あなたにこの痛みはわかるまい。けれど、わかる必要もあるまい。

実は私、「ブローックバックマウンテン」は観たことがありません。ですが、いくらかのレビューを読ませてもらったので、一応どんな話なのかは知っているのです(BL雑誌でも話題になりましたからね)。それでですね、ちょっとサイト「デルタG」でこんなレビュー(?)を読んだのです。
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まあ、要するに、登場人物に共感が出来ないと言う話なのですが・・・。しかし。。。
この映画では女性の立場が「ひどい」内容のものであるらしいことは、方々で聞いて知っているし、しかも「ホモフォビアに苦しむゲイ」の姿なんて今更見たくもないし、私がそんな映画をわざわざ観る事もたぶんない。ないのですけれど、仰りたいことやその思いもなんとなく共感できるのですけれど、それにしたって、ちょっとこの物言いはどうなのかしら。

「子供のころ、同性が好きな自分は異常だと思って、自分を否定していた。自殺を考えたこともあった」

涙ながらに語られることも多い。

自分ですら自分を肯定できなかった、その苦痛を訴え、かわいそうな被害者だとアピールしているように見える。

ええ、そうですね。そういうことも、もちろんあったかもしれません。

その苦痛は想像できなくもない。

けれど、そのころの「かわいそうな」自分を、客観的に判断してみて。

それは結局のところ、偏見に基づいて同性愛を差別していたということではない?

同性愛者である自分を蔑視していたことを強調するけれど、自分だけではなく同性愛者全体を蔑視していたのではない?

もちろん被害者ではあるだろうけれど、加害者でもあったのではない?

ええ、そうですよ。だからなに?言われなくてもわかっているのだけれど。わかったところで苦痛に変わりはないし。

現在の日本では、男性同性愛者がカミングアウトしても、ほとんどの場合、たいした不利益はないという実感がある。

それは一体誰についての話よ。中産階級のゲイ?都会のゲイ?非部落出身者のゲイ?

カミングアウトして失うものは、男同士のつき合い、男友達、高収入の仕事、男としての社会的信頼、暴力をふるわれにくい立場、といったところ。それら5つとも、すべて社会的に女を搾取することで成り立っている過剰な利益。

過剰な利益を得られなくなるから、辛く苦しいですって?

苦しいですよ?それがいけない?言及されている利益はそれほど不当な利益だったかしら。男友達がいて欲しいと望む事は、それほど高望みだったかしら。

彼らの隣で、女たちは、男同士のつき合いから疎外され、女とつき合うことも限定され、男とつき合えば友達と隔絶され、仕事もほとんどなく、暴力にさらされる危険も高いというのに。

もちろん、女達への不当な抑圧暴力は批判されるべきだし、あってもいけない。しかし、「こっちのほうが痛いんだ」と言って、他人の痛みを軽んじるのは、不当だし、抑圧的。「どっちがよりかわいそうか」なんて不毛な不幸自慢をしても、何の解決にもならない上に、他人との軋轢が増すばかり。
そして、「それとこれとは別」と男性(マジョリティ)が言うのは、男性の特権だとは思うけれども、女達の不利益を理由に男達の利益が非難されなきゃいけない、とは言い切れないのでは?(と、今の私は思う)。大体、男性でありながら暴力を振るわれている人は、一体誰から搾取されてると言うのか。搾取されているから利益があるってどこまで言える事なの。あくまで重要なのは、権益がマジョリティにばかり傾いてるという、偏重の修正では。*1

そんな苦しみが何だっていうんだ、甘えすぎてる、と思ってしまう。

さらに、男性同性愛者は、既存の性別観に沿った発言で周囲を楽しませれば、異性愛者の男女に受け容れられる。

甘えと言われれば甘えなのかもしれない。で?あなたはストレートに媚びへつらってピエロ役を演じるしか居場所を見出せない者おかま*2の気持ちがわかるの?いいえ、私にだってわからない。私は私の気持ちしか。

この映画の、自分を否定するほど追い詰められた同性愛者、イニスに同情はしない。

私もしない。する必要がない。必要なのは同情なんかじゃない。してほしくもない。

もちろん、同性愛者への差別には反対だ。

でも、男性同性愛者の叫びからは、差別される痛みを、あたしは感じない。

男性同性愛者の痛みが、わからない。

それ以上の痛みに溢れたいまのこの社会では、その程度の痛みを痛みとして感じることは、あたしにはできない。

もう少し性差別が緩和した世界でなら、その痛みを理解できるようになるかもしれない。

そして、そんな世界、ゲイの痛みを素直に痛みとして知れる世界に、あたしは住みたい。


痛みも相対的なものだとするなら、私だって(他人の)痛みを痛みとして感じる事が出来ないこともあるだろう。それは、どんなふうに社会が変わろうとも、変わらない自分の現実。他人の痛みに共感できるかどうかは、その人の経験に基づくところが大きい。人は、感じることができるものと、出来ないものを抱えて生きている。それは、もはやどうしようもない。
その上で、「今の自分の痛みが和らげば、他人*3の痛みにも目が向けられる」と言ったとしたら、それはただ、「あなたはあなたの痛みしかわからないという自分を抱えてる」、というだけの話ではないか。そして、そんな自分を抱えた人が、他人の痛みまで感じる必要は、ないのではないか。
必要なことは、人に(不当な)痛みを抱え込ませるほどの、他人の痛みに共感できなくさせるほどの、この生き難い現在を、変えることではないのか。そこで、他人の痛みを「わかる」必要が、どこまであると言うのか。ましてやそこで、“痛みの序列化”などしても、無意味。*4

「痛みと知れる世界」を望むと仰るけれど、根本的に大切な事は、わからないことに耳を傾ける姿勢ではないかと思う*5

わからないもの同士は連帯も出来ないのか。私は男であったり女であったりするもの達と、断絶する他ないのか。いいや、そんなことはないはず。
当事者の痛みを代弁することは難しい。当事者として経験しなくては得られない実感と言うものが「ある」と認めるのならば、あえて「私にはあなたの痛みがわからない」と告白することは、むしろ必要なことではないか。代弁者を気取って、他人の当事者性を奪うくらいなら、堂々と「私にはわからない」と告白すればいい。そして、「私はその痛みに耳を傾けるよ」と告げればいい。*6
誰かの痛みがわからなくても、私はその「誰か」と生きる事は出来るし、連帯することも可能なはず。いや。むしろ、「私はあなたをわからない(だからお願い、あなたのことを聞かせて)」と告白することが、連帯することの担保になりうるのではないか。
「わかる」ことではなく、「わかりあえない部分があるのだ」と諒解しあうことが、他人とわたしを結ぶ糸になるのではないだろうか。

*1:「オルタを!」という主張はあるにしても。

*2:ここでおかまだけを例に挙げるのは不適切でした。すいません。

*3:とは誰のことなのか。

*4:痛みを序列化させるということは、差別解決に対して優先順位を付けることと、親和性があると私は思う。

*5:耳でもなんでもいのだけれど

*6:傾けることも出来ないくらい自分で手一杯ならば、そういう現在を批判すればいい。「私にも余裕を与えろ」と。