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スローボートからのつぶやき

2018-05-30

「勝者は、真実を語っていたかどうかをあとで問われることはない」

四月十一日の国会審議で希望の党の代表玉木雄一郎氏は質疑中に首相秘書官が「違うよ」などの不規則発言を行ったとして「秘書官がやじを飛ばすな」とたしなめた。このあと記者団に「犬は飼い主に似るという言葉がある。首相の傲慢な姿勢が隅々まで行き届いている」と言い放った。いいね!議場で口にすればもっとよかった。

玉木氏の実績や評価は知らないけれど、やじを飛ばした秘書官についての寸言は当を得ているし、激昂さめやらぬときにこうした対応がとれるのは頭の回転の優れていることを感じさせる。

官庁勤めのとき一度だけ、衆目の前にもかかわらず大喧嘩をした。相手は別の課の職員で、ポストはわたしより上だったがあまりの傲慢無礼に怒りを抑えかねた。後悔はなく、それどころか、しばらくは、相手の肺腑を抉る言葉を考えて、ああ言えばよかった、こう言えばよかったのにと残念がった。とりわけ「おれに用があるなら礼儀というものをきちんと身につけて出直して来いっ!」と啖呵を切りたかったのにすべては後知恵で、頭のめぐりの悪さを憾むほかなかった。まあ、わたしに礼儀作法を説かれるようでは社会人としてはどん詰まりだけどね。

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村上春樹の小説は『ノルウェイの森』や『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』のあとあたりからおつきあいがなく三十年近くご無沙汰だったのが、過日、ミステリーふうの物語の紹介文に惹かれて『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文春文庫、元版は二0一三年刊)を読んだ。

多崎つくるには高校時代から完璧な共同体をなしていると思っていた男女四人の親友がいたのだが、大学生のとき四人から一片の理由も示されないまま絶縁を告げられた。つくるはいま三十六歳、二歳上の恋人沙羅がいて、かつての親友たちの話を聞いた彼女は、あなたはナイーヴな傷つきやすい少年としてではなく、一人の自立したプロフェッショナルとして、過去と正面から向き合わなくてはいけない、自分が見たいものを見るのではなく、見なくてはならないものを見るのよと語り、真相を探るよううながした。

三十年ぶりの村上作品は、謎解きはあっさりしていたものの、過去の探索とミステリー風味が上手に組み合わされていて興味深く読めた。それと、いつものように一人称「僕」が語る体裁だろうと思っていたところ本作は三人称で記述されているのが「おっ!」だった。

そうしてうえの沙羅の言葉にある、多崎つくるの「ナイーヴな傷つきやすい少年」から「自立したプロフェッショナル」への道を作者のそれと重ねた。もとより『風の歌を聴け』のころだって「自立したプロフェッショナル」ではあった。ただその道のりで、ナイーヴで傷つきやすい「僕」という作家像から「自立したプロフェッショナル」へと自身を転換させてきた、『多崎つくる』を読みながらそうしたことをも思った。

それとこの作品の会話はずいぶん論理的だった。たとえばつくるが高校時代の女友達に「記憶に蓋をすることはできる。でも歴史を隠すことはできない。それが僕のガールフレンドが言ったことだ」と語るところ。その前段には「私たちはみんないろんなものごとを抱え込んで生きている。ひとつのものごとが、他のいくつものものごとに結びついている。ひとつを片付けようとすると、どうしてもそこに他のものごとがくっついてくる。それほど簡単には解放されないかもしれない。君にしたところで、私にしたところで」とあり、感覚的でファンタジックな要素が多かった鼠男や羊男のころの会話とはずいぶん趣きを異にしていた。

なお題名にある「巡礼の年」はフランツ・リストピアノ独奏曲集に由っていて、クラシックにからきし弱いわたしは作品名さえ知らなかったのに喫茶店で本書を読みながらスマホで一聴した。なんと便利な世の中になったものか。

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読み終えるのを惜しみながら浜田研吾『脇役本』(ちくま文庫)を読了。とりあげられているのは山形勲から吉田義夫までおよそ八十人のシブい役者たち。わたしには多くが写真を見なくても目次だけで顔が浮かぶ人々であり、あれこれの映画とともに高知市夏期大学に講師で来ていた三國一朗や巡業中の高橋悦史を街で見かけたことなどを思い出した。

本書巻末には著者・書名索引があり、なかで読んでいるのは戸板康二久保田万太郎』、澤地久枝『男ありて 志村喬の世界』、高峰秀子巴里ひとりある記』、三國一朗『肩書きのない名刺』、古川緑波随筆、日記、中村伸郎の随筆くらいで、おそらくこの先、手にすることはまずないだろう本ばかりだなあと嘆息しながら作者と書名群を眺めた。

現職のときであれば古書店、古書展を廻って漁ってみようという気持になったけれど、もうそうした時季は過ぎた。いま読まなくてもそのうち読めるだろうの「そのうち」に自信がなく、心許ないから手控えざるをえない。(と書いたあとで八代目市川團蔵自死を扱った網野菊一期一会」と戸板康二「団蔵入水」を読みました)

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『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』からさかのぼって村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』(新潮文庫)を読んだ。

「ひとつひとつの論理や主張はそれなりにまともで筋が通っているのだけれど、それらを総合して、結局何が言いたいのだということになると、途方に暮れないわけにはいかなかった。どれだけ細部を総合しても、そこに明確な全体像が浮かんでこないのだ」。

本書の「僕」が義兄の代議士について語ったこのところでずいぶん複雑な気持になった。というのも昔、村上春樹のファンタジー系の小説を読んで抱いた思いをぴたりと表現してくれていて、『ねじまき鳥クロニクル』もわたしにはそうした作品だった。作者の批判ではなく、こちらの資質、理解力の問題である。

村上春樹は、作家生活のはじめジャズを演奏するように文章は書けばよいと思ったという。その演奏=文章は素晴らしいけれど読み終えたあと全体像が描けない。「風の歌」は心地よく聴いたのに、あとでハミングしようとしても出てこない。例外は『ノルウェイの森』と『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』。

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『ねじまき鳥クロニクル』で、戦前内蒙古で中尉として特務活動に関わった経験をもつ間宮について「僕」が「間宮中尉は非常に礼儀正しい人物なのだ。礼儀というものが日常生活の重要な部分を占めていた時代から生き残ってきた人間なのだ」と評していた。

「礼儀というものが日常生活の重要な部分を占めていた時代」を示す言葉に「礼儀三百威儀三千」がある。藤沢周平『漆の実のみのる国」は「幕府の機構は、民を富ますことよりも礼儀三百威儀三千で諸侯を縛り、徳川将軍の権威と支配を維持するためにあるのではないかということだった」とある。

あるいは外交交渉にあってはむき出しの思い、感情を礼儀威儀のオブラートに包んだうえで丁々発止とやり合い、会議を踊らせる。しかしいまは踊る会議より、米国フィリピン大統領のようにむきだしをよしとする政治家が多い。

気に食わない議員であっても慇懃無礼で接してきた官僚のなかから質疑中の議員にやじを飛ばす者が輩出する世の中である。

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ヒトラーポーランドへ侵攻する直前、将軍たちをまえに、宣伝用の開戦理由はわたしが考える、それがもっともな理由かどうかは考えなくてもよいとしたうえで「勝者は、真実を語っていたかどうかをあとで問われることはない」と述べ、重要なのは正邪ではなく、勝利することだと説いた。

森友、加計学園問題をめぐり、安倍首相周辺の官僚たちの文書改竄や虚偽答弁など失態がぼろぼろ出て来ている。これには官邸という本丸から指示があった、すくなくとも周囲の者たちの忖度があったと推測するのがふつうだろうが、首相は膿を出し切らなければならないなどと答弁するばかりで、この人にとって文書改竄や虚偽答弁は官僚たちの問題であり、政治家の問題ではない。

与党にみずからを修正する意思はなく、忠告と助言はあっても無視され、彼我の力関係から野党に一矢報いるだけの期待もできそうにない。日本の政治は「勝者は、真実を語っていたかどうかをあとで問われることはない」という段階にあると考えざるをえない。

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柚月裕子孤狼の血』が白石和彌監督で同名の映画となった。「警察小説」×「仁義なき戦い」と評された原作だが、映画もその評言に十分応える出来ばえだ。ちーとばかし豚のクソがエグかったが。

舞台は広島だから「仁義なき戦い」のときとおなじく映画館を出たあと広島弁を口にしたくて困った。ほんと、わしゃ、こんな映画大好きなんじゃけえ。マル暴のイメージからすこし距離があるかなと思われた役所広司松坂桃李もよう頑張っとったぞ。出色はやくざ江口洋介

騙し、騙されるうちに人間関係が変化し、西日本を揺るがす一大血戦の幕が切って落とされるなんてところに「仁義なき戦い」の魅力があったが、「孤狼の血」も同様で、「県警対組織暴力」の風味を漂わせたマル暴とやくざ、警察内部など人間関係の変化の描写がよい。それと喜劇性。針小棒大デフォルメで笑わせるのは「仁義なき戦い」の骨法だ。

柚月裕子の原作は既読だが、映画に触発されて再読したくなった。まえに図書館で予約した際にはすぐ借り出せたけど、今回は映画化直後だからけっこうな順番待ちになるだろう。こういうところが年金生活者は辛いんじゃ。もちろん続篇の『狂犬の目』も予約してあって、待ち遠しいのう。下流老人の予備軍はできるだけカネは遣わず辛抱、我慢なのだ。

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NHKBS「アナザーストーリー:ベトナム戦争 写真の中の少女〜政府の嘘を暴いたジャーナリストたち〜」を見て胸が熱くなった。

一九七二年ベトナム人カメラマン、フィン・コン・ウトが撮った、ナパーム弾でやけどを負い、裸で逃げる少女の写真(ピューリッツア賞を受賞)は世界に衝撃をあたえた。番組ではフィン・コン・ウトがそのときの実情を語り、彼が属したAP通信の当時のデスクが公表にいたるまでの経過を明らかにする。そうして少女キム・フックのその後のあゆみを彼女みずからが語る。丁寧な取材とメッセージにジャーナリズムの良心を感じた。

この報道写真をニクソン政権はなんとかして糊塗しようとしたが一枚の写真の力には勝てなかった。「すべての政府は嘘をつく」のはベトナム戦争だけの問題ではない。「都合の悪いことは隠そうとする政府にたいし真実を明るみにしようとする人たち、その戦いはいまもどこかの国で行われているかもしれません」との沢尻エリカの言葉はNHKらしからぬスパイスの効いたものだった。

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トランプ大統領は「六月十二日にシンガポール金正恩氏と会う」「全世界のために、平和で安全な未来について議論する」と述べ、史上初となる米朝首脳会談の開催に意欲を示したと報道があった。

おたがい吼え続けていても課題解決はなく、リスクはあっても話し合うのはよいことだが、わたしはやはりペシミスト案の定会談はとりやめになりそうな雲行きである。(いまは一転して会談実現の方向にある)

米朝会談ですぐ思い浮かべたのは独ソ不可侵条約で、ヒトラーとスターリンが手を結んだのは世界を驚愕させた。先日まで不倶戴天の敵だった関係が首脳会談へと急転する。けっこうなことだと評価するいっぽうで独ソ両国のその後も考えてしまう。

この事例を挙げるまでもなく厳しく対立して来た米朝が一時的によい関係になったとして果たしてどれほど続くものやら。もちろん万物流転が世の習いであり、永遠の安定はなく、政治に静止の中の完全を求めるのはそもそもからして誤っている。そのうえで悲観論者としても「平和で安全な未来」とその持続を望みたい。

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