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	<title>juvenile camp</title>
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	<description>juvenile camp</description>
	
	<dc:creator>nobuakiohsawa</dc:creator>
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	<title>思想地図と悍</title>
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	<description> 　今回の「思想地図」４号はすごい。というか東浩紀がすごい。閉じられていきそうになる議論を開く力というのか。これは「批評空間」の読者だった人間にはひどく懐かしい感覚だった。それを古いとは思わない。むしろ周囲の「若者」を圧倒する新しさがある。正直、僕には「朝</description>

	<content:encoded><![CDATA[
		<div class="section">
			<p>　今回の「思想地図」４号はすごい。というか東浩紀がすごい。閉じられていきそうになる議論を開く力というのか。これは「批評空間」の読者だった人間にはひどく懐かしい感覚だった。それを古いとは思わない。むしろ周囲の「若者」を圧倒する新しさがある。正直、僕には「朝生」等で展開されたアーキテクチャを巡る議論よりも、東さんの思考形式こそが気になる。そっちの方が複雑でおもしろい。今でも東さんの「想像界と動物的通路――形式化のデリダ的諸問題」という論文を思いついては読み返す。そこで論じられている「動物」と、後の『動物化するポストモダン』の「動物」は、たぶん違う。前者の「動物」は、象徴界の弱体化から想像力（データベース）の拡充へという、それ自体が人間中心的な後者の動物概念からずれるものだったように思う（デリダ的「動物」とコジェーブ的「動物」の差異）。同じことは『存在論的、郵便的』の「郵便空間」にも言えて、あの本で示された「誤配」と、その後東さんが実践した「誤配」にもたぶんずれがある。ただ、中沢新一との鼎談でガタリに触れての「この方向で行くと頭がおかしくなるんじゃないかと思って、僕はあの手の探究はやめてしまったところがある」という言葉や、村上隆との鼎談で「僕が思想で行いたい本当に本当のところは日本で育たないのではないか」という言葉を読むと何も言えなくなる。自分がそういう読者足り得ていたかと考える。形式化の果てに詩的言語に行ったハイデガーを、デリダは動物の位相から脱構築するわけだが、そこには「頭がおかしくなる」ような何かがあるだろう。けれども人をそこに促す思想的・社会的・現実的条件もあるだろう。そういう変なものについて考えたいと思う。僕はロスジェネ派とか実存派とか言われていて、それは別にいいんだけど、そういう人間が、東さんのそういう部分にこだわっているということは書いておきたい。レッテルを貼って安心したがる者たちにではなく、むしろ「ロスジェネ」や「フリーターズフリー」の読者たちに向けて。</p>
			<p>　それから「悍」について。この雑誌も初期の「新左翼オヤジ雑誌」的なイメージがずいぶん壊れてきた。元々そうだったのかもしれないけど（３号しか読んでないので）、太田直里の文章などは完全に異物。おもしろい。正確には、おもしろいことが起こり得る、そんな印象を持った。とくに小野俊彦に期待している。小野さんは『フリーター論争２．０』や「蟹光線祭」などで旧知の間柄だが、批判的であることと知性的であることが共存してて、話してて楽しい。文体は硬質というか、読みにくいけど、読みにくいことが閉じられていることではない。むしろ読みやすい文章こそ閉じられていることが多いから。小野さんの感覚は現実に開かれている。この感覚はたぶん十分には認知されていない。小野さん自身も展開し切れていないように思う。たとえば小野さんは<a href="http://blog.livedoor.jp/hesalkun/archives/51758667.html" target="_blank">ブログでの太田さんとのやりとり</a>で、政治と演劇との近親性について書いている。たしか、ギリシャのポリスでは、政治と共に演劇があり、それが国家を形成したはずだ。ならばこの演劇＝表象＝再現前化をどう脱構築できるのか。すべてが演劇だとしたら、意識的に演技する＝内省とは演劇の批判であり、それは、観客と役者、理念と表出、素顔と仮面、内部と外部といった対立を包み込む小屋＝国家への批判になるのか。僕たちの日常こそが演劇であり、それを「引き剥がす」ためにこそ「演劇」が必要になるという感覚は、「何か変なこと」。でもそれは、資本制との衝突を避けるとき、容易に小さな国家に転化するだろう。前に小野さんは「国家を形成しない言語」ということを言ってたけど、では「国家を形成しない演劇」とはどんなものか。デリダの「フロイトとエクリチュールの舞台」なんかも参考になるかな。ただ、このような空間の再編と小空間化それ自体が、僕は資本によって強いられていると感じている。とにかく、おそろしく退屈な共同討議をやっている暇があるなら（佐々木中だけがまとも）、今後の「悍」は小野さんや佐々木さんを中心に展開していくべきだ。</p>
			<p>　ようするに、問題は、閉じられていく思考をいかに開くか。東さんの開き方とも、小野さんの開き方とも違う、開き方。生き方。僕は内省を手放せない。自己に閉じる内省──正確には開かれているように見えて資本制的・否定神学的に閉じられている内省──それ自体を開き直す「内省」がある。それは東さんにも小野さんにも作動しているはず。都合のいい自己反省や自己否定で退けられない他者がいる。その位相から見ないと郵便空間も政治空間も、それ自体が閉じられたものになってしまう。でも、彼らを刺激し得る議論と現実を示せるかは、自分（と自分が関わっている空間）の問題。とにかく、メディア的なアングルがどうであっても、僕はいろいろな人が活躍している状況から何かを学び、楽しみたいと思っている。だから、もし「フリーターズフリー」や「ロスジェネ」の読者が、自分の圏外の論者を低いところで叩いたり食わず嫌っているとすれば、それは違うと言いたい。</p>
			<p>追記：この文章は３週間ほど前に書きあげて寝かせていたのだが、<a href="http://losgene.org/new_info/2009/20091213.html" target="_blank">「ロスジェネ」４号の告知文</a>を書き、いちおう自分の姿勢を示したということもあって（「他人を論評をする前に自分のことをやる」が僕の原則）、載せることにしました。さらに自分のことで言えば、一年以上かけて書いてきた原稿が最終段階に入っている。これについてはまた後ほど書きます。</p>
		</div>
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	<dc:creator>nobuakiohsawa</dc:creator>
	<dc:date>2009-12-13</dc:date>
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<item rdf:about="http://d.hatena.ne.jp/nobuakiohsawa/20091031">
	<title>朗報三つ</title>
	<link>http://d.hatena.ne.jp/nobuakiohsawa/20091031</link>
	<description> この短期間に僕にとって喜ばしい本が３冊刊行されます。 まず「ロスジェネ」の浅尾大輔さんの初単著『ブルーシート』。これは本当に嬉しい。浅尾さんは自分の言論や活動が社会的な関心とクロスする日が来るとは思っていなかったのです。それでも、目の前にいる雇用や労働に</description>

	<content:encoded><![CDATA[
		<div class="section">
			<p>この短期間に僕にとって喜ばしい本が３冊刊行されます。</p>
			<p>まず「ロスジェネ」の浅尾大輔さんの初単著『ブルーシート』。これは本当に嬉しい。浅尾さんは自分の言論や活動が社会的な関心とクロスする日が来るとは思っていなかったのです。それでも、目の前にいる雇用や労働に苦しむ人に向き合い続けた。向き合えば向き合うほど、小説を書けなくなっていった。現実があまりにすごすぎると。そうやって酷使したせいで、浅尾さんの肺はもう半分しか機能していない。そういう人が、自らの本を世に問う気になったことは、それを促した世界の深刻さはあっても、やはり喜ばしいことです。それからこの機会に、実存系だの何だのと下らぬレッテルを張ってきた、にわか学者たちに言っておく。あなたたちの商売がこういう人たちの活動の上に許されていることを深く自覚し、全身全霊をかけて「具体的な政策提言」とやらを実行しなさい。あなたたちの単純すぎる議論には何も期待していないが、せめて、他者を好き勝手に罵倒してきたけじめを自分の体で取りなさい。今なら政治情勢的に不可能ではないはずだ。</p>
			<p>次に、山城むつみさんの『文学のプログラム』が講談社文芸文庫に収録されます。明日（１日）の産経新聞朝刊にこの本の書評を書きました。自分にとって大切な本というテーマだったので、このタイミングの不思議を感じながら、迷わず選びました。僕は文章を書く上で無数の人たちに恩恵と影響を受けていますが、批評という意味では、山城さんの影響がもっとも大きいと思います。たぶんこの本を読まなければ、批評を書こうと思わなかった。かつても今も、小説こそが文章表現の極限形式であるという確信は揺らぎませんが、現代において、山城さんの批評を凌駕する小説があるだろうか、とも思います。つまり評論として読んでいない。実際、読感も、いわゆる評論文とは違います。そのように突き刺さった彼の思考は、爾来十余年、薄れるどころかますます強まっています。講談社文芸文庫は日本文学の本流というイメージがあり、そこに山城さんの本が収まるのは本当に嬉しい。</p>
			<p>最後に、すでに先日刊行された、生田武志さんの『貧困を考えよう』。この本は１９９９年の池袋通り魔事件の犯人造田博と、麒麟の田村裕という二人の「ひろし」が、ともにほぼ同時期に親に放置されながらも、前者は犯罪者として死刑に、後者は芸人として成功したという悲しい対照から議論を進めていきます。とくに造田博の死刑が確定した年が『ホームレス中学生』の大ヒットと重なる対照が痛切でした。僕自身、池袋通り魔事件についてはずっと考えていました。それは生田さんのような向き合い方とは違うのですが、この本には、生田さんの活動のエッセンスが込められていると思います。子どもの貧困を考える上でも必読です。</p>
			<p>こうして並べたとき、メディアのメインストリームから離れたところで、地道に実践や思考を重ねてきた人の仕事の貴重さを思います。メディアを賑わせている議論のすべてが、何か根本的な問題を見ないための逃避のように思える。もちろん自分自身がとくに昨年はその渦中にいた。ただ、僕は「フリーターズフリー」にしても「ロスジェネ」にしても、資本制を変えるという前提でやっているので、現在のような格差論に落とし込まれた「若者論」には、はっきり言って何の興味も持てない。もともと弱者救済のつもりもなかったし、それは最初から明記している。考えたいから考えているだけです。読まずに好き勝手言う人も後を絶たないけど、そういう場末の終わってる人もどうでもいい。いかに自分自身の長い仕事をやり抜けるかだけが大切です。この三冊の本は、そのような仕事が社会に存在し得ると示した事実性において、決定的な意義がある。無理に場を盛り上げたり、空気を読んだりしなくても、自分のモチーフを貫くことが社会につながるというビジョンこそが本当の希望ではないか。一瞬で消費されるネタの提供者になるのではなく（ただしそのような生き方を本気で試みる人を馬鹿にしません）、やはり、数十年単位で読者に考え続けてもらえるような仕事をしたい、と心から思わされました。</p>
		</div>
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	<dc:creator>nobuakiohsawa</dc:creator>
	<dc:date>2009-10-31</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://d.hatena.ne.jp/nobuakiohsawa/20090821">
	<title>イベント告知</title>
	<link>http://d.hatena.ne.jp/nobuakiohsawa/20090821</link>
	<description> まず、先日の紀伊国屋イベントにご参加・ご協力頂いた方々に、心より感謝申し上げます。十分に議論を展開できなかった部分もありますが、あの場で話したことは引き続き考えていくつもりです。 その延長上になるのかどうかわかりませんが、来月、下記のトークイベントに出席</description>

	<content:encoded><![CDATA[
		<div class="section">
			<p>まず、先日の紀伊国屋イベントにご参加・ご協力頂いた方々に、心より感謝申し上げます。十分に議論を展開できなかった部分もありますが、あの場で話したことは引き続き考えていくつもりです。</p>
			<p>その延長上になるのかどうかわかりませんが、来月、下記のトークイベントに出席します。</p>
			<p><a href="http://hayamikeiko.com/index-3.html" target="_blank">９月１１日　ロスジェネ世代と考える９０年代──オウムとは何だったのか　新宿ジュンク堂書店</a></p>
			<p>出演者は『I LOVE 過激派』『カルト漂流記』の著書を持つ元過激派の早見慶子さん、オウム問題と真っ向から向き合ったアクチュアルな宗教学者の島田裕巳さんです。僕は「神的」という言葉をしばしば批評で用いるのですが、それは人格神や特定宗教とは関係ない。むしろそれらを分解し、つなぎ直す力という意味を込めています。だから、それは「神」でも「自然」でもいいのですが、こういう話をするとすぐ「宗教か」という反応が来るので困る。僕はむしろ、真に宗教を批判し得る個人はどこにいるのか、実践はどこにあるのかを考えているのだから。</p>
			<p>とにかく、神と信仰について本気で話すつもりですので、ぜひご参加ください。</p>
		</div>
]]></content:encoded>
	<dc:creator>nobuakiohsawa</dc:creator>
	<dc:date>2009-08-21</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://d.hatena.ne.jp/nobuakiohsawa/20090806">
	<title>夏目漱石のこと</title>
	<link>http://d.hatena.ne.jp/nobuakiohsawa/20090806</link>
	<description> 下記のシンポに向けて漱石がいかに語られてきたのかを読み直しています。 ８月１０日　近代１００年の問い（紀伊国屋サザンシアター） 漱石論の系譜はおおむね次のようにまとめることができます。 １小宮豊隆（則天去私・弟子による神話化）→２江藤淳（他者・倫理）→３柄</description>

	<content:encoded><![CDATA[
		<div class="section">
			<p>下記のシンポに向けて漱石がいかに語られてきたのかを読み直しています。</p>
			<p><a href="http://losgene.org/event/20090810.html" target="_blank">８月１０日　近代１００年の問い（紀伊国屋サザンシアター）</a></p>
			<p>漱石論の系譜はおおむね次のようにまとめることができます。</p>
			<p>１小宮豊隆（則天去私・弟子による神話化）→２江藤淳（他者・倫理）→３柄谷行人（分裂＝倫理的位相と存在論的位相）→４小森陽一・石原千秋（テクスト論・多様性）→５&#x7d53;秀実・大杉重男（国民文学批判）</p>
			<p>こうして見るとキリストと聖書の辿った歴史と完全に重なります。</p>
			<p>死んだ後での神格化、それを「人間」に引きずり下ろした上での評価、神であり人であるという二重性への注目、文章自体への多様な読み込み、それ自体が作り上げる共同体への批判、とこんな感じです。</p>
			<p>そして問題はやはり「３」の分裂にあると僕は考えます。これは「柄谷行人論」の補遺的な話になりますが、この批評文を書く過程で、氏の文章の雑誌初出版と単行本版を読み比べました。それで「マルクスその可能性の中心」は雑誌版の方がいいのではないかという議論をしたのですが、同様に、氏のデビュー作である漱石論「意識と自然」にも似た印象を持ったのでした。とくに結末部は、単行本版が、書かれなかった「明暗」の結部の残念に収斂するのに対し、雑誌版は、漱石の存在論的位相を「金」を通した人間関係の絶対性と重ね、さらにそれを＜自然＞と重ね、石川啄木「時代閉塞の現状」を引用しつつ、「私的欲望、私的権利を拡大させていく自然主義派や白樺派の近代志向の系列」を漱石と啄木の「両極」から批判するという終わり方になっています。</p>
			<p>「漱石の小説の人物たちが突発的な変貌を示すのは、一つは女をめぐってであり、いま一つは金をめぐってである。（…）実存主義の「実存」は全く家族や具体的な生活から切り離された存在であるが、特殊な情況においてのみそうあるにすぎないので、一般にこういう「実存」は必ずどこかで誰かの犠牲によって、たとえば金銭的に支えられているものである。漱石の小説が実存主義やその類の論理の網の目をくぐる、不透明で粘々とした何かを残しているのは、彼がそういう論理の裏目から出発するほかなかったからだ。（…）したがって「金」は、漱石の小説では、『ヴェニスの商人』がそうであったように、道徳的な負価値から人間の関係の抗いがたい絶対性を示すメタフィジカルなものに転化させられている」（柄谷行人「＜意識＞と＜自然＞」雑誌初出版）</p>
			<p>僕が言いたいのは、「具体的な生活から切り離され」たところで、「必ずどこかで誰かの犠牲によって、たとえば金銭的に支えられている」自分を問わない言説は（たとえば自分自身の現実を一切問わず、ブログその他で高見の見物をしたり、相手の議論を切り詰めたり、下らない揶揄を繰り返す人たちは）、どんなに知的・論理的・データ主義的に自己を装おうと「実存主義」、いや、それ以前なのだということです。正直そういう人たちはもうどうでもいい。今の時代に文学を志すことの意味を真剣に考えている、若く新しい人に来てほしいと思っています。</p>
		</div>
]]></content:encoded>
	<dc:creator>nobuakiohsawa</dc:creator>
	<dc:date>2009-08-06</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://d.hatena.ne.jp/nobuakiohsawa/20090720">
	<title>イベント告知</title>
	<link>http://d.hatena.ne.jp/nobuakiohsawa/20090720</link>
	<description> 下記のシンポジウムを開催します。昨年の紀伊国屋サザンシアターのイベントでは、東浩紀さん、赤木智弘さん、雨宮処凛さん、萱野稔人さん、杉田俊介さんという豪華メンバーをお招きしましたが、今回も、文学者の小森陽一さん、美術家の会田誠さんという、これまたあり得ない</description>

	<content:encoded><![CDATA[
		<div class="section">
			<p>下記のシンポジウムを開催します。昨年の紀伊国屋サザンシアターのイベントでは、東浩紀さん、赤木智弘さん、雨宮処凛さん、萱野稔人さん、杉田俊介さんという豪華メンバーをお招きしましたが、今回も、文学者の小森陽一さん、美術家の会田誠さんという、これまたあり得ない奇跡的なマッチングになりました。</p>
			<p><a href="http://losgene.org/event/20090810.html" target="_blank">８月１０日　近代１００年の問い（紀伊国屋サザンシアター）</a></p>
			<p>僕は昔から、自分の現実を問わず次から次へと「ネタ」を消費する「知的遊戯」がどうにも退屈でした。手応えがない。何かを避けている気がする。それに、おもしろいものは他にいくらでもある。もし「考えること」がスリリングであり得るとしたら、それは自分の足元を揺さぶられる経験のなかにしかない。現在の活動も「資本制下において言葉を発するとはどういうことか」という内省＝自己批評の延長上にあります。</p>
			<p>たとえば、提示した瞬間に消費され、忘れられる「偽の問題」の過剰供給それ自体が資本制の病理であり、それは「考えること」を矮小化するだけでなく、今や自転車操業的ななし崩しのなかで出版市場そのものを逼迫させている。この負のスパイラルをいかに食い止めることができるのか。生産・流通・消費の構造変革は必要でしょう。でもそれ以前に消費されない・消費し得ない問いをつかまなけれならない。私たちが真に「今」を思考するためには、過去へと遡行し、そこに連続している問いを「切開」（「明暗」）することが必要なのではないか。</p>
			<p>漱石と藤田を過去の偉人として見るのではなく、私たち同様、グローバリゼーションの荒波に翻弄された存在として見ること。それが近代文学と近代美術の出発点にあり、その上に私たちの文学と芸術があることの意味を考えること。僕は若者論や格差論をやっているつもりはありません。根本的なことを考えているだけです。活字上では偉そうな倫理を垂れたり、利いた風な揶揄をする人たちが、現実では驚くほど姑息に振舞っている例を数知れず見てきました。いい加減そういうのは終わりにしたい。ぜひいらしてください。</p>
			<blockquote>
			<p>１００年前、世界の中心・ロンドンで精神を病むまで近代を味わい、高等遊民という名の「ロスジェネ」を主人公に小説を書き続けた夏目漱石。漱石の死の数年前に渡仏、芸術の都・パリで喝采を浴びるという日本画壇の悲願を達成しながら、太平洋戦争中その力のすべてを「戦争画」に叩き込んだ藤田嗣治。彼らの絶望と希望を私たちは一度でも魂で受け止めたことがあるのか。漱石研究の第一人者・小森陽一氏、「戦争画RETURNS」で近代日本画を問うた美術家・会田誠氏を迎え、資本主義の暴力を怒りの沸点で味わった「ロスジェネ」が、今、グローバル下の文学と芸術という「近代１００年の問い」を切り開く。現実の矮小化、下らぬマッピング、偽の問題、愚劣な揶揄が許される時間はもう終わりだ。（大澤信亮）</p>
			</blockquote>
			<p><a href="http://f.hatena.ne.jp/nobuakiohsawa/20090717233132" class="hatena-fotolife" target="_blank"><img src="http://f.hatena.ne.jp/images/fotolife/n/nobuakiohsawa/20090717/20090717233132.jpg" alt="f:id:nobuakiohsawa:20090717233132j:image" title="f:id:nobuakiohsawa:20090717233132j:image" class="hatena-fotolife"></a></p>
		</div>
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	<dc:creator>nobuakiohsawa</dc:creator>
	<dc:date>2009-07-20</dc:date>
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