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鈴木伸治・御言葉に向かう

2018-08-06

説教「平和の原点を与えられ」

2018年8月5日、六浦谷間の集会 

聖霊降臨節第12主日」 平和聖日

説教・「平和の原点を与えられ」、鈴木伸治牧師  

聖書イザヤ書54章4-10節

    エフェソの信徒への手紙2章14-22節

    マルコによる福音書10章13-16節

賛美・(説教前)讃美歌54年版・420「世界のおさなる」

    (説教前)讃美歌54年版・531「こころの緒琴に」

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毎年、8月の第一日曜日は、日本基督教団は「平和聖日」と定め、平和を祈りつつ礼拝をささげることになっています。今年は本日の8月5日になります。まさに今は平和を祈らざるを得ない状況になっています。この世界で戦争がないのではなく、今でも戦いが続けられているのです。アメリカ北朝鮮の駆け引き、ロシヤ、中国等と日本との関係もなかなか平和な歩みが導かれません。イスラエル中東の世界との摩擦は解決の糸口がないようです。再び世界戦争が起こらないよう祈っているのです。今は核兵器を持っているので、戦争になれば大変なことになることは分かっているのです。それでいて駆け引きが行われているのです。どちらも自分たちの主張を続けていますので、和平に至るのは困難であります。歴史を見ますと、お互いに話し合いによって戦いが集結したということはあまりありません。どちらかが勝利をおさめ、片方が敗北を認めたときに和平交渉が始まるということです。そのとき話し合いで和平が成立しても、のちにまた戦いが復活するという歴史があるのです。

 平和の実現は、私達は聖書によって示されているのです。エフェソの信徒への手紙2章14節以下に示されています。「実に、キリストわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」と示されています。人間にとって、十字架を見上げることによって、自分の自己満足他者排除が滅ぼされていることを示され、他者と共に生きる者へと導かれるのです。まさにイエス・キリストが平和を実現するのであり、いよいよ十字架の真理を示されなければならないのです。

 2010年3月まで、大塚平安教会にて30年間、牧師として務めてまいりました。最初からではありませんが、この8月の平和聖日には「戦争責任告白」を礼拝にて、日本基督教団信仰告白と共に朗誦してまいりました。正確には「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」ということです。日本は太平洋戦争を展開し、アジア地域を侵略しました。日本が戦争に負けたとき、日本基督教団の人々の中には、この戦争には我々キリスト者も加担し、アジアの人々を苦しめたと懺悔するようになりました。それにより1967年に当時の日本基督教団総会議長・鈴木正久牧師が、戦争責任告白を教団総会に提出したのです。しかし、この戦争責任告白に反対する人々がおり、教団としては決められませんでした。しかし、これは大切な告白であるとして、教会によっては平和聖日礼拝にて告白する教会もあるのです。大塚平安教会も最初からではありませんが、平和聖日には戦争責任告白を礼拝にて告白するようになっていたのです。しかし、私が在任している間は、この戦争責任告白について説明することが出来ますが、代が変わることによって、わからなくなる人々が出てきます。そのときは改めて学習してもらうことにして、私の退任の前に、この戦争責任告白を礼拝にて告白することを取りやめたのでした。また、あらたなる思いで取り組んでいただきたいと思っています。

 平和はつねに祈るべきことですが、今は祈らざるを得ない状況が世界に起きているのです。いよいよ、主の十字架にあって平和を祈り求めて参りましょう。

 旧約聖書イザヤ書による示しであります。今朝の聖書の背景は苦しみに生きる人々を励まし、慰めているのであります。すなわち、聖書の人々はバビロンという大国に囚われの身分であります。紀元前587年、聖書の南ユダの国はバビロンによって滅ぼされてしまいます。その時、多くの人々がバビロンに連れて行かれました。そのバビロンで囚われの身分として生きなければならなかったのであります。

 聖書の国は小さな国であり、当初はイスラエル国家でありましたが、お家騒動で国が二つに分かれ、北イスラエルと南ユダの国になりました。北イスラエル紀元前721年アッシリアという国に滅ぼされています。そして南ユダも滅ぼされてしまうのです。聖書は滅ぼされる原因は、確かに外国の力によるものですが、聖書の人々の不信仰を示すのであります。すなわち、神様の御心、神様の力により頼むのではなく、外国の力に頼もうとしたのであります。バビロンに対してはエジプトに力を要請しながら対抗しようとしたのであります。そうした人間の思い、人間の力に依存する姿に対して、神様は審判を与えています。むしろ神様が囚われの身へと追いやったことも示されるのであります。今、希望を持たない人々にイザヤは神様の御心として示しています。「わずかの間、わたしはあなたを捨てたが、深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと、あなたを贖う主は言われる」と示しているのです。きわめて人間的な姿を神様に当てはめています。人間も気持ちの持ち方で一人の人を近づけたり、遠ざけたりします。人間的な思いで神様の人間への迫り方を記している訳です。

 人間的な神様を記していますが、旧約聖書はしばしば神様と人間との関係を家族と結びあわせて示しています。今朝の聖書では5節に「あなたの造り主があなたの夫となられる」と示し、神様と聖書の人々が夫婦の関係として、それだけ密接な関係であると示しているのであります。神様と聖書の人々の関係を夫婦として意味深く示したのはホセアという預言者でありました。ホセアはゴメルという妻がいますが、そのゴメルがホセアを裏切り、他の男性のもとへ行ってしまうのであります。本来、そこで夫婦の関係は無くなるのでありますが、ホセアはこの妻を捨てず、彼女を迎え入れたのであります。それは自分の体験を通して、神様の深い導きを示されたからであります。すなわち、聖書の人々が歴史を通して神様に導かれてきました。それは神様と聖書の人々には密接な関係があったということです。ところが、聖書の人々は偶像の神に心を向けて行くのであります。真の神様に導かれているのに、他の神に心を向けること、姦淫であります。姦淫を行う聖書の人々に対し、心を改め、神様のもとに立ち帰るならば、神様は赦しを与え、再び恵みと慈しみを与えてくださることを示したのがホセアでありました。ホセアは自分の体験を通して神様の御心を示されたのであります。むしろ、姦淫の妻を受け入れるのは神様の導きであったのであります。

 このように神様と聖書の人々との関係は家族であることを示していますが、実際の家族の姿は、ドロドロとした姿が示されています。最初の人であるアブラハム、そしてその妻サラの姿が示されます。「あなたがたに天の星のように子孫を与えると」との約束を神様から与えられますが、現実には子どもが与えられません。そして次第に年齢を重ねていく夫婦は、もう神様の約束をあてにせず、サラに仕えている女性ハガルから、アブラハムにより子どもを生まれさせるのであります。ハガルは自分が身ごもるとは主人であるサラを見下すようになるのです。それで、サラはハガルを追放するということになります。しかし、神様はもはや高齢アブラハムとサラにイサクという子どもを生まれさせるのであります。神様の約束は実現したのです。イサクの時代になりますと、妻リベカの間にエサウヤコブの双子が生まれます。イサクはたくましく育つエサウを愛し、母のリベカは優しく育つヤコブを愛すのであります。エサウヤコブ相続争いがあり、家族の崩壊が示されています。そして、ヤコブの時代でありますが、ヤコブの二人の妻、そしてそれぞれに仕える女性から12人の子供が生まれるのです。父親ヤコブは11番目の子供、愛する妻ラケルの子供、ヨセフを溺愛いたします。他の兄弟たちは父のヨセフへの愛情に妬みを持ち、ヨセフを殺す計画を持つのであります。結局、ヨセフは兄弟たちによりエジプトに奴隷として売られてしまうのであります。ここにも家族のドロドロとした姿が見えてくるのです。しかし、聖書はそのようなドロドロとした家族の中に導きを与えておられます。追放されたハガルと子どものイシマエルに生きる道を与えています。ヤコブ相続権を勝ちとってしまいますが、兄のエサウにも生きる方向を定めています。兄弟たちの妬みでエジプトに売られてしまうヨセフでありますが、それは神様の導きであり、ヨセフエジプトの大臣になってヤコブ一族を救うのであります。ドロドロとした家族の関係の中に、神様の導きがあることを聖書は示しています。そういう歴史を示しながら、神様ご自身が家族の中心であることを示すようになるのが預言者たちの働きでありました。

 「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと、あなたを憐れむ主は言われる」とイザヤは示しているのであります。神様がくださる「平和の契約」があなたがたを祝福すると示しているのであります。

 私たちを平和に導くのは主イエス・キリストであると聖書は示しています。イエス様が人々に神様の御心をお話しているところに、人々が子供を連れてきました。イエス様に触れていただくためであるということです。子供たちが親と一緒に来て、その周りで遊んでいたというのではなく、イエス様に触れていただくために子供を連れてきたのです。しかし、イエス様のお弟子さん達は子供を連れてきた人たちを叱ったのです。イエス様が神様の御心をお話しているのに、子供はうるさいというわけです。しかし、イエス様はこれを見て「憤り」ました。イエス様が憤ったという表現は、聖書の中ではこのマルコだけであります。マタイによる福音書ルカによる福音書にも同じ出来事が記されていますが、イエス様が憤るという表現はありません。イエス様が人間的な感情を現すことの表現は避けたということです。しかし、マルコによる福音書の著者はイエス様のありのままを記しているのです。それだけにイエス様の示しが強いということであります。

 イエス様が憤られた背景には、既にイエス様の子供に対する示しが与えられてたいたからであります。9章33節以下に「いちばん偉い者」についてお弟子さん達が論じあいました。弟子たちの中で、誰がいちばん偉いのかという議論でありました。その議論を知ったイエス様は、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と教えられました。そして、一人の子供を抱き上げ、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなく、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」と教えられたのであります。このように教えられていながら、子供たちをイエス様に近づけない姿勢を見て、イエス様は憤られたのであります。「子供を受け入れる」ことを教えたばかりなのです。イエス様は「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と示されています。子供を受け入れなさいと示されています。その子供は純真に神の国を受け入れているのであります。今、イエス様が人々にお話しているのは神の国に生きるということであります。人々が平和を与えられるということであります。何よりも子供たちが神の国に生きることを受けとめているということ、平和の見本でもあります。イエス様はそのように示されながら、イエス様に触れていただくために子供を連れてきた親に対して、祝福を与えたと示されるのであります。平和を祈ることは、イエス様が示されるように、いと小さい存在を受け止めることなのです。世界中の人々は平和願っていますが、イエス様が示される「いと小さき存在を受け止める」こと、そこに平和の原点があるということです。

 8月は第一日曜日に日本基督教団は「平和聖日」を設けて祈っていますが、日本全国民が平和の祈りへと導かれています。8月6日広島原子爆弾が落とされ、8月9日には長崎原子爆弾が落とされました。この原子爆弾投下により、もはや日本は戦争が出来なくなり、8月15日に敗戦を宣言したのでした。従って、この8月は、人々は平和を祈り、各地で祈りの集会を持つことでありましょう。原子爆弾が落とされた広島長崎で平和集会が開かれますが、いくつかの団体が分かれて平和集会を開くのです。一つの心で、一緒に開いたら良いと思いますが、それぞれの主張があって、一緒には開催できないことがそもそも平和を遠ざけているのです。「信仰祈り」は自分の主張ではなく、神様の御心を求めることです。主イエス・キリストの十字架の福音を基にしなければ、真の平和は実現しないのであります。

前任の大塚平安教会時代、毎年、8月の第一日曜日は「平和聖日」としての礼拝でした。ところが大塚平安教会は、教会創立記念日も8月の第一日曜日でした。そのため平和のメッセージを示され、さらに教会創立の恵みを示される説教をしていました、ところが「平和聖日」と「教会創立記念日」の礼拝を一緒に覚えることの疑義を述べる人が出てきました。確かに「平和聖日」は平和のメッセージをしっかりといただきたいのです。創立記念日には、歴史を導く神様のお恵みをしっかりといただきたいのです。それで、8月の第一日曜日を「平和聖日」とし、第二日曜日を「教会創立記念日礼拝」としたのでした。しかし、平和に導かれるために教会の存在があり、教会創立は平和の根源であると示されます。二つの意義を共に示されることが平和の導きであることは確かであります。教会を基として、いよいよ平和の祈り、そして平和を作り出す者として導かれたいのであります。 

<祈祷>

聖なる神様。平和を祈るときを迎えています。自分の経験ではなく、信仰とお祈りにより真の平和を実現させてください。イエス様の御名によりおささげいたします。アーメン

2018-07-30

説教「神様の御心を示されながら」

2018年7月29日、三崎教会 

聖霊降臨節第11主日

説教・「神様の御心を示されながら」、鈴木伸治牧師  

聖書申命記10章12-22節

    マルコによる福音書9章42-50節

賛美・(説教前)讃美歌54年版・361「この世はみな」

    (説教前)讃美歌54年版・507「主に従うことは」

1 

 暑い日々が続いています。この暑さは世界的でもあり、それぞれの国の被害が報告されています。日本でも熱中症で亡くなる方があり、いつも注意が呼びかけられています。先日の豪雨、今の酷暑と言い、平均してくれれば思うのですが、天気は私たちの思いを超えて変化しているのです。2013年のことですが、マレーシアに滞在しました。マレーシアは赤道の近くにあり、暑い国でもあります。3月に出発して、三ヶ月滞在しました。クアラルンプール日本語集会のボランティア牧師として赴きました。3月に出かけたとき、日本はまだ長袖を着ていたのですが、マレーシアに着いたときは、さすがに暑いと思いました。しかし、室内に入るとエアコンが効いていることもありますが、そんなに暑さはありません。日本のように蒸し暑さはないのです。日陰に入れば暑さということはありませんでした。しかし、陽射しの中に居れば、照り付ける太陽で熱さを感じます。マレーシアは、だいたいお昼頃にはスコールがやってきます。雷がゴロゴロとなった後には大雨が降ることになります。30分から1時間くらいでスコールは止みます。その後は涼しくなるのです。何よりも道路も車もみんなきれいになります。それが毎日のことなのです。礼拝は、やはりスーツを着て講壇に立ったのですが、教会の皆さんはスーツを着なくても、半袖のシャツでもよいのですよと言ってくれます。しかし、礼拝堂は冷房が効いていて、半袖では寒いくらいなのです。冷房で冷やせば冷やすほど「ご馳走」なのだと言われるのです。マレーシアは暑い国なのですが、蒸し暑さがないので、すごしやすい国でもありました。

 この暑さの中にいると、旧約聖書に記されているヨナの物語が思われるのです。神様はニネベの町が悪徳栄えた国なので、ヨナを遣わして悔い改めさせようとします。ヨナは神様のご使命を聞くものの、ニネベではない別の方角の船に乗ってしまうのです。神様のご命令から逃げてしまうのです。ヨナが乗っている船が嵐に遭い、今にも船が沈みそうになります。その時、ヨナは、この嵐は神様のお怒りなのだと示され、船の人達に自分を海に放り投げるように言います。船の人たちは躊躇するのですが、この嵐で自分達も危ないことを知り、ヨナを海に放り投げるのでした。すると嵐はぴたりと止むのでした。ヨナは大きな魚に飲み込まれます。その大きな魚のお腹の中で、ヨナは悔い改めるのでした。そしたら魚はヨナを吐き出すのです。そこがニネベの町でした。ヨナはニネベの町中を歩き回り、悔い改めなければ神様の審判があることを宣べ伝えるのです。すると王様まで悔い改めたのでした。ヨナは高台に上がり、暑いので葉の茂った木の下でニネベの町を見下ろしていました。神様の審判を見るためでした。そしたら今まで葉が茂っていた木がたちまち枯れてしまい、日蔭が無くなります。ヨナは暑さの中でぶつぶつと文句を言うのでした。その時、神様の御心が示されるのです。「お前は木の葉が枯れたことで嘆いているが、私はニネベの人達の滅びるのを嘆いているのだ」と言われるのでした。木の葉が枯れて暑さを感じるのはあなたの責任なのだと示されたのです。

 世界的な暑さの中で、悲鳴を上げている私たちですが、この暑さはあなたの責任であると言われても、何が責任なのか分かりません。しかし、言われていることは地球温暖化ということです。人間の生活地球温暖化へと向かっていることを思えば、世界の人々は悔い改めなければならないのであります。この暑さの中に、神様の御心があると言うなら、問題を感じますが、どのような時にも神様の御心をいただきながら歩みたいのであります。

 旧約聖書申命記が示されています。10章22節からでありますが、「神様が求められること」として内容を示しています。この10章では再び十戒が与えられたことが記されています。十戒が与えられたのは、エジプトを出て、最初の宿営地、シナイ山の麓にいるときであります。モーセシナイ山に登り、40日間山上にいました。そのモーセ十戒が与えられました。この十戒により、人々を導きなさいということであります。人々はモーセシナイ山に登ったまま、なかなか降りてこないので、人々は自分たちの中心となるものとして「金の子牛」、偶像を造り、その周りで踊り狂ったのであります。そこへモーセが下山しました。偶像の前で踊る人々を見て、モーセは石の板に刻まれた十戒を投げ付けて砕いたのであります。これによって、神様からいただいた十戒はなくなってしまったのであります。その後、神様の招きのもとに、モーセに再び十戒が与えられました。その十戒をもとにして、人々にお話をしているのが今朝の聖書であります。

 申命記モーセの説教であります。申命記の「申」は「重ねて申す」という意味でありまして、神様の恵みと導きを、繰り返し人々に示すのであります。「神様が求めておられること」として、たえず「神様の御心を示されながら」歩むことを示しているのです。

 「今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂をつくしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか」とモーセは示しています。神様が聖書の人々に求めておられることは、「あなたが幸いを得ることだ」というのです。そのために、神様は人が生きる基本的な生き方を示しておられるのです。「主を愛し、心を尽くし、魂をつくしてあなたの神、主に仕える」こと、そして「主の戒めと掟」を守ること、それが幸いを得る道であるというのです。主の戒めと掟は十戒に示される通りであります。「あなたの父母を敬いなさい」「あなたは殺してはなりません」「あなたは姦淫してはなりません」「あなたは盗んではなりません」「あなたは偽証してはなりません」「あなたは隣人の家を欲してはなりません」ということが戒めなのであります。戒め、戒律というので、さぞ難しいことであろうかと思いますが、人間が生きるに基本的な指針であります。戒められなくても、当たり前のことなのです。しかし、神様は戒めとして示しているのであります。当たり前のことでありますが、人間はこの当たり前のことが守られないということであります。

 モーセは、さらに神様の導きを語ります。「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった」と示しています。人として共に生きること、なかでも困難な状況に生きる人を顧み、共に生きなさいと示しているのであります。これが神様に従う道であります。神様に従う道は、自分だけの祈りではなく、「我らに」と祈ることなのであります。

 「神さまが求めておられること」を常に示されながら生きるということです。それは戒めを実践しつつ生きるということであります。私の生き方の中には、「神さまが求めておられること」と共に「母が私に求めたこと」が常に根底をなしています。私の母の名は「ハナ」であります。母の証しは既にお話しています。母が入院しているとき、6月の第二日曜日に近くの教会学校の子供たちが花を持ってお見舞いしてくれました。6月の「花の日」に花を持ってハナさんを見舞ってくれたということです。花を贈られたハナさんは深い感銘を与えられ,退院しますと私をその教会学校に連れて行きました。その頃の私は小学生の3年生でした。花を贈られた礼を述べ、「これからこの子が毎週来ますから、よろしくお願いいたします」と挨拶しているのであります。それから日曜日になると母は私を教会学校に送りだしたのであります。母は自分が教会に行くというのではなく、子どもを教会に通わせることでありました。大人になって振り返ったとき、母が私に求めたこととして、その頃を思い出しているのであります。母の願いは、自分の子供も人様に喜んでもらう、そういう人になることであります。自分を喜ばしてくれた子ども達、自分の子供もそのようになってもらいたい、そのためには教会学校に通わせることでありました。その教会学校は神様が求めておられることを子どもたちに教えていたのであります。私は母の願いである「人様に喜んでもらう人になる」には、まだまだ途上でありますが、神様が求めておられることを常に示される、その働きの場に遣わされていることを感謝しています。

 「神さまが求めておられること」を真実受け止め、主に従うことを示されているのは主イエス・キリストであります。イエス様は私たちに「神さまが求めておられること」を教えてくださいました。神様の御心であるイエス様に従うことが、祝福の歩みであると示されるのであります。イエス様は一般の人には優しく、分かりやすく神様の御心を示されていますが、「神さまが求めておられること」の歩みをするとき、すなわち「主に従う道」を歩もうとするなら、イエス様は厳しく求めておられるのであります。ルカによる福音書にも「弟子の覚悟」がイエス様のよって示されています。ルカによる福音書9章57節以下に示されています。イエス様が歩いていると、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」と言う人がいました。するとイエス様はその人に「私に従いなさい」と言われました。ところがその人は、「まず、父を葬りに行かせてください」と言うのです。それに対してイエス様は、「死んでいる者たちに、自分達の死者を葬らせなさい」と言われるのです。何か冷たい言い方ですが、「死んでいる者たち」というのは、神様の御心を無視している人たちでもあります。別の人は、「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」と言うのでした。するとイエス様は「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われたのであります。イエス様に従うと言いながら、いろいろな関わりを気にしており、あるいは置かれている状況が気になるということ、そのようなことでは真に主の道を歩むことにはならないと示しているのであります。ここではイエス様に従うことの厳しさを示されています。

 このように人々はイエス様の導きを喜びながらも、いつも自分の況を考えているのです。イエス様のお招きに言い訳をしている人々に対して、イエス様に声をかけられ、すぐさま従ったのはイエス様のお弟子さん達でありました。イエス様はガリラヤ湖のほとりを歩いていると、ペテロさんとアンデレさんが、二人は兄弟で漁師であり、魚を取っているところでした、その彼らにイエス様が「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われたのです。彼らはイエス様の言われている意味を理解しないまま、今している仕事を止め、イエス様に従ったのです。「二人はすぐに網を捨てた」と記されていますから、生活のこと、今の状況を考えもせずイエス様に従ったのです。ルカによる福音書には、いろいろと理由を述べてイエス様に従わない人を示していますが、その点、お弟子さんたちは何もかも後にしてイエス様に従ったのでありました。

 今朝の聖書、マルコによる福音書9章42節以下は、もっと厳しく「神さまが求めておられること」に従うことを示しています。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」と示しています。「小さな者」とは信仰的にあるいは社会的に弱い立場にある人と言うことができます。弱い立場の人を「神さまが求めておられること」から遠ざけてしまう人、人をつまずかせることであると言います。その後に書かれていることは、自分の体の一部分が、自分をつまずかせるのです。すなわち片方の手、片方の足、片方の目が私をつまずかせるのです。体の一部を通して誘惑が入りこむということなのです。私たちは自己満足という罪の存在をどうしても取り去ることはできないのであります。「神さまが求めておられること」はいつも示されていますが、自分を満足させることが優先されてしまうのです。

 私は青年の頃、今朝のイエス様の御言葉が、重く示されていました。悪いところがあれば、取り去って捨てなさいとイエス様は示しているのです。私はお酒というものを嫌いではありません。お酒を飲むようになったのは、この青年の頃であります。それも、やはり母のハナさんに関係するのです。我が家の台所の戸棚の中にぶどう酒があることでした。父はお酒を飲まなかったので、何故、我が家にぶどう酒が置かれているのか、その頃は考えもしませんでした。ある時、一口飲んでみたのです。青年の頃ですが、初めて口にしたぶどう酒であり、とてもおいしく感じたのです。それからは、誰にも分らないようにして、一口ずつ飲んでいました。誰にも分らないようにと言っても、一口ずつ飲んでいれば、だんだん少なくなっていくわけで、ついに瓶は空になってしまうのです。その頃、ひそかにぶどう酒を飲む自分が、いかにも罪深く感じました。そして、イエス様の厳しい御言葉に触れ、ぶどう酒に手を伸ばして飲むのだから、この手を切ってしまおうか、等と真剣に思っていました。それでいてぶどう酒に手を伸ばしていたのですから、罪深い自分であると示されていました。もうないのだと思いつつ、戸棚を開けてみると、空瓶ではないぶどう酒が置かれているのです。ぶどう酒がなくなる、母はその原因を分かっていたようです。お酒を飲まない父に対して、子どもの酒飲みを理解していたようです。その後、神学校に入ってしまいましたので、盗み飲みはなくなりましたが、母は信仰を励まし、体の健康を励ましてくれていたのではないかと思っているのです。

イエス様のお招きをいただいている私たちです。今朝の聖書は厳しく従う生き方を示していますが、何も難しいことはありません。「神様の御心を示されながら」歩むこと、それでいいのです。私の現実にイエス様が十字架の救いを置かれているのですから、その十字架を見つめて歩むことがイエス様に従うことなのであります。

<祈祷>

聖なる神様。神様が求めておられること、祝福の歩みへと導いてくださり感謝いたします。イエス様に従う道を力強く歩ませてください。主の御名によりささげます。アーメン

2018-07-27

説教「御心をいただきつつ」

2018年7月22日、六浦谷間の集会 

聖霊降臨節第10主日

説教・「御心をいただきつつ」、鈴木伸治牧師  

聖書民数記11章24-30節

    コリントの信徒への手紙<一>12章12-26節

     マルコによる福音書9章33-41節

賛美・(説教前)讃美歌54年版・385「うたがい迷いの」

    (説教前)讃美歌54年版・522「みちにゆきくれし」

前々週の土曜日、14日でありますが、大塚平安教会において教会員角田真澄さんの告別式がありまして列席致しました。角田敏太郎さん、真澄さんご夫妻とは、大塚平安教会時代にお交わりをいただいた方です。角田敏太郎さんは、86歳にもなっておられると思いますが、やはり高齢になられているので、衰えを示されました。葬儀の終わりに喪主としてご挨拶されましたが、あまりご挨拶ができず、息子さんが変わって挨拶されたのでした。その後、献花があり、私は献花後に角田敏太郎さんに、私自身が自分を指でさしながら「分る」と聞きました。そしたら、「わかるよ…、古い付き合いじゃないか…」と笑顔で言われたのです。喪主の挨拶で、ほとんど言葉にならなかったのに、私に対して、笑顔で応えてくれた角田さんを喜んでいる次第です。角田さんのお連れ合いの真澄さんの告別式でした。告別式が始まる前に、菊池牧師が、私に弔辞を述べてもらいたいと依頼されたのですが、私はお断りさせていただきました。まず、当日は喪服を着ないで平服でもありました。葬儀の後は幼稚園に行かなければならないからです。さらに、弔辞を述べるとすれば、いろいろなことが思い出されるので、準備もないままにお話しをすれば長くなるのではないかと思ったからでした。

 真澄さんの思い出を語るとすれば、本当にいろいろなことをお話ししなければならないのです。真澄さんは賜物がある方で、ご自分でも認識されていたようです。長年、会社の事務職にありましたので、いろいろと心得ていたようです。そういう力を教会でも奉仕として発揮したいのですが、そういう機会がないのです。というのはお連れ合いの敏太郎さんは、大塚平安教会の草創期からの方で、教会を担いつつおられたのです。教会の皆さんも敏太郎さんの存在を重く受け止めていました。ですから、いつも役員さんに選ばれては教会の職務を担っておられたのです。真澄さんとしては、自分もできれば役員に選ばれてご奉仕されたいと思っていたと思われます。それで、ある時、湘北地区内にある小規模の教会に移られたのでした。その教会では役員に選ばれ、何かと教会の御用をされていました。そのようなご感想を真澄さん自身が述べていたのです。大塚平安教会にいる限り、役員には選ばれないということでした。他の教会に移られて、力強くご奉仕されている真澄さんを示されています。他の教会に移られましたが、何かと大塚平安教会の皆さんとはお交わりを深めていました。婦人会の旅行には毎回参加していました。大塚平安教会のイベントのときにはいつも来られて、皆さんとお交わりをされていたのです。ですから他の教会に移られたとしても、いつもお交わりがあったので、転会したとの思いがあまりありませんでした。私たち夫婦のことも気をつかってくれていました。大塚平安教会を退任して、その後、大塚平安教会にいく機会があり、真澄さんにお会いすると「スミちゃんは元気ですか」と聞かれるのでした。連れ合いに対しては「スミちゃん、スミちゃん」気遣ってくれていたのです。足のご不自由な敏太郎さんを支え、娘さんを天に送り、いろいろな状況を受け止めつつ、主の御用のために歩まれたと示されています。

 自分の賜物を受け止め、主のためにお働きになられたこと、今朝の聖書はそのような人々を祝福しているのです。「御心をいただきつつ」、自分に与えられた賜物をささげて歩むことを今朝の聖書は示しているのです。

 今朝は旧約聖書民数記から示されています。この民数記聖書の人々がエジプトで奴隷として生きること400年でありましたが、神様はモーセを通してエジプトから救い出し、約束の地への途上にある状況です。救い出された人々は神様が約束してくださった土地、乳と蜜の流れる土地へと荒野の旅をしているのであります。日本語の題は「民数記」ですが、原文の題は「荒れ野にて」であります。この民数記の1章と26章に民族を数えていることから「民数記」としております。しかし、単に民族を数えているのではなく、荒れ野の旅で、いろいろな出来事があり、それらを神様の導きとして記しているのです。

 今朝の聖書は、旅の途上、不思議な現象が起こり、人間的に考えてもよろしくないと思われるので、やめさせようとするのです。11章24節以下が本日の聖書です。本日は24節から30節ですが、次の段落の31節からを「うずら」としています。その「うずら」を食べることになる経過が今朝の聖書なのです。エジプトを出た聖書の人々は、当初は食べ物を持っていました。しかし、それらはすぐになくなってしまいます。そうすると人々は一斉に不満をモーセにぶっつけます。この荒野で我々を死なせるために連れ出したのだと言うのです。その不平不満を言う人々に対し、神様は「マナ」と言う食べ物を与えて養ったのです。飲む水がないと言っては、やはりモーセに詰め寄ったのです。こうして飲む水、身体を養うマナを与えられて旅を続けていたのですが、今度は肉を食べたいと言って騒ぐのです。そのあたりは11章4節に記されています。「誰か肉を食べさせてくれないか。エジプトでは魚を食べていたし、きゅうりやメロン、ねぎや玉ねぎやニンニクが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない」と言って騒いでいるのです。不満があれば、すぐにモーセに詰め寄る人々に対して、神様はその務めを緩和するために、モーセと共に神様の御用をする人々を選ばれるのでした。

 そこで選ばれたのが70人の長老でありました。神様の霊がモーセにとどまると同じように、一時的ではありますが、この70人の長老たちには神様の霊がとどまったのです。神様の霊をいただいた長老たちは、モーセと共に人々の不平不満を聞き、神様の御心を示したのでした。更にこの70人の長老とは別に二人の人も神様の霊をいただいて、預言状態になっていたのです。それで、モーセの側近でもあるヌンの子ヨシュアが、「やめさせてください」とモーセに言います。モーセと同じように、指導的な立場になっているかのように見えたのです。その時モーセは、「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」と言うのでした。

 こうしてモーセの務めを軽くしながら、神様は人々が肉を食いたいということで、「うずら」を与えたのであります。「うずら」は小さな渡り鳥で、アフリカからヨーロッパに移動し、シナイ半島パレスチナ方面はうずら通路であったと言われます。人々の不満はこれで解消されるのですが、日々の生活において不平不満は際限なく出てきます。72人の神様の霊をいただく長老たちがモーセと共にその不満を聞きつつ、旅を続けるのでした。人間的に見れば、出過ぎた行為というものがあるものです。しかし、モーセはすべて神様のお導きであると受け止めているのです。その意味で、モーセは二人の人が、進んで人々のために働いていたので、むしろ祝福したのでした。「主の民すべてが預言者になればよいと切望している」と示しているのです。

 旧約聖書において、ヌンの子ヨシュアが、長老たちが余計なことをしているように思えて、モーセに「やめさせてください」と言っております。新約聖書も「やめさせてください」と言っている部分が今朝の聖書になっています。二つのことが示されているようでありますが、二つの段落で示されていることは「働き人」ということでありましょう。

 人間は複数集まると、常に比較を考えるのです。どちらが上か、重い存在なのかということです。お弟子さん達も12人いましたから、やはり、この中で誰が一番えらいかと言いあっていたのでした。それを知ったイエス様は、改めて、「あなたがたは何を議論していたのか」と聞きました。そして、人が偉いということについて教えられたのであります。一人の人が「偉い人」であると言われるとき、その人はいとも小さい存在を受け入れているからである。一人の、どんな存在をも受け入れて共に歩む姿がある、その人が偉いのであるとイエス様は言われているのです。そのために、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と教えておられるのです。人か複数いたら、どちらが上なのかと詮索するのではなく、この人にどのようにして仕えることが出来るのか、その様な取り組みこそ祝福されるのであり、その祝福は自分だけではなく、人々と共に祝福をいただけると教えておられるのです。

 今朝の聖書の38節以下は、「逆らわない者は味方」との題になっています。弟子のヨハネイエス様に、「イエス様の名前を使って悪霊を追い出している者がいるので、やめさせようとしました」と報告しています。するとイエス様は「やめさせてはならない」と言うのです。イエス様の名を使う以上、イエス様を信じているのであり、反対のことはできないからであります。むしろ、その者は味方であるとも言っているのです。いわゆるイエス様の所作を真似ているのであり、だから反対者ではないのです。イエス様はいろいろとお弟子さんたちを教えておられますが、最終的にはイエス様を真似るということであります。何よりもイエス様のお弟子さんたちの足洗があります。このお話はヨハネによる福音書しか記されていませんが、13章に「弟子の足を洗う」イエス様について記されています。イエス様はお弟子さんたちと夕食をするとき、手拭いを腰に巻き、盥に水を汲んでお弟子さんたちの足を洗ったのです。畏れ多くも先生のイエス様から足を洗われ、ペトロは「洗わないでください」とお願いします。するとイエス様は、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われるのでした。そしたらペトロは、「足だけではなく、手も頭も」と言うのでした。このイエス様の足洗いは人に仕える姿勢を教えておられるのです。人の足を洗うということは、相手の足を自分の目の高さまで持ち上げるとしたら、相手はひっくり返ってしまうのです。だから相手の足を洗うには、相手の足元にうずくまって洗わなければならないのです。それが仕える姿勢なのです。

 新約聖書の今朝の聖書は、一番偉い人は仕える人だと教えられ、さらにイエス様の真似をする、すなわち仕える人になることを示しているのです。まったく異なる教えのようですが、私たちがイエス様を見つめ、その教えをいただき、真似て生きること、それがイエス様に従う道であると教えておられるのです。そうであれば、私たちは人と同じ姿であることを喜ばなければならないのです。ともすれと、他の存在と比較しては排除しようとしています。たまたま同じ店で同じ柄の洋服を求め、お互いにぱったり道であったりすると、なんか相手がにくくなります。自分と同じ姿を排除するのではなく、同じ姿を喜んであげることは、自分を喜ぶことにもなるのです。排除ではなく受け入れることなのです。イエス様は、イエス様の真似をしている人を、むしろ祝福されているのです。

 聖書の中で、賜物をささげて積極的に歩んだ人が紹介されています。使徒言行録6章、7章に記されているステファノの証しです。イエス様がご昇天になった後は使徒たちが中心になってイエス様の十字架の救いを宣べ伝えていました。だんだんと信者が増えてきます。すると信者たちの生活のことでいざこざが起きてきます。使徒たちが生活上のいざこざを裁いていたのですが、これでは伝道ができないと言う訳で、そのような働き人を選ぶことにしました。それで7人が選ばれ、人々の生活上のことはまかせたのです。ところがステファノという人は、使徒たちが伝道しているように、伝道をしたのでした。人々の前でイエス様の十字架の救いを力強く語ったのです。人々はステファノの説教に耳を塞ぎ、ステファノを石で打ち殺してしまうのでした。このステファノの働きを示されるとき、彼の本来の務めは、信者たちの生活の世話です。しかし、彼は力強くイエス様の救いを人々に宣べ伝えたのでした。なんとなくステファノは出過ぎたことをしたと思います。自分の務めを果たしていればよいのにと思うのです。出過ぎたことでしたが、祝福された働きであったのです。

 先ほども召天された角田真澄さんを示されました。主の御用のために、自分に与えられている賜物を生かしたい、そういう思いは、ある場合には敬遠されることもあります。出過ぎたこと、出しゃばり等と批判されることもあります。しかし、今朝の聖書モーセにしてもイエスさまにしても、そのように積極的に主の御用をする人を受け入れているのです。ステファノについては、殉教が記されており、彼が祝福されたということは記されませんが、聖書に彼の働きが記され、祝福されたこととして証されているのです。

 神奈川教区の中で歩んできましたが、以前、私が在任中のことですが、教区総会では議長、副議長の選挙が行われます。また常置委員選挙等も行われます。議長選挙の時には、立候補もできます。しかし、なかなか議長に立候補する人はいないのです。ところが立候補する人がいたのです。自分が議長になったら、いろいろな問題に関わっていくとの所信表明をしています。しかし、折角立候補しているのに、選挙の結果は当選しないのです。教区総会での選挙は2年に一度ですが、2年後の総会でも立候補するのでした。やはり選ばれないのです。こんなにやる気があるのに、みんなで選べばよいのにと思っていたのですが、そのように積極的に意思を示すと、人々は賛成しないようです。

 共に祝福をいただくために、積極的に賜物をささげようとしています。喜んで働いてもらったらよいと思います。角田真澄さんのお働きは人々に喜ばれたと思います。イエス様の祝福をいただいたと思います。どのような信仰の持ち方でありましょうとも、その信仰イエス様を真似ての姿であります。「やめさせてはならない」とイエス様が言われること、私の信仰も祝福してくださっていますから、主に向かって信仰の歩みを導かれたいのです。 

<祈祷>

聖なる神様。イエス様に導かれ、信仰の姿は異なりますが、共に祝福をいただきつつ歩ませてください。イエス・キリストの御名によりおささげいたします。アーメン

2018-07-16

説教「祈りの祝福」

2018年7月15日、六浦谷間の集会 

聖霊降臨節第9主日

説教・「祈りの祝福」、鈴木伸治牧師  

聖書サムエル記上17章41-47節

    コリントの信徒への手紙<二>6章1-10節

     マルコによる福音書9章14-29節

賛美・(説教前)讃美歌54年版・313「この世のつとめ」

    (説教前)讃美歌54年版・524「イエス君、イエス君」

1 

 日々、暑い日が続いています。熱中症に気を付けましょうとの注意をいただいているのですが、西日本では豪雨被害が続いています。豪雨の災害で多くの人が亡くっており、災害の渦中におられます人々を覚えて日々お祈りをささげています。西日本では甚大な災害が発生しているのに、こちらの方面は猛暑続きで、災害がなく、平穏な日々を感謝しますが、災害の皆さんをお祈りしているのです。タイの国で少年たちが洞窟に閉じ込められ、救出活動が何日も続きましたが、ようやく全員無事に救出されました。救出に至るまで、特に家族の皆さんのお祈りを示されています。全世界の人々が注目していたようです。皆さんのお祈りが深められたことでしょう。苦しい時には、やはり神様にお祈りをささげること、人間の自然な姿でもあります。

 6月17日に宿河原教会の礼拝に招かれ、家族と共に礼拝に出席しました。同教会は4月から就任した牧者の先生が、まだ伝道師なので聖餐式執行ができませんので、説教と聖餐式を担当させていただいたのでした。同教会には連れ合いのスミさんの高輪教会時代のお友達がおられ、久しぶりにお交わりができたのです。ところが思わぬ出会いがありました。同教会には矯風会の理事長さんも出席されておられ、礼拝後に声をかけてくださいました。以前、大塚平安教会の佐竹順子さんが矯風会の理事長でしたが、その頃から佐竹さんとお交わりが導かれていたようです。その理事長さんが、佐竹順子さんのお孫さんが交通事故に遭い、意識不明の状態にあったとき、私はお孫さんを覚えてお祈りをブログに公開したのですが、そのブログを理事長さんもお読みになっており、昔のお祈りを読まれたご感想を述べられるのでした。改めてブログで公開したお祈りを読み直したのでした。

「神様、今は意識不明のまま、その体が懸命に生きようとしている少年を助けてください。彼に回復に向かう力を与えてください。お医者さんの回復への術を増し加えてください。両親をはじめ彼を愛する人々に導きを与えてください。

神様、あなたの出番です。私達は日ごろ神様を忘れ、なにもかも自分の力で生きていると思っているのです。うまくできて人から褒められるとき、自分の力はたいしたもんだと自負しています。結構、苦しいことがありましたが、ちゃんと切り抜けています。みんな自分で自分の道を歩いていると思っているのです。しかし、神様、今こそあなたの出番です。あなたのお力が必要なのです。あなたの奇跡をも生み出す力が必要なのです。今になって思います。何もかも自分で切り抜けてきたと思っているこの私に、神様がどんなにか力を下さり、導きを与えてくださっていたのです。それなのに、私は私の功績であるかのように思っていたのです。何もかも私の人生はあなたのお計らいでありました。いつだってあなたの出番であったのに、私の出番としていたのです。出番と思っていただけで、何一つできなかったはずです。あなたが終始出番をされたからこそ、今の私があることを、いまさらながら知ることができます。もう、私の出番なんか考えません。あなたの出番です。あなたの御力を現してください。意識のないままに生きようとしている少年に、どうぞ力を注いでください。癒しの御手、支えの御手を差し伸べてください。

この悲しい、苦しい時にあなたに切なる願いを続けている両親と家族に御心を示してください。そして、現れるべき結果において、勇気を持って受け止めていく力を与えてください。慈しみをもって私達を導く主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン。」

以上のお祈りをささげたのですが、災害が重なる現状において祈りを深めて歩みたいと示されています。

 旧約聖書を開くと戦いが次々に出てきます。最初の人と言われるアブラハムにしても、各地で戦いをしています。イサクヤコブにしても民族が生き伸びるために戦いをしています。そして、エジプトでの奴隷から解放され、神様の約束の土地、乳と蜜の流れる土地に向かうときにも戦いを展開しながら進むのです。しかし、そのような戦いにしても聖書の人々は祈りつつ、戦いに臨んだことが示されるのです。そして、いよいよ約束の地に侵入したとき、神様は聖戦として、土地の人々を皆殺しにすることを命じるのです。それに対してモーセの後継者ヨシュアは、無益な殺生をせず、自分たちに害がなければ相手を滅ぼすことはしませんでした。それは神様の御心に反することでありました。ヨシュア記に続いて士師記が置かれています。その士師記では、ヨシュアによって滅ぼされなかった人々が立ち上がって聖書の人々を悩ますのです。それで、一時的に強者が登場し、現地の人々と戦うのです。聖書にある聖戦の原理です。皆殺しの原理は理解できません。しかし、そうしないと自分たちが危なくなるのです。現地の人々は偶像崇拝の人々です。ヨシュアのように、優しい温情によって、のちの人々が困難な状況になりますし、また人々が偶像崇拝のとりこになっていくのです。聖書は聖戦と言い、皆殺しを教えているのではありません。しかし、基本的にその姿勢で生きないと、自分もまた偶像崇拝者になりかねないし、相手の剣に倒れていくのです。神様に選ばれた民族、存在として、信じて生きる基本的な姿を後世に残していかなければならないのです。従って、聖書の初期の歴史においては聖戦であり、皆殺しでありますが、次第に平和の導きが与えられて行きます。

紀元前8世紀に現れた預言者の中にイザヤという人がいます。この人の預言、神様の御心として示した言葉です。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」と示しています。預言者の時代は、真の預言者たちは平和を叫び、平和を実現するために神様の御心を示したのであります。だから聖書の聖戦とか皆殺しを重く受けとめないで、それは偶像がはびこることを阻止したのであり、人々が真に生きるためであることであると思わなければならないのです。平和の実現のために導く神様として示されなければならないのであります。

今朝の旧約聖書も戦いの部分です。よく知られた少年ダビデ巨人ゴリアテとの戦いであります。紀元前1千年がダビデの時代です。聖書の国・イスラエルはペリシテの国と戦争中でした。双方がにらみ合っているとき、ペリシテは巨人であり強者のゴリアテイスラエルの戦士と一騎打ちすることを呼び掛けてきます。到底勝ち目のない戦いに誰も応える者がいないのです。そのとき、まだ少年でありますが、ダビデが名乗りを上げます。自分が巨人ゴリアテと戦うことを申し出ます。王様はダビデに鎧兜をつけさせるのですが、少年なのでだぶだぶで合わないのです。ダビデはこのような武具で固めるのではなく、自由な自然のままの姿で戦いをすることになりました。槍も剣も持ちません。持っているのは、羊飼いですから悪い獣を追い払う石投げ道具です。いわゆるパチンコというものです。

相手のゴリアテはそのようなダビデを軽く見ました。今にもひねりつぶすかに見えましたが、その前にダビデが放ったパチンコの石が、ゴリアテの眉間に命中していました。ゴリアテは倒れ、それと共にペリシテの軍隊は敗北したのでした。この時、ダビデゴリアテに「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される」と述べています。基本的には平和の実現を示しているのです。もはや剣や槍は必要ないこと、神様が平和を実現することを示しているのです。ここにはダビデが祈りつつゴリアテに立ち向かったことがしめされているのです。ダビデの武器は「祈り」であったのです。

 新約聖書旧約聖書預言者たちの平和の叫びを受け止めて証しているのです。そして、最初にも示されましたように、平和は主イエス・キリストにより実現したことを証しているのです。平和を祈りつつ実現へと導かれて行くのです。イエス様の十字架こそ平和の実現の基であるということです。そのイエス様が平和の実現を導いておられるのが新約聖書の今朝の聖書です。

 今朝の聖書はマルコによる福音書9章14節からですが、19節からにしています。だから19節に至る出来事を説明しておかなければなりません。この段落は「汚れた霊に取りつかれた子をいやす」との題で記されています。この前の段落ではイエス様が山に登り、姿が変わることが記されています。イエス様はペトロ、ヤコブヨハネの三人の弟子を連れて高い山に登りました。そこでイエス様が輝かしい姿に変貌したことが記されています。それについてはいずれ示されるので割愛しますが、その高い山から下りてきますと、他のお弟子さん達が大勢の人に囲まれて議論しているところでした。イエス様がおられないとき、一人の父親が病気の子どもを連れてきて、いやしてもらうためお願いしました。ところがお弟子さんたちはいやすことが出来なかったのです。そこでいろいろな議論が起こり、お弟子さんたちを大勢の人たちが取り囲んでいたのです。山から下りてきたイエス様は、病気の子供の父親から事情を聞くと、「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れてきなさい」と言われたのです。父親が子供を連れてきました。この子は地面に倒れ、転びまわって泡を吹いたと言われます。癲癇の病気なのかもしれません。イエス様はこの子供の汚れた霊に向かって、「この子から出て行け」というと、汚れた霊は大声を上げながら出て行ったと言われます。そして子供はいやされたのでした。

 その後、お弟子さんたちは「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょう」と尋ねています。この質問には、お弟子さん達自身の疑問があるのです。自分たちは治せると思ったのです。だから父親が病気の子供を連れてきたとき、いとも簡単に引き受け、治そうとしたのです。それが、治らなかったということで理解できないでいるのです。お弟子さんたちは、この類の病気を治しています。それはこのマルコによる福音書は6章7節以下で示しています。イエス様がお弟子さんたちを二人ずつ組にして、村や町に遣わされたのです。その際、イエス様はお弟子さん達に、汚れた霊に対する権能を授け、神の国の福音を伝道する力を与えたのです。実際、お弟子さんたちは悪霊を追い出し、人々を悔い改めに導いたのでした。このような経験を持っているので、汚れた霊に取りつかれている子どもに対しても、自分たちは治せるはずなのです。だから経験を思い出しながら試みましたができなかったのです。

 その彼らに、イエス様は嘆いておられます。「なんと信仰のない時代なのか」ということです。「なぜ、治せなかったのですか」とイエス様に尋ねていますが、すでにイエス様はお答えになっています。子どもを治す前に、治せなかった原因をはっきりと示しているのです。それは「信仰のない時代」であるということです。そして、わかりやすく言われたことは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」ということです。お弟子さんたちは信仰がありませんでした。そして、お祈りがありませんでした。自分たちの経験に頼ったのです。自分たちは治したことがあるという経験に基づいたのでした。経験は確かに偉大なことをしたに違いありません。しかし、そのときはイエス様の信仰に導かれていたのです。偉大な技は経験にすぎません。今必要なことは「信仰」なのです。主にある「お祈り」なのです。

 「苦しい時の神頼み」と言われますが、それでよいのです。私たちは現状において、困難の渦中にあり、また困難を示されています。祈らなければならないのです。過去に起きた同じような事例に対する経験ではなく、今こそ、全身を神様に向けてお祈りしなければならないのです。

 先ほどの交通事故に遭われた少年は、その後、意識が快復されました。その後のブログも記しています。

 「神様、そのとおりです。もう、私たちは自分の願いをかなえてもらおうとする祈りではなく、神様の御心を受けとめることができるように祈ります。今痛み、今悩み、今苦しんでいるとしても、それは明日の私への備えのときだと知るでしょう。今喜んでいる、それは私の祈りがかなえられたという喜びではなく、神様の御心の中にいる自分を知った喜びなのです。神様、そのとおりです。でも、私たちは、やはり現実を叫ばざるを得ません。何故、こんなことになったのかと思っています。そのことで人を恨み、私の悲哀を嘆いているのです。どうしても納得できないのです。そこにも神様の御心があるというなら、どうぞ、示してください。私は人から理解されないまま生きることになるでしょう。こういう人生を何度も歩んでまいりました。神様、そのとおりです。私は知っています、神様の御心がいつもあったことを。神様、そのとおりです。」

 祈りを重ねましょう。しかし、それは私達の答えを神様に求めるのではなく、神様の結果を受け止めることです。それがイエス様が示されている信仰なのです。イエス様がいよいよ十字架にお架りになる時、イエス様は神様に心からお祈りをささげています。私たちの祈りを導くお祈りであります。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られています。神様に委ねるお祈りをしなければならないのです。

<祈祷>

聖なる神様。祈ることを導いてくださり感謝致します。祈りつつ、すべてを神様に委ねることができるようにしてください。イエス様の御名によりおささげいたします。アーメン

2018-07-10

説教「はっきりと救いを示され」

2018年7月8日、六浦谷間の集会 

聖霊降臨節第8主日

説教・「はっきりと救いを示され」、鈴木伸治牧師  

聖書・列王記上10章1-9節

    テモテへの手紙<一>3章14-16節

     マルコによる福音書8章22-26節

賛美・(説教前)讃美歌54年版・239「さまよう人々」

    (説教前)讃美歌54年版・514「よわきものよ」

1 

 この4月から伊勢原幼稚園の園長を担うようになり、週三日ですが、伊勢原まで電車を利用して2時間を要しますが通っています。当初は込み合う電車通いは苦痛を感じましたが、最近は結構楽しみつつ通っています。京急線金沢文庫駅の次の駅は能見台駅です。この駅は、昔は谷津坂駅でした。この谷津坂駅には三年間乗り降りしていたのです。中学になって横浜中学に入学しました。その能見台駅を過ぎるとすぐに横浜中学の校舎が現れます。今は昔の建物から立派な校舎になっていますが、電車から佇まいを見ながら、三年間過ごした思い出を喜んでいます。さらに京急線に乗っていると南太田駅を通ります。すると目線の高さに清水ヶ丘教会の佇まいを見ることができます。ここも今は立派な会堂が与えられています。私は中学生になってからこの清水ヶ丘教会に出席するようになりました。その頃の清水ヶ丘教会は、この地に引っ越してきたばかりでした。教会の横は小高い丘で、そこを整地して教育館を建てる計画があり、教会の皆さんが、その丘の整地をしていたのです。中学、高校生の頃、私も汗を流して整地奉仕に参加したものです。青年時代はこの教会で過ごしましたので信仰が養われ、洗礼を受け、伝道者の道を歩む決心を与えられたのでした。いわゆる私の母教会であります。いつも電車の車窓に見える母教会を楽しみつつ眺めているのです。

 こうして伊勢原幼稚園に通っています。先週の水曜日に、幼稚園の先生が、教会に男性が来ていますと連絡されました。伊勢原教会の牧師はいろいろな活動をしていますので、いつも留守が多いのです。それで私が応対することにしました。その男性は、お祈りしてくださいとの要望でした。何をお祈りするかと言えば、持っている水をお祈りしてもらいたいというのです。お祈りした水を持っていると幽霊が出ないと信じているのです。その幽霊はその男性を苦しめているのではないのですが、いつもその幽霊が出ているというのです。お祈りしてもらった水を持っていれば幽霊は出ないということでした。幽霊が出ても、男性を苦しめてはいないので、それでよいではないかと言いました。そしたら、自分が好きになった女性と交際するようになったら、その女性に被害を与えるのではないかと心配しているのです。私たちはそのようなことは信じないし、幽霊のこともあなたの気持ち次第なので、忘れるようにしなさいと言いました。それでも持っている水をお祈りしてもらいたいということでした。おそらく、教会で厳粛に、お払いでもするかのように、儀式として祈ってもらいたいようです。むしろカトリックの教会に行かれたらと勧めました。その男性は南米パラグアイから来たと言っています。来てから六ヶ月と言いますが、流暢な日本語で話していますし、日本人の顔をしています。家族が日本人なのかもしれません。こちらの教会ではそのようなお祈りをしないことを知り、他の教会に行ってみると言いつつ去って行きました。

 水をお祈りすれば幽霊が出なくなるという、素朴な信仰ですが、キリスト教の救いは主イエス・キリストの十字架の救いです。ただ十字架を仰ぎ見つつ、救いを信じつつ歩むことなのです。どのような状況であろうとも、十字架の救いを信じて歩むことなのです。明るいニュースと言いましょうか、九州の天草方面の「隠れキリシタン」の人々の遺産が世界遺産に指定されました。今は「潜伏キリシタン」と称していますが、日本の戦国時代から江戸時代にかけて、キリスト教の人々は迫害されました。迫害を逃れ、表面的には仏教信者を装いながら、イエス様の十字架の救いを隠れつつ信じたのです。その遺跡が諸所に残されており、世界遺産に指定されたこと、大きな証であります。隠れながらも十字架の救いを信じて歩んできたのです。今の時代はキリスト教であっても迫害されることはありません。イエス様が私たちの救い主であること、「はっきりと救いを示され」ているのですから、信仰を持ちつつ歩みたいのであります。

 主イエス・キリストの教えをいただき、相互の交わり、喜びと真心を持って一緒に食事をすること、神様を讃美すること、ここに幸せの原点があります。

 旧約聖書における幸せの原点を示されます。旧約聖書は列王記上10章であります。外国のシェバの女王がソロモン王の知恵を求めてやってくることが記されています。ソロモン王はダビデ王の後継者として王様になりました。ダビデ王は神様の御心に従い、名君と言われて人々に喜ばれた王様です。ソロモンが王様になったとき、神様は「何事でも願うが良い。あなたに与えよう」と言われました。その時、ソロモンは「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」とお願い致しました。すると神様は「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命を求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える」と言われたのであります。以後、ソロモンは神様の知恵をいただき、人々の王として支配したのであります(列王記上3章)。一つのエピソードが記されています。ある時、二人の女性がソロモン王にお裁きを求めてやってまいります。一人の赤ちゃんを、互いに自分の子供だと主張しています。二人の言い分を聞いていたソロモン王は、家来に命じて、赤ちゃんを二つに切り、それぞれの母親に渡すように命じます。一人の母親は、どうぞそのようにしてくださいと言いました。しかし、一人の母親は、どうぞそんなことはしないでください。もう、自分の子供と言いませんから、この女にわたしてくださいと懇願するのでした。二人の言い分を聞いたソロモン王は、二つに切らないでくださいと願ったこの母親こそ真の母親であるとのお裁きを下すのであります。日本の大岡越前の守様のお裁きのようであります。人情を超えた普遍的な神様の愛を実践するということです。

こうしてソロモンの神様からいただく知恵は国の内外に知られ、シェバの女王の来訪になりました。女王は難問をもってソロモンを試そうとやってきました。しかし、ソロモン王はすべてに解答を与えました。王には分からないこと、答えられないことは何一つなかったのであります。女王はソロモン王の支配、事績のすべてに驚嘆し、心から賛辞を送っています。「いつもあなたの前に立ってあなたの知恵に接している家臣たちはなんと幸せなことでしょう。主はとこしえにイスラエルを愛し、あなたを王とし、公正と正義を行わせられるからです」と言いつつ自分の国に帰って行ったのであります。ソロモン王の裁きは神殿において行われました。その神殿で公正と正義が示され、人々は神殿を人生の土台としたのであります。教会において正しい神様のお心をいただくことを示しているのです。

旧約聖書は神様の知恵こそ、人々を真に生きさせ、幸せにする基であることを示しています。神様の知恵、すなわち神様の御心であります。その神様の御心が神殿において示されたのであります。人々は常に神殿に詣でては御心をいただいたのであります。

 今朝の新約聖書は主イエス・キリストが一人の盲人を癒されたことが記されています。「一行はベトサイダに着いた」と冒頭に記されます。これは前の部分で示されましたように、4千人に食べ物を与えた後、イエス様はお弟子さん達と共に向こう岸に船で渡られました。向こう岸であるベトサイダにつきました。するとすぐに人々が一人の盲人をイエス様のところに連れてきました。マルコによる福音書8章22節から26節までが今朝の聖書であり、ここではイエス様の盲人の癒しが示されているのであります。主イエス・キリストは神様の知恵、神様の御心を人々に示しました。前の部分で、4千人の人々は三日もイエス様のお話を聞き続けたのであります。イエス様ご自身がそれらの群衆を労り、食べ物を与えることをお弟子さん達に提案されました。御心を与える、生活の糧を与える、そのイエス様の呼びかけに多くの人々がイエス様に招かれたのであります。その後、一人の盲人の癒しが求められました。その時、イエス様はどのように癒したのか。他の聖書の場所では、すぐに癒したことがいくつか示されていますが、ここではすぐにではなく、段階的な癒しがありました。イエス様は盲人の手を取って、村の外へ連れ出しました。そして、その目に唾をつけ、両手をその人の上において、「何か見えるか」と尋ねました。「人が見えます。木のようです。歩いているのが分かります」と答えました。おぼろげながら見えるようになったのです。すると、イエス様は、もう一度両手をその人の目に当てられました。はっきりと見えるようになったのであります。イエス様は、「この村に入ってはいけない」と言われ、自分の家に帰されたと記しています。村に入ることにより、村の人が大騒ぎするからです。イエス様は、この人が癒しの喜びを静かに受けとめるようにされたのであります。

 もう一度、癒しの奇跡の順序を示されます。何よりもイエス様により知恵、神様の御心が人々に与えられたということです。人々はイエス様に希望を持つようになりました。そして、具体的に自分が変えられるためにイエス様のもとに来たのであります。イエス様はその人の信仰を励ましながら、次第に真実が見えるように導かれたのであります。しかし、初めのイエス様との出会いは、おぼろげながら見えるようになったということでした。なんだか良く分からないけれども、おぼろげながら、かすかに見えるようになったのです。なんだか良く分からないのですが、天国がおぼろげながら示されているのです。そして、さらにイエス様の導きがあり、はっきりと見えるようになるのであります。天国、神の国がはっきり見えるようになる。現実の中に神の国の平和があることを、はっきりと見えるようになるのです。今朝の聖書はそのように示しております。ここに幸せの原点があります。一人の盲人がイエス様に希望を持ったように、世の人々がイエス様に希望を持つようになります。実際に御心により生きるためにイエス様のもとに参りました。最初はおぼろげながら御心を示されていたのでありますが、はっきりと神の国の現実を見ることができるようになったのであります。新しい歩みが導かれているのであります。新しい歩みとは、現実の生活を歩みながらも、現実の歩みは神の国を生きているのであり、その神の国は永遠の命に至る神の国であることを信じて歩むことなのであります。そういう人生が幸せなのです。確信をもって人生を歩む、イエス様と共に生きること、幸せな人生なのです。

 イエス様は私たちを段階的に導いてくださるのです。私は小学生の頃は関東学院日曜学校に通っていました。中学に進むにあたり関東学院中学を受験したのですが、不合格でした。それで小学校の先生が横浜中学を勧めてくれたのです。そして教会は姉たちが出席していた清水ヶ丘教会に出席するようになりました。そして信仰が導かれ、伝道者への道へも導かれたのです。まさに段階的にイエス様のお導きを示されています。

 一人の方のお証が心に示されています。2013年にマレーシアクアラルンプール日本語キリスト者集会がありまして、そこの牧師としてお手伝いをしました。このクアラルンプール日本語キリスト者集会のボランティア牧師として三ヶ月間でありましたが赴きました。その集会は、滞在した2013年で創立30周年を迎えていました。そのため記念誌を発行しました。この集会に関わった皆さんがそれぞれ証しを記されています。その中で感銘深く記されている方のお証しがいつも心に示されています。紹介させていただきます。クリスチャンになって、幸せな人生を歩むようになったという内容です。その方は、私達が2013年3月に赴任したときは、まだ集会には出席されていませんでした。一ヶ月くらいしてから出席されるようになったのです。会社からマレーシア派遣されて、集会を探し当て、ご夫妻で出席されるようになったのです。

 ご夫妻の彼の証しです。1996年の頃はアメリカヒューストンにおられました。会社の友達が家庭のトラブルがあり、彼も何とかしたいと働きかけていたのですが、良い方向にはならなかったと言われます。そんな時、ある家族が日本に帰国することになり、送別会を開きましたが、帰国される方の夫人が、トラブルの中にある友人のためにお祈りをささげられたのでした。このお祈りを聞いたとき、深い感動に包まれたと言われます。人間的な解決は必要でありますが、まず神様に委ねるということを深く教えられたと言われるのです。それから、この方の心をとらえたことがありました。それは2000年11月頃ですが、そのときは日本に帰国していました。会社の友人のお父さんが亡くなり、その前夜式が阿佐ヶ谷教会で行われたので列席されます。友人の母親が最後の挨拶をされました。結局、父親は教会には出席しなかったのですが、亡くなる前に、自分の葬儀は教会でしてもらいたいと言われたということでした。その友人のお母さんのご挨拶を感銘深く伺ったのですが、そのお母さんのご挨拶は、「あなたはここで何をしているのか。まだわからないのですか」との言葉として、神様の言葉として聞こえてきたと言われるのです。そうだ、今こそ神様の御心に従って生きよう、そういう決心が与えられたのでした。神様が段階的にお導きくださっていたのです。ヒューストンでのお祈りのこと、友人のお父さんの葬儀、これらのことを通して神様は段階的にお導きくださっていたことを知るようになりました。そして「あなたはここで何をしているのか。まだわからないのか」との声が聞こえてきたというのです。すべての導きを信じて洗礼を受けました。洗礼を受けての人生は、本当に今は幸せであります、と記されていました。

私たちはイエス様の十字架を与えられ、「はっきりと救いを示され」ています。そのイエス様の十字架に導かれて歩みたいのであります。

<祈祷>

聖なる神様。はっきりと救いを示されていますこと感謝致します。この救いを知らない人々に、はっきりと示すことができますよう。主イエス様のみ名により、アーメン