Lubricate us with mucus.

2008-12-17 final

( ゚Д゚)<新しい小説・2

「新しい体験を描き出すこと、これが現代作家の欲求であり、また、存在の理由でもある。自分の現に住む世界の中で人間的に不可能だとされているものを、なおかつ人間的な体験として描いてみること、また、ただ異常な出来事として精神の外におかれているものを内面的なもので満たしてみること、そのような試みへの衝動に責められていない作家は、現代作家として評価されるべきでない。真に現代作家らしいものをあたえるのは、熱狂的にせよ、ひややかにせよ、体験の拡大への突破口をうかがう、あのほとんどエロティックな緊張である。」

(古井由吉「『結びつき』における新しい体験」)

2008-12-16 366

( ゚Д゚)<Lubricate us with mucus.

「ロレンスはこの『黙示録論』の末尾を一種の〈宣言〉──他のところで彼はこれを「訓戒」と呼んでいる──をもって締めくくっている。(1)愛することをやめること。愛を問う「裁き」に対して《愛がけっしてうちかちえないような一つの決断》を対置すること。もはや与えることも受け取ることもなしえなくなる地点、もはや何一つ「供する」もののない地点に到達すること。これはアーロンや〈死んだ男〉の達した境地だ。彼らにとって問題はすでに別のところに移っているからである。流れがそのあいだを流れ、互いに離接し連結し合いながら流れてゆけるような河岸をいかにして築くかという問題に。もはや愛さず、身を与えず、受け取りもしないこと。そうやっておのれ自身の個の部分〔個の心〕を救うことだ。なにも愛は心の個の部分、個の心ではない。愛とはむしろ、この個の心を〈自我〉に仕立てあげるものである。与えられるべき、また得られるべき何かとなり、愛すること、また愛されることを欲するのは、まさにこの自我なのである。自我とは一つの寓意であり、イメージであり、〈主体〉であって、真の関係ではない。自我は関係ではない。それは一つの反映であり、主体をつくるあの小さな閃き、あの眼に浮かぶ勝ち誇った閃きにほかならないのだ(《あのいやらしい小さな秘密》と、ときにロレンスは言っていた)。大陽を熱愛したロレンスだが、それでも彼は草葉の上にきらめく大陽の閃きだけでは関係はつくれないと語っている。彼はそこから絵画や音楽に対する一つの見解をひきだしたのだった。個をなしているのは関係であり、魂であって、自我ではないのだ。魂は、生きた「共感」の輪、「反感」の輪をくりひろげるのに対して、自我にはどこか世界に没入してそれと一体になってしまおうとする傾きがあり、そこにはすでに死のにおいが漂っている。おのれを一つの自我として考えることをやめ、おのれを一つの流れとして生きること。おのれの外をまた内を流れる他のさまざまな流れと関わりあいながら流れている一つの流れとして、流れの集まりとして生きること。希少性さえ、涸渇さえ一つの流れなのであり、死でさえも一つの流れとなりうる。「性的」といい「象徴的」というのも(実際〔ロレンスにとって〕これは同じことである)、まさにそうした力の結び合い、流れの結び合いとしての生以外の何ものも意味していない。自我のうちには、キリストにもその傾向が認められ、仏教にその終着点が見出されるようなある願望、「おのれを無に帰して」しまおうとする傾きが含まれている。ロレンス(またニーチェ)が東洋に対して警戒心を抱いたのもそのためだった。流れの生としての「魂」は、生きようとする意志であり、闘い、戦闘である。離接だけではない。流れの連結もまた、闘い、戦闘であり、抱き締めることなのである。不協和なしに、和することはありえない。これは戦争とはまったく逆である。戦争はいっさいを無に帰そうとするところがあり、そのためには自我がこれにあずかることを必要とする。闘いは戦争を拒絶する。闘いとは魂の獲得にほかならないからだ。魂は、戦争を欲する者たちをしりぞける。戦争を欲する者たちは、戦争を闘いと混同するからである。しかしまた同時に魂は、闘いを放棄する者たちをもしりぞける。闘いを放棄する者たちは、闘いを戦争と混同するからである。聖戦と唱えるキリスト教と平和主義者のキリストと。魂の譲渡不可能な部分は、人が自我であることをやめたとき、初めてそこに姿を現す。このすぐれて流動的な、うち震える部分をこそ獲得しなければならないのだ──」

(ジル・ドゥルーズ「ニーチェと聖パウロ、ロレンスとパトモスのヨハネ」)

2008-12-15 365

( ゚Д゚)<えすえふ・2

「未来の「人間性」。──遥かの時代を望む眼をもって、現代という時代を見やるときに、私は、「歴史的感覚」と呼ばれる彼ら独特の徳性と病気以上に目ぼしいものは何一つ現代人の上に見出すことができない。それは、歴史上ある全く新しい見知らぬものの生ずる萌しである。この萌芽に、数世紀ないしそれ以上の歳月を藉すならば、そこから遂にはある驚くべき植物が、それ相応の驚くべき香気を放って発生し、それがためにわれわれのこの古い世界は従前より一そう住み心地よくなるかもしれない。われわれ現代人は、いままさに、いとも強力な未来の感情の鎖を一環一環と編みはじめている──が、われわれは自分自身にやっていることの何であるかをほとんど知らずにいる。ほとんどわれわれには、新しい感情が問題なのではなくて一切の古い感情の清算が問題であるかのように、思われている、──歴史的感覚はまだ何か非常に貧寒なものであり、多くの人はそれに襲われると悪寒に襲われたように覚え、そのためなお一そう貧寒にされてしまう。一方、その他の人には歴史的感覚は、忍び寄る老年の徴候と思われるし、彼らにとってはわれわれの地球が、自分の現在を忘れようとて自分の若き日の物語を書きつづる憂鬱な病人のように思われる。が実のところ、それがここでいう新しい感情の一つの色調なのだ。人類の歴史を総体として自己の歴史と感じることのできる者は、何もかも怖ろしいほど普遍化することによって、一切のあの健康を想いやる病者の傷心を、青春の日の夢を追うあの老翁の悲哀を、恋人を奪われたあの恋する者の悲歎を、その理想が潰え去ったあの殉教者の憂悶を、何ひとつ決着しないままに身に傷を負い友を喪うにいたった戦闘の夕べにおけるあの英雄の心痛を、ことごとく一身に感ずるのである。──だが、あらゆる類いのこうした憂悶傷心の莫大な全量を身に負い、これを耐え忍ぶことができるということ、──しかもさらに自己の前方と背後に幾千年の地平を展望する人間として、かつ過去一切の精神的遺産のあらゆる高貴なものの継承者・責任を負う継承者として、かつ一切の古い貴族の中の最高貴の貴族にして同時にいかなる時代にもその比を見ず夢想もされなかったような新しい貴族の初子として、第二の戦闘の日の明け初めるときに曙光と自分の幸運とに挨拶をおくる英雄であるということ、──こうした一切を、人類の最古のもの・最新のもの・損失・希望・征服・勝利のすべてをば、自分の魂に受容すること、──こうした一切を最後に一個の魂に包蔵し、一個の感情の内に凝縮させること。──これこそは本当に、これまでの人間が夢にだも知らなかった幸福を生みだすに違いない、──力と愛とに充ち、涙と笑いとに溢れた神の幸福、夕べの大陽にも似て自らの汲み尽くされぬ豊かさから間断なく恵みを贈って、これを海へとふり注ぐところの幸福、しかも大陽のように、いとも貧しい漁夫すらも黄金色に映える櫂もて舟漕ぐを眺めては自らをこよなく豊かなものと感ずるところの幸福を! この神々しい感情を、そのときには、呼ぼう──人間性と!」

(ニーチェ『悦ばしき知識 第四書』)

2008-12-14 364

( ゚Д゚)<無麻酔手術

「数ヤードごとに、自分を励ますために、もうじきだぞ、今日じゅう歩けば開墾地につけるぞとくり返しつづけた。咽喉も眼もかわき切って焼けるようで、骨も自分のものではない、もっと年とった他人の骨みたいに脆い感じがしてきて、ふとそのことを──自分の生活を考え出すと、大伯父の死以来、一切大人なみに生きてきたことがはっきり判った。いま戻ってゆくおれは、もう子供じゃないのだ。おれ自身の拒絶の焔で試練を受け、じいさんの狂気をしっかり押えつけ、息の根をとめんばかりにして、もう飛び出してくる余地などなくしてやった。おれはあの時、教師の玄関に立って、うすのろの子供と眼を合わせた時にまざまざと見えた、血まみれの、つんとくる狂おしいイエスの影の下を遠い目標へとのろのろ歩いてゆくおれ自身の幻影も、今ではもう永久に払いすてて縁のないものとなったのだ。

 子供に実際に洗礼をほどこしたという事実も、もうほんの時折しか少年の心をかき乱さず、そのことを考えるたびに、偶然的なものと認めた。ほんの偶然の出来事だ。おれはあの子を溺れさせようとした、そいつをやってのけた、事の本質上も、水中にまきちらした二、三の言葉なんぞより、溺れさすという行為の方が大事なんだ、と彼は思った。この場合に関する限り、教師の方が正しくて、おれは間違った。教師はおれに洗礼をほどこそうとはしなかった。奴さんは言ってたな「ぼくの根性は、頭にあるんだ」おれだってそうだぞ、少年は思った。たとえあれが何かの具合で、偶然の事故ではなかったとしても、もともと大事でもないことは、どこまでも大事じゃない。おれはあの子を完全に溺れさせてやった。「否!」と口で言ったのじゃなく、やってのけたのだ。

 太陽はぎらつく珠だったのが、大きな真珠みたいに、まるで太陽と月とが輝かしい結婚をして一つに融け合いでもしたようにくっきりしてきた。少年が眼を細めると、黒い点のように見える。子供の頃、何度か太陽に向って試しに、止れ! と命令してみたことがあり、一度などほんの数秒だが見つめている間、本当に止ったのだが、こちらが背を向けると、途端に動いてしまった。今は、太陽に向って、空から消えてしまえ、または雲に隠れてしまえと、命じたい気持だった。まともに顔を向けて、眼から追っ払おうとやってみると、たちまち沈黙の彼方に、あるいは沈黙そのもののうちにひそむ一地域が、彼をとりかこみ、はるか遠方にまで伸び広がっているのに気づかざるを得なかった。」

(フラナリー・オコナー『烈しく攻むる者はこれを奪う』)

2008-12-13 363

( ゚Д゚)<serious environmental problems

「「空気が濃い」とはよく言ったものだ。居心地は「風」のように、目に見えず、とらえがたいものである。服地について「風合い」ということばがあるが、「風合いのよさ」があって初めて着心地のよさがある。部屋にも、家にも、公園の木立にも、その「風合い」があるだろう。しっとりと私たちを包みながら澱まずひそかに動いている何かが。

 家や庭や公園のほうも、たえず人間が出入りしなければ速やかに朽ちる。しばらくはいらないと私の書斎の空気がささくれだつ。老母が毎日見回っていた庭は死後一月もたたないうちに荒れ地じみた。タクシーの老運転手の話では、名車といわれる車も毎朝一時間動かさないと駄目になる。熱帯魚も、毎日飽きずに眺めていてやらないと色がくすんでくる。多くの事物は、その「居心地のよさ」を保つために環境としての人間を必要とし、人間を頼みにしているようだ。きっと「居心地」をよくさせる人間とそうでない人間とがいるのだろう。」

(中井久夫「居心地」)

2008-12-12 362

( ゚Д゚)<DEAD OR ALIVE・3

「甘く、美しい死が、我々を救いにやってくる。群れの中になだれ込み、隔離された完全性にひびを入れる。清らかなる死よ、群れから逃れ、数人の生きる者を集め、それに対抗する機会を与えよ。ああ、死よ、我々を死で清めよ。我々から悪臭を取り除き、否定的人間とのがまんできない一体化から解き放してくれ。我々のためにこの牢獄を破壊してくれ。我々は、その牢獄の中で、群れなす生ける屍の悪臭に窒息寸前となっているのだ。粉々に砕け、破壊力をもつ美しき死よ。群らがる人間どもの完全なる意志を、自己にのみおぼれている虫けらどもの意志を、粉々に打ち砕くのだ。完全に一つになった、忌まわしい人間どもの塊を打ち砕くのだ。死よ、今や、お前の力を主張するがいい。今こそ、その時なのだ。彼らは、お前をずい分長い間拒絶してきた。彼らは、気違いじみた傲慢さにひたり、あたかもそれを屈従させたかのように、死と取り引きを始めてさえいる。彼らは、自らの持つ不毛化という卑劣な目的のために、これまでずっと生を利用してきたように、死をも利用しようと考えた。素早い死は、囲まれた傲慢な自己主張の目的に仕えることになっていた。死は、彼らを人類という慈悲深く独善的な虫けらどもを、《そのままの状態》にしておくために、手を貸すことになっていた。

 人類など、この世から消してしまおう。数人の人間がいればいい。清らかな死は、我々を人類から救い出す。死は、高貴で汚れなき死は、人類の鈍い無感覚になった殻を打ち砕く。ちょうど、殻に閉じこもった甲虫の、もろい甲を打ち砕くように。人類を打ち砕き、そんなものは終わりにしよう。純粋で孤高の人間──未知なる生と死に身を任せ、充足される人間が何人か現われればいいではないか。我々の不毛な一体化などは、もうよしにしよう。ああ死よ、我々を孤高の存在にせよ。我々を、卑しい社会的集団から解放せよ。ああ死よ、最後には我々を解放せよ。私を独立した存在にせよ。私を私自身にせよ。孤高の存在で、塊と化した無数の人間とは無縁の人間を教えてくれ。星のように輝き、自らに安んじている数人の人間を捜させてくれ。もう私という存在の起源を、人類という集団に尋ねないでくれ。私という存在の起源を私の中にある衝動に従って、直接、生に、死に尋ねてくれ。」

(D.H.ロレンス「死」)

2008-12-11 361

( ゚Д゚)<DEAD OR ALIVE・2

「花は新鮮でみずみずしかった。彼はそれを食べてしまいたかった。彼は花を集めながら、小さな黄色い管状の花を食べた。クララは依然として、うかぬ顔でそこらをふらついていた。彼は、クララのほうに近づいて言った。

「どうして、花を摘まないんです?」

「摘むなんていやよ。咲いているままがいいのよ」

「でも、二、三本ほしいでしょう?」

「花は摘まれたくないのよ」

「そうかなあ」

「花の死骸なんか持つのいやよ」と彼女は言った。

「それはかたくななこじつけですよ」と彼は言った。「水に入れてやれば、生えているときと同じくらい長持ちします。それに、花びんにいれてやるときれいですよ──うれしがっているように見えます。あるものを死骸だというのは、それが死骸のように見えるときだけじゃないですか」

「それがほんとに死骸であってもなくってもですか?」と彼女は言い返した。

「僕には死骸とは言えません。摘んだ花は花の死骸じゃないんです」

 クララは彼を軽蔑した。

「で、もしそうだとしても──なんの権利があって、あなたは花を摘むの?」と彼女はきいた。

「花が好きで、ほしいからです──それに、たくさんあるじゃありませんか」

「それが十分な理由になると思うの?」

「ええ。そうじゃないですか。ノッティンガムのあなたの部屋に飾れば、いいにおいがしますよ」

「そして、花が死んで行くのを見て喜べっていうのね」

「ですけど──死ぬなら死ぬでかまわないじゃないですか」

 そう言って彼はクララから離れ、青白く輝く泡の塊りのように野原に一面に咲いている花の上に身をかがめながら、行ってしまった。」

(D.H.ロレンス『息子と恋人』)

2008-12-10 360

( ゚Д゚)<DEAD OR ALIVE

「われわれは、生けるものか死せるものかのどちらかを選ばねばならぬ。生けるものは、どこにあろうとも、「神」の焔であり、死せるものは、やっぱり死せるものだ。わたしがこれを書いている部屋のなかには、死んでいる小卓がある──それはかすかにさえ存在していない。また、ごく他愛のない小さな鐵のストーヴがあるが、これはある未知の理由によって生きている。また、鐵製の衣裳トランクがあるが、これもまた、いっそう不可思議な理由によって生きている。さらに、数冊の本がある──が、その単なる風袋は死んでいる。完全に死んでいて、実在しない。睡っている猫もいる──こいつはたいした生きかただ。ガラスのランプがある──が、残念ながら死んでいる。

 この違いはどこから生じるのか? だれがそれを知ろう。だが、あくまでも違いは存在する。そして、わたしにはそれがわかっている。

 そして、すべての生動感の根源をわれわれは「神」と呼ぼう。すべての死の集計は人間とでも呼ぶか。

 そして、生けるものの生動感がいずこに存するかを発見しようとするならば、それは、生けるものとあるなにものかとの間にある、一つの不可思議な関係に存することがわかる。だが、そのあるものとはなんであろうか──わたしにはわからない。ことによると、生けるものと他のすべてのものとの関係であるかもしれぬ。生動感は、流動し変化してやまぬ醜もしくは美なる関係のうちにある。あのなんの変哲もない鐵ストーヴはなにものかの一部である。ところが、この細脚のテーブルはなににも属していない。切り落とされた指のごとき、単なる不連続のかたまりにすぎない。」

(D.H.ロレンス「小説」)

2008-12-09 359

( ゚Д゚)<描写の無-力・2

「しかし、感情がそこで展開するところの持続、それは諸瞬間が相互に浸透し合っているような持続であって、それゆえ、感情は生きている。にもかかわらずわれわれは、これらの瞬間を互いに分離し、時間を空間のうちで展開することで、この感情からその生気と色合いを奪ったのである。かくしてわれわれは自分自身の影を前にすることになる。われわれはみずからの感情を分析したと思い込んでいるが、実際にはこの感情に換えて、不活発な諸状態──これらの状態は語に翻訳することが可能で、その各々が、一定の事例において社会全体によって感じられる諸印象の共通要素、それゆえ非人格的な残滓を構成している──の併置を持ち出しているのだ。われわれがこれらの要素について推論を行ったり、それらにわれわれの単純な論理を適用したりするのもそのためである。諸要素を互いに孤立化させるというただそれだけのことで、われわれはそれらを類へと祭り上げ、それらが将来の演繹に役立つよう準備したのである。今仮に大胆な小説家が、われわれの慣例的な自我を巧妙に織り込んだ生地を引き裂いて、この見かけ上の論理のもとに根底的な不条理を示し、これらの単純状態の併置のもとに数々の多様な諸印象──これらは名付けられる瞬間にはすでに存在することをやめているのだが──の限りない浸透を示してくれるならば、われわれ自身以上にわれわれのことを知っていたということで、われわれはこの小説家を賞讃する。しかしながら、事情はまったくそうではない。われわれの感情を等質的時間のうちで展開し、その諸要素を語によって表現するというまさにそのことからして、この小説家がわれわれに呈示するのもやはり感情の影でしかない。ただし彼は、影を投げかけた対象の異常でかつ非論理的な本性にわれわれが勘づくような仕方でこの影を扱った。表現された諸要素の本質そのものを構成しているあの矛盾、あの相互浸透の何がしかを外的表現のうちに置き入れることで、彼はわれわれを反省へと誘ったのである。この小説家に励まされて、われわれは、自分の意識と自分自身のあいだにみずから介在させていたヴェールを、しばしのあいだ取り除いた。彼のお陰で、われわれはわれわれ自身の眼前に置き直されたのである。」

(ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』)

2008-12-08 358

( ゚Д゚)<不可触の逆理

「バナッハ-タルスキの定理はこのようにして証明されたが、この逆理で述べていることは、私たちの想像をはるかに超えている。そこには想像を絶するものがあるといった方がよいかもしれない。

 一つの球と、その2倍の大きさの球が与えられたとき、たとえ、前節で与えた証明の粗筋を詳しく追ってみたとしても、私たちは具体的にどのような部分集合をとり出して、組み立て直すと、2倍の球ができるのか、全然わからない。選択公理を用いているから、私たちの側には、構成の手段はないのである。

 構成する手段がないということを、もう少しはっきりいえば、本当にそのような部分集合が存在しているかどうかを、私たちの認識のなかで確認する道はないといってよいのである。選択公理を認めれば、そこからの単なる論理的帰結として、そのような部分集合の存在が導かれるが、選択公理を認めない立場をとれば、この部分集合を特定することはできなくなって、存在するかどうかの議論をすることなどはじめから何の意味ももたないものになってしまう。

 バナッハ-タルスキの定理は、一度、選択公理を認めれば、無限の世界は、私たちのもつ直観の働く、いきいきとした世界から切り離されて、選択公理から導かれる論理的な演繹のみ働く一つの形式の世界となり、最終的には、私たちの時空認識の中では捉え難いようなことを、この形式の中で示してみせたということになっている。……

 たとえば、ある命題が、10次元以上の空間でだけ定式化されるようなものであり、この命題の証明に、陰に非構成的なものが用いられ、最終的に、命題は、私たちの、3次元でのふつうの直覚でみれば、まことに奇妙な形をとって述べられているとする。そのとき、私たちはこの‘奇妙さ’が非構成的な方法を用いたことによるものなのか、10次元以上という直観の達しない世界から生じたものなのか、直ちに見分けることができるだろうか。

 私の一つの安堵は、バナッハ-タルスキの定理が、3次元という中で述べられていたことによっている。3次元は私たちの経験世界の中だから、私はこの定理に、逆理という紛れもない感じを抱くことができた。もしこれが10次元以上の空間でしか述べられないようになっていたら、最初にそれに出会ったときの、私の当惑はどのようなものであったろうか。想像の中でさえ、このような思考に耽ることは、私を奇妙な気分へと陥れるようである。」

(志賀浩二『無限からの光芒』)

2008-12-07 357

( ゚Д゚)<聖なるたわごと

「「美人はめったにいい女優にはならんものでしてね」と彼は言っていた──「俳優にはなにか短所が必要なんです──長すぎる鼻とか、すこし焦点のあわない目とか。いちばんいいのは変った声をもつことです。人間というのは、なかなか声は忘れないものですから。たとえばポーリー・ロードみたいな声はね」彼はモーナのほうを向いた。「あなたはいい声をおもちです。あなたの声にはざらめと丁子とにくずくがはいっている。いちばん悪いのはアメリカ人の声ですよ──魂がはいっておいらん。ジェイコブ・ベン・アミはすばらしい声をもってました……うまいスープのような……けっして腐ったりしない声を。もっとも彼は、その声を亀の子のように引きずりまわしましたがね。女優はまずなによりもいい声を育てあげなきゃならん。同時に、もっと脚本の意味についてよく考えることだ、自分の格好のいいポスティリオン……じゃない、臀部〔ポステイリア〕のことばかり考えていないで。ユダヤ系の女優はどうも肉づきがよすぎましてね、舞台の上を歩くとゼリーみたいにブヨブヨふるえるんじゃかないませんよ。しかし、彼女たちの声には悲しみがこもっています……悲哀が。彼女たちは、悪魔が赤く焼けたやっとこで乳房を引きちぎろうとしているなどと想像する必要はありません。そうです、罰と悲しみは最良の要素ですよ。それと、少量の幻想は。ウェブスターやマーローの作品に見られるように。たとえば、便所へゆくたびに悪魔に話しかける靴屋とか。あるいは、モルダヴィアに伝わっているような、豆の茎と恋に陥る話。アイルランド演劇は気違いや酔っぱらいでいっぱいですが、彼らの口にするたわごとは聖なるたわごとです。アイルランド人はいつも詩人なのです。とくに、彼らがなにも知らないときには。彼らもまた苦悩をへてきていますからね、ユダヤ人ほどではないでしょうが、しかし十分に。だれだって、日に三度三度、じゃがいもばかり食べたり、爪楊枝がわりに三つ叉を使ったりしたくありません。偉大な俳優ですよ、アイルランド人たちは。生まれながらのチンパンジーです。イギリス人はあまりにも洗練されすぎ、あまりにも頭で考えすぎますからね。男性的な人種だが、去勢されているというか……」」

(ヘンリー・ミラー『ネクサス』)

2008-12-06 356

( ゚Д゚)<姦通の現象学

「AやBという男は、自分の妻との生活に満足しているわけではないし、相手の女をきらっているわけではないのに、彼らは、性行為が自分の家に於けるものと較べて、満足をあたえないことを知っておどろく。生理的にいえば、Aの相手の女性は、特殊な快楽を男にあたえることができる女である。にもかかわらず、まったく空虚なうらがなしい気分にひたってしまうのはどうしたことか。

 その理由は、簡単である。姦通の終点は性行為で、その次の逢引もまた性行為で終わり、いつまでたっても、そのくりかえしにすぎないからだ。

 通常は情事が終わったあとの味気なさは、男にとって、一息ついて、明日また食事をし、勤めに出るということと結びついている。それから、どのような生活にしろまた開始するものがある。性行為はほんの一部分になり、忘れることができる。

 これに反して姦通では、唯一の終点である性行為は、そこで行止りになる上に、一回一回が、そこにいない亡霊のような夫のことを想起させるので、いやでも性行為は鮮かに、うかびあがる。男はここで、娼婦との性行為の方が、はるかに健康であることに気がついて、ふたたび愕然とするのだ。

 なぜなら、娼婦は、(とくに私娼は)その性行為でもって生活をしているから、はたが何といおうと、彼女が誇りさえすてなければ、りっぱに生きているといえるからだ。

 Bの相手の女性は職業をもっているが、大ていの姦通をする妻はそうではない。彼女はほかの男と性行為をするところの肉体を養っている金は、とにかく、主人の方から出ている。

「信じてね。私、あなたとのことがあってから、主人にはずっと拒みつづけてきてるのよ」

 と女が若い男に打ちあけたあと、それが、良心的な女であれば、たぶんこういうであろう。

「私、このごろ何とか自分の生活費だけはかせぎたいと思うの。主人に世話になっているかと思うと、とてもつらいわ」

 しかし女が夫から純粋になろうとする努力をいくらしたとしても、実は、益々性行為を純粋に性行為にしようと努力しているだけなのであって、気の毒なことに、こうして女は娼婦よりももっと性行為だけの存在にならざるを得ない。」

(小島信夫『実感女性論』)

2008-12-05 355

( ゚Д゚)<男のなかのオス

「私は宗教心の強いアメリカ婦人とおなじ屋根の下でくらした。彼女は三十代の女盛りであったが花模様の質素な服をまとい十九世紀ふうな髪を束髪に結い、口紅をぬった姿は一度も見せたことがなかった。私は彼女と頬と頬がふれるような近い距離で、事務的な打合せをしたり、教会の話をきいたりした。私は神聖と見える教会の宣伝のお話を耳にしながら、やはり僅かながらほんの僅かながら彼女が女であることを意識していた。そして彼女のいうままに宣伝にのって教会の会員の一人になり、彼女を喜ばせたいと思うこともしばしばだった。

 彼女はハイ・ヒールをはいていなかった。いつも女学生のはくような質素な靴をはいていた。さてある日、彼女は私のための教会の会合に出ることになった。黒いハイ・ヒールをはき、セーラー服のようなものを着て自分の部屋からあらわれた。子供は母親のその靴の中に自分の足をいれて歩いていたが、そして、これはオバサンの結婚式にママが買ってはいたものだといった。

 彼女は目がさめるように美しく見えたが、やはり口紅はぬっていなかった。そして颯爽と私をのせて車を教会まではこんで行った。そこで私は六十人の女達にスキヤキを作ってみせたあげく、「神はすべての人を愛す」と書いた日本式のかけ軸マガイの物がぶらさがった壁を背にして親睦会がひらかれ、私は彼女らの祝福をうけた。六十人の中でも彼女は美しさではきわだっていたが、唇をそめていないのは彼女一人であった。私はとうとう最後まで彼女からは、かすかに女の匂いをかぐことは出来たが、雌の匂いはかぎ出すことができなかった。私は彼女の家を出ることになったとき、今更のように感嘆した。彼女は異国の男性のトマドイを知っていたのだ。」

(小島信夫『実感女性論』)

2008-12-04 354

( ゚Д゚)<万年亭主

「女が何もかも見抜いてますわよ、といった様子でいるさいに、見抜かれた通りにいたします、といったところが、ある男の中には多分にあるのである。」

(小島信夫『実感女性論』)

2008-12-03 353

( ゚Д゚)<時間の微分・2

「      狼男に関する問い。「体内化された」手紙は宛先に届くのだろうか? そして、もし与えること、与えることそれ自体も取り込まなければならないのであれば、人は自分とは別の女性に与えることができるのだろうか? 私たちはかつて互いに与えあったのだろうか? もし私たちが何かを与えあったのなら、私たちは何も与えあってはいない。だから私は、ますますすべてを燃やす必然性があると信じる、私たちのあいだに起きた(与えられた)ことを何ひとつ取っておくべきではない、という必然性を信じる。それは私たちの唯一のチャンスだ。

      もう自分に〔を〕許さないこと(s'permettre)〔sperme(精液)+mettre(置き入れる、注ぐ)。造語〕。そして、私がとくに君に対して権力や所有を確保したいようにみえるとき、こう言ってよければ、君が何らかの「原因」(cause)〔訴因、問題の中心〕とみなされているときは、それは私が傷ついているということ、死ぬほど傷ついているということだ。

      どのような様態であれ(吸われ、飲まれ、嚥下され、咬まれ、消化され、呼吸され、吸い込まれ、嗅がれ、見られ、聞かれ、理念化され、暗記して把捉されたのであれ、誰かから奪い取られたのであれ、思い出されてであれ、思い出される途中であれ)、「内面化された」手紙を、君の身体のある場所に閉じ込められたままにして手紙を「体内化する」ことで満足せず、持ち歩き、今現在、声に出して、むき出しのまま君自身に宛てるとき、それは、宛先に着かないこと、しかもかつて以上に着かないことがありうる。手紙は、他者において手紙自身に到達するに至らないことがある。それは、「取り込み」における私〔=自我〕の悲劇だ。自己を愛するためには──いや、私の愛する人よ、愛するためには──愛しあう必要がある。

      ひとつの日付、たとえば封書の発送の日付は知覚されない、人にはけっして日付が見えない、日付は、私には、どのみち意識には、届かない、厳密にその日付が生起した時、人が日付を打ち、署名し、発送した時には、それは届かない。そこにあるのは、何らかの偽の自明性と半-喪だけだ。すべては何らかの取り除きのうちにある。

      もう出かけなければならない。精神分析セアンスの後で、私たちは落ち合うことになっている。これが最後となるだろう、今年最後の、とはもう言えない、今は人と会う約束すべてが私に苦痛を与える。私たちの時間はもう同じではない(一度も同じだったことはない、分かっている、でもそれは、前はチャンスだった)。君は電話で「もとには戻せない」という言葉を使った、とても軽く、私は息が止まる思いだった(彼女は気でも狂ったのだろうか? つまり死んだのだろうか? だが、彼女は死そのものだ、そのことに気づきもしていないのだろうか、この軽率な女性は? 彼女は自分が何を言っているのか分かっているのだろうか? 分かっていたことがあるのだろうか? 「もとには戻せない」という語は私には、包み隠さずに言えば、阿呆らしく思えた、と君の婦人帽子屋かく語りき)。でも、今晩は陽気でいようと決めている、見ていてほしい。」

(ジャック・デリダ「送る言葉」)