「腐女子」って名前で語るのはヤヴァいし、怖い。

最近さすがの 見ない見ないバ〜 な私も無視できないツイッターからの話ですが。
昭平腐女子の「アングラのままでいい」から「マナー論議」へ - Togetter
「カタギ」て…。
前半ちょっと読んだだけでこれから読むんだけど、ひとまずココらへんの流れがはわわ〜ってした。(はわわ〜って表現、昔から俺が使ってるのに勝手に手垢にまみれてて滾る。)

@now_fes このタグの世代は、自分たちがあくまでもアンダーグラウンドの人間だと意識している人が多いんだろう。万人に認められる嗜好じゃないから、カタギに迷惑かけないのが当たり前だったよね。 #shohei_fujoshi
7:47 AM Jun 6th モバツイ / www.movatwi.jp から

http://twitter.com/kamineko0817/status/77710721554726914

@now_fes 自分はアングラでしか生息できない時代に目覚めた世代らしい。だからネットやなんかで揶揄されてるような、一部の子がカタギの前でやらかす「怖いもんなし」な行動には猛烈に戦慄する。 #shohei_fujoshi
8:00 AM Jun 6th モバツイ / www.movatwi.jp から

http://twitter.com/kamineko0817/status/77713944843792384

@now_fesなんかね、最近の版権二次創作は「原作者の優しさでスルーしてくれてることで本来はグレーゾーン」なことを忘れすぎな気がする。自重してなさすぎてハラハラする。#shohei_fujoshi
8:28 AM Jun 6th モバツイ / www.movatwi.jp から

http://twitter.com/Akumo10o/status/77721067325628417

@null ヲタクや腐女子であること自体は悪くないのだけど、だからこそマナーを守ることは普通の人以上に気を付けなきゃいけないと思うんだよね #shohei_fujoshi
8:42 AM Jun 6th Saezuri から

http://twitter.com/ryu_sazaki/status/77724488900411393

これらの話は昭和腐女子平成腐女子っていう分け方をした人がツイッターに最近いて、そこから派生した話を#shohei_fujoshiってタグで続けてるものであり、注意して欲しいのは、一人ひとり色んな意見を持った人が話しており決して皆同じ思想を語ってるのではなく、個々の発言が集まって作られた流れのすべてがかれらひとりひとりに還元されるべきではないということ。
その上で書くけどさ、やっぱり腐女子のマナーってあまりにアンフェアなことまで常識・倫理として位置づけられてるよね。そしてソレが腐女子の責務に還元されてしまうのがすごく問題だと思う。
いやだってさ、よく考えてみてよ?
二次創作がグレーゾーンで著作権侵害スレスレとかいう問題って腐女子の問題じゃねーだろ!
いや、「腐女子だって関係なくナイ」とは言えるけど、最近思うのは、本当「腐女子」って名前使ってアレコレ考えるのヤヴァいよなぁってことなんだわ。
二次創作により著作権の問題というのは、それこそはっきり言ってオタクの問題ですらないよね。似たような問題はおそらくツイッターやブログでの引用でも起こりうるけれど(ちょっとした改変して載せるとか少し似てるね)、それは侵害する行為が問題なのであって、腐女子とかオタクという主体の問題ではないじゃない、詰まるところを言っちゃえば。
それをあえて○○の問題だって語るのは自由なんだけどさ、腐女子の場合それが結局内罰的な方向でまとまってしかも「日陰者」とまで侮辱されることをさも当然に受け入れさせる流れが自然と作られてしまうんだよね。それは単なる慎ましさではない、まさに「大和撫子」のように時代錯誤なまでの自己卑下を求められた上での人格形成ではないのかな。
そう、腐女子というのは名乗る人ひとり一人で違う人間であるのに、人格化されてるんだよね、もはや。なんだってそうなんだけど、主体がクローズされることで人格としての名前が出来上がり、問題が起こったらまるで名づけられたものに原因があるみたいに語られる。果ては「乱暴されたのはお前が○○だからだ!」て罵倒にも繋がる。

でもコレ今回に限らないよね。
私は「腐女子」って名前を使いたいと思う当事者がいるなら勿論ソレに文句をつける筋合いを持たないけれど、私がBLや二次創作といった「腐女子」と呼ばれたり名乗ったりする人にも重複して関わる問題について語るとき、果たして本当にそこで「腐女子」って名前を使っていいのか分からなくなってる。

腐を名乗るということは、現代に至るやおい・BL・JUNE・腐etcといった文化を担っています、という表明であり、ゆえにそれらの文化に対する当事者性を持つということよね。当たり前の話をするなら。
で、私はそれゆえに表象暴力の問題においても、腐を名乗る以上は他人事にしてはいけないと思ってるの。
私は「腐男子」ではなく「腐オタ」を好んで名乗ってるけど、それは“腐ったオタクらしさ”とも呼べる何かが既にこの世に生まれてるように感じてるから。よくゲイが腐男子を名乗るってどうなの?っていう疑問があると思うけど、考えてみれば何かを読んだり描いてみせたりすることにわざわざ腐という名前を使う理由なんて特別なさそうに思える。
たとえばワンピースを読む人をワンピ厨とか言うこともできるけれど、普通言わないし、ワンピースの新刊を毎度買っていく人に名前がわざわざ必要かしら?ないよね?ワンピースを買って読むことやキャラの絵を描いてみせることはとてもありふれたことだろうけど、名前をつけなくてもいいんだ。という事実が一方にあること。
それと一緒のことだと思う。以前(こちらでリンクさせてもらってる)ブロガーさんが仰ってたことを私は忘れられない。「同性愛表象を読むことを特別なこととしたくない」的な言葉だった。なぜ男性同性愛表象を楽しむことに特別な名前がいるのか?日常生活のなかでお茶を飲む人に名前はいらない、なのに腐女子という名前があるのは、それは同性愛表象を楽しむことが特別な普通でないことだとする思想があるのではないか?
そういう危惧は成る程言いえているけれど、同時に私は腐という名前における共同性、腐ったオタクとしての連帯感を持ち合わせたい動機も抱いてるんだよね…。
だから腐オタ。クィア男性と区別化する機能を持ち始めてる腐男子を名乗りたくはないけれど、私はただ<同性愛表象>が好きなんじゃない、<BL>が好きなんだ。だから私はあえてソレに名前をつける。でもソレは他人から理解してもらうためじゃない。ましてや搾取されるための名乗りじゃない。

一種の意思表明ではあるけれど、それはBL・やおいをリスペクトしてるから名乗るんだ。バカにするためや、普通ではないと異端視するためじゃない。腐だからこそ成せた表現がある、可能性がある。ホモという侮辱語をあたら使うこの業界で、どんな「ホモ」が生き残り、もしくは生き残れないのかが気になって仕方ない。その文化に依存加担してるという表明なんだよね。私が「腐オタ」って言うのは。
そして名乗るからには、現在において男性同性愛を当事者よりも多く語り、最も大きな広告塔のようにそびえることの意味についても、責任を持つ。腐の中には女性同性愛者や両性愛者がいるだろうけれど、少なくとも商業BLは彼女らをターゲットにしてないはず。異性愛者による同性愛の語りが増えるというのは、それ自体がとても制度的な権力(格差)構造に関わってくる。私もその一端を担ってるという自覚があるべきだと思う。その意味でも私は「腐オタ」なんだな。


でもさ、ここで引っかかったのが、「BLが成してきた表現」「BLだから生まれる可能性」って何なんだろうなってこと。
私はBLを好きなあまり、BLだけを特別視する嫌いがある。
「こんなところがすごいんだよ!他には真似できないね」って。
でもその表現は本当にBLだけの特徴だったのかな?
私はBLを高く評価することで、少女マンガであるとか青年誌であるとかサブカルであるとかが成してきた表現たちやその歴史を無視しちゃってはいないのか?
という反省が足りなかったように思う。

ほら、あるじゃない。
BLは男のホモソーシャル脱構築した云々かんぬん、男を客体化して云々かんぬんとかって。でもソレってBLに限ったことか?BLが男や男たちの関係をリプロデュースしてきたり、それによって性規範を逸脱しオルタナチブを示唆してきたと言うならば、他のジャンルは性規範に何ら批評性もなく従順なだけだったのか?
BLだから出来たんだ、という驕りが私の中にあったんじゃないのか、ふとそんなことを考えると何か頭が冷えた。内心他のジャンルをよく見もせずバカにしてたんじゃないのか。ソレってどんだけ失礼なんだ。

でもそういうことって「BL」だけじゃなく、「腐女子」についての語りでも事実起こってるように見える。

あまりに自重という圧力が高いために、社会全体の問題をあたかも「腐女子」(と一方的に名づけられた人々)に集中して押し付ける様は幾度か見かけたけれど、それって本当に「腐女子の問題」として切り取ってよかったの?そうすることで他に対する責任を不問にしてきた恐れはないの?

腐女子の原罪とか業とかアホらしいって思う。たとえば実在の人で恋愛や性愛の妄想する人なんてドコでもいるけど、それは誰がやっても「性的視線の問題ですね」で済むのに、「腐女子」って単語が入った途端スゲー反省しなきゃいけない特殊な罪を背負った犯罪者みたいな話になる。
なんだろね、一般化すべきじゃないミクロな問題を一般化しとるウザさもあれば、全体に通じる責任をやたら一個にばかり押し付けて後は不問に帰すウザさもあるっていう。

http://h.hatena.ne.jp/nodada/243599236640435207

腐女子にだけ「ゲイに失礼だろ」といって自分は平気で「ホモネタ」で盛り上がる人は普通にいそうなものだが、やれヤクザだとか大和撫子だとか原罪だとか大げさな言葉が普通にまかり通る背景には、「腐女子」て名前だけが一人歩きして過剰に異端者として意味づけられてる部分があると思う。そういうのは何だかとってもアンフェアだ。
腐を名乗る以上は確かに無関係ではない問題はいくらかあると思う。名乗った分だけ明らかな意思表明がなされてるということ。だけどソレは名乗ったから発生したというよりは、最初からある「自分の物語を好きに解釈されたらどうしようね」とか「他人に性的視線を送るのってどうだろうね」といった問題に、名乗ることでコミットしたと言った方が妥当じゃないのかしら。

そもそもマナーなんてものは実際にはそれほど当たり前のものじゃなかったりもする。電車内でのお喋りや音楽や化粧だってマナーとして問題視されてるけれど、さほどマナーに位置づけてない地域はあるだろうし、マナーって別に絶対不動の価値観じゃない。時代によっても変わるし、それほど確かでもないのにもっともらしく語られる。けれどソレって誰のために作られた誰に都合のいい価値観なんだろう?
障害や疾患によって一般的な生活様式を全部こなせない人はいるけれど、そういう人にはふさわしくないからと言って席に着かせないことは何ら変えなくてもいいマナーなのか?といった反省もなく、ただ教条的に「マナー」を振りかざすとき、様々な層の様々な生を無視してしまう。
もっと私に身近な例でいえば、「女同士や男同士の話は私的な話なんだから職場やレストランや公道でするな」という主張はお馴染みだけど、たとえば異性婚の象徴たる結婚指輪を公的とされる場面でさらしても、異性のパートナーがいることやその彼氏彼女とのやり取りを世間話に出すことは禁じられていない。なのに、同性との話は何故か避けられるべきだとするマナーがまかり通っている。二枚舌もいいところ。
マナーとは言わなかったかもしれない、けれどカミングアウトしなければ勝手に異性愛者扱いされてアレコレ面倒なのに「あなたが非異性愛者であるということは、わざわざ言うことじゃない」「そんな話は性的だ」とされる。この不条理な不均衡は何だろう?
異端者ゆえに普通ではまかり通らぬ侮辱や(押し付けられた)マナーの重責というのは、マイノリティによくある光景だ。ストレート側によって都合よく作られた常識や倫理を押し付けられる回数や重さは、クィアな部分に対してだけ不均衡に多い。そんなものを常識と呼ぶな、倫理にすりかえるな、と思う。
もちろん問題がなかったことにするのではない、問題は最初から社会的なものだったのだと認め、問題の所在をある人のクィア性に求め、問題がクィア性によって生まれたんだと不当に決め付けるなということ。

あらためて考えよう、今そこで「腐女子」や「BL」という名前が必要だったのか?なぜあなたは使ったのか?
そういう吟味反省から見えて来る問題の全体的輪郭があると思う。
腐オタの私にとってそれは非情に難しい思考実験だけど、それでも少しずつ考え方を深めて行けたらいいなと思う。

私が生きてきた実感は、異端者。

昨日の記事が前半と後半でモロ矛盾してるのが愉快だなぁ。要するに駄目出しが無粋なこともあると分かりつつ、口出したいのよ。オタク根性と言うかファン意識かね。
ていうか私のブログって誰がどういうニーズで読んでもらってるのかしらね。原点回帰しちゃった。


http://twitter.com/akaboshi_07/status/37653605515272192
ところでおすぎが同性愛者が異端とかメタンとか言ったらしいけどソレに関する記事で「男が男を好きになることと、女が男を好きになることの意味はこの社会では全く違う」て書いてる人が居た。私は女が女を好きになることなどはあまり語れる材料を持たないけど、2つの性別をめぐって様々なベクトルが共に違う社会的意味を持たされて存在してることは分かる。

たとえば、女が女を好きになることと、男が男を好きになることも、大分違うのだと思う。どっちの方がどうとか言うより、体験(体感)する社会からの視線も当然違ってくること。それが私たち一人ひとりの胸にどう降り注ぎ、どう受け止めて生きているかはひとソレゾレだけどね。バイと同性愛者の経験はどこかで違う。どこかで似通う。バイとモノセクシュアルという面ではゲイもビアンもヘテロも多数派。所謂足を踏み踏まれる関係。だけどゲイとバイ(男性?女性?)、ビアンとバイ、ヘテロとバイという関係を「バイとモノセクシュアル」とひと括りに出来ないものがあると思う。それは各層の社会的位置が別々だから、当然なことだろう。ゲイコミュニティでバイはどう扱われてきたか、レズビアンコミュニティではどうか、無徴であるヘテロ社会では男同士間で、女同士間で、「バイ」という者への見方は違っただろうね。よく言うでしょ、女たちの間の方がまだ同性愛者への風当たりがマシって。本当かどうか知らないけど。

それにつけても私の実感はどうだろう?女に対する欲望と男に対する欲望はやっぱり異なるけれど、男に対する昔からの欲望とはやっぱり同列に語れない。たしかに「愛する性別が同性という以外、異性愛者と変わらない」と言われても何か蟠りが残るんだ。

というか、この物言いって結局「僕は考えたくない」てポーズとして機能するよね。「同性って以外は」って同性であることが物議をかもしてきたんだろうがっていうのをただ異性愛者の実感にパラレルにちょこっとズラして同じ扱いする。でもそう感じていられるのは愛する性別を一々とわれずに済んだ人間だからってだけでしょ。そしてかれらはそう言い切ることで傷つかずに済むのよね。だって同じことにしちゃえば違いに目を瞑ることが出来る。この物言いは要するに、場の中心に居座ってる者が楽になりたい時に都合のいい言葉に陥ってるんではないか。
互いの違いゆえに同じ扱いができなくて異性愛者向けにデザインされた社会(婚姻制度とか社会保障)の不備にぶつかる、ぶつかっているのに、「だって性別が違うだけでしょ、同じだよ、普通だよ、だからもういいでしょ、文句ないでしょ、普通ってお墨付きを私たちが押してあげたんだから満足しなさいよ小うるさくわめきたてないでね」とでも言いたげに、同じことにする。たしかに「同じ」はずなら本来改善すべき問題はないし、デザイン変更ってコストを支払わずに済む。けれど実際は違うのだ。


そういう社会制度から弾き飛ばされている、という現実を実社会で感じるとき、ひとは自分の内面(更にナイーブな表現を使うと「心」)を疑問に感じるでしょう。「なんで自分は異性を好きになれないんだろう」。「なんで今までと違う相手を好きになるんだろう」「なんで自分のパートナーと一緒にいる場面を人に見られると恥ずかしいんだろう」。「同性と付き合うってどんなことか想像も付かなくて不安だ」。といった数々の実感を抱きながら誰かを好きになる。

社会制度からつまはじきにされる、ということは、同時に心の問題にもなる。選挙権ないのに税金はしっかり払わされる、ということが二級市民的実感を抱かせるとか想像すれば分かりやすい。
それから制度的経験からだけではなく、どうしようもなく女を好きになることの実感とはかけ離れてる気がする。
私は物付いた頃から男が好きだった。
ねぇ、分かる?男を好きになるってことの恥ずかしさを。
人前で「男が好き」ってためしに口にしてみなさい。なんだかものっそい色情狂みたく思えてくるよ、自分が。まああえて「男が好き」なんて説明しなくて済む人とはまた違う恥ずかしさがあるだろうし、人によっちゃこの言葉の頭に「自分は普通に(男が以下略)」を付けられるワケだけど、「女が好き」て言うのとはまた違う抵抗があると思うのは私の気のせい?

「え、じゃあ男が好きなの?」
「うん、そうだよ。男が好…、あ、えっと、オトコが好…き、だよ?」
みたいなw

ええ、私には女で女を好きになることの気持ちは分からない。誤解して欲しくないのだけど(じゃあ書き方変えろって話だけど)、どっちがより不憫とかではなく、ね。でもねぇ、見逃せやしない違いがあったもんだわね、お互い。

実感はトランスのトイレ事情を考えると逆に見えてくるかもしれない。
私は「トイレの前で右往左往する経験をシスジェンダーはして見ろい、そしたら実感が分かるだろ」と思っていた。
だけどよくよく思えば、仮にそんなシミュレーションをシスジェンダーがやったところで「いやでも異性装をやめれば自分には行くべき場所あるし…」て思いは変わらないだろうし、「トイレに入ってもパスするのか、しなかった場合の悔しさとか悲しさといった分裂したこの気持ちはどうすればいいのか」といった葛藤を味わう術をシスジェンダーは基本的に持たないのだ*1
どうしたって実感からして違う、違うから見える世界も違ってくるんだ。


なんだろう、私の実感はたとえば初恋を想像してみれば分かりやすいかもしれない。はじめて誰かを性的にも好きになって、その気持ちがどう扱われるかと言う不安を始めて直面する瞬間。自分はブサイクで嫌われるかもしれない。年上でいとわれるかも知れない。色々実感はあれど、最初から「恋」なんて薄ら寒い言葉の範疇には入れないであろう自分の気持ちを、好きな人が言外にクソ扱いしていたら?
恋っていうのも立派な社会的なものよね。恋って表象にどう乗れるか、あるいはどう乗れないかで、その人の自己認識は結構変わりそうなものよね。
私は最初から自分が誰かに「恋」をする人間だとは思えてなかったわよ。そういう枠から存在してないものだと思っていたから。私がイマイチ恋愛感情が分からないのはそういう理由も一つあったかもしれないわね。「コイってなぁに?食べれるの?」ていう。恋なんてものが自分にありえるものだと最初から思って育っていたら、私今頃どんな人間だったでしょうね。っは、たかが恋ひとつで。何を右往左往してるんだか。
でも私は恋ってカケラを自分が少しでも、別の補助的代替的な形であっても獲得できるかどうかが重大問題だったのよ。ただ、男の腕に抱きしめられたかった。手の熱を感じてみたかった。本当は大したものではなかったとしても。
あるいはセックスや接触がなくても構わないわ。ただ、傍にいられるなら、それでも満ち足りたでしょう。俺の横にいてもいいんだよ、そんなまなざしを受けて、横にちょこんと座るの。許された心地で。

セックスも。別に好かれる必要はなかったのよ。自分の体で快感を得てくれるなら。こんな体でも何かの代わりになるとか、そういう価値があるのなら、ひとりで生きていける気がしたわ。
まず代わりモノとしての自分を探すことから始まるの。

もっとも、ここまでくると恋とかどうとかじゃないけど、結局私にとっちゃそういうこと。「恋」を何らかの形で演じられるなら私、自分を少しは認めて上げられるかもしれない。男はそのための道具。本当は相手の人格なんてどうでもよかったのよ。それに見合う形をしていたら木偶の坊でも何でも同じこと。

そういう実感を持って私は少年をやめた。大人になんてなりたくなかったけど、結局何も得られぬまま。かえってそれで良かったのかもしれない。けれど、すべてが今更に思えるわ。今更何を経験したところで。私が救い上げられたかった時期はあの頃なのよ。もはや。

どこにもないように見えたの。私の居場所。なくてもよかったのだけどね、だけど何故だか焦がれる思いはあったみたい。
なんだか自分はバラバラだ。ズレてしまってる。何か奇妙に世界の定義と食い違って収まらない。そんな自分があべこべでとてもこの気持ちを誰かと共有できるとは思えない。セカイで自分だけ異分子だ。大げさだけど大雑把に言ってそんな感じ。*2

そういう意味では確かに私は異端者だったのよ。それに甘んじるでもないけれど、現に違ったのだ。それ以上でも以下でもなく、その烙印を押し付けられるつもりもないけれど。ただ、この実感を簡単に分かられて堪るかと言う気持ちもないではない。

外れモノ。
実感の前では「君と私は同じ」なんて言葉は、とても軽い。

*1:これもまたシスジェンダーでも外見がそう思われない人の場合事情が変わってくるけど、さっきの話の繰り返しねここらへんは。

*2:ちょっとキチガイじみてたのよあの頃は特に。なんかあらゆる物(机やカーテンや)に触れると「ああ、ごめんなさい俺なんかに触られたくなかっただろうに」とかワリと真剣に考えてたのよwまあ性格がそもそも異常だったって話よね、ここらへんは。

射精や強制射精で快感が得られないという実感は何処へ。

おはよう、お久しぶりです。
 
思わぬところで何方かまったく存じ上げない方にも「更新されないのか」と気にして頂いてたと聞いたので(ありがとう)、じゃあ何か書こうと思ったんだけど、さて何書くか。
わりとココ最近ならイラっとする話題があるにはあったのだけど、「更新するため書いてみるか」という理由で書くようなネタではないので別のしょうもない下ネタを書くわ。
されど下ネタと言って侮るなかれ。コレって大事な話よ。まあ、どうでもいいからこそ気楽に更新用として書けるネタなんだけどね〜ぇ。

それで私漫画は相変わらずBLばっか読んでるんだけどさ(余分な金ないからBLだけにしてるのよ、ジロジロ見てんじゃねーわよ)、なんかアレよね?まことしやかに流言というかTHE勘違いがはびこってるよね。いやさ、BLつかまえて男目線で「はいコレ駄目ー!現実と間違ってます〜ぅ、赤ペンねー!」なんてする事がせん無いのは分かってるわよ。現実に即してるかどうかは問題じゃない。即さないとしてもソレをあえてファンタジー(萌え)としていかにおかしみにして話を転がすか。嘘から出る真、ならぬ、嘘から出る新発見もある。こういう「男」ってアリなんだょ!て。
それも男目線が創作現場で介入しないところで「男」のアレやコレの勝手なイメージをどう使うか、使うことでどんな自由な描写と世界観を見出せるか、がやっぱりBLのひとつの面白みではあると思うのね。あくまでひとつの面白みだけど。
そういう面白みだから、それこそさ。ゲイだろうとバイだろうとノンケだろうとよく分からん子だろうと、「男」に現れるホモセクシュアリティの柔らかさや豊富なバラエティっていうか、暗黙の了解たるモノセクシュアリズムへの華麗なスルー力っていうか、<性>で大事なものが性別でありつつ、しかしそれだけに回収されない実際には豊かな人間のフェチ心を描けたって面もあるんじゃない?男目線、というか当事者目線を意識しないことで。

いや、意識してても同じもん描けるわよ?描けるけどー…、当事者を意識しちゃったら何か面倒くさくなる人っているじゃない?とにかくBLがあんまり描いてこなかったカプ描いてー、涙なくして語れない葛藤描いてー、世間を斜めから見ときゃあいいんだと思った(のかどうか実際のところは知らないわよ?!)作家さんとかさー。読んでて面倒くさいのよ。BL読みたくて買ってるんだから素直に「BL」描いてよ。新しい方向性開拓するのもいいけど、BLもそれ自体で面白い物よ?…言っとくけどコレは別に「主流を描け」って意味じゃないの。BL主流のアンチテーゼBLも「BL」らしい「BL」よね。ただ何か面倒くさい何かがあるのよね、たまに。形だけ意識したのとか。まあそこらへんは描きたいものがソレだったんだからしょうがないのかな?
そういえば新しい方向性って何だろうな?自分で言ってて分かんないけど。つうか古いBL読んでると斬新な話も実はあるのよね。なんだろ、回帰することで開拓する、て方向性萎んでるわよね今。ちょっと前にはJUNE系の小説を新装版とかでぽっぽこ出してて話題にはなったけど、売れなかったのかしら?見なくなったよね。



…話が飛びすぎたわ。オカマってやーね。あ、今聞いた話だけど精液と毛髪はたんぱく質で出来てるから射精しすぎると薄毛になる恐れがあるんだって。日刊ゲンダイが言ってたらしいよ。どうでもいい。(ていうか嘘くせぇ。射精しないで薄毛になった人どうすんだ、責任取れよゲンダイ)

でさ、本題の射精なんだけどさ。射精ってそんな気持ちイイか?とか思ったことなーい?
バニラセックス好きっていう男子、なぜかゲイの間ではちまちま聞くんだけど、とにかく男の快感って射精に集中して語られガチじゃん。まあ別に射精が男の中心に置かれてても、あるいは端っこに置かれても私の知ったこっちゃナイんだけど、なんか引っかかるのが射精したら感じた証拠扱いされてることなのよねー。
いやいやいや、射精する自体はさほど大したことないわよ?ペニスや精巣をお持ちでない方も朝気だるくて自慰することがあると思うけど、濡れたり何だったりする事にそれほどオーガズム伴うか?ちょっと副交感神経刺激される程度だったりが多いんじゃない?目ぇ覚〜めーた〜、てなもんでさ。
でもコレ多分BLだけじゃないと思うんだけど(ゴメンね、読まないから知らないの)、男が強制的に射精されて、それがものすごいオーガズム伴って、堪らず流されちゃう〜〜〜(>д<) て展開多い!
ていうより、「射精したはしたけど吐精感しかナイわぁ」て描写がほぼナイw エロス描く文脈ではそらそうなって当然だけど、なんか快感を得る理由というか仕組みが限定的なんだよね。これはどこのジャンルでも大体そうだろうけど。
…まあ射精しても物足りないからもっとガツガツやりたいって話はあるけど。
いやだってちょっとはあるでしょ、射精は必ずしも快感ではない、って実感は。それがベタに「射精は男にとって絶対に強い快感である」と語られてる気がして、ちょっと恐い。何度も断っておくけど、他のジャンルも大概だろうけど、さ。もしや本気ですか?ていうね。

私が思うに射精そのものというより、射精にいたるまでに体内の快感の波に“射精という尿道の刺激”が乗れるかどうか、だと思うのよね。(ああ、コレ書いてるの深夜だから、私ちょっとアホになってるの。気にしないで皆さんはさわやかな汚昼間に読んでね)

なのに「射精した」=「超感じた!」て機械的な描写を連続で読んじゃうと、何だか快感ってそんなお粗末なものかと気持ちが萎えちゃうわ。
男(て誰?)に限らず性的快感なんてナイーブなものだわな。気分じゃないときに無理やり性器(て何?)をいじられても、反応したところで後々振り返って「あのセックスは最高だった」と思えるかと言えば、そうとは限らない。そういうケースだってもちろんあるだろうけど、射精しただけで満足する人ばかりではないし。少なくとも快感は表面的反応だけで測れる物じゃないはず。
強制射精、「イっちゃった、俺、感じちゃったの?」、抗えない吐精感、「いっぱい出たねw」、生理的な反応、「イ、イク!」。
楽しければ大変結構ですよ。でもね?私はさ。

少しザラつく手の平がアバラより少し下の腰を撫でる感覚だとか、指の腹が肌に着くかつかないかの距離で縦横無尽に駆け回る感覚だとか、もろもろの感覚が胸に迫る熱さを経ち上がらせ蕩けるような痺れだとか。
そうこうするうちに次第にどうしようもなく濡れてて、おしっこみたいにもっちゃって。
みたいなエロスが好き。。。(だからどうした)

そういうこみ上げる熱を描くにはペニスと射精をオーガズムの記号にする描写だけでは不十分だと思うの、多分。出来ればそういうエロスが沢山読めると嬉しいわ。もっと言うと「射精やエレクトってあんま感じないんだよね」て実感も描いてくれると私的には嬉しいんだけど、まあワガママ言っちゃアレだから期待しないで気長に待つわ。


…ふぅ、今までブログじゃ控えてた下ネタを存分に書いてしまったわ。趣味じゃないから語らなかったけど、2011年だし。新たな気持ちで挑みました。嘘だけど。単なる夜に書く手紙の悪ノリと同じだけど。

ところで全く関係ないけど2月も中盤を差し掛かってきたというのに、いまだ冬物最終セールに踊らされる自分ってどうなんだろう。そろそろ春に向けて花柄のインナーを揃えたいところなんだけど、ファー付き厚手のポンチョに心惹かれちゃうんだよね。肩幅あると多分似合わないだろうケド。
今度冷やかしにショップ行って片っ端から試着しちゃおうかな。ひとりファッションショー。自分宅でヤレって感じだけど。まあそんなことしてるから結局は余計な買い物しちゃう俺なんですが…。だって可愛くて安かったんだ…。春はコットン素材なパンツ系統のボトムスで攻めたい。金くれ。

ミソジナス論争再び。

馴染みの方にコメント。『ミソジニー』について。 - 腐男子じゃないけど、ゲイじゃない
大分前に書いたエントリなんだけど、こちらにゆんゆんさんからTBをもらいました。といっても彼女はすでにブログを閉鎖させているので、ここで引用してるのはまだ閉鎖していなかった頃にコピペ保存したものです。原文を確かめたい方はご面倒ですがキャッシュなどネット上で保存されているものを探してご覧になってください。

http://blog.livedoor.jp/karpfen32/archives/809034.html

さて、当時の私が提示した論点は主に「語りの倫理」であり、ゲイのミソジニー自体が中心ではなかったんですね。とまれ、今の私と当時の私では微妙に問題意識が変化した気がします。ゆんゆんさんはすでに議論の場から退いたようだし只のひとりごとになってしまいそうなのだけど、これを機会に改めて書いてみたいです。

当時の私のスタンスはこれ。

繰り返しますが、実際に、ゲイにミソジナスな人が多かったとしても、私にとってソレは問題じゃない(もちろん、その偏見ーー「事実」でも何でもいいけどーーをもってして人を排除するのは差別だと思うからそれは論外としてね!)。ただ、そういう偏見を無配慮に植え込んで何がしたいのか、と私は不審におもっている。
本当にゲイのミソジニーに対してなにか実りのある議論をしたいのなら、偏見の植え込みの暴力性くらいは考えてください。私だってゲイを批判するときはしますよ。でもそのやり方はもっと慎重であるべきでしょ、と思うんです。

ていうかね、もし、今回あなたの発言の全体が「いいや、ゲイにミソジニーがない訳ではない。そうやってゲイを美化してちゃんとゲイと向き合わないのはいけない。私はゲイコミュニティという限定的な現場しか見ていないが、私の体験した中でもゲイにだってミソジニーの内面化は見られた。ただ、ミソジニーは誰にでもあるのだから、それを対話できる共通項として役立てて、目をそらさずに相手と向き合いましょうよ。そうすることでミソジニーを内面化している者同士よい関係を築く努力をしよう」という趣旨だったらなにも問題なかったわけよ。

なのにあなたときたら、「ゲイの多数派は他集団よりもよりひどくミソジナスなんだよ、怖いんだよ」と印象付けるだけ*1。そして、問題なのは、あなたの体験談だけでは事実の程は問えないということ。だって情報が偏ってるんだもん。

あの場でゲイへの批判自体をナンセンスとした人はいなかったと思うのだけど、今の私からしてもゲイに不信感を抱いている人に向かって一方的に「実際ゲイはミソジナスだ」と語るのでは更なる不信感を煽るだけで、ゲイのミソジニー批判とは言いがたい気がします。たとえ言えたとしても、そこに問題がまったくないわけではなさそうですし。そういう“何をどう語るか”という『語りの倫理』は今の私にとっても重要な論点です。

ただ、今となっては強調しすぎた部分もあると思います。
たしかに検証すべき事実を喧伝するならある程度有効な根拠を示すべきだし、一方的な断定やレッテル貼りはあまりほめられたものではないでしょう。しかし、検証済みの情報だけでしか現状を議論できないのは窮屈だし、実感から見えてくる事・対話のきっかけが生まれてくる事もあるので、科学的データのない実感だけで現状を語ることそれ自体を「オフィシャルな場から締め出すべき」とまでは言えないように思います。
そしてミソジニーを強く多く内面化した集団がいたとして、その集団を特別祭り上げてバッシング対象に認定するのは色々望ましくない面もあるとは言え、実際そういう現状があるならその事実を知らないとより深い議論に入れないかもしれません。だから、実態を探るまなざし自体を抑制するのも望ましくないし、その点にも配慮すべき。
当時私はミソジニーをゲイだけに照射する危うさを語りました。やはりミソジニーを特定集団だけの問題に矮小化してはいけないけど、「社会全体に存在してる」という前提の下、(バッシング材料に利用するのではなく)固有の問題性を読み解く文脈でゲイに注目すべき場合はあるでしょう。


それからもうひとつ。私は当時、偏見の不利益に対してあまり真摯的ではない論者に不信感を抱いていたけれど、私自身も権力を持つ側からの差別隠蔽を疑われる言動をしていたのではないか。
私は女性ではないので女性への差別を被らずに済む立場です。対して、女性側にはいまだ不公平な社会状況があるはずで、そういう非対称な特権的立場からゲイ(男性集団)へのミソジニー告発を批判するのなら、ただ「全体の問題として仲良く共闘しよう」と呼びかけるだけでなく、まず「ゲイ(含む男性)のミソジニーを自分自身から問題化・解決してゆく」と表明すべきではないか。そうしないと、男性自身の差別隠蔽に与してしまうのではないか。などと悩んでます。

また、女性が男性に対して警戒を求められる現状がある限り、ただ「男性というだけで全員を警戒するのは問題だ!」と訴えるだけでは済ませられない問題があります。と同時に、私自身の実感では「ゲイは女の子の味方」か「ゲイは女嫌いだから男が好き」のどちらかで語られガチな印象がどうしてもあって、それなのにテキトウな言葉だけが飛び交い、実際の人間関係にひびを入れられるのはやっぱり迷惑。

これらを鑑みるに、“偏見が強化されることへの警戒と丁寧な語り方のバランスを慎重に行うべき”というのが私の結論。
・・・私にはまだまだ必要な問題意識が不足してると思うので、精進したいです。


***

さて、ここからゆんゆんさんへのレスポンス、というかひとり言なのだけど。

「男らしさ」を常に志向するアイデンティティ政治から抜け出せない限り、ゲイネスはミソジニーの温床だと思います。

彼女の論旨は上で問題にした事実認定や実感表明のレベルではなく、「ゲイという集団やコミュニティ(共同体?)はミソジニーの温床なのだから、本来批判されるべき対象」といった主張だと理解しています。(間違ってたらゴメン。)
さて、私自身それほどゲイのことに詳しくないのだけど、これはどうでしょう?
「男らしさを志向すればミソジニーの温床となるしかない」というのは事実と異なるだろうケド、たしかに男性性が構築される中でミソジニーが組み込まれる事は今も昔もたくさんありますよね。たとえば現在ストレートな『男らしさ』が実際に「ホモではないこと」を条件にしているように、「男らしさ」が「男は女より強くてエラい!」みたいなソジニーを条件としてきたのではないか。この意味でたしかに男性性とミソジニーは結びついているのが現状でしょう。
そしてゲイとはそういう覇権的男性性から排除されてきた側面があるものの、かれらもあくまで男性として生まれ育てられてきたはずだし、ゲイムーブメントから独自の男性性が構築される時にも、その都度ミソジナスな観念が再び条件化されていないか警戒する必要があります。トランス・バイフォビアやその他多くの差別的観念についても同様に警戒が必要。もっといえば、(ミソジニーの問題に限らない話だが)男性の中心性がゲイコミュニティでも働くことを考えれば、きっとゲイコミュニティも問題は含み。

しかしながら、今回のゲイとミソジニーを因果付ける論理に私は違和感を抱きました。


私の違和感を説明するためにちょっとここで別記事を紹介したい。これもかなり昔の記事だけど、ひびのまことさんはゲイとゲイコミュニティに関してこのように述べています。

「バイセクシュアル」 という問題領域から見えるもの

で、特にゲイのコミュニティーにおけるバイセクシュアル嫌悪は、性指向を問わずに多くの男性が抱えている女性蔑視(ミソジニー)の反映であることがあります。「女なんかうっとうしい」というマッチョなゲイのわがままは、常にミックスの場を創ろうとするバイセクシュアルや、オネエのゲイなどに対するコミュニティー内の抑圧を創り出すことがあるのではないでしょうか。「女嫌いのゲイは一番怖い」と言った人がいましたが、的を得ています。ある意味では、男性同性愛者の理想郷には女性は必要ない、とも言えるからです。そういうコミュニティーの中では「女嫌い」であることは何ら問題にされません。実際に嫌いだったりする訳ですから、「女の人」と直接コミュニケーションすることを避けることが何となくできてしまう危険性が、ゲイのコミュニティーにはあります。そしてもちろん、今の社会の中で女性とみなされ女性として扱われる人がどういう目にあっているかなんてことには全く関心を持たないでも済むわけです。女の人にも関心を持っている人の場合は、好きになった女(とされている)人からの突きつけをきっかけとして社会の中の女性蔑視に気がつく可能性があるのですが、ゲイ男性には残念なことにそのきっかけが一つ少ないのです。
【強調部分引用者による】

ここでひびのさんは『女性に対する差別に気付く機会』という話でゲイを語っていいらっしゃるのだけど、これはゆんゆんさんの議論と近しいものがありそう。
ここで一つ疑問なのは、ゲイが「好きになった女性から問題を突きつけられる」機会がない(とされる)ことで「ミソジニーに気付く機会が一つ少ない」ことは、たとえば男子校に通ってるために気付く機会がひとつ少ないことや、あるいは女性がいない家庭に育ってるために気付く機会がひとつ少ないことと同じ意味なのでしょうか?
もしそうだと言うなら、ーーー「ひとつ少ない」ことが実際にどの程度ミソジニーへの無関心さに繋がっているかは定かでないにしろーーーこうした数々の事実に注目することは、“ミソジニーがいかに内面化されるか”を探る意味でも価値がありそう。
けれどもしそうではなく、性愛・恋愛の場でひとつ少ないことが他の機会と比べ、何かことさらに重要な問題性があるというなら、それは一体どういう根拠なのでしょうか?

どちらにせよ、各機会の持つ意味合いの違いというのは、あまり自明ではない気がするんですね。

次に疑問なのは、ゆんゆんさんがゲイを「その気になれば個人レベルで女性を必要としなくてよい人」と規定している点。

どうも世の中にはゲイを二丁目やハッテン場だけに存在するセックスモンスターとして見る傾向があるのだけど(セックスモンスター大いに結構なのだけど)、当然ゲイだって社会生活をしなければならないです。だから職場や学校や役所や病院や町内会やその他多くの場所に行く必要があるし、自分から女性の友達・家族と遊びに行きたい気持ちも当然あるでしょう。この意味でゆんゆんさんの規定は実態と大きくかけ離れていると思います。
こう考えてみると、「その気になれば」という前置きがあっても女性を一切必要としないゲイの生活は、非常に実現困難なものに思えます。
性愛恋愛の場で必要がなければ「個人レベル」のすべてにおいて必要じゃなくなる、と言うことではないですよね?なのになぜそんな思考実験が必要なのか、正直よく分かりません。


・・・ただ、ーーこうしたゲイ像の妥当性は置いとくにしろーー当時のエントリでも幾人から「ゲイの女嫌い」というコメントがそれなりにリアリティを持って強調されており、その現象自体が何かを意味しているかもしれないです。
しかしながら、そこでゲイのアイデンティティやライフスタイル(と言えるものが仮に日本にも定着してるとして)がいかにミソジニーと結びついてるかはなかなか複雑かもしれないし、因果付けるにしろ もう少し慎重でも良い気がします。

また、もうひとつ忘れてはならないのは、性愛恋愛対象(のひとつ)が女性だったり実際女性との性愛恋愛関係があることを、素朴に「ミソジニーに気付く機会」としていいのだろうか?という点。

もちろん気付く機会になるケースだってあるけれど、女性への性的関心及び関係がかえってミソジニーに結びつくというケースも一応考えられるわけで。たとえば結婚制度にしたってミソジナスな(・・・というか男性優位で家父長的な)背景によって維持されてるはず。そこで彼女や奥さんがいることをどのような機会として捉えるかは正に場合によることでしょう。
これらを単純に「ミソジニーに気付く機会」であるとしたまま、ゲイを「気付く機会がひとつ少ない」カテゴリとして批判することは、ずいぶんヘテロ男性には優しいというか、じゃっかん不公平かつ大雑把な議論だと感じるのだけど、ここでは暫定的にゲイに注目しただけで、ひびのさんもゆんゆんさんもそういう意図はないのかもしれない。でも少し引っかかったのでごめんなさい。

もちろんこの懸念はゲイのミソジニーを楽観視しないことと同時に考えるべきだけど、ここも少し慎重でありたいと私は思います。


あと、ゆんゆんさんの「ミソジニーによって誰が得or損をするか」という問題意識は、たしかに私に足りない視点でした。とまれ、そこで「女性が損をして男性が得をする」と言い切ってよいのか私には分からないし、その視点で何を語るべきかも分からないので、なにか今後に活かせたらと思います。


次に余談だけど。ゆんゆんさんは私がBLレビューブログで書いた最新記事の冒頭について、「へそで茶を沸かせ」たらしいのです。

この前の、日常的には男性としてパスしているのだださんの「今日も男扱いされて気がmaleぞう」という親父ギャグを「へそで茶が沸かせるわ」と思いながら読んでいたのですが。

これについて私がハイクで以下の愚痴を書いたのです。

うーん・・・・。まあでも、ヘテロだろうと何だろうと確かに全く揺らぎのない人も少ないのかもしれないような気もしなくもないような・・・。キンゼイあたりの昔から言われてる事かもしれませんが。
ところで私は彼女のアイデンティティや立場をあまり知らないのだけど、もしシスジェンダーでありながら「へそで茶を沸かす」と言ってるなら、たとえ“自己のポジショナリティに敏感であれ”という意味の問題提起だったとしても(いや、そういう問題提起をしているかもしれない人だからこそ)、不快でーす^^

http://h.hatena.ne.jp/nodada/9236533425541164173

すると、これ対してゆんゆんさんは以下の反論を寄せてきました。

のだださん個人が私の言葉を不快だと思われるのは全くの自由ですが。
全てのケースにおいて「抑圧者のシスジェンダーVS被抑圧者のトランスジェンダー」という構図を当てはめようとするのは無理があると思いまーす^^。

女性で「自分が男だったら……」「女でなかったら……」と夢想しなかったことのない人は結構少数なのではないでしょうか(私はこれは女性のミソジニーだと思います。ゲイや異性愛男性と違って不利益を蒙るのはもっぱら女のほうですが)←統計的根拠が必要だというのなら^^ここの箇所は削除してくださっても結構です。主旨に致命的ダメージを与えるわけではないので。
私も自分が男だったら、なめられなかっただろうとか、もっと簡単に望みのものにアクセスできていただろうとしょっちゅう考えてしまいます。
同じ仕事をしていても、初対面の相手に「女は甘やかされてていいよなー」みたいなことを言われてむかむかするのは日常茶飯事です。

http://74.125.153.132/search?q=cache:OM5ws06IdzUJ:blog.livedoor.jp/karpfen32/archives/812985.html+%E3%81%BE%E3%81%A0%E3%81%BE%E3%81%A0%E7%B6%9A%E3%81%84%E3%81%A6%E3%82%8B%E3%82%88%E2%80%A6%E2%80%A6%E7%AC%91&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

まず一点目。私があそこで言いたかったのは、「性別違和(による問題)を持たないで済む特権を享受してきた人に、私の経験を笑われる筋合いはない」という意味だけど、これがトランスの人から言われたことなら、一歩譲って「性別違和に向き合ってきた先人として非男性をカミングアウトしない自分を叱咤激励しているのかな?」などと読めるかもしれません。なのだけど私はゆんゆんさんと信頼関係にないので、やっぱり自分の抑圧を笑われるのは何れにせよ非礼だと感じざるを得ないです。(まあ私にとっては「非礼」程度の話なもんだから、ハイクで愚痴ったら気持ちも収まっちゃったんだけどw)


二点目。実は↑の反論を寄せられた時点では、「もしかすると今回は単に私の駄洒落が下らなくてへそ茶を沸かされただけなのかもしれないな」、と思ったんです。でも閉鎖されたブログ以外の発言を読んでみると、どうやら違うみたい。
ゆんゆんさんはcalibaby(イチカワユウ)さんからブログ『押して、押して、押し倒されろ!』で「男共同体からの離脱をしてないことを理由に誰かを批判するのはおかしい」と批判されてこう応えています。

3)だがその時の批判の方法は「男の共同体から離れろ」ではないのでは?
あ、それは嫌味で書いたつもりなんですよ。
のだださんが「女の子として受け入れてもらえない」とか「冗談めかして」言うから。
男性の特権や利益というものを重々承知している人はそういうこととか、女性もミソジニーを内面化してるからゲイのも相殺していいだろうとか間違っても言わないと思うし。

http://yuichikawa.blog28.fc2.com/blog-entry-1598.html#view_comment

コレを読む限り、ゆんゆんさんはやはり“男性の特権性を自覚するなら性別違和を軽々しく(?)語るべきではない”と考えてるように読めるんですね。
こうした女性差別トランジションの関連性といった難しい問題についてはmacskaさんの本家ブログで書かれた「人種的違和」と「性別違和」に関する記事が示唆的。

でも、男性から女性にトランジションする人たちが、「人種的違和」を訴える人と同じようなオリエンタリズムから自由であると言えるかというと、そう言い切る自信はない。トランス業界では物凄く不評なオートガイネフィリア(男性から女性にトランジションする人たちの一部は、男性として「女性の性器」そのものに欲情しており、それを自分のものにしたいという倒錯した動機で性別再判定手術を受ける、というあんまり根拠のはっきりしない理論)を持ち出すまでもなく、あるトランスセクシュアルの女性が思い描く「女性像」が現実の「女性」とはかけ離れており、それはむしろ多くの男性が抱く「女性像」に近いのではないかといった印象を受けたことは少なくない。

かといって、そのようなトランスセクシュアルの人の「性別変更」については認めないと言ってしまうと、かえって「典型的な女性はこうである」という押しつけになってしまって別の部分に不都合が起きる。「特権のある側」から「特権を受ける側」へのクロス・アイデンティフィケーションは批判的に注視されるべきだけれど、それだけでは否定する理由にはならないと思う。

http://macska.org/article/47

・・・ちょっと“「特権のある側」から「特権を受ける側」へのクロス・アイデンティフィケーション”の部分がよく分からないけど、ともかく。現在リンク先の記事ではmacskaさん本人から書き直しが行われて、この箇所について正しくは“「特権のある側」から「抑圧を受ける側」”であると表記されています。
男性としての権力性(ポジショナリティ)に敏感になりつつ性別違和を訴えることはある程度両立すると私は思いますし、アイデンティフィケーションを批判的に注視することと性別違和の訴えを尊重する事はある程度両立すると思ってます。

そう考えないとMTFは自分の性別違和を訴えられなくなるし、さすがにそれは認めがたい。だから目指すべきは、あらゆる方法で諸問題と各不利益をなるべく軽減してゆく路線でしょう。もちろんゆんゆんさんもトランジションそのものは否定していないけれど、MTF他のトランスが性別違和を訴えることを一方的に「特権や利益を自覚してない」とジャッジしていて不当だし、仮に注視した結果問題点があったとしても相手の性別違和を笑わなくたっていいでしょう?

・・・まあ、「冗談めかして」の部分がいけなかったのかもだけど、誰だっていつも神妙な面持ちで抑圧を語らなくたってイイと思います。というか、自分の権力性を隠蔽する文脈でもないんだし、自分のブログで単発的に「男扱いは気が滅入る」と愚痴を書くぐらいで「特権や利益に自覚的ではない」と断定されるのは、・・・正直困ります。仰りたい事は分かるのですけどね。

ちなみに事実確認として言うと、私は「女の子に見られたい人」ではなく「男でも女でもない人」です。一応今のところは。


・・長いけど三点目。再び引用します。

女性で「自分が男だったら……」「女でなかったら……」と夢想しなかったことのない人は結構少数なのではないでしょうか(私はこれは女性のミソジニーだと思います。ゲイや異性愛男性と違って不利益を蒙るのはもっぱら女のほうですが)←統計的根拠が必要だというのなら^^ここの箇所は削除してくださっても結構です。主旨に致命的ダメージを与えるわけではないので。

えぇと、個人的な問題は置いとくにせよ、この文脈でこういう事を言われますと、(女性の)シスジェンダーとトランスの権力関係を隠蔽したいのかと疑ってしまいます。杞憂だといいのですが、何せ多様性を理由に両者間の差異をなかったことにするレトリックは割とありふれてますので。


更に細かい話になって恐縮なのだけど、四点目(三点目の続き)。

のだださん含めた生得的な男性の場合、男性として女性差別から特権を捨て去ることが、「MtFトランスジェンダー」になるコストに加えて、「男性になりたい」「女性でありたくない」という欲望と天秤にかける対象になるのでは?

いやー、ぜんぜん(苦笑)。
むしろ「その特権群全部いらないのでこの立場から抜け出したい」みたいに思い込むことまであるかもしれません。
それから心苦しい話ですけれど、私は男性から様々な性的視線を浴びせられている女性ポジションに一種憧れさえ抱いてて、しかしその『憧れ』は「女性は男性にまなざされるもの」という固定観念を背景としてるわけで、オリエンタリズムな視線が自分にもあるんだと思います。だから時に「女性の実体験を知らないくせに」と怒られるでしょう。その批判は甘んじて受けたいです。ただ、別の言い方をすれば、ストレートな男女の利害がそのまま直ちにこちら側に適用できるとは限らないんですよ。
そんな訳で、「特権性とトランジション(とその結果)を天秤にかける」という考え自体、どこかしらシスジェンダー的発想な気がします。(まあ性別違和に限らず心は人それぞれでしょうしあくまで私の実感ですが。)


で、本題。
もしやゆんゆんさんは「女性には内面化したミソジニーのために性別越境を夢想する人が多くいる」ことを理由に、性別違和に関して言えばトランスと非対称な権力関係がない(?)と主張してるのでしょうか。
しかし、そもそもトランスの問題はたとえ女性地位が向上しようが(あるいは男性に対する扱いが大幅に変わろうが)終わらないものです。対して、ゆんゆんさんが仰るような多くの(シスジェンダー)女性が抱く「性別違和」というのは、トランスのように性自認の次元で働くものではなく、性別役割や性別格差の次元で働くものが一般的ではないでしょうか?
もちろんこれらも一言では語れない複雑さがあるだろうけど、まさかトランスでもない多くの女性が(与えられた性別と)異なる性自認を持っているとは正直考えられません。

もちろん、自分の性別に対する扱いが不当に感じるとき、シスジェンダーとてジェンダリズムの抑圧を受けていますが、「男性女性はこうあるべき」という社会規範と「与えられた性別として生きるべき」という社会規範の違い、それによる抑圧の違いは大きいのではないでしょうか?そしてこの面において、ーーー自分の性別に何らかの葛藤を抱かさざるを得ないにしろーーーシスジェンダー女性が特権的地位にあることは事実だと思います。よってここで問うべきは、彼女たちがトランスの性別違和を「へそ茶」と笑っても、はたしてそこに権力的な暴力がなかったと言えるのか、ということです。*1


ゆんゆんさんが例示したように、確かに特定のカテゴリはいつも一定で均質なものではないし、揺らぎもあると思います。その意味で両者のボーダーは曖昧と言えます。
しかしながら、それにもかかわらず実際私たちはシスジェンダーかトランスかで権力に差異があり、後者が(女性を含めた)シスジェンダーの権力によって差別されてきたという歴史は動きようのない事実だと思います。そうしたとき、シスジェンダー内の特定集団を切断し、その集団だけを両者間の対立構図からズラす言論は、それ自体が権力を持つ側による差別隠蔽に近しくなる恐れがあるかもしれません。・・・そりゃあ差別加担の有様も個別的に見る必要はあるし、個人が集団に属してるからって全ての責任を均等に押し付ける事も出来ませんので、とても難しいジレンマですよね・・・。
私自身、トランス(と呼ばれ得る)磁場とシスジェンダー(と呼ばれ得る)磁場のどちらにも引き込まれており、すでに両者の間に作られてしまった権力関係と無縁ではいられませんし、無縁な人はいないでしょう。ということは、各ポジションは最初からけっして一枚岩的ではないながら、様々な立場から様々な作用があって今日の「シスジェンダーの特権」や「トランスの問題」が維持されてる、と言えそうです。


最後に。これは私も最近ひしひしと感じてることなのですが、相手に厳しくなるなら自分にも厳しくなる必要が少なからず出てくると思います。
男性のミソジニーと女性のミソジニーでは内面化の事情も違うだろうし、言動の意味も変わってきますよね。そういう細かな違い(と意外な近さ)や権力について厳しい視線をお持ちになるのは必要な事だと思います。ならばこそ、男女以外の権力関係にも厳しい視線を持ってほしいと思います。

*1:もっとも、ゆんゆんさんは私に対して「へそ茶」と言ったのだから、トランスとは言いがたい気がする私への言動を『トランスへの言葉』として解釈してはいけないかもしれない。だけど、実質的にトランスとシスジェンダーの話になってるので一応書いておく。そして私に対する言葉だとしたら、すでに書いたように「非礼だなぁ」という感想を持っています。

「異性愛者へ12の質問」を転載してみる。


:追記4
緑のカラースター進呈企画終了いたしました!ご回答くださった方々、本当にありがとうございました!今後はそれらを皆で振り返り、何がどう問題なのかを考えてみたいです。もしよろしければご教授ください。


:追記3
http://d.hatena.ne.jp/cmasak/20090420/1240163778
今回のエントリを読んで、「異性愛の特権って何?」と思われた方もいるかもしれません。でしたらぜひ、こちらにリストとして箇条書きされている項目を参考にしてください。


:追記2
macska dot org » 「異性愛者への12の質問」についての女性学MLでの議論
こちらで、今回の質問の危険性に気づかせてもらいました。この質問は個人のセクシュアリティに関わることで、場所と質問者回答者間の権力差が問題になってきます。なので、もし他にご利用なさる場合は、特に教育関係者の方などは、この点にご注意ください。よろしく。

女性学メーリングリストの参加者のあいだでは、調査票をテキストとして学生に読ませ、議論させることについてはまったく異論がなかったけれども、授業の一部として実際に学生に調査票への回答をさせることについては批判が多かった。セクシュアリティのような学生たち自身にとって個人的なことに、講師が当たり前のように踏み込んで回答を求めること自体に問題があるし、そもそも教室の中でこのような調査票を配るということは、学生は全員例外なく異性愛者であり、同性愛者という「他者について」学ぼうとしている、という間違った前提がなければありえない。異性愛者の学生だけでなく、同性愛者の学生にとってもとても居づらい状況になる。

やっぱり、異性愛の権力性を指摘するのは大切だけれど、教室内における講師と学生の権力関係にも気を配らなくちゃいけない

その他とても興味深い指摘、ありがとうございましたmacskaさん。


:追記
はてなハイク サービス終了のお知らせ
ただ今(19日0時47分)、回答してくださった先着8名さまに緑のカラースター進呈中!どうぞ奮ってご参加ください!

ていうか!回答が興味深いーーーーー^^^^^!!!


:以下本文。
=*=*=*=

TBというか転載です。

押して、押して、押し倒されろ! - FC2 BLOG パスワード認証で紹介されていて、ものすごく興味深かったので勝手に転載します*1
…うーん。正直、こういうの大好きです。申し訳ないけども。誰かこういうのやってくれないかなーと思ってたのよ。
これ、裏返せば非異性愛者(LGBや小児性愛者等など)がどれだけアンフェアな問いを繰り返しされ続けたか、っていう背景を指してるんですね。先日の、なんちゃって的な自分のセクシュアリティクィアとしての自身・尊厳が持てない話に通じています。こういう質問投げ続けられると、自ずと確かさを信じられなくなります。
…ううん、それでも異性愛者のように自分の価値観を“絶対”だと思い込みたいわけじゃない。ただ、疑われ続けることの抑圧を押し返したい。そのための試みにもなると思うんです。(問われることの非対称性)
それからもう一つ、大事な試みにもなります。それは、いかにして個々人のセクシュアルアイデンティティーが社会に蔓延する言説によって構築されていくか、という話です。
この質問は、セクシュアリティの社会構築性をも明るみにします。
たとえば、「異性愛は当然生まれたらそうなるはず」という言説があります。この「常識」を疑う事によって、性愛そのものの自明性を問い直さざるを得なくなりますね。
先天性?後天性?はたして断言できる?できないなら、私達はどういう言説を学び取りながら、自分のセクシュアリティを認識し形成してきたのでしょうね…?


そこで、異性愛者の方々にもこの社会がどうしてこんな質問を特定集団ばかりに投げかけているのか、その仕組みを問い直すためにも大真面目に考えてほしい質問なのです。

異性愛者へ12の質問」


1.あなたの異性愛の原因はなんだと思いますか?



2.自分が異性愛なのだと初めて判断したのはいつですか?
 どのようにですか?



3.異性愛は、あなたの発達の一段階ではないですか?



4.異性愛なのは、同性を恐れているからではないですか?



5.一度も同性とセックスをしたことがないなら、なぜ、異性とのセックスの方がよいと決められるのですか?あなたは単に、よい同性愛の経験がないだけなのではないですか?



6.誰かに異性愛者であることを告白したことがありますか?
 その時の相手の反応はどうでしたか?



7.異性愛は、他人にかかわらない限り、不愉快なものではありません。それなのに、なぜ多くの異性愛者は、他人をも異性愛に引き込もうと誘惑しようとするのでしょうか?



8.子供に対する性的犯罪者の多くが異性愛者です。あなたは自分の子供を異性愛者(特に教師)と接触させることを安全だと思いますか?



9.異性愛者はなぜあんなにあからさまで、いつでも彼らの性的志向を見せびらかすのでしょうか?なぜ彼らは普通に生活することができず、公衆の面前でキスしたり、結婚指輪をはめるなどして、異性愛者であることを見せびらかすのでしょうか?



10.男と女というのは肉体的にも精神的にも明らかに異なっているのに、あなたはそのような相手と本当に満足いく関係が結べますか?



11.異性愛の婚姻は、完全な社会のサポートが受けられるにもかかわらず、今日では、一年間に結婚する夫婦の半分がやがて離婚するといわれています。なぜ異性愛の関係というのは、こんなにうまくいかないのでしょうか。



12.このように、異性愛が直面している問題を考えるにつき、あなたは自分の子供に異性愛になってほしいと思いますか?セラピーで彼らを変えるべきだとは思いませんか?



                                                                                                                                                              • -


さて、どうでしたか?

もしも、これを読んでいるあなたが異性愛者だったら・・・質問に対してどう思いましたか?なにあたりまえのこと聞いてるんだって感じですか。けれど、もし世の中の9割が同性愛者だとしたら、上の質問に対してどう答えますか。ちょっと変わってくるのではないでしょうか。

ピンとくる質問があったと思いますが、これらは同性愛者に対するよく聞かれる質問を異性愛者向けにパロディ化したものです。Kevin Jennings『becoming visible』というゲイ/レズビアンの歴史のリーダー(その分野で重要な文献や教科書などを要約したりしていくつも紹介した本)に載ってました。

なんで同性が好きだったの?いつ頃から?私は自分でも自分に対してこれらの質問を常に向けつづけ、それに対する答えを探しつづけてきました。他のゲイ/レズビアンの友人と話す時も、どのように自分のセクシュアリティに気づいたかや、本質論の可否など、セクシュアリティに関することを話し合う事が多いです。

しかし、気づけば、ゲイ/レズビアン、その他の少数派といわれる人々ばかりが、セクシュアリティについて考え、自らのことを説明することを余儀なくされています。異性愛者は多数派であるということによって自らのセクシュアリティについては、全く考えていないのが現状ではないでしょうか。

「いつから同性愛だったの?」と問う「異性愛者」は、まず自分自身に「いつから異性愛だったんだろう?」と問い直してみることが必要ではないでしょうか。そのことによって、同性愛者へ向けられる質問の幾つかは問われなくなると思います。

しかし、上の質問は、異性愛者にとって虚をつかれたものであるのと同程度に、私にとってもショッキングなものでした。頭の中の初めての場所を掻かれている気分でした。異性愛の絶対性は私の中にも内面化されていたのです。そして、その絶対性を基礎に同性愛というアイデンティティを築き、自分を説明していました。

この質問は、確かに異性愛者に対する質問であると同時に、(彼らが同性愛者に対してなげかけた質問への)答えであり、同時に異性愛の絶対性を信じていた全ての人に、それを疑わせてくれるものではないでしょうか。 (2001.3.5)

*1:ご本人は「人があるロジックを使って誰かを追いつめる場合に、それが自分に向けられた場合の一瞬の空白感というか、エピファニーの例として、上の質問群を思い出した。」として紹介なさっている

ガチと名乗れない私の、「シスなヘテロが性の標準」説に対する恐れ。


私は、「ガチ」に関しては「バリバリの」とか「筋金入りの」と同じ意味合いで理解してて(ソレが正しいのかよく分からないけど、多分一般認識とそんなに違わない)、そういう文脈における「ガチ」って言葉に何かしらの距離を感じていました。そのことをはてなハイク サービス終了のお知らせで書いたら、わたくしがガチな人だと名乗るわけ - みやきち日記でみやきちさんから反論を頂きました。ありがとうございます。


しかしあんな日本語の怪しい意味不明なハイク書いちゃって恥ずかしいです…。後から読んだら自分でも文意が分からなくて困りました。
なので、お返事しつつ改めて説明していけたら…と思います。


まず、私はこう書きました。

「ガチ」なもの=各カテゴリの正真正銘な代表者とする考えは、グレーゾーンというか、アイデンティティが分かりづらい人には、外野へ追いやる力学として機能しやすい。

それに対してみやきちさんは

ええと、「「ガチ」なもの=各カテゴリの正真正銘な代表者とする考え」「(ガチ=)揺らぐ事のないモノセクシュアル」なる発想が存在することを今初めて知ったんですけど、これってそんなにメジャーな考え方なんでしょうか。少なくともあたしが名乗る「ガチ」はこれじゃないわ。ていうか全然違うわ。

と書かれました。


ここらへん、私は正直それほど「ガチ」について深く考えなかったと言うか、知りもしなかったんですね。みやきちさんが「実際にバイセクシュアル(ガチ)を名乗る人もいる」と仰ったけど、確かにガチバイで検索かけたら他称にしろ自称にしろ結構ヒットするんですよね。だから自分は認識が甘かったなぁと思いました。


ただ、私が最初のハイクを書いた時点で抱いた「ガチ」の印象は、ーーメジャーかどうかは分からないもののーー正直なものです。そして、その印象ゆえに抱いた私の恐れの原因は、「個々人が『ガチ』をどういう真意で使っているか」ではなく、その語自体が持つ線引きにあったのです。つまり、言説の構造問題です。 (それは正に、「ガチ」と「なんちゃって」を分ける言説政治から起こる問題、とも言えます。)


さて、「ガチ」ではない私がここにいます。そして私は「ガチ」と名乗れる自信が色んな理由でありません。そんな折に、特定のカテゴリ内に「ガチ」な人が居ると思うと、「では、所謂『ガチ』じゃない人は一体何なのか?」と私は立ち止まります。つまり、「ガチ」じゃないなら私って実はーー「なんちゃって」のようにーー「異性愛のなりそこない?異性愛者のごっこ?」と思う所があったんですね。(ところで私は過去に「なんちゃって」を非難する記事を書いています。今そのことの整合性が合わなくて困っているところです)


確かに、「ガチ」に対して「誰がどんなニュアンスを込めて名乗っているかなんて、全員に聞いて回りでもしない限りわかりはしない」ですが、個々人がどういうニュアンスで名乗っていても、「ガチ」によって「ガチなもの」と「ガチでないもの(…なんちゃって?)」が自然に作られるニ重構造は生まれますよね。(以前マサキチトセさんが書いてらした、いわゆる「アライ」の三重構造問題と近い話かもしれません。http://d.hatena.ne.jp/cmasak/20081226/1236954044


で、私は「ガチ」に「=揺らぎのないモノセクシュアル=カテゴリの正真正銘な代表者」という印象(本人の真意に関わらず、そういう意味が付与されている印象)を持っているために、ニ重構造の中で事後的にカテゴリから追い出される主体が生まれるはずだ…、と危惧したわけです(杞憂なのかもしれませんが、私はそう思いました)。
勿論それが妥当な危惧か要検討でしたが、仮にそうであるなら「ガチ」の力学は多様な使い道があるにせよ、外に追いやるタームにもなるはずだ(「正真正銘の代表者がいる」という考えへの親和性)、…と。


ですから、一人一人の当事者が掲げる真意を「ひとつの意味(=各カテゴリの正真正銘な代表者とする考え)」だと決め付けたつもりはありません。いえ、つもりなだけで、書き方が足りなかったかもしれません。アイデンティティの占有を否定する「ガチ」ケースにも、触れるべきだったと今思いました。すいません。


ただ、ここでひとつ明瞭な事実がありますよね。結局私の恐れは、みやきちさんが「心底イヤだ」と仰る偏見(ヘテロノーマティビティ・セクシズム)に根付いてることです。


世の中何かと言うと、シスジェンダーヘテロが標準とされます。セイブツガク(笑)的な“本来性”が特別に付与された唯一の存在。私は、この確固たる存在感が恐ろしくてたまりません。
私は自分が女アイデンティティに憧れていた経験もあり、思春期過ぎるまでは全く男性以外に性欲求がなかったので、突然notモノセクシュアルになった日は、そらもう色々おびえました。「実は自分はヘテロ女で、やっぱり間違って生まれたのか!?(同時に、自分がヘテロ女にアイデンティファイしてるのか、あるいはヘテロ男にアイデンティファイしてるのかよく分からなくなった)」「実は今まで異性愛の魅力に気づいていないだけの未成熟な人間だったのか!?(やはり同性愛は『治療』される類なのか?)」というありきたりな、しかし覇権的にささやかれる言説に私は惑わされ、まるで自分が少しでもシスなヘテロに近づけば、世界中のクィアは所詮「本来あるべきシスジェンダーヘテロ様!」の成り損ないになると思い込んで。(幼少期から男フェチだった自分こそが「ガチ」じゃないと、世界全体がそうなるんだと思い込んで!)
という訳で、揺らいだ時点で私は「ガチ」とは名乗れなくなったんですね。今まで信じきっていた「自分」が、足場から崩れたのですから。…いや、「実は今まで揺らぎに目を瞑ってきただけではないか?」と現在進行中で悩んでます。

それこそ、

「『本当は』異性愛者なのに、同性ともつきあえるのがカッコイイとか思ってるんだろう」とか、ありもしない「本当」を

自分で探し続ける羽目になりました。
…だからこそ、「ガチ」と名乗る存在に縋りたいのです私は。


こうした恐れは、「ガチ」の言説政治と無縁だとは、正直思えません。
なぜなら、少なくとも私にとって「ガチ」は、“真の”意味を指す権威として映っているからです。…よく「ガチ」は「真性(本当?)」と重ねられますが、私はついつい“真の”自分や“真の”定義を脅迫的に探してしまうのです。「真があるなら偽もあるはずだ」と。すると、「ガチ」の二重構造にはまって自分が余計に分からなくなる。だって、どんな自分が真かなんて、本来理屈で分かるハズがないもの。そんなものは、科学的にだって現在証明できていない。なのに、揺らぎ続けてる今の自分を、まるで偽者かのように思い込む…(たまにだけど)。それは究極的に言って、本質主義です。
それが的外れな「ガチ」認識なら恥ずかしい勘違いでしたし、強迫観念に捕らわれるのは誤りだと頭では分かっています。(でも、セイブツガクはそれを暴きたてようとします)(時々ニュースで見かける同性愛や性同一性障害の生物学的根拠らしき証明が、どれほど私の精神と自我同一性を脅かす事か!!)


…しかしもちろん、みやきちさんの仰るように「ガチでクエスチョニング!」と名乗ればよかったのかもしれませんし*1、「ガチ」定義の乱立方式に気づけばよかったかもしれません(後述)。

「ガチ」と「ガチでない者」の狭間で勝手に不安になったのは、そんな名乗り方を想像すらできなかった私の自己責任(て言葉嫌いなんだけど)でもあります。「ガチ」の広い可能性を見誤った私が浅慮でした。
ですから、「ガチ」を名乗る個人に私の恐れの責任は、もちろん負わせられません。一方的に責任を擦り付ける言い方をして、すいませんでした。一人一人に「ガチ」と名乗らなければならない動機・背景もあったのに、配慮が足りませんでした。特にクィア女性はクィア男性より「おしゃれな遊びだね☆」「ヨシヨシいつか卒業するよ」等と、矮小化の偏見に晒されやすいので、「ガチ」を名乗る必要性が端からも理解できます。
あくまで批判対象は個人ではありません。各マイノリティがどう自己を守るかの実践は、常に尊重されるべきだからです。「ガチ」と名乗ることで個人が不利益を解消できるなら、それ自体は否定すべきではないはずです。*2


ただし、私が危惧する「ガチ」の使い方がなされた時、私はその「ガチ」を批判しますし、やはり「ガチ」そのものにある種の危険性“も”見出すでしょう。
そのてん、みやきちさんの「ガチ」使用法は画期的でした。

ちなみに、「わたくしがレズビアンだと名乗るわけ」の方にも書いてますが、あたしゃ

ひょっとしたらこれから男性相手に雷に打たれるような出会いがあって、恋に陥ったりして、下手したら結婚出産なんかしたりして、そうしたらヘテロセクシュアルバイセクシュアルを名乗ることになるかも
わたくしがレズビアンだと名乗るわけ - みやきち日記

というのはずっと思ってますし、

レズビアンが全部自分と同じだとか似ているとかは全然思わない、つか『同性が好きか異性が好きか』という側面だけで人間を分類しきれるはずがないと思ってる、だから『レズビアンです』と名乗ったって実はあまり意味がないっちゃないと思う
わたくしがレズビアンだと名乗るわけ - みやきち日記

っていうのも、昔からずっと変わってません。

これには目から鱗です。…すいません、かの記事は当時も読んでいたのですが、今の今までその意義に気づいていませんでした。
皆さんはお分かりになっていたでしょうか。この「ガチ」使用法はセクシュアリティが揺らぐことすら予定(?)して、それでも「レズビアンである自分」を守る。「ガチ」であることの担保をモノセクシュアルにしないこと、また、その「ガチ」使用法が全員共通だと言わないことで、他者に向かって「ガチ」の別な使用法を否定しないし、同時に「ガチ」でない人から「LGBT」を「自分のこと」として語る自由を奪わない。
ある種、二重構造の外側に別の二重構造を作り、二重構造に収まりきらない人が自由に解釈できる隙間を用意しているんですね、きっと。*3
たぶんこれなら、私も「ガチ」と聞いたからって「真の自分探し」をせずに済む…ような気がします。いや、結局のところ、私の恐れって精神状態に大きく左右されるし、どの道「ガチ」を名乗ることはナイんですけどね。ただ、「ガチ」の意味が拡散されることで権威を発揮しないのであれば(「『ガチ』じゃなければ自我同一性や居場所を脅かす!」て訳じゃないのであれば)、私も無理して「ガチ」を名乗らずに済むということです。



それはともかくとして、ですが。改めて書いておきたいことがあります。

みやきちさんは

それはシャドウボクシングというか自家中毒というか悲劇の自給自足というか、あるいは単に、枯れ尾花を幽霊と見立てる行為にすぎないなのではないでしょうか

と仰いますが、そう言われれば否定はできません。
とまれ、私の恐れ(自信と尊厳を持つ機会の不足)が「自家中毒」であったとしても、その事実は、私の恐れが単なる一人相撲・個人の問題だという結論を導きませんよね。そのことは、みやきちさんなら分かってくれてると思います。


しかしながら、揺らぎを経験する機会が少ない“お墨付き”なストレートには分かりづらいかもしれません。実はソレもストレートに保障された特権であって、私の恐れは確実に「シスジェンダーヘテロが標準だ」と考える社会規範に根付いています。


そして、「ガチ」と名乗れないために、よりストレート標準説に脅かされたのも事実なのです。少なくとも私の中では。 それはナイーブな恐れで、確かに「シャドウボクシング」「自家中毒」かもしれません。ですが、私の悩み恐れが全部全部自分の勘違いだったとは思えません。前述したように、私は確かに要請されました。シスなヘテロであることを、「ガチ」な自分であることを。ですから、社会的文脈で私の恐れを見てほしいです。


…今回、「ガチ」のニ重構造が引き起こす政治について、もっともっと要検討だなぁと反省しましたが、これだけは明記させていただきます。


最後のまとめ。

クィアにばかり「ガチ」か否かを問うストレート標準な社会こそ、こういった恐れを解消すべきだ。「ガチ」でなければ自信と尊厳を持てない社会、「ガチ」であることを不本意な人にまで要請する力学に注視すべきだ。なにより、クィアクィアとして生きる尊厳をもっと寄こせと主張すべきだ。
ということです。

それでは、お付き合いありがとうございました。



  • 蛇足。

*1:とまれ、「ガチなクエスチョエニング」すら名乗る自信がないと、更に問題です。というか、クエスチョニングのガチって何だろうという問いは、再び生じますし。…まあ、そこはゆっくり考えたいです。

*2:たとえばマサキさんが仰るように、アライにしたってLGBTがあえてアライを名乗ることでカミングアウトせずに運動できるメリットがあるけど、それは否定すべきか?と言うと難しいと思う。

*3:…ん?もしやポストモダン的バラバラってこういうこと?いや、そもそも誰だってガチじゃなくてもいいんだし、あまり関係ないか?

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