シルクロードを走る〜ウズベキスタン旅日記(其ノ三)

サマルカンドからタシケントへ戻る日の朝、十分あまりジョギングをしたところに美しい公園があり、奥には母親像とおぼしき銅像と灯明があった。スマートフォーンを提げて走る習慣はなく、この日も持っていなかったが、ここは写真を撮っておきたいとホテルへ引返し、スマホを持ち再度公園へ走った。
あとで現地のガイドさんにその話をすると、あそこまで二往復されたのですかと驚いていた。

彼女の話によると、一帯は「悲しみの丘」という名の平和への願いが込められた公園で、像は戦争に行って、いまだ帰還しない子供を待つ母親像で、二十四時間灯明は絶えることがない。ソ連時代ここには軍人の像が建っていて、その変化は人心のありようを示している。  
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ジョギングと朝食のあとはタシケントへ移動し、ティムール王の騎馬像がレーニン像にとって代わったアミール・ティムール広場や地下鉄乗車体験など同市内の観光をした。そのなかのひとつにナヴォイ劇場がある。ウズベキスタンの伝説の英雄ナヴォイの名を冠したオペラとバレーのための劇場で、建設には第二次世界大戦ソ連の捕虜となった日本軍兵士が携わった。

ソ連は、レーニンによる政権樹立を行なった1927年11月の革命三十周年にあたる1947年11月までにこの劇場を建設することを決定して建築を進めていた。しかし、第二次世界大戦が始まったため、土台と一部の壁などがつくられた状態で工事が止まっていた。そのため大戦後、日本人捕虜を活用して革命三十周年に間に合わせることを命題とし、建築に適した工兵四百五十七人の日本兵が強制的に派遣された。ソ連の捕虜になったのは合計六十万人とも言われ、満州で捕虜となった日本兵はシベリアなどで森林伐採、道路・鉄道建設に従事しており、この劇場建設の任務は特殊業務であった」。(Wikipediaより)
わたしはソ連の捕虜となった兵士はみんなシベリア送りになったと思っていたからウズベキスタンにも日本人捕虜がいたとはじめて知った。
そして今回の旅の終りに訪れたのが日本人墓地だった。旅程表に日本人墓地とあり、どうしてタシケントに日本人墓地があるのか、どのような人たちが眠っているのか疑問だったけれど、ナヴォイ劇場の建設経過を聞いてその事情がわかった。戦後大ヒットした歌謡曲「異国の丘」はシベリアだけではなかったのだ。捕虜はソ連国内数カ所に収容されていて、タシケントの日本人墓地にはウズベキスタン国内にある日本人墓地の記録が刻まれている。

ウズベキスタンに収容された日本人捕虜はシベリアよりだいぶん生活環境はよかったと考えられるが、帰還まで身体がもたなかった兵士たちも相当数いて、その墓群を見るうちに胸が熱くなった。
なお墓地の整備を推進したのは中山恭子参議院議員だったと聞いた。保守政治家としての立派な仕事に感謝したい。
異国の地に眠る兵士たちの墓地は離れがたかったが「異国の丘」にある歌詞「倒れちゃならない祖国の土に、帰り着くまで、その日まで」を思いうかべ、そのことの叶わなかった人たちの鎮魂の地に祈りを捧げているうちに涙が出た。
ついでながら戦没兵士を追悼するのに靖国神社というフィルターを通さないとおさまらない人がいて、しかも権力者のなかに多くいて、その強制をわたしは憂慮しているが、日本人墓地でのわが涙はそんなフィルターとは無縁である。    
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六月十七日。タシケント空港からインチョン経由で帰国した。
旅行中は飲まなかったウィスキーを口にしながら、タシケントの日本人墓地の写真を見たり、ビルマ帰りの亡父を思ったりしてしみじみとなった。そうしていくつかのヴァージョンで「異国の丘」を聴いたが、やはり竹山逸郎と中村耕造が歌ったオリジナルに勝るものはない。別格として作曲者の吉田正が歌った映像があり、魂の表出が胸を衝った。カラオケで「異国の丘」を歌おうとしても、少なくとも当分は涙声になるだろうから歌えそうもない。

そうそう、日本人墓地からあるいてバスに向かっていて、たまたま隣にいたアラフォー世代の女性と話すうちに「わたしの父は戦争でビルマへ行っていましたから、帰国できなかった日本兵士の墓は胸が熱くなりました」と言ったところ「それでお父さん、帰ってこられたのですか」と質問され、えっ!?となったが「何と言いますか、わたしは戦後の生れですから」と答えて、二人で笑うほかなかった。
ビルマ(現ミャンマー)から復員した父は、戦後、肺で固まっていた砲弾の破片が動き出して肺がえぐられたために片肺切除のやむなきに至った。あとで知ったが、一時、医師は母に、今夜あたり危ないと告げていたそうだ。いっしょに風呂へ入ると父の背中の手術の痕が痛々しく映った。父がマラリヤを再発したときは母に言われて、震えを抑えるため布団の上から覆いかぶさった。それはわたしが多少なりとも実感した第二次世界大戦だった。
墓地からの帰り道で話をした女性にとり第二次大戦は祖父母の世代の経験であり、それだけ戦前と戦後の境は茫洋としているのだろう。わたしが戦前生まれのジジイに見えたかどうかは不問にしておこう。