東大駒場祭のポスターで注目されたのは有名なエピソードだが、早稲田にも似たような無名の人がいたわけだ。
ついでながらわたしは、卒業式粉砕を叫ぶ学生たちの落首のなかに「早稲田(ここ)で四年間過ぎチョビレ、卒業式にハッパフミフミ」という当時大橋巨泉が流行させたパイロット万年筆の広告コピーをもじったものがあったのをおぼえている。
中野さんは大学に入学してすぐに「いっぱしの左翼」になりたくて左翼サークル「社研」(社会科学研究会)に入部した。足を踏み入れる割合は「教室1、部室5、喫茶店4」の学生生活。そこへ授業料値上げ反対闘争が勃発したから「私としては『待ってました!』という気分だった。頭の中を『インターナショナル』の歌がかけめぐった」のだった。
中野さんは若き日のみずからの愚行の数かずを思い出し、ときに寝苦しい思いをした、「ためになる話はほとんど無い、あの時代の空気が少しでも蘇れば・・・・・・という気持で書きました」という。その点「待ってました!」の一節はじつによく「あの時代の空気」を表している。一刻も早く大学入試から解放されて、タテカンが林立し、シュプレヒコールが飛び交う場に赴きたい、「待っていてくれよ!」と念じながらの受験勉強だったから、この気持よくわかる。もっともわたしのばあいは「騒動師」(野坂昭如)の真似事をしてみたかったのであり、「いっぱしの左翼」になりたい真面目さはなかった。
授業料値上げに反対する早大全学共闘会議の議長は大口昭彦氏で、中野さんは「いかにも(昔ながらの)ワセダという風貌だった。顔も体つきもガッシリとしていて髪の毛はごく短く刈っていた。服は黒の学生服だったり、ベージュのジャンパーだったり。ファッションには興味がない様子。剣道の達人だという噂。そこがまた、大口さんの人柄をしのばせて、男子にも女子にも人気があった。あまりにも人気があったので女性週刊誌も取材に来ていたほどだった。ワセダならではのスター性があったのよ」「その大口の、全身を振り絞るようなアジテーションは無骨で飾り気のかけらもなかったが、なによりも迫力があった」と書いている。
アジテーションといえば久米宏全学共闘会議でアジ演説をしていて、おなじ演劇サークルの仲間だった田中真紀子は大学側についていた、と本書にある。アジる久米宏田中真紀子は冷ややかに眺めていたのだろうか。
わたしが入学したとき大口はすでに除籍処分となっていたが、何人かの先輩から、授業料値上げ反対闘争と大口の話を聞くと、氏はすでに伝説上の人物となっていた。そのうち大口は京大へ入学したらしいとの話があり、真偽は不明ながら事実とすればずいぶん優秀な人なんだと思ったことだった。それからおよそ半世紀経って京大の話は事実と本書で知った。しかも京大を経て弁護士になり、いまも活躍なさっているとの由。ずいぶんと元気づけられました。
以下はネット上にあった氏の紹介記事(「図書新聞」No.2911 二00九年三月二十八日)。
「1944年神戸市生まれ。63年、早稲田大学入学、ラグビー部、剣道部に所属、学生運動に参加。65年第一政経学部学友会委員長に当選、さらに全学共闘会議議長に就任。66年1月からの早大全学バリケードストライキを指導。二度にわたる逮捕、除籍処分を受けるが、早大生の圧倒的な支持が寄せられる。以降も早大を代表する学生運動のリーダーとして活躍。70年に京都大学に再入学。81年、弁護士となり、1047名鉄建公団訴訟など国鉄全逓の労働者、三里塚農民、学生の運動を一貫して支援し、また靖國訴訟などに取り組んでいる」。ラグビー部というのがよくわからないが、とりあえずそのままにしておきます。
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「あれは六九年の三月だったと思う。雪が降った翌日。アルバイトを始めるために西銀座の読売新聞社(その後、大手町に移転)に挨拶をしに行った。道路の隅には前日の雪が薄茶に汚れて残っていた」。
卒業そうしてまもなく社会人となるころの中野さんの姿だ。この年は雪が多かったような気がする。「文藝春秋」の編集長、また同社の役員だった鷲尾洋三の『東京の空東京の土』には四月十七日にもかなりの降雪があったとある。奥様の手術で忘れ得ぬ日となったこの日も大雪の一日だった。
はじめて早稲田の受験に臨んだのが六九年の二月下旬、その日、雪は降っていなかったが道路には積雪があり、南国土佐生まれのわたしは雪が固まって凍るとどれほど滑りやすくなるのか知らず、特に用心もせずに歩いているとさっそくすってんころりん、それから大学へ着くまでに二、三度転んでしまい、こんなことじゃ入試の結果も予想がつくなと不安がったり苦笑したりするうちに試験が始まった。