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Nobita の チャッカヤーン

2015-01-02 明けましておめでとうございます

先ずは、随分と御無沙汰してしまった事をお詫びしなければなりませんね。

名古屋を離れて一年四ヶ月の月日が経ちました。 

アッと言う間と言えばそのようにも感じますし、

長かったと言えばそれもまたしかり…。

年始の御挨拶を兼ねて、

名古屋を離れてからの事をご報告させて頂きたいと思います。


八月末日に名古屋を離れ、

九月上旬は引っ越しの片付けや職場の面接をこなし、

九月下旬には新しい仕事が始まりました。

高校を卒業した一八歳から五十五歳になる迄の三十七年間

独り暮らしをして来たので、たとえ相手が母であっても、

生活を共にする難しさに不安がありました。

それに加え、仕事は全く未経験の職種であり、

昔なら定年退職の年齢での転職です。

「 不安 」の一言では言い表せない精神的な負担がありました。

しかしながら母が置かれた当時の状況や

自分の将来の事を考えれば選択肢は少なく、

仙台で就職し、新築される家に母と住む事が

最善策と思えたのでありますから、

どんな試練にも母の為、自分の将来の為、と

歯を食いしばって邁進してきました。


介護の仕事は大変です。いかに大変かをお伝えしたいのですが、

新年を寿いでいる時に尾籠な話も野暮と言うものですから

詳細は省きますが、仕事を覚えるまでは、

奈落の底を這いずり回る思いでした。

介護の現場は一つ間違えば命に係わる事もあるので、

新人に懇切丁寧に仕事を教える状況にはありません。

それでも言われていない、聞いていないは通用しないし、

手際が悪ければ、「どいてろ!」と言われてしまう。

次には存在そのものを否定され、空気のような存在として扱われます。

重要な申し送りも、「あなたに言っても分からないでしょ…。」

とでも言いたげな様子で私を無視し、

他のスタッフだけで共有するような有様でしたから、

尚一層仕事ができないと言う悪循環に陥ってしまう訳です。

「役立たず」という言葉がこれほど自分に似合っていると

思えた事は未だかつてありませんでした。

仕事を終えて最寄りの駅まで暗い夜道をトボトボ歩きながら

涙が出そうになりました。

そんな時にも辛い顔をしたら母が心配する…と心を奮い立たせ

笑顔を取り戻し、元気な声で「ただ今」と帰宅すると、

「お疲れさん」との母の言葉が再び私の涙を誘ってもいました。

結局は、「できる奴」と言う評価を得ないと、

この状況は何も改善しないと言う事であり、

それからは、無視するなら無視していればよい、

その内に無視できない存在になってやる。

との気構えで頑張りました。

とても孤独でしたが徐々に私の存在を認めてくれる人が増え、

一年を過ぎた夏の終わりには、「真面目な人」「几帳面な人」

との評価をされるようになり、

仙台で二度目の冬を迎えた頃には、「口うるさい」「細かい」

と煙たがられるほどに…。

「フッキー」との渾名をもらい、「フッキーに叱られるよ。」とか、

「明日はフッキーと一緒かぁ〜、仕事は楽だけど気を使うよねぇ〜。」

等と陰口を言われています。

と言う事で、やっと仕事には慣れましたが、

安月給には未だに慣れません。(笑)


私生活はと言うと、「幸せ」と言えるのだと思います。

名古屋で送った生活は、

「楽しい」と言う言葉が当てはまると思います。

バブル時代を名古屋で過ごし、

仕事柄もあって夢のような生活を送ることができました。

バブルが弾けてからも皆様の支えがあって、

充実した人生を過ごしたと思います。

食事・旅行・ゴルフ・芸術…

どれをとっても私の力では到底無理だったろう事柄を、

皆様に可愛がって頂き、人が羨むような生活ができたと思います。

その思い出だけで残りの人生を卑下する事無く生きていける気がしています。

たとえばあれほど好きだった寿司ですが、

仙台の寿司店に行きたいと思わないのです。

寿司ばかりでなく、外食をしたいと思わないのです。

高級寿司や料亭なら興味もありますが、

そこそこの店なら家で食べている方がマシ。

と思えるのです。名古屋・東京・大阪・京都・札幌…と、

美味しい物を食べ過ぎた。

仙台でそれらを超える店があるなら行ってみたいけれど、

そうでなければ焼いた鰯で十分。

私が作った料理を美味しそうに食べている母の顔を見ながらの食事が美味しい。

大袈裟な幸福感ではないのですが、

何か、ほのぼのとした充実感があるのです。

母の好きな草花を植えた庭に水遣りをしていると

窓から母が顔を出して、「綺麗だね。」と

目を細めるのを見て、「幸せだなぁ〜。」と感じたり、

母の失禁の後始末をしていると、

したくても諸々の事情で親の介護ができない人もいるのに、

母の介護ができる事に感謝し、

元気でいてくれる母に「ありがとう」と言いたくなる。

失禁の後始末をしていて

「ありがとう」と言いたくなるって事は幸せだなぁ〜って。

何か、ひどいマザコンのような気持ちです。

親元を離れて三十七年間、連休と言えば旅行に出かけてしまい、

正月も二日間ほどの滞在。

そんな私に何一つ小言を言わなかった両親。

父を亡くした今、思いっきり母へ恩返しをしているかのようです。

「親孝行、したい時には親はなし」と言いますが、

「間に合った!」と言う心境です。

名古屋での「楽しい生活」・仙台での「小さな幸福」。 

それなりに贅沢だなと感じています。


次は、これからの人生設計ですかね。

七月に役所の査定が入り、

今年度末までには立ち退き補償金が提示される予定です。

今年中には着工すると思いますが、

どのような家を建てるか頭を悩ませています。

仙台の冬を経験して、

寒がりの私には光熱費が最重要課題となりました。

年金生活でも、寒い思いをしなくて済む家」がテーマです。

当座は母と二人暮らしですが、

いずれは独居となりますので、部屋数は要らない。

コンパクトで効率的な空間に、

最高の断熱を施して…と言う事になります。

仕事としては、職場の人が「フッキーなら受かるよ。」と言ってくれる

ケアマネージャーの資格所得を目指そうかなって。 

現場で五年の経験が必須なので、まだまだですけどね。


最後に仙台の不満と自慢を。


不満 … 暑い夏がない! 

最高気温が三〇度前後で夏が終わっちゃいました。

八月下旬、銀行に行った時の事、

係りの方が三年前に名古屋から転勤してきた人で、

私が「このまま夏が終わるんですかねぇ〜。」と言ったら、

「終わるんですよ、仙台の夏。」

って言うので、暑い名古屋を思い出し、

二人で目を合わせえ笑っちゃいました。


自慢 … 春と秋がシッカリと、それらしいのです。

名古屋に住んでいる時には意識しませんでしたが、

仙台に暮らしてみたら春秋が長く、

一年がシッカリと4等分されていました。

春の花は寿命が長く梅雨入りまで咲き続けますし、

中秋の名月と言われても、

残暑の中で見上げた名古屋の名月が、

仙台ではススキがよく似合う肌寒さの中で

「お月見」をする事ができました。

東北の中でも寒さが緩く雪が少ない仙台は、

夏の暑さが苦手で、一冬に数回の雪掻きを

冬の風物詩と考えることができる人には

最高の気候なのかもしれません。


せっかく知人が仙台に居るのですから、

ぜひ足を運んで下さいませ。

今年も皆様にとって幸多き年になるよう、

心からお祈り申し上げて、年始の御挨拶と、

名古屋を離れてからの報告を終えたいと思います。



















2014-01-23 楽しい と 幸せ

今まで、「幸せぇ〜」 と感じた事があっただろうか?

あったのだと思う…。

その時は、それが 「幸せ」 と思ったのだろう。


今、「ささやかな幸せ」 を感じていて思うことは、

あの時は、「幸せ」 ではなくて、「楽しい」 だったのではないだろうか?


名古屋で過ごした37年間、楽しい事だらけだった。

4畳半の下宿暮らしも楽しかったし、

その後の旅行三昧の人生も、華々しいものではないが、

人に誇れるほどに楽しい人生を送れたと思う。


で、その時には、自分は 「幸せ」 だと思い、

恵まれていると感じていた。


その楽しく幸せと感じていた生活に終止符を打ち、

55歳と言う年齢で転居・転職して、

4勤交代の介護の仕事をしている。


日々排泄物の始末をし、認知症と向き合い、

安給料なのに体力的にはキツく、連続休暇など望めない仕事。

他人から言わせれば、「大変な仕事」 なのだろうが、

転職から4ヶ月を経て仕事を覚えた今、

2日間の連休の後は、「仕事に行きたい!」 と思うほどになった。


で、仕事から帰って来て、母の世話をしていると、

じわぁ〜と込み上げて来る、「幸せ」 を感じている。

今まで感じたことのない 「幸せ」 の感覚なのだ。


仕事から帰ったら真っ先に風呂を沸かし、

その間に夕食の支度をしながら母を入浴させる。

浴室で入浴の介助をしながら一日の話をする。

母を寝巻に着替えさせたら自分が入浴して浴室の掃除。

洗濯機を回しながら夕食を始める。

夕食後の片づけをして洗濯物を干し、

就寝時に合わせた室温のチェックと加湿器の給水などを済ませると、

自室に戻ってバタンキュー。


年寄りは朝が早いと言うが、のび太の母は9時ごろに起床し、

朝食は10時ごろになるので、

のび太の朝は、出勤の2時間前に起床して、

自分の食事と弁当を作り、食卓には母の朝食の用意をする。

この時期、牛乳などの冷たい飲み物ばかりでは可哀そうなので、

大小様々な保温ポットに御茶やスープを用意するのですが、

温かさが長持ちするように、一度ポットに熱湯を入れて、

それを捨ててから熱々の御茶やスープを入れるのです。

自分のコーヒーも、出勤前に飲むもの、通勤の車中で飲むもの、

休憩時に飲むものと、3つのタンブラーを用意するので、

朝の台所には5〜6個の保温容器が並びます。


早番は7時就業なので5時起床となります。

でも、降雪が予想される朝は、4時半起床です。

前日が遅番で帰宅が21時などと言う日の翌日が早番だと、

いつ寝るのぉ〜!! です。


それなのに、「幸せ」 を感じるって…何?!


浴室での母との会話。

食事をしている母の横顔。

いつの間にか炬燵で寝入っている母の寝顔。


可愛いんです。


認知症とまではいかないけれど、かなりの物忘れがあるので、

「これ、どうしたの?」 と尋ねると、

あれぇ〜? と言った表情で首を大きく傾げます。

その顔の周りには、「?」 記号が沢山見えるかの如く、

すっとぼけた顔を大きくかしげるのです。

その表情を前にしては、怒る前に笑って吹き出しちゃいます。


こう言っちゃ何だけど、大きなペットを飼っているみたい。

ペットのミニ豚を風呂に入れたり餌の世話をしたり…。

なので、たまに突っつきたくなります。

顔や身体を、ツンツンって突っつきたくなるんです。(笑)


そんな年老いた母の世話をできる事が 「幸せ」 と感じています。

大きな幸せではないにしても、じわ〜と心に沁みる幸福感があります。


後どのくらい、こうした暮らしができるか分からないけれど、

今の幸せがあればこそ、これから襲って来る苦労が乗り切れそうな感じがする。


で、最近思う事は、

名古屋では大いに楽しい人生を送らせてもらい、

仙台では細やかな幸せを味あわせてもらい、

いずれ独りで人生を過ごす時が来たら、

何を感じて生きれば良いのか…。

「充実」 かなぁ〜。

若かりし頃の楽しかった事と、今の幸福感を融合させて、

何かに達した感覚を持った充実した人生を送れたら良いなぁ〜。


おそらく、のび太にとっての 「充実」 は、

生きていく時間の中で、どんな些細な事にも、 

「意味」 を感じられると言う事かも…。


無意味な人生なんてない訳で、無意味と思うのは感性の鈍さ。

朝の光にも夜のしじまにも、「意味」 を感じながら生きたい。




今日は休みで母の通院に付き添ってきました。

そろそろ夕飯にしなくっちゃ…。


母は疲れたのか炬燵で小さな寝息を立てています。

石油ストーブの上の薬缶からは湯気が立ち上っています。

のび太にとって、幸せな光景の一つです。




















2014-01-04 明けましてオメデトウございます

nobita7202014-01-04

新年の挨拶がすっかり遅くなりました。

年賀状を頂いた方々やメールで年賀を頂いた方々、

返信もできずにいる事を心苦しく思っておりますが、

こちらで挨拶させて頂きます。




新年も、宜しくお願い致します。




昨年は激変動の年でした。




長い間の一人暮らしから母との同居となり、

夜の自営業から介護ヘルパーの仕事へ転職し、

年齢が年齢だけに一苦労しました。




9月下旬から始まった介護の仕事は一から覚える事ばかり。

正直、辛いとか難しいと言う以前に、

これ程までに役立たずな人間だったのか…と、

どん底に落ち込む日々が続きました。




実際、転倒が即時寝たきりに繋がったり、

徘徊癖の人が施設を抜け出したりする可能性がある中で、

親切丁寧に仕事を教えている余裕はない訳で、

のび太が大いなる足手まといになっていたのだと思います。

それにしても、20歳も年の離れた若者に罵倒されるのは…。




事務所の職員が、

「 のび太さん、凄いですね!

  年下の人達からあんな言われようしても、

  へこたれずに仕事を続けられるんですもの…。」

なんて同情される日もありました。




でも、年齢には関係なく仕事上の先輩ですから…。




早番・日勤・遅番・夜勤

それぞれの交代時には申し送りがあるんですが、

「言っても分からないだろうから…。」 ってな感じで

のび太がその場にいても無視されて、

「お疲れ様でした。」 なんて言う挨拶を交わす事も無く、

一人職場を後にして、徒歩20分の最寄駅へ向かうのでした。

(現在はマイカーでの通勤です。)




駅へ向かう道中の心境は、悔しいとか怒りとかではなく、

情けなくて惨めで、自分の存在が疎ましく思える感じでした。



それでもナニクソと続けられたのは、

老後を考えた時、この状況が最善なのだろうという事と、

家で、のび太の帰りを待っている母の存在。

何よりも支払いに追われて先々の不安に喘いでいた自営業からの解放が、

これしきの事…と思わせてくれました。




それから3ヶ月が経ち、今ではイッパシの介護職員!

「のび太さん、これお願い!」

「のび太さん、こちら手伝って頂けますか?」

と、少しは頼られる存在に成長しました。




そんな中、12月からは夜勤も始まりました。

今は指導役のスタッフと2人体制の夜勤ですが、

今月中旬からは単独での夜勤となります。

9人の認知症高齢者の見守りと介助を一人でこなす訳です。

16時半〜翌日の9時半までと言う、17時間にわたる勤務です。




名古屋を離れるときには63kgだった体重も、

55kgに減少しました。

食べても食べても追いつかない状況でしたが、

最近は現状維持で、体重減少は止まりました。 



家に帰れば母の世話。

風呂に入れ、食事の世話をし、洗濯や翌朝の準備。

あっと言う間に一日が終わってしまい、

パソコンを開いたりする時間もなければ、

TVだって食事中にニュースを見る程度です。



でも、楽しいんです。

母と過ごす時間がとても楽しいのです。

寝顔を見ながら、「歳とったなぁ〜。」 と思い、

「一日でも長生きしてね。」 と心でつぶやき、

少しでも親孝行の真似事が出来ている現状にホッとします。

楽しいと言うよりも、幸せと言った感情が湧いてきます。




時々姉が、食事や飲みに行こうと誘ってくれますが、

それよりも母と過ごす時間を大事にしたいと感じるのです。

「あんなに外食や飲みに行くのが好きだったのにねぇ〜。」

と、姉が不思議がります。

「よほど相性が良いんだね、あんたと母さんは…。」 と姉が言います。




年に数回の帰省で数日を親と共に過ごしていた時には、

歳老いて行く親の姿を見るのが辛かった…いや、嫌だった。




どうしてこうなっちゃうんだろう・・・って。




現実逃避と言おうか責任逃れと言おうか、

目の前にあるものを素直に受け入れる事が出来ないでいた自分があります。




今こうして母の人生の最後を共に過ごす時間が楽しく大事に思えるのは、

これから始まるであろう、本当の意味での介護に意義を持たせるためなのかも?




進行する認知度の低下や身体機能の低下に加え、生理機能の低下。

精神的な意味においての人生・身体的な意味においての人間と言うものを

終わらせようとしている親の姿を傍でシッカリと見届けたい。

今の時間が意義あるもので楽しく大事に思えないと、

やがてやってくる本格的な介護は辛いばかりになる。

その時に備え、今ある姿をしっかりと目に焼き付けて、

親が深い愛の中で子の成長を見守ってきたように、

慈愛の心で、子として親の末期を見届けなくてはと思えるのです。




老いた母の姿を愛おしいと思える心を育てて慈愛に成長させないと、

やがて来るであろう看取りの介護に太刀打ちできませんから。





のび太と暮らし始めて4ヶ月を過ぎた母に変化が表れています。




歓迎すべき変化は、顔色が良くなり目に覇気が出てきて、

表情や言動が穏やかになりました。




考えさせられる変化は、のび太への依存が出てきたことです。

今まで一人でこなしてきた炊事や服薬が、スッカリのび太任せ。




これは問題だ! と、姉に相談すると、




「とは言えども、母さんも86歳だよ。

 依存が生じたって、残りの人生を穏やかに過ごす事が一番よ。

 貴方が負担に感じないのなら、今のままで良いんじゃないの?」




そうだね…。




いや、待てよ。

依存が生じているのは、のび太かも?




今は母がいての暮らしに張り合いが持てているけれど、

母がこの世を去ると言う、迎えざるを得ない時が来たとき、

のび太は…。




そんな時には、今までお付き合い頂き、

ブログを読んで下さっている方々に縋(すが)るしかないですね。




普段はご無沙汰ばかりで勝手を申し上げますがすが、

その節は、宜しくお願い致します。 












2013-11-09 ご無沙汰いたしております。

皆様から、どうしている?

元気ですか?

そちらの生活には慣れましたか?


と、たびたびメールを頂きながら、

まったく返信ができずにおりました。


本当なら一人一人に返信すべきところですが、

なにがなにが、毎日、目が回る思いをしていまして…。


とは言っても、梨の礫と言う訳にもいかず、

一度は閉じたブログを通して、

皆様に近況をご報告いたしたいと思います。


名古屋を離れたのが9月1日でした。

2日には、現在就業中の会社の仙台支店で面接があり、

9月下旬から本格的に稼働しております。


それまでは引っ越し・車の購入・ネットの開通手続き、

その他、保険や年金などの移行手続きなど、

来る日も来る日も外出して、

落ち着く暇も無いままに仕事が始まり、

あっと言う間に11月に突入となりました。

車はホンダの軽自動車 N−BOX(アイボリー)を購入。

地理に慣れていないのでカーナビをつけたりして、

任意保険も含めて乗り出し価格は187万円です。


自動車を所有するのも久しぶりなら、

親と暮らすのも久しぶり(37年ぶり)。

会社勤めは30年ぶりですかねぇ〜。


勤め先は、一般的にグループホームと言われる、

認知症対応型共同生活施設です。


仕事は慣れましたか?

と言う質問には、何と答えてよいのやら…です。

仕事と言うよりも、排泄物には慣れましたか?

が正解でしょうか。(笑)


一日に10回程度は排便の始末をしますし、

排尿となると、ひっきりなしです。


入浴介助でも、浴槽や洗い場で排便されるのは良い方で、

ガックリするのが、洗体して体を拭いている最中の排便。

もう一度浴室に戻す訳にもいかず…。


それでも良かった事は、そんな仕事の経験上、

母親の入浴介助がスムーズに行える事です。

もし、この様な仕事に就かなければ、

母親の陰部を洗う事など、想像もつかなかった事でしょう。


仕事は、早番・日勤・遅番・夜勤と言う4交代制です。

早番の一日を紹介してみましょう。


早朝4時に起床してコーヒーメーカーを作動し、

その間に朝の排泄を済ませ、コーヒーを飲みながら一服。

洗面の後に昼の弁当作りと並行して母親の朝食作り。

2つのタンブラーには、自分用のコーヒーと、

母親用のお茶を入れ、仏壇にお茶と線香をあげ、

6時に家を出て6時半に仕事場に到着。

7時から始業して午前中は目の回る勢いで働きます。


食事介助・服薬介助・口腔ケア・排泄介助をし、

10時のお茶の時間に各人のバイタルチャック…。

その合間を縫って、各居室内・トイレの清掃やゴミ出し。

スグに昼になってしまいます。


大変なのは記録で、何時頃は誰が何をしていて、

排泄状況はどうであるか等を細かく記録を取ります。

昼食が始まると、朝食後と同じような作業を繰り返し、

3時頃からは、おやつを提供して夕食の準備を始めます。


各人の摂食能力に応じて普通食から流動食まで作り、

お茶に入れるトロミ剤も各人で違っているので大変です。

夕食を作り終えると早番は退勤となります。


書き残した記録をつけたり着替えたりすると、

仕事場を後にするのが17時頃で、帰路の途中で買い物。

18時頃に帰宅して入浴を済ませて夕食の支度。

母親と食卓を囲むのは19時のニュースが終わった頃です。


就寝前に母親を入浴させて洗濯を開始。

それを浴室に干して衣類乾燥機能のタイマーをセットして、

やっとベッドに入りますが、即時爆睡です。


浴室に干した洗濯物は翌日母親が畳んでおいてくれるので、

毎日の洗濯物畳みが母のリハビリです。


休日は朝から家の掃除や庭の手入れなどをし、

昼から買い物へ出かけ、帰宅後は、

数日分の惣菜作りに励んでいます。

弁当のオカズを作り置きするのです。

小女子とピーマンの炒め物や焼き魚。

南瓜の煮つけや蒟蒻の甘辛煮などを作って、

パーシャル冷蔵室で保存します。


そんな毎日ですが、自分なりに充実していて、

何十年か振りに、超!お腹が空いたと言う感じを味わい、

中年太りになっていたお腹周りはスッキリとして、

数年前のウェストサイズになりました。

酒量も喫煙量も減少し、テレビもパソコンも、

この2ヶ月は、そう言えば、あったんだ…ってな感じ。


ただ気がかりなのは、母親の事。

今まで遠く離れた存在だったのが、急接近。

いつも座っている場所から居なくなる日が来るんだと思うと、

胸が締め付けられます。


トンチンカンな事ばかり話していますが、

少しでも長く、そこに存在していて欲しい…。


帰路に車内からハンズフリーで電話をするのですが、

「今から帰るからね。」の声掛けに、

「運転に気を付けて…。」と母が電話を切ると涙が出ます。

この言葉が生涯耳から離れないのだろうと思うのです。


今日もこれから買い物に連れ出します。

母を車椅子に乗せてスーパーで買い物をするのですが、

あれが食べたい、これが美味しそうと会話をする時間が、

とても楽しく大事な時間に思えてならない昨今です。


それでもフラワーポットに花を植えて、

自分なりの生活の楽しみ方も始めました。


皆様に御心配を頂いておりますが、

なんとか充実した生活を送っております。


ブログを読んだ感想などのご連絡を頂いても、

なかなか返信できませんので、悪しからず。


徐々にブログを書いていくようにしますので、

こちらでのび太の生活を垣間見て下されば幸いです。

2013-08-12 のび太の第3の人生が始まります。

この世に生を受け、家族と過ごした高校卒業までが

のび太の第1の人生だとすれば、

名古屋の大学に入学して独り暮らしを始めたのが第2の人生。

今まさに、親元へ戻って第3の人生を歩み出そうとしている。




米国留学、東京で就職、名古屋に戻って水商売…。

振り返ってみれば、それなりに充実した第2の人生でした。




1987年9月15日に開いた店を、7月31日をもって閉店。

あと1ヵ月半で開店から26年の月日が経とうとしていました。




8月上旬は閉店手続き、中旬にタイへ旅し、

下旬にはマンションの部屋を明け渡して、9月1日に仙台へ…。




免許証・年金・保険等の住所変更から、公共料金の清算。

お客さんや友人が開いてくれる送別会への参加。

夜の店を営業しながら日中は介護の仕事をしていて、

疲れるぅ〜! と言う日もありましたが、

今は、それ以上に疲労困憊ですわ。




これから先は母親との同居となり、介護の仕事をしながら、

母親の面倒も看るようになる訳なのですが、

となると、今までのように優雅な食事を楽しんだり、

楽しい旅の話をブログに書ける状況は望めず、

日々の介護の記事となると、個人情報はもとより、

愚痴や泣きごとばかりを書くようになる予感があり、

このブログも非公開とし、本当の意味での日記としたいと思います。

なので、これが最後の公開記事となります。




知人・友人・店の顧客の方々。

皆様から惜しまれながら閉店に至った訳ですが、

詳しい事情などを説明できずにお別れした方々も多く、

ここで閉店に至ったあらましを書いておこうと思います。




のび太の老後を考えた時、日本での年金生活は厳しく、

物価の安い所で暮らす事を考えていました。

その為に東南アジア諸国を旅して国民性や現地の生活を観察し、

イスラム教国は難しいなぁ〜とか、

一度の選挙で国政が大きく変わる大統領制はどうなの? とか、

どうも日本人は嫌われているなぁ〜とか諸問題を抱える国が多く、

ここなら良いかも?!と辿り着いたのがタイ王国でした。

立憲君主制であり、大多数の国民が仏教徒であり、

華僑の多いタイの食事は中国料理の影響を受けており、

物価が安く、親日的なタイでの年金生活を考えました。



数年間タイ語教室に通ってタイ語検定試験に合格し、

タイへの渡航歴は60回を越えていました。

姉にもそのような事情を伝え、親の面倒も姉任せ。

年金を貰うようになったらタイでの生活が始まるのだと思っていました。




事情が変わってきたのが東日本大震災の後からでした。

3・11と言われる東日本大震災の1週間後の3月18日。

親父が救急車で運ばれてから半日で他界してしまいました。

仙台市内は震災の影響で大混乱の状況にあり、

葬儀会館の広間は遺体で埋め尽くされ、通夜も告別式も出せず、

ガソリンが無くて霊柩車も動かない。

火葬場は数基を残して停止状態にあって荼毘に付す事も出来ず…。

東北ではドライアイスも無くなり、遺体の保存が難しい状況でした。




数日後に何とか都合がついた火葬場と霊柩車。 

沢山の遺体の中から親父の棺が葬儀会館から運び出され、

霊柩車に載せようとしていると、ボランティアのお坊さんが現れ、

「宗派が違うかも知れませんが出棺のお経を唱えましょうか?」と。

それは有難いと、その場でお経をあげて頂きました。

火葬場でも各宗派のお坊さん達がボランティアで待機しておられ、

お経を唱えて頂いてから荼毘に付す事が出来ました。





それからが大変。 我が家の菩提寺は福島県の浜通りにあり、

原発事故の影響で住職は疎開していて不在。

何とか探し出して長野に避難していた住職に連絡を取り、

戒名だけは付けて頂きましたが、墓への納骨はままならず、

未だに三段の祭壇に遺影と骨壷と位牌が家にある状態です。





震災・伴侶の逝去・納骨が出来ない…。

諸々の事情が重なり、独り暮らしになった母の精神状態は最悪。

人格が変わったかのような状況が半年間続きました。

やっと平静さを取り戻したかのように見えた母でしたが、

半年の精神的興奮状態の間に、物忘れ症状が進行していました。

認知性とまではいかないのでしょうが、お金の管理は難しくなり、

傍で暮らす姉が毎日母を訪ねて金銭や服薬の管理をする事に…。




そんな折、復興支援の財政分配のせいなのでしょうか?

遅々として進まなかった20年来の道路拡張工事が動き出し、

のび太の家が立ち退く事となったのです。




姉から相談を受け、85歳になる母の為に、

立ち退き補償金で今更家を新築しても仕方が無いので、

有料老人施設に入所させるか、近所のマンションでも購入するか?!

もっとも貴方が仙台へ来ると言うなら家を新築するけれど…との事。




のび太も年金受給年齢まで水商売を続けていく自信も無く、

渡りに舟と言っては何ですが、新築の方向で話を進めました。




去年の5月の連休に仙台へ行った時に姉とも相談し、

55歳男性の就職となると、介護職ぐらいかなぁ〜と。

で、その職に就くかどうかは別として、取り合えず介護職講座を受講。

昨年の8月から、店を続けながら、週2回の訪問介護を始めました。




性に合っていると言うか、それなりに遣り甲斐があり、

利用者さんからも事務所からも信頼を得て、

介護職で生活して行く自信もつきました。




現在所属している会社は東証一部上場企業で仙台にも支店があり、

是非にも仙台支店へ転勤と言う形で来て欲しいとの事。

9月1日に仙台へ帰ったら、2日には人事担当者と施設長との面接。

出来るだけ早い時期に就業して欲しいとの連絡がありました。

この御時世に必要とされる存在で居る事は嬉しい限りです。




と言う事で、取り合えず9月から母との生活が始まり、

数年後には姉夫婦と姪夫婦の家に挟まれて我が家を新築と言う事に…。




震災前は、好きにしたら…と、タイでの老後生活を認めていた姉。

姉弟と言えども気を遣うから、仙台へは来るなと言っていた母。




震災後に伴侶を失い気を弱くした母は、「帰って来ないのか?」と。

「貴方が来てくれるなら助かるんだけど…。」と言い出した姉。

酒浸りの日々を脱出する良い機会だと考えたのび太。

今年の正月に仙台へ行った折、8月前後に閉店&転居を予定しました。




その後、春には甥の伴侶が妊娠している事が判明。

10月出産予定との事で、産後の手伝いに姉が家を空ける事になった。

のび太が9月に移り住む事で、仙台に残される母の心配が無くなった。

これも偶然の事ですが、神様の思し召しだったのでしょうかね…。





友人知人が口を揃えて言う事が、「姉弟だからこそ大変な事も…。」

それは覚悟の事ですが、のび太が独身である事は救いでしょう。





姉とは8歳、義兄とは11歳の差があります。

のび太が中学生の時に姉と義兄の付き合いが始まり、

料理が苦手な姉に替わって、デートの弁当はのび太が作っていました。

高校生の時に姉が結婚し、料理指導の為、週末には仙台へ通っていました。

大学3年の時に姉家族が渡米し、幼い子供を抱えての外国暮しの憂いから、

義兄の依頼で大学を休学して渡米し、1年間姉家族と暮らしました。

朝が苦手で料理が苦手だった姉に替わって、皆の朝食を作っていました。

上司の家でのホームパーティーには子供同伴が許されない米国での事。

ベビーシッターとして甥・姪は勿論の事、近所の日本人家族の子供も預かり、

保育園さながらの夕御飯を作っていましたわ。(笑)




なので、姉や義兄とは、弟と言うか息子と言うか、

甥や姪とは、叔父と言うより歳の離れた長男のような…。




あの時とは事情も感情も違って来てはいますが、

姉家族と近所で暮らす事は、未経験で無い事が今回の決断にもなりました。

ましてや同居なら考えてしまいますが、隣同士で別棟でありますから…。




義兄には姉(のび太の姉の小姑)が2人いて、その姉さん方も、

のび太の事を「ちゃん」付けで呼んで可愛がってくれます。




90歳を超えた姉の姑は、今では記憶こそ失ってしまいましたが、

つい数年前までは、やはり「ちゃん」付けで呼んで可愛がってくれました。



30数年名古屋で暮らしても東北訛りが取れなかったのび太ですから、

これからの仙台での生活も、なんとかなるでしょう♪




今まで応援して下さった方々に感謝しつつ、

このブログを閉じたいと思います。



介護の仕事が楽しくて、母との生活が楽しくて、

姉家族との生活が楽しくて…。

そんな日が来ましたならブログを再公開するかも知れませんが、

それまで皆様、お元気でお過ごし下さいませ。 では、では…。

プロフィール

nobita720

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チャッカヤーン (タイ語) = 自転車

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