説教「天国に市民権をもつ者」

2010年10月17日 
聖霊降臨節第22主日

説教・「天国に市民権をもつ者」、鈴木伸治
聖書・イザヤ書25章1-9節、ヨハネの黙示録7章2-4、9-12節
マタイによる福音書5章1-12節


 前週13日は、世界中の人々がチリの国、サンホセ鉱山の落盤事故で、深さ600メートル以上の地下坑道から作業員を救出するテレビの映像に釘づけになったと思います。12時10分に最初の作業員が救出された時、連れ合いのスミさんが歓声を上げ拍手を続けていました。私は二階の書斎にいたのですが、呼ばれてテレビを見たのです。スミさんは涙を流しながら拍手していましたが、世界中の皆さんも同じように感激の涙を流したでありましょう。14日の午前中に33人全員が救出され、この救出劇に世界の皆さんが拍手を送ったのであります。8月5日にサンホセ鉱山で落盤事故が起き、33人が地下に取り残されたのであります。一時は全員駄目かと思われました。しかし、救出作業が急ピッチで進められ、全員の救出となりました。二番目に引き上げられたマリオ・セペルベダさんの言葉は、「運が良かった。私のそばには神と悪魔がいたが、私を引っ張ってくれたのは神だった」と言われたということです。読売新聞は「神が引っ張ってくれた」との見出しで、救出劇を報じていました。
 69日間、地下の坑道の中で過ごしていた皆さんは、当初は絶望の思いもあったでしょう。しかし、次第に冷静になり、地上とも連絡することができるようになり、希望に変わって行ったと思います。そして、最後に引き上げられたリーダーのルイス・ウルスワさんのカプセルが開かれた時、遠くで祈りつつ見ていた人々が大歓声で迎えたのでした。ピニェラ大統領は最後の生還者と抱き合い、ねぎらいの言葉を長くかけていました。そして、一同ヘルメットを脱ぎ、チリ国家を歌ったのでした。私には神様への感謝の讃美歌に聞こえました。神様に感謝の祈りをささげずにはいられないのです。まさに「神さまが引っ張ってくれた」のです。
 あの暗い坑道で過ごすとき、いつも地上における生活を心に示されていたと思います。そこは自分が生きる場であり、そこには家族、親しき者、喜びがある、その希望を持ちつつ生きること、私達はこの地上に生きるものですが、やがては神の国に引き上げられるのです。「私のそばには神と悪魔がいる」と述べた作業員の言葉は意味深く私たちに示されて来るのです。悪魔がいるのは私たちの生きざまにおいてであります。神様と悪魔が私たちの周りを徘徊しているのではありません。神様は大きな存在であり、私たちを御もとに引き上げてくださるのです。しかし、私たちの生きる姿において悪魔の存在を赦しているのです。悪魔の存在は私自身であるということであります。私たちは日々の歩みにおいて、主イエス・キリストの十字架の救いを基にして、ただ神様のお心をいただきつつ歩むのであります。日々の歩みは神様が永遠の生命へと引き上げてくださる備えの時であります。天国に市民権をもつ私達であります。市民権を持っているのですから、いつも天国の市民として、喜びと希望をもって歩みたいのであります。今朝の示しであります。

 「神さまの驚くべき御業」を示しているのはイザヤであります。今朝は旧約聖書イザヤ書25章1節から9節であります。イザヤ書は66章までありますが、背景としては大国バビロンに滅ぼされる前の時代、滅ぼされて捕囚の時代、捕囚から解放された後の時代であります。今朝のイザヤ書はバビロンに滅ぼされた後の時代になりますが、特に捕囚に生きる人々に対する御言葉というより、滅ぼされて苦しみつつ生きる人々への、神様の御心を示しているのであります。そのことのために、イザヤは「神さまの驚くべき御業」を示すのであります。「主よ、あなたはわたしの神、わたしはあなたをあがめ、御名に感謝をささげます。あなたは驚くべき計画を成就された。遠い昔からの揺るぎない真実をもって」と示しています。そしてその後に、「あなたは都を石塚とし」と述べていますが、おそらくこの「都」とはバビロンを示しているのです。バビロンはのちにペルシャの国に滅ぼされますが、大きな戦いが展開されたのではなく、無血でバビロンの門がペルシャに明け渡されたと言われます。従って、この預言の通りではありませんが、苦しい今、神様が苦しみの根源を断ちきってくださることを示しているのであります。「まことに、あなたは弱い者の砦、苦難に遭う貧しい者の砦、豪雨を逃れる避け所、暑さを避ける影となられた」と示しています。
 イザヤは20歳の時に神様からの召しをいただいています。イザヤの召命はイザヤ書6章に記されています。イザヤは神殿で神様の顕現を示されます。天使たちが「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と歌っています。その時、イザヤは恐怖に襲われるのです。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た」と述べます。すると、天使が火鋏で炭火を取り、イザヤの唇に触れるのです。「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」と天使が示すのであります。すると神様の御声が聞こえました。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代って行くだろうか」と言われるのであります。すると、イザヤはすぐさま「わたしがここにおります。わたしをお遣わしください」と応えるのでありました。神様の召しに応えたイザヤに、「行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と」と言われています。変な言い方です。聞くけれども理解するな、見るけれども悟るなと言っているのです。神様の御心を示すために遣わされるのですが、たやすく理解したり、悟ってはならないと言っているのです。
 人間はいつも表面的にしか受けとめないのです。本当にそこで示されている御心を、心の底から受けとめてないのです。繰り返し、繰り返し神様の御心を示されなければならないのです。聖書の人々がエジプトで奴隷であり、モーセが王様に解放を求めます。許可しないので審判を与えます。すると、その苦しさのゆえに解放を赦しますが、災害がおさまると心を翻して、過酷な労働を課すのです。このことが繰り返し行われます。その時、聖書は、王様の心を頑なにしているのは神様であると示しているのです。表面的な受けとめ方ではなく、本当に、心から神様の御心として行うことへと導かれているということであります。
 イザヤは40年間、預言者としての働きを致しました。繰り返し、繰り返し神様の御心を示しているのです。今朝の「神さまの驚くべき御業」を示すことも、神様の救い、導きを示すことも、今までも繰り返し示しているのです。人々は一時的には喜びますが、また御心から離れていくのです。それでもイザヤは神様の御言葉を語り続けるのであります。神様があなたを導き、あなたに祝福を与えると示し続けているのです。「その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び踊ろう。主の御手はこの山にとどまる」と人々が告白する日が来ることを示しています。神様が必ず導き、祝福の国に導く、このイザヤの預言に人々は希望をもちました。

 祝福の国、天の国に導いてくださるのは主イエス・キリストであります。イエス様の到来はわたしたちが天の国、神の国に生きるためでした。「悔い改めよ。天国は近づいた」(マタイによる福音書4章17節)と言われて、福音を宣べ伝え始められたのです。今朝は、その天の国に生きるために「幸い」を教えてくださっています。マタイによる福音書5章1節から12節が今朝の示しであります。イエス様による「幸い」の教えは、私たちが心に示されている幸福、幸せとはおよそ異なるものであります。私たちの幸せ観は、うれしいことであり、苦労や心配がないことであり、いつも楽しく過ごすことではないでしょうか。もちろんイエス様は私たちの幸せ観を否定してはいません。しかし、こと「天の国」に生きるには、イエス様の「幸い」を受けとめて生きなければならないのであります。
 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」と教えておられます。「心の貧しい」とは、貪欲とか欲張りではありません。心の中に何もないことを示しているのです。私たちの心の中には、いろいろな思いが詰め込まれています。自分がおかれている状況において、常に良い状況へと進められることであります。すると、神様の御心が入り込めなくなるのです。押し込んでも、押し込んでも、先に入っているさまざまな思いにより、御心が浸透していかないのです。いちど、心の中を空っぽにしなければならないのです。その時、初めて御心が私の肉となり、支えとなるのです。自分をむなしくして御言葉の前に頭を垂れることなのです。「天の国はその人たちのものである」とイエス様が祝福してくださいます。
 イエス様が「天の国が近づいた」と言われる時、一つには終末を意味しているでありましょう。人間の始まりがあれば終わりがあるということです。そのような自然的なことと共に神様が終末を来らせられるということです。そして、「天の国は近づいた」ということは、生きているこの状況の中に「天の国」が実現するということであります。死んで彼方の国ではなく、生きている現実が「天の国」なのです。イエス様による神様の御心に生きるとき、天の国に生きているかのように喜びと祝福をいただきながら生きると言うことなのです。イエス様は永遠の生命について繰り返し教えておられますが、永遠の生命は生きている今、この状況において与えられるということなのです。イエス様の「幸い」を受けとめて生きることなのです。
 「悲しむ人々」、「柔和な人々」、「義に飢え渇く人々」、「憐れみ深い人々」、「心の清い人々」、「平和を実現する人々」、「義のために迫害される人々」、「身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき」と九つの「幸い」を示しておられます。いずれも神様の御心に満たされているとき、たとえ「悲しみ」、「迫害されても」、「幸い」に包まれているということです。天の国に生きているからです。このように示されているのでありますが、私たちは好んで迫害のさなかに身を置きたくありません。「身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき」、やはり辛いです。悲しいです。孤独をしみじみ味わわなければなりません。しかし、その時こそ、今の私は「幸い」に包まれていることを実感しなければならないのであります。主イエス・キリストは私たちが福音を喜びつつも、「幸い」に生きることができないので、神様の御心において十字架にお架りになりました。十字架は私の「幸い」への道なのです。天国に市民権をもっていることを、次第にはっきりさせてくださるのが「幸い」の道なのです。天国に市民権をもつ者へと導いてくださる主イエス・キリストなのであります。この世に生きていながら、天国の市民権をもっている、誇らしい生き方であります。
 イエス様が「幸い」を示されたとき、聖書の人々の歴史の歩みも合わせて示されているのです。奴隷であり、捕囚であり、侵略と過酷な境遇、それらをすべて含みながら現実に生きる人々への示しとしているのです。イザヤ書61章は「貧しい者への福音」として示されています。「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊が私をとらえた。わたしを遣わして、貧しい人によい知らせを伝えさせるために」と示されています。従って、イエス様はこれらの言葉を受け止めながら、イエス様ご自身が「貧しい人々に良い知らせ」を示していることであります。「嘆きに変えて喜びの香油を、暗い心に変えて賛美の衣をまとわせるために」と示されています。イエス様は、貧しく、苦しめられている現実の人々に天国の市民権を持たせ、現実を天の国として喜びつつ生きることを導いておられるのです。

 また、チリの鉱山落盤事故救出劇を示されます。読売新聞の15日付朝刊はチリの国、サンホセ鉱山落盤事故救出劇につき、次のような報道をしていました。感銘深く受けとめました。「33人はほとんどが敬虔なクリスチャンで、その信仰心も大きな支えになった。『祈り』を担当したのは、福音派の牧師であるホセ・エンリケスさん(55)だ。立て抗を通じて33人分の聖書を取り寄せ、定期的に礼拝を開いて、神の救いを説き続けた。2番目に救出されたセプルベダさんが『神が私を引っ張ってくれた』と語ったのは、深い信仰心を物語った。」と報じていました。深い鉱山の中で、救いを信じて、上に引き上げられる時を、希望をもって待つことができたのは、信仰の導きであり、力でありました。「神さまが引っ張ってくれた」と言われる時、私たちもまた、天の国に引っ張ってくださっているイエス様のお導きを深く受けとめねばならないのであります。
 イエス様が患いのある人を癒されました。それを見た律法の専門家やファリサイ派の人々は心の中で批判するのであります。癒しを与えたのは安息日でありました。安息日は働くこと、業をなすことが禁じられているからです。その時、イエス様は「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」(ルカによる福音書14章1節以下)と言われています。苦しむ者、悲しむ者は引き上げられるのです。そして、天国の市民権を与えられるのです。そして、やがて天の国に引き上げてくださるのです。私の存在をいつも包んで引き上げてくださる主イエス・キリストの救いをいただいています。
<祈祷>
聖なる御神様。天国の市民権を与えてくださり感謝いたします。この市民権を多くの人々が持てるように、私を用いてください。イエス様の御名によりささげます。アーメン。