鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <9>

 

  隠退牧師の徒然記<9>(2011年6月1日〜)
   2011年10月19日 「天にあるふるさと」(2) 


聖書の言葉
間もなくわたしは、先祖の列に加えられる。わたしをヘト人エフロンの畑にある洞穴に、先祖たちと共に葬ってほしい。(創世記49章29節)


 鈴木家の墓前の横に墓誌が建っている。先祖の名前が戒名で刻まれているが、その横には生前の名も記されている。先祖の名を読んでも、会ったこともない人たちなので分からない。しかし、両親よりも前に刻まれているのは私の兄の光政である。兄は1947年2月23日、11歳で亡くなっている。次が1989年に91歳で亡くなった母ハナ、次が1995年に98歳で亡くなった父の政次郎、そして次が1997年に68歳で亡くなっている姉の美喜子である。美喜子の他は戒名が刻まれているが、美喜子は生前の名をそのまま刻んでいる。キリスト者として68年間の人生を歩み、最後まで主イエス・キリストの信仰を持ちつつ、希望と感謝のうちに天に召されたのである。
 

鈴木家の墓地にある墓誌
墓誌の最後は姉・鈴木美喜子の名が刻まれている。
寺にはキリスト教の信者であることの理解を得て埋葬した。



清水ヶ丘教会の教会員であり、青年時代から信仰の歩みが導かれている。この姉の励ましにより神学校に進むことができたのである。将来、牧師になりたいと進路を述べたのは高校生の頃である。しかし、両親は賛成しなかった。私のキリスト教との関わりについては、折々に述べているが、母の導きでもある。母が入院しているとき、近くの日曜学校の子供たちが花を持って見舞ってくれた。その日の6月第2日曜日は、教会の「こどもの日・花の日」であった。見ず知らずの子供からお見舞いをいただき感激した母は、退院するやその教会の日曜学校に私を連れて行くのであった。私の小学校3年生の時である。以後、私は母の励ましで日曜学校に通わなければならなかった。中学生になってからは姉が所属する清水ヶ丘教会に出席するようになる。中学生、高校生と教会生活をするうちに牧師の道が示されてきたのである。今までは教会に出席することを励ましてくれた母であるが、牧師の道は思いも及ばなかったのである。「なにも牧師さんなんかにならなくても」というわけである。親から反対されたわけではないが、私自身も牧師への道を決心するものの躊躇していたのであった。兄が死に、二人の姉は結婚しており、長姉が居るが、牧師になってこの家を出て行って良いものかと思っていたのである。高齢に向かいつつある両親と共に住まなければならないとも思っていたからである。その私に姉が、「両親とは私が一緒に居るから、あなたは牧師になりなさい」と勧めてくれたのである。そして姉は両親を説得してくれたのであった。

 

私が牧師になることを励まし、両親を説得してくれた姉・鈴木美喜子。
60歳頃の写真かと思う。




神学校を卒業し、青山教会、陸前古川教会を経て大塚平安教会に赴任したのは1979年、私が40歳になってからである。赴任してから、間もなく姉がリューマチを患うようになる。いろいろな病院に入退院を繰り返しつつ15年間の闘病生活をすることになるのである。そして、ついに天に召されて行くのであるが、握力もなくなって行く中で、毎日のように日記をつけ、終わりには「今日も一日生かされて感謝」と記すのであった。姉の力強い信仰の証である。生前、姉は自分の埋葬は寺の鈴木家の墓地に埋葬するように述べていた。清水ヶ丘教会には立派な納骨堂があるが、両親と共に眠りたいのだと言う。私の代わりに両親と共に過ごしてくれた姉である。寺の住職さんに事情を話し、鈴木家の墓地にキリスト教の埋葬式をすることの了解を得る。近所もあるので、讃美歌は歌わないでくださいと言われ、司式の島田勝彦牧師は讃美歌の代わりに詩編を示し、一同で読むのであった。こうして寺の墓地に一人のキリスト者が埋葬されることになったのである。
 


1982年8月末に完成した大塚平安教会の墓地。厚木霊園内にある。
それまでは川崎の春秋苑の霊園内にあったが改葬したのである。
向かって左は棚になっており遺骨を置く。
右は土であり、いずれは土に返すのである。



そろそろ私の埋葬先を決めておかなければならない。大塚平安教会に赴任して3年後には厚木霊園内に納骨堂を建設している。私の構想のもとに造られた墓地でもあり、思いが強い。そこに埋葬するのか、鈴木家の墓地に埋葬するのか。思いは墓誌にある姉の横に名を刻まれたいと言うことであり、大塚平安教会の墓地にも刻まれたい。そうすると分骨となるのだが。




牧師が聖書等を置いているのは説教台として設置している。
墓参に来た人たちが、ここに水をかけるので、
聖書等を置けなくなってしまう。
いつも雑巾を持参しては水を拭きとるのであった。