説教「命の息をいただきながら」

2017年10月29日、三崎教会
「降誕前第9主日」 

説教・「命の息をいただきながら」、鈴木伸治牧師
聖書・創世記2章4-9節
    マルコによる福音書10章1-12節
賛美・(説教前) 讃美歌21・377「神はわが砦」
    (説教後)347「たたえよ、聖霊を」


 今朝は10月の最後の日曜日になりますが、だいたいはこの最後の日曜日は10月31日に近い日になります。今年は明後日が10月31日になります。この10月31日は宗教改革記念日になります。西洋の中世の時代、16世紀でありますが、マルチン・ルターという人が、今までのカトリック教会の信仰のもち方に疑問を持ち、問題提起をしたことが始まりです。それは1617年10月31日の日で、今年で500年になるのです。それでキリスト教プロテスタントの教会は「宗教改革500年」ということで、その意義を示されているのです。カトリック教会というのは「公同教会」「普遍性」と言う意味ですが、そのカトリック教会にマルチン・ルターが抗議したのであります。そこで新しいプロテスタント教会が発展していくのですが、抗議する、プロテストすることから始まったわけです。「プロテスト」という言葉は、「抗議する」とか「主張する」、「異議申し立てをする」と言う意味ですが、普遍的なカトリック教会でも、長い歴史の上で、人々の疑問点が出てくるのです。
 マルチン・ルターによって新しい信仰のもち方が提唱され、人々は聖書に向かいながらも、信じる姿が異なりながらのキリスト教になって今日に至ったのであります。2009年は日本におけるプロテスタント教会150年でありました。それで日本のプロテスタント教会は、合同で記念礼拝を持ったのであります。横浜のパシフィコ横浜国立大ホールで開かれました。日本にあるいろいろなプロテスタント教会の皆さんが一緒に礼拝をささげたのであります。私たちの日本基督教団の教会は同じように姿勢ですが、他の教派の皆さんは信仰のもち方が異なります。礼拝において、司会者がお祈り致しますと、あちらこちらで「アーメン」とか「ハレルヤ」という声が聞こえてきます。お祈りに同調しているというか、同じ思いになって「アーメン」と声を張り上げているのです。賛美歌を歌うときには、手拍子を打ちながら歌います。一方、上を見上げながら讃美歌を高らかに歌っている人々がいるのです。だいたい日本基督教団のひとびとは、静かに祈りを受け止め、また讃美歌をうたっているのです。それぞれの信仰の姿として、共に礼拝をささげたのでした。
 教会も新しい歩みを願いつつ、いろいろな取り組みを考えています。しかし、だからと言って、讃美歌を歌うときには手拍子を打ちながら歌いましょうということになっても、なかなかその様にはならないのです。やはり生まれた教会、導かれた教会の信仰姿勢で良いと思います。示されていることは、イエス様の十字架を仰ぎ見つつ歩む私たちは、いつも聖霊が与えられ、神様の命の息を与えられているということです。その導きをいただいて歩むことが私たちの信仰の歩みであります。宗教改革の根本は、個人の信仰においての導きに委ねるということであり、上からの信仰ではなく、それぞれに与えられている聖霊、神様の命の息をいただく歩みを尊重することなのです。その意味でも、改めて人間が存在する様になる聖書の示しをいただきたいのです。聖書は人間の存在をどのように述べているのでしょうか。

 今朝の旧約聖書創世記は人間創造が示されています。その前に天地創造について示されておきましょう。創世記1章1節に「初めに、神は天地を創造された」と記されています。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と記されています。このような状況を誰かが見たというのではありません。創世記を書いた人が、信仰において証しているのです。このような状況をどのように描いたらよいのでしょうか。とにかく、何が何だかさっぱりわからない状況なのです。その何が何だかさっぱりわからない状況に、神様が言われるのです。「光あれ」と言われます。すると明るくなったのであります。神様は光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれたと記しています。次に神様は言われます。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」というのであります。すると大空が造られ、大空の下と大空の上に水を分けられたというのであります。古代の人は大空の上に水があると考えたのであります。その大空の水が雨となって落ちてくると考えていたのであります。創世記は古代の人々の考え方が反映しています。とにかく、何が何だかさっぱりわからない状況に、神様が言を下さるのです。すると形ある、あるいは筋道が導かれるということであります。ここに天地創造の意味があるのです。この現代の社会の中に生きる私たちであります。世の中の動き、自分を取り巻く環境、つくづくと何が何だかさっぱりわからないと思うのであります。しかし、だからこそ、神様がこの状況に「言」を与え、導きを与えてくださっているのです。
 その後は草木が創造され、生き物が創造されていきます。いずれも神様の「言」によって創造されていくのであります。そして、最後に人間も造られるのであります。この創世記は1章1節から2章3節を書いている人と、2章4節以下を書いている人が異なります。最初は神様の「言」によってすべてが造られるのでありますが、今朝の聖書は神様の創造の業が示されているのであります。従って、2章4節以下から改めて天地創造について示されるのであります。「主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである」と示しています。しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤したと示しています。そして、人間の創造に至るのであります。「主なる神は、土の塵で人を形づくり」ました。しかし、それはまだ人間ではありません。人の形を粘土で造り、その鼻に「命の息」を吹き入れられました。「人はこうして生きる者となった」のであります。「命の息」をいただいて人間として生きる者になったのであります。「命の息」はヘブル語で「ルアッハ」という言葉であります。「ルアッハ」は「霊」とも訳され、「風」とも訳されています。
旧約聖書エゼキエル書があります。その中で預言者エゼキエルはこの「ルアッハ」について証しています。エゼキエル書2章には、エゼキエルが神様から励まされていることが記されています。「自分の足で立ちなさい」と励まされたエゼキエルは、人々が「聞き入れようと、拒もうと」神様の御心を語り続けました。その彼が、人々の立ち上がる様を目の当たりに示されるのです。それはエゼキエル書37章に記されます。彼は幻のうちに、ある谷の真ん中に降ろされました。見ると枯れた骨が谷中に散らばっていたのであります。触れれば骨がくずれてしまうほど枯れているのです。神様の導きのままにエゼキエルはこれらの枯れた骨に預言いたします。神様の言葉を与えたということです。すると、骨と骨があい重なり、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上を覆うのでした。さらにエゼキエルが預言すると、四方から霊が吹き付けたのでありました。この霊の風が「ルアッハ」であります。枯れた骨は生きかえり、「自分の足で」立ち上がったのでありました。霊の風が吹きつけ、苦しみと、嘆きに生きている人々は自分の足で立ち上がるのです。神様の命の息をいただくことにより、苦しんでいる人々、悲しんでいる人々が立ち上がったのであります。聖書の人々は常に苦しみつつ生きていました。その人々に希望を与え、力を与えたのがエゼキエルという人でありました。
人々が「自分の足で立つ」ために、神様は私たちにも命の息を与えておられるのです。その為に教会が建てられ、みことばを取り次ぐ人を立てました。そして、教会に導きいれられた人々に聖霊を与え、命の息を与えて、「自分の足で」立つ者へと導いてくださっているのです。「自分の足で立ち」、力強く歩むために、私たちも「ルアッハ」を与えられているのです。
「ルアッハ」、「風」については使徒言行録に記される聖霊降臨においても示されています。主イエス・キリストが御昇天になられ、弟子達は人前に出る力もなく、イエス様が示されたように、家の中で祈っていたのであります。すると、「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ」たのでありました。「すると、一同は聖霊に満たされた」のでありました。この風は「ルアッハ」であります。「命の息」なのです。「命の息」をいただくことにより、力強く立ち上がることができるのです。今、御言葉に向かう私達にも「命の息」が与えられているのです。「ルアッハ」がこのところに満たされているのです。
これが天地創造の示しです。神様は天地をお造りになったとき、神様の「言」による創造を与えられました。神様の言が基となって、すべてが存在するようになったのであります。そして、人間には「ルアッハ」が与えられ、真に生きる者へと導かれるのであります。勝手に天地創造の示しを変えてはいけないのであります。

 天地創造の示しを人間が勝手に変えてしまうことに対する主イエス・キリストの警告が新約聖書の示しであります。マルコによる福音書10章1節以下が今朝の聖書となっています。ここには「離縁について教える」イエス様が示されています。離縁についての示しが天地創造の示しとどのように関わるのかと思います。しかし、イエス様はこの問題に対して、天地創造の初めから示されていることとして教えておられるのです。イエス様のもとへファリサイ派の人々が来て、イエス様を試そうとして尋ねています。ファリサイ派の人というのは、新約聖書の世界はユダヤ教世界であり、中心は律法という戒律を守る世界でありました。ファリサイ派の人々はその律法を厳格に守る人々なので、社会のエリートであり、模範生でもあったのです。その人たちのイエス様への質問は、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」との質問です。何事も律法が中心ですから、律法に適うかということです。2千年前の社会ですから、男性中心の考え方でもありました。それに対して、イエス様は、神様の御心をいただいて律法を与えたモーセはどのように示しているかと聞きました。すると、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えています。男性中心の社会ですから、離縁状を書けば離婚できるということになってしまっていたのです。それに対して、イエス様は、「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である」と示しているのであります。天地創造の示しを与えています。人間創造において、最初に男が造られますが、そのもっとも相応しい相手が女性であることを創世記は示しているのであります。これは天地創造の示しでありました。しかし、その天地創造の示しを超えて、人間の勝手な解釈があり、離縁が横行するようになったのであります。
 現代の社会から理解しようとすると、このイエス様の教えは何となく不自然に受け止められます。離婚があり、同性愛があり、イエス様の教えは現代には合わないと思うでしょうか。主イエス・キリストは当時の男性中心の社会で、天地創造の示しを与えているのです。それは一人の人間の尊厳を示しているのであります。「命の息」をいただいた人間の尊厳を示しているのであります。自分勝手に人間関係を作り上げてはならないということであります。一人の存在を大切にするということ、それが天地創造の示しなのであります。離婚にしても、同性愛にしても、「命の息」をいただいている人間の尊厳、天地創造の示しに立つべきなのであります。

 10月31日は宗教改革記念日であることは先ほどもお話し致しました。ローマ帝国キリスト教を迫害していました。それは、ローマ皇帝は神であり、崇拝することを求めました。人々は止む無くローマ皇帝を拝むことになりますが、イエス様を信じる人々は決してローマ皇帝を拝みませんでした。そのため迫害が強くなりますが、迫害しても絶えないキリスト教信者に脅威を持つようになります。こんなに強い信仰を持つ根源は何かと思うようになるのです。人間ではなく、神様を信じること、主イエス・キリストの十字架の救いを信じること、そこに迫害にも屈しない基があることを知るようになります。そして、その強い信仰をローマ帝国の中心にすることになるのであります。ローマ法王を中心とするカトリック教会が出来上がっていきます。ヨーロッパの世界はローマカトリック教会一色になります。しかし、発展したローマカトリック教会は堕落が始まります。大きな教会を建設するために資金が必要です。資金を得るために免罪符を売り出します。その免罪符を買えば、どんな罪でも赦されるということなのです。お札を買えば善人になるのですから、人々は喜んで買うのでした。このようなことでよいのか、と疑問を持ったのがマルチン・ルターという人でした。この疑問は免罪符ばかりではなく、いろいろと示されるようになりました。このようなことは神様のお心ではないと思います。人間が考え出したことなのです。神様の創造の示しではないということです。神様の創造の示しは、「命の息」をいただく人間が、真に御心を喜ぶことなのです。人間の尊厳を大切にすること、聖書に向かう限り、いよいよ一人の人間の尊厳を示されてくるのです。新約聖書の中で、パウロという伝道者は、私達は「信仰によって義とされる」と示しました。人間の業ではなく、私達の信仰が祝福されるのです。人間は一生懸命努力して良い業を行っても、それは自分の栄誉のためであり、自己満足であります。しかし、神様を信ずること、イエス・キリストの十字架の贖いを信じること、そこからすべてが始まるのです。宗教改革者マルチン・ルターは、このパウロの示しを受け止め、人間が神様によって祝福され、「義とされるのは信仰によってのみ」であると言い直しています。神様は私達が一人の人間として生きるために、「命の息」を与えておられます。「命の息」は主イエス・キリストの十字架の救いを仰ぎ見るほどに与えられるのであります。十字架の贖いの信仰のみ、私達の歩みなのであります。
<祈祷>
聖なる御神様。「命の息」を賜り、真に生きる者へと導いてくださり感謝いたします。一人の尊厳を大切にしつつ歩むことを得させてください。主の名によって祈ります。アーメン。