松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

戸田ひさよし氏起訴

(1)12月28日午後、国家権力は、不当にも戸田ひさよしを起訴しました。それも、身柄を獄の中に閉じ込めたまま!私たちは腹の底からの怒りを抑えることができません。
(略)
すべての皆さんの力で、以前よりも戦意と闘志がとぎすまされ、体が引き締まった(少しはスリムになった?)戸田ひさよしを、一日も早く私たちの元に、門真市民の元に取り戻しましょう。
http://hige.s149.xrea.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=523;id= ちょいマジ掲示板(改訂版)

昨日のテレビでちょっと写っているところが出ていた。悪人面といった印象を与える映像だった。がんばってスリムになってもテレビ局はやはり「悪人」という枠組みで編集するかな?どの程度意図的にするかどうかはともかくやっぱりそうでしょうね。
ま、とにかく、戸田さんがんばってください。

(3)なお、年末年始の特例ということで、戸田の身柄は、現在も大阪・西警察のままですが、年明け早々には大阪拘置所に移管されると思います。(同上)

警察に屈服した議会

 さて、私に対して一本の呼び出し状も寄こさなかった警察が、12月定例議会本会議前の、議案説明を受けているさ中、なぜ突然、大勢のマスコミを動員して市役所・市議会に乗り込んできて、テレビカメラの放列の前で私を逮捕、連行し、長期監禁するようなことをするのでしょうか?  (戸田)
http://hige.s149.xrea.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=519;id=

以下のように戸田議員に対しての辞職勧告決議賛成議員は主張しているが門真市議会議長や議員たちは自分の無能力を恥じ謝罪しなければならない。

>議員が、市役所内の議員控室まで捜索を受けたことは、市民に選ばれ
>負託を受けた者としてあってはならないことであり、まして逮挿される
>とは言語道断と言わざるを得ない。

なぜなら、議案の説明をしている議員控え室まで警察の踏みを可能とさせたのは、とりもなおさず議長および議員たちの責任である。
警察は踏み込む前に議長に通告しているのが当然であり、少なくとも与党会派の議員は議長より相談を受けていたはずである。

警察よりの通告時点で議長は議会内での逮捕を拒否しなかったために、議員への議案説明時に逮捕ということを警察はできたということになる。
上記の理由により議案説明時に逮捕が起こったということはとりもなおさず、黙認または是認した議長・議員の責任であるのにもかかわらず彼らが戸田議員の責任とするのは、自分で火をつけておいて自分で消火して人の責任とする、いわるゆマッチポンプである。

議長が警察より戸田議員逮捕の通告がなかったと主張するならば、それこそ
市民に選ばれ負託を受けた者への議案説明中の議員控え室への警察踏み込みについて、その場で 「 「住民自治」「地方自治」の場を蹂躙され議会を侮辱された。」と警察に対して抗議すべきであるのに行っていない。 また他の議員も同様である。よって、

上記どちらの場合にしても、
推定無罪の地位にいる戸田議員を責めるのはおかど違いであり、
議長ならびに議員は自ら猛省・謝罪すべきである。

滋賀県志賀町議会議員 砂川 次郎
http://www.asahi-net.or.jp/~ph6j-sngw/what_new.html

砂川氏の意見に全面的に賛成する。

戸田氏発言の一部

http://hige.s149.xrea.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=519;id=
ちょいマジ掲示板(改訂版)

 それで、先ほどからの当方弁護人の「勾留は不当だ」という具体的で詳細な主張と、長瀬裁判官の抽象的で具体性のない主張を比べてみれば、長瀬裁判官の主張はまったく道理が立っていないことは、誰が聞いても明らかなのですから、長瀬裁判官は、この公判での論議によって正しい考え方が発見されたことを素直に喜びながら、私と○○さん、武委員長の勾留を取り消す決定をすぐに行うべきです。
 さて次は、本勾留自体が不当なのですが、その中でも、長瀬裁判官が、拘置所ではなく、あえて留置場を指定して私を勾留している問題です。
 今あなたの手元には、私の手書き文字による意見書が出されていますが、それを留置場で書き上げることにどれほどの苦労を被疑者が強いられているか、あなたはわかっていますか。
 留置場では、筆記具を使える時間帯は1日にたった9時間半だけ。しかもその中に取り調べがあり、昼食・夕食があり、貴重な弁護士接見と週2回は風呂があり、実際に書き物ができるのは、1日のうち1〜2時間だけ(私の場合、当局に要求して2日間だけ特別的に時間が少し増えましたが)。しかも、うるさくがなりたてる場内ラジオに気を散らされ、机もなくて、膝の上に用紙を置いて、自分用、裁判官用、弁護士用の3部を書き上げたわけです。
 書面作りだけでなく、せっかく接見禁止の一部解除によって、現職市議として、議案書など議員配布資料の差し入れを受けているのに、夜9時から翌朝7時半までは当局に本類はすべて回収されて目を通せない。読める時間帯でも、夜6時半からは文具を取り上げられてしまうため、アンダーラインを引くことさえできない、というのが留置場の実態です。これが拘置所であれば、机が与えられ、一定数の書類や文具を終日房内に置いて使うことができます。
 それなのに、長瀬裁判官は、より不自由な警察留置場をあえて指定して12月28日まで勾留せよ、との決定を出している。いったい、何を考えてそんな指定をしたのですか?!
 さらに留置場では、毎晩文具類を回収されるために、取り調べに対して黙秘していても、警察署内で取調官が、私の書きかけの原稿を毎日のぞき見ることが簡単にできるのであって、被疑者の黙秘の意志を踏みにじって、その内心を取調官が書き写すことさえできるのです。
 長瀬裁判官、あなたは、警察に逮捕された者は、警察の意のままになる状況に置くべきで、被疑者の防御権も、83年最高裁大法廷判決での「一般市民としての自由の保障」も必要ない、という考え方の持ち主なのですか?
 そうであってはならないはずです。

 戸田ひさよし氏のことを長々と取り上げた。言論の自由が狭くなっている現在の情況の正確な指標になっている、と考えるからである。戸田氏は市会議員であり、彼の言説は一般市民のそれより力を持つ。彼はその立場を十分に利用し市民のためにがんばってきた。彼の自由が抑圧されるとは、われわれ庶民の言論の自由はすでにない、ということを意味する。
 地域の小学校の門前でビラをまこうとした時に、校長がやってきて注意する。しかも「警察」という言葉を出して。これこそが言論の自由がない国、である。

 それとともに、戸田氏は刑事被告人であることにより、サバルタンである。(一方わたし野原は観察者(記述者)である限りにおいてサバルタンではない。)
彼のサバルタン性は二重に現れる。ひとつはマスコミにおいて、彼が刑事被告人=悪党という枠組みにおいて表象されるということ。彼がある発言をしたとして、それの発言はどうせ悪人(かもしれない人)が言ったこととして取り合ってもらえない可能性が強い。もう一つは、彼が自分の意見を文書などの形で公表していくことに対する絶えざる抑圧が存在する点である。「実際に書き物ができるのは、1日のうち1〜2時間だけ(略)。しかも、うるさくがなりたてる場内ラジオに気を散らされ、机もなくて、膝の上に用紙を置いて」といった劣悪な環境下で思考〜表現することを強いられる。彼はその困難をはねのけ、下記のような議員としての仕事(表現)を立派に成し遂げているが、私のような凡人だったらとうてい無理だっただろう。
http://hige.s149.xrea.com/x/c-board/c-board.cgi?cmd=one;no=524;id= 
 そのように彼は、議員という特権的表現者から、サバルタン表現者という二面性を持つものへ転位した。
"Can the Subaltern Speak?"(G.C.Spivak) から  "Let the Subaltern Speak."(Paddy Ladd)へ!
 というスローガンはそれだけ見ると矛盾していて馬鹿っぽく思えるがそうではない。サバルタンの本質にはわたしたちは自由に近づけない。したがってわたしたちができることはまず二面的表現者の発言を聞くこと。そして、矛盾を内包した二面的表現者の存在のあり方を追体験してみなければならない。わたしたちは自由な自立した表現者でなく、「一方の文化秩序を他方の従属的集団に押しつけようとする不平等な権力関係」*1のなかで思考〜表現したつもりになっているにすぎないのだから。

表現過程としての被拘束空間(序)(前半)

 以上のような被拘束空間における表現という問題を考察するため、の資料として(松下昇氏の)次のような文章を掲載する。
 わたしたちは被拘束空間に居ないとしてもなお、意外なほど狭い領域に拘束されているのではないか。そうだとすれば下記は見かけほど特殊なテーマを扱ったものではないことになる。

表現過程としての被拘束空間(序)

 このヴィジョンは、被拘束の全過程が、それ自体として現情況のさまざまのテーマ群を基底からとらえかえす表現位相をもつという情念と、被拘束空間における多くの体験の具体例を表現という視点で総体的に把握したいという情念の二つの流れによって渦巻いている。それらが一定の構成として視えてくるまで待つことが何かから許されない気がするので、まず意識から言葉へ突出してくるものから順に、手あたり次第に、いくつかを記してみよう。

 拘束の瞬間から、身につけている文書や、とどけられる文書、発信する文書は全て検閲される。私や私の共闘者の文書はよみにくく、内容も意味不明で大いに不評であった。しかし、私に好評であった私のみる〈夢〉や、毎朝きく〈鳥〉の声は検閲されなかった。

 法廷へ行く場合には、前日朝に携行する予定の文書を全て提出しなければならない。従って、公判の前日の朝から公判の開始時までは、文書に関する限り、だれよりも公判から遠い。この遠さは苦痛であるが、時々思いがけない発見をもさせてくれた。

 独房内では、パンフ十種類を十日以内、ノート三冊(プラス・アルファ)を絶えまない検関でうばい去られつつ使用できるだけである。共闘者から資料の入った手紙がとどくと、うれしいけれども、その瞬間に、房内にあるパンフ(たとえ一枚のビラ、一枚のコピーでもパンフとみなされる。)一部ないし全部を強制的に領置(どこかの倉庫の個人用の棚へ入れておくこと)させられる、という哀惜と怒りの念もわいてくる。前項と共に、いつでも、あらゆる文書を手にしつつ思索〜準傭できるのとは全く逆の条件下におかれるのである。この規制は特に東京拘置所において強化の一途をたどりつつある。しかし、この状況を一つの表現の方法として逆用してたたかうこともできた。

 拘置所では、入ってからすぐに「裁判所への文書提出のため」と要求すれば、翌日ぐらいに筆記用具を手にし、自分用のメモを含めて何でもかくことができるが、讐視庁本部の留置場では全く禁止されていた。辛うじて身体的自己診断書をかくという名目で、それも取調中の刑事たちの休憩中にという制約下で歯やせき椎の苦痛に耐えつつ二枚のメモを作成し、警察官、検察官の検闘をくぐって外へ出すことができたが、この紙片の中に〈身体〉だけではない諸関係の〈診断〉をこめようとする苦闘としても印象に残っている。なお、権力の手の中にある病院の<治療>は症状を悪化させるだけであった。

 拘留中の発信や面会は原則として一日一回(監置中は十日に一回、親族とのみ。服役すると更に制限される。)であり拘束施設の判断で存在を告知されることさえない場合もあった。一例として、一九八四年一二月三一日に、「カッコ」(〈 〉)とか「星雲の位相」という表現を含む電報が外から私へうたれたが、当局は、これを理解できないため暗号とみなし、出所時まで、電報があったことさえかくしていた。かりにn年間拘束されていれば、n年先まで判らなかったのである。私の場合は一週間後に監置二○日の拘束期限が終り、一月六日朝の出所時に告知されたが、直後に予定されている令状逮捕の瞬間が迫っていたためか、係官は内容を殆どみせないまま書類袋の中へデタラメに入れ、封印して持たせ、逮捕現場へ急がせた。逮捕後の警視庁本部では書類などみせなかったから、私がこの電報のコピー(なぜか原本ではない)に出会ったのは、起訴後再び拘置所へ送られ、再入所時の物品検査を応用して電報を判りやすい所へ移動し、舎下げしてもらってからである。

 拘置所では朝の点検の後で、「ネガイゴト!」と叫びながら看守が巡回してくる。シャバの水準からみると、いささか、こっけいであるが、被収容者にとっては、必死の「願い事」の恩恵のときである。何しろ、釈放せよとかラーメンをくわせろという要求は別として、前述の領置(宅下げの前にも必要)、舎下げ(さし入れなどを房に入れてもらう。大阪では仮出しという。本来は倉庫に入れておくべき、という発想からであろう。)などは多分、数日後には(!)七夕の願い事以上に(?)かなえられる。この“数日後”という時間性に注意していただきたい。そして、前述の領置や舎下げは、毎日出来るわけではないことにも。(大阪では、一日おきに領置と仮出しの日が決められ、予告なしに二日続けて、どちらかが連続することもあるので、特に下着の移動の場合、身体の新陳代謝等との関連で問題が深刻になった。これは食物や文書などの到着のおくれに匹敵する、あるいはそれ以上の表現時間性のズレのテーマである。)

 看守(法務省刑務官)らは、大まじめで「願い事(はないか!)」と怒鳴り、被拘束者も大まじめで「願い事があります!」と答えて願箋をうけとり、記入,提出する。しかしこの「大まじめさ」が、ふと崩れる瞬間もある。法的許容度をこえる要求を出した時と、被拘束者が「大まじめ」のばかばかしさを言葉でなく内容として展開した時である。それぞれ、いくつかの体験があるが、後者の一例を上げると、拘置所では、検閲の関係上、日本語以外の文書は、さし入れを禁じられている。私のところへ翻訳依頼の外国語の原文が数十枚送られた時、当局は、この規則をタテに房へとどけなかった。私は、とどけるよう何度か「願い事」をしたが、当局の回答は一枚三千円で拘置所指定の翻訳者にたのめば、訳したものと併合してとどけるというのである。私の場合、一枚五百円というのに! のみならず、私が翻訳する場合にこそ意味があるのに!これらのことを拘置所長との面接を含めて「願い事」した時、何回目かに規則のロボットのような看守は笑い出し、何とかしてみる、といって立ち去った。所長との自主ゼミや〜を辞さない、こちらの構えに、問題の拡大を怖れる配慮もあったのかも知れないが、その日の午後に翻訳用原文はとどいた。それにしても文書の制限や抹消を、勾留を医学的に? 根拠づけることを職務とする拘置所の医療と共に批判し対象としていかねばならない。もちろん〈外〉国語もちこみの前例の応用〜拡大もやっていきたい。

p31-32『時の楔通信 第〈12〉号』(1985・8)*1

*1:松下 昇〜未宇を含む時の楔通信発行委員会

表現過程としての被拘束空間(序)(後半)


 さし入れされた文書に何か記入してから外へ送ることも原則的に禁止されていた。「救援」紙上に掲載された自分の文章のミスプリ訂正さえ!〈 〉獄にある間、「海燕」誌上での埴谷雄高氏と吉本隆明氏の往復書簡による論争も、コピーをさし入れてもらったので四回分全てについて詳細な意見を〈 〉評として記入した(これ自体は論争を基底から転倒しうる内容であると自負している。)が、前記の規則によって外へ送る作業が妨害された。この場合には、あて先を宗教者(医師、弁護士と共に一応、別扱いされる。)とし、〈宗教〉上の問題で自分の〈悩み〉を相談するのだから、と仮装して突破した。回覧は歓迎するが、この号のテーマ群を共に追求しつつにしていただきたい。*1


 朝タの点検の際に元気よく大声で答える被収容者がかなり多数おり、私は、はじめうち、看守が怒鳴りつける声かと錯覚していた。やっと、そうでないと気付いた後、全被収容者の解放は一刻も早く必要であるとして、そのように錯覚させる発声(に象徴される表現の根拠)の自己対象化と同時にでない限り、かれらにとっても真の解放になりえないのではないかと感じている。

 獄中で、ある統計をみて、がく然としたのであるが、日本全国にある拘置施設(拘置所、刑務所)の数と国立四年制大学の数ははぼ同じである。また、四年制、短大、高専を含む全ての国・公・私立大学の数は、日本全国にある留置施設(警察署)と前記の拘置施設の総計とほぼ同じである。やはりそうだったのか!獄中でも〈大学〉闘争の永続的構造が開示されてきていたのだ。そこに出入りする人、管理する人の殆ど気付かないままに……。

 保釈後によんだ増淵利行氏の「東京拘置所」の図解で、あらためて確認したが、私が監置中にいた北三舎一階一二房は壁をへだてて処刑場に近く、勾留中にいた新三舎二階の各房(ペンキぬりかえ作業のため、二階のはしからはしまで転房したので、連合赤軍森恒夫氏の〈自死〉した空間も通過している)の被収容者運動場の向こうには豚を飼うため(→屠殺するため)の小屋がある。それぞれ獄中ではよく判らなかったが、何かの気配をただよわせており、この空間的磁場は、被収容者に深いところで影響を及ぼし続けている。それぞれについて改めて論じるとして、食事に時々出る肉についてだけ一言いうと、被収容者の残飯で豚を飼い、それの肉を被収容者が食うという怖るべき循環の開係性の変革プランが、私たちが食事する場合の〈メニュー〉の前文に、どこで食事しようと、かりにやむをえず〈肉〉食を続けようと、かかげられるべきであろう。他の生物の生命の犠牲の上に立つ食事(文明)を止揚する革命をも射程に入れつつ……。

 被拘束状況は、国家と自己の存在様式を明確に対象化する契機をも与える。このことに気付き、言葉として扱うかどうかは別として、たえず自らの課題にくりこんでいるかどうかは、私たちの共闘者たりうるかどうか判断する場合に極めて重要であると思われる。国家との対決の回路がみえにくくなったなどという者は情況からの失墜者にすぎない。一方、被拘束状況にある人々(予定〜可能性のある人々を含む)は、具体的権力機構の弾劾と同じ比重で、自らのテーマを最も遠いヴィジョンに変換させ、共闘させる作業を求められるであろう。
 私は、〈 〉獄で、被拘束空間における時間の流れにずっと関心があった。表層の出来事を捨象すれば、拘束の持続につれて、個体の生理的基層部で時間が速く去る傾向(α)、壁に阻まれてより鮮明になる被拘束者の感覚(希求)の生成や変化に関連する速度や加速度の問題(β)、法廷での審理のためだけに切りつめられ拘束されている身体性と共同幻想の格闘力学の時間構造(γ)のそれぞれの関連追求〜爆破の試みについて今後も〈 〉闘争過程で開示していきたい。
 ここでは〈 〉獄で主としてγ性の時間の耐え方で私のとった方法をのべる。私は一九六八〜九年の神戸大学闘争のバリケードの時間性を一つの暦にしていた。六八・一二・一七に神戸大学教養部学生自治会代議員大会は無期限ストを決議し、学生自治会という形態をも解体する方向で、ストライキ実行委員会を結成していく。そして一九六九・二・二の〈情況への発言〉をへて、二・十に教養部を中心とするバリケードが全学化する。B一〇九やA四三〇や〜における自主講座は、学内外のバリケード破壊勢力と対峙し続け、八・八の物理的バリケード解除後も続いていく。次々と処分〜起訴理由をひきよせ、転倒しつつ……。
 勾留が長期にわたる場合、たんに時間的な長さだけでなく、いつまで、という期限の不確定性がむしろ苦しいのであるが、私は、逆に〈バリケード〉の永続性を前提とする“未知なるものへの祈り”と共に獄を占拠しつつ、かつての日々に、被拘束空間の〈暦〉として出会い、もう一度生き、そのむこうへ歩もうとしたのであった。一二・一七法廷で永続する〈神戸〉大学闘争勝利!と口からほとばしり出た表現は、被拘束空間で、やっとその意味を私に告げはじめ、〈 〉獄の第六圏で苦闘する私(たち)を支え続けている。
p33-34『時の楔通信 第〈12〉号』(1985・8)*2

*1:(次行との間に一行あける)と原文にあるのであけておいた。

*2:松下 昇〜未宇を含む時の楔通信発行委員会

12/31の朝8時すぎ後半掲載。
これが掲載された『時の楔通信 第〈12〉号』(1985・8)は、35pで製本されていないパンフレットであるが、ちゃんと活字で印刷してある。二段組である。この文章の前半後半の区別はない。
参考までに目次を簡略化して並べる。

  1. {序}
  2. 〈東京〉地裁〜高裁
  3. 〈大阪〉高裁(〈神戸〉大学闘争刑事公判)
  4. 〈京都〉地裁
  5. 〈岡山〉地裁
  6. 〈高松〉高裁
  7. 最高裁〉とのたたかいについて
  8. 地下の《宣言》室への招待
  9. 宗派の解体と宗教性の原点
  10. 表現過程としての被拘束空間
  11. 訂正

 松下氏は1984年12月17日に東京高裁第822号法廷で拘束された。
次に85年1月6日(形式的)釈放後逮捕。
85年4月30日保釈。
といった経過をたどった。この間約四ヶ月半ほど「被拘束」状態にあったわけである。
 これらの日々の経過の中に、実はわたし野原が〈 〉闘争と最も深く交差した85年2月1日の京都大学A367教室に対する強制執行事件がある。
 丁度20年前の出来事であるがその〈私自身〉をどう引きずってわたしの現在があるのかという問いへの答えは空白のままだ。

・・・