会話はキャッチボール

こちらの記事(2006-06-24)を読んだ。

ポイントは「キャッチボール」という暗喩である。


良く考えてみれば、「行き交うもの」を例えるために「キャッチボール」である必要はないのだ。なぜ会話を例えるために「キャッチボール」というものが使われているのか。

会話が「行き交うもの」であることを例えるのに「キャッチボール」が敢えて使われていることの意味を改めて考えるという視点が興味深い。

キャッチボールは体を動かすのだから、一見スポーツっぽい。しかし、キャッチボールはあくまで、何かのスポーツをするための練習や準備体操であって、それ自身はスポーツではない。
(中略)
なぜ、キャッチボールはスポーツに含まれないのだろうか。それは、この運動に、目標と言うものがないからだ。
(中略)
しかし、キャッチボールには目標らしい目標がない。しいて言うなら、ダラダラと続けることだけが目標である。


そして会話はキャッチボールなのである。つまりそこに目標などない。ダラダラと続けることが大事なわけであって、間違っても取りにくい球を投げてはいけないのだ。相手が返せるような球を投げあって、ただひたすら時間を潰す。これこそが会話と言う奴なのだ。

なにかここに違和感を感じる。キャッチボールが狭義のスポーツではない、というところは納得。しかし、キャッチボールは決して目標のない運動ではない。それはプロやそれに準じる野球やソフトボールの選手が行うキャッチボールであっても近所の子どもが道端で行うようなキャッチボールであっても。前者においては準備運動や試合のための練習ということ自体が既に大きな目標であり、後者においては体を動かすという目標や、皆で楽しむたもということがそもそもの目標になっているなど、いろいろな目標が考えられる。職場の上司との休み時間中のキャッチボールで人脈を作るということもある。その目標は場面や人によりけりだがキャッチボールはきちんと目標のある運動だ。目標に応じてズドンと直球を投げ込むこともあるだろうし、ヒョロっとしたスローボールを投げることもあるだろうし、鋭い変化球を投げることもあるだろう。

私は会話においてキャッチボールなんてほとんどしていなかったように思う。どちらかと言えばドッヂボールに近かったように思う。相手に如何に剛速球を投げるかを考えてきた。


だから、ヘロヘロな球、すなわち、くだらない会話をする奴をアホだと思ってきた。どうしてこんなものを投げることができるのだろうか。どんだけ、頭が足らんのだと。
それは私がミクシィに抱いた感想と同じだった。友人たちの書く、何の面白みもない、つまらない、非建設的記事。何でこんなにつまらないものがブームになるのか、私は不思議だった。

会話においても同じことが言えるわけで、ただ単に見た目上はスローボールを投げ合ってるような状態でも、よく観察してみるとその場の沈黙を打破しよういう目標をもったゆるい会話であるかもしれないし、議論の手始めに相手の出方をうかがうという目標をもった挨拶程度の会話であるかもしれない。そのようなゆるいボールの投げあいのような会話に興味があるか、またはないかは個人の勝手であるが、そのようなゆるい会話を見てその裏に潜む崇高であるかもしれない目標を鑑みようともせずに頭の足らない連中の会話であると決め付けてしまう方が非建設的であるように思う。

会話は「量」より「質」だと思ってきた。でもそれは違う。


会話において重要なのは「質」よりも「量」なのである。

ただ単に会話を続けることだけを目標としているような会話に対する皮肉であると思うが、敢えていうと会話に必要なものが「質」か「量」かなんて決まっていない。その目指すところによって「量」より「質」だったり、「質」より「量」だったり。