説教「神様を示される」

2015年5月31日 六浦谷間の集会
聖霊降臨節第2主日」、三位一体主日

説教・「神様を示される」、鈴木伸治牧師
聖書・出エジプト記19章3-9節、
    ルカによる福音書10章21-24節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・66「聖なる、聖なる」
    (説教後)讃美歌54年版・312「いつくしみ深き」


 前週は聖霊降臨祭、ペンテコステ礼拝でした。聖霊がお弟子さんたちに与えられ、それからのお弟子さんたちは聖霊の導きにより、力強く神様を人々に示しながら歩むようになるのです。聖霊が与えられることにより、お弟子さんたちは神様という存在をはっきりと示され、その示された神様を信じるようになるのです。すなわち「父なる神様」、「子なるキリスト」、「導きの聖霊」です。これが神様なんだと信じるようになるのです。しかし、神様が三人いるみたいで、かえって信仰の中心が見えなくなるのではないかと思います。しかし、私達はこの「父なる神様」、「子なるキリスト」、「導きの聖霊」を三位一体の神様として信じています。神様が三人いるというのではなく、三様の姿があるということです。今朝は前週に聖霊の神様を示されましたので、「三位一体主日」として、私達の信じている神様を示されるのであります。
 時々、私の父の信仰を思い浮かべています。父は信仰深い人でした。朝起きると、東の空に向かって手を合わせお祈りしています。それが終わると神棚の前でお祈りしています。神棚には幾つかの神社のお札が飾られています。それらに向かってお祈りをささげているのです。そして、今度は仏壇に行き、線香をあげ、チンと叩いて何やら唱えています。これが父の毎日のお勤めでした。とにかく偉大な存在と思える対象を拝んでいたのです。こういう父の信仰が影響しているのかもしれません。私の信仰の原点は、母が近くの教会の日曜学校に連れて行ったことが始まりです。それについては時々お話しをしていますので省略しますが、幼少より父の信仰の姿勢を示されてきたことが、私の信仰を導くことになったことにもなっていると思っています。
 毎日の散歩コースにはいくつかの神社、お寺、お地蔵さん等があります。時々、それらの神社仏閣の前でお祈りしている人を見かけますが、そういう人を尊敬しています。あるいはお地蔵さんのたくさん置かれている館みたいなものがあります。そこでもお祈りしている人を見かけます。やはり偉大な存在に心をむけること。また願いをかけること、大切なことであると思います。以前、瀬戸神社で二人の女の子がお参りしていました。学生でした。若いのに感心していました。だんだんと近づくと、その子たちはキリスト教主義の生徒でした。制服を着ているので、大学生ではなく高校生であるようです。学校ではキリスト教を示され、礼拝をささげていると思いますが、あまり深く考えることもなく、こちらの神様にお願いしていたのでしょう。思わず苦笑してしまいましたが、信仰心はほめてあげることにしました。
 聖書の使徒言行録の中で、パウロさんがギリシャアテネの街を訪れました。そのアテネの街を歩いていると、あちらこちらに神様が祀られているのを知り、次のように述べています。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です」とパウロは示しています。何だか分らない神様ではなく、私達の神様はこの様な存在ですと示しているのです。今朝は三位一体主日です。私達が信じているまことの神様を示されているのです。

 旧約聖書は神様を信じるということは、神様がお語りになる言葉を信じ実践することであると示しています。信仰は神様のお言葉を信じるということです。出エジプト記19章が今朝の聖書であります。19章は「シナイ山に着く」との表題になっています。エジプトで奴隷の苦しみのうちに400年を過ごした聖書の人々は、神様に選ばれたモーセの導きのもとにシナイ山に到着しました。エジプトを出て三ヶ月を経ていました。このシナイ山で、モーセは奴隷として苦しむイスラエルの人々を救済する使命をいただいたのです。モーセは不思議な成長が導かれました。聖書の人々はもともとパレスチナに住んでいましたが、冷害、飢饉によりエジプトに寄留することになります。そこにはヨセフ物語がありますが、それらは割愛します。エジプトに住むようになり、イスラエル民族が増えていくのです。エジプトに外国人であるイスラエル民族が住んでいる理由を知らない王様の代になり、増大する外国人に恐れを抱くようになるのです。それでこの民族を奴隷にしてしまうのです。そして、生まれる男の子は殺したと言われます。モーセの両親は、その様なことに対して断腸の思いで、モーセを籠の中に入れてナイル川に流すのでした。ところがそのモーセを拾い上げたのが、エジプトの王様の娘、王女でありました。奴隷の子供であるはずのモーセは王女の子供として成長するのです。しかし、成長したとき自分の出生を知り、同朋のイスラエル人がエジプト人に苦しめられているのを見て、思わずそのエジプト人を殺してしまうのでした。結局、モーセはエジプトから追放されてミディアンの土地に逃れ、そこで住むようになっていたのです。毎日、家族と共に平和な生活をしていたモーセを神様は呼び寄せました。それがシナイ山における、奴隷とされているイスラエル人の救済という使命でありました。奴隷にされているエジプトのイスラエル人々は苦しみつつ生きております。その苦しみの声を受け止めた神様は、モーセを立てて苦しみの人々を救い出させるのです。その使命を申しわたしたのが、今朝の聖書のシナイ山でした。神様はモーセシナイ山に登らせ、そこで奴隷の人々の救済を言い渡すのでした。当初は躊躇するモーセでしたが、神様に励まされ、この使命に立つのでした。
 奴隷の人々を救済することについては、この出エジプト記の始めに記されています。それらは割愛しますが、奴隷の人々を救済し、今、このシナイ山の麓で宿営しているのです。人々はシナイ山の麓で宿営していますが、モーセはこのシナイ山に登ります。神様の使命を行ってきた報告でありますが、今ここで、改めて神様のご使命をいただくことになるのです。シナイ山に登ると神様の御声を聞きます。「あなたたちは見た。わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れてきたことを。今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる」と言われたのであります。さらに、「これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である」と言われました。神様がお語りになる言葉、それは苦しみからの救済であり、与える戒めを守ることであります。救済を喜び、感謝しつつ戒めにより生きるならば、神様の宝となるといことなのです。この後に十戒が与えられますので、まだこの時点では戒めはありませんが、あらかじめ神様のお語りになることに従って生きるよう導いておられるのです。これを聞いたイスラエルの人々は、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と告白しています。神様がお語りになったことを実践するならば、神様の宝となると示しています。ですから旧約聖書の人々は、神様のお言葉をいただくこと、それを実践することが信仰であると示されたのでした。神様を示されることであると信じたのであります。

 神様がお語りになられたことを受け止め、実践して守るということ、これが信仰であり、私達の生き方なのです。それにより神様が示されるということです。新約聖書ルカによる福音書10章17節以下ですが、お弟子さんたちの働きが記されています。主イエス・キリストは10章のはじめに72人のお弟子さん達を町や村に派遣したことが記されています。派遣の内容は、「神の国はあなたがたに近づいた」ということであります。信仰に生きるには神様がお語りになられたことを守ることであるのです。基本的には十戒ですが、改めて神様は主イエス・キリストをとおして、「自分を愛するように、隣人を愛する」と示しているのです。イエス様は「愛する」ことを掟、戒めとして教えておられるのです。派遣されたお弟子さん達は、イエス様のお語りになられたことを人々に教えたのであります。そのお弟子さん達は、「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と報告しています。その時、イエス様は「悪霊があなたがたに屈服するからと言って、よろこんではならない。むしろ、あなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい」と示しています。神様のお語りになったことを実践することにより天に名が記される、すなわち神様の宝となるということをイエス様は示しています。
 神様の宝となるためには主イエス・キリストを見つめ、お語りなられた神様の御言葉をいただき守ることです。神様の御言葉はイエス様の十字架による救いです。お弟子さん達の報告を受けたイエス様は神様にお祈りをささげています。「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるか知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、誰もいません」と言われています。つまり、お弟子さん達がイエス様のお語りになったことを真に受け止め、それを人々に語ったことが祝福されているのです。私達の信仰は、イエス様のお語りになられたことを私達が受け止め、それを人々に宣べ伝えることなのです。イエス様のお語りになられたことは神様がお語りになられたことです。十戒をもって、人間が平等に生きること、基本的に愛し合って生きることでありました。だから、イエス様も「互いに愛し合いなさい」と教え、「これはわたしが与える掟である」と教えられたのです。しかし、人間は基本的な生き方ができないのです。そこで神様は十字架の救いを人間にお与えになられたのです。主イエス・キリストは神様として、十字架による救いを与えられたのです。従って、私達は十字架のイエス様を仰ぎ見ること、イエス様が神様として示されるのです。
 使徒言行録は聖霊をいただいたお弟子さん達が、神様がお語りになられたことを受け止めています。それが信仰なのです。「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」と人々に信仰の中心を宣べ伝えています。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と大胆に神様の御言葉を語りました。神様がお語りになられたことは「人間の救い」です。そして、イエス様は救いを実現されました。今やイエス様は天に昇られており、しかし、聖霊の導きが与えられています。今は聖霊の時代なのです。あの弱きを覚えていたお弟子さん達に聖霊が降り、彼らは立ちあがったのです。聖霊の導きのままに神様の救いの御言葉を語る者へと導かれているのです。「父なる神、子なるキリスト、聖霊の導き」をお弟子さんたちは信仰の原点としました。その信仰を人々に示していったのです。私達も「父なる神、子なるキリスト、聖霊の導き」を信仰の中心としているのです。三位一体の神様がお語りになられたことを人々に宣べ伝えて行くのが私達なのです。

 プロテスタント教会の礼拝堂はほとんど飾りがありません。聖壇の中央に十字架が掲げられており、その他の物は飾られていません。中にはパイプオルガンを設置している教会があり、そういう教会に行くと、すごいなあとの感想を持ちます。教会なりにデザインを考えていますが、基本的には十字架であり、説教を取り次ぐ講壇、そして聖餐式のための聖餐台が前に置かれているということです。それらの奇抜なデザインがありますが、それ以外は何もおかれてはいないのです。ところがカトリック教会は、美術館の中にいるような思いになります。スペイン・バルセロナに娘の羊子がいますので、何回か滞在しています。バルセロナにはサグラダ・ファミリアの教会があります。教会でありますが、観光の対象になっています。大聖堂は中央に十字架ばかりではなく、十字架に架けられているイエス様が天上から吊るされています。天上、窓は美しいステンドグラスが輝いています。ところどころに聖人と言われる人々の像が置かれています。
羊子はこのサグラダ・ファミリアのミサの奏楽をしていますが、もう一つのカトリック教会のミサの奏楽をしています。こちらは小規模な教会ですが、それでも教会の中にはいろいろなものが置かれています。これらは信仰を励ますものなのです。ローマを訪れ、ヴァチカンの大聖堂を見学しました。カトリック教会の本山ですから、それはそれは豪華な造りになっています。カトリック教会はお弟子さんのペトロが中心であり、中央にはペトロの椅子が置かれていました。ペトロが神様を私達に示してくださるという信仰です。その他のいろいろなカトリック教会に行きました。フィレンツェの教会も豪華な教会です。スペインのサラゴサにあるピラール教会の大きさにも驚いています。カトリック教会はいろいろな形で神様を示しているのです。これでもか、これでもかと言われながら聖人の像や絵画を見せられるのです。
この様なカトリック教会に対して、プロテスタント教会は十字架を見つめる以外には何もありません。しかし、何も見えませんが、「父なる神様」、「子なるイエス様」、「聖霊のお導き」を三位一体の神様として信じているのです。その神様が私達と共におられて、現実を力強く導いてくださっているのです。
<祈祷>
聖なる神様。三位一体の神様を示してくださり感謝致します。神様を示されていますから、この人生を力強く歩ませてください。キリストの御名によりおささげします。アーメン。