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2006-04-01 代用監獄を廃止しよう!

代用監獄を廃止しよう!

被疑者死刑確定者の「処遇」に関わる法案が衆議院法務委員会で審議入りです。衆議院法務委員会での審議は、スケジュール通りに進み、採決される可能性が大です。とのことです。

あるMLでの「京都発/たまご」さんのメールにあった「刑事法学者の意見」です。

納得できる意見です。

推進側の「刑事司法手続は各国独自の歴史と国民性を背景としてきているものであり、これを度外視した『国際的基準』なるものを尺度として、個別の制度の存廃を議論すべきではない」とする意見、はおぞましい。「日本独自の歴史と国民性」と言えば何でも合理化出来るのか。論理以前のたわごとによる法改正は無用である。

転送歓迎です。

未決拘禁および死刑確定者の処遇に関する法改正についての刑事法学者の意見

2006年3月27日(呼びかけ&賛同者は略)

1. 法改正に向けて議論が尽くされなければならない

 本年3月13日、未決被拘禁者および死刑確定者の処遇に関する規定を含む「刑事施

設及び受刑者の処遇等に関する法律の一部を改正する法律案」(以下、法案)が国会

に提出された。この法案には看過できない数多くの問題が含まれている。私たちは、

法案を全面的に見直し、さらに議論を尽くすよう求めるものである。

 法案作成に先立ち、日弁連、法務省、警察庁による協議、および「未決拘禁者の処

遇等に関する有識者会議」(以下、有識者会議)による検討が行われた。しかし、有

識者会議においては、代用監獄の存廃、弁護人とのコミュニケーションの具体的あり

方など、重要問題をめぐって鋭く意見が対立し、本年2月2日に作成された『未決拘禁

者の処遇等に関する提言〜治安と人権、その調和と均衡を目指して〜』(以下、提

言)においても、これらについて一致した意見は示されなかった。また、死刑確定者

の処遇については、そもそも有識者会議の検討事項とされなかった。

 もとより法改正にあたっては、刑事手続や刑罰制度のあり方と関連させて、未決被

拘禁者および死刑確定者の処遇の基本原則、その具体的あり方について議論が尽くさ

れなければならない。早期改正の必要を理由にして、おざなりの議論ですませること

は許されない。以下、法改正に向けての議論において踏まえられるべき基本的ポイン

トを指摘する。

2. 国際人権法の要請を満たした未決拘禁法を

 提言は、「刑事司法手続は各国独自の歴史と国民性を背景としてきているものであ

り、これを度外視した『国際的基準』なるものを尺度として、個別の制度の存廃を議

論すべきではない」とする意見が有識者会議において多数を占めたと述べている(提

言10頁)。

 しかし、このような認識は誤りである。国際社会は、平和で民主的な世界を建設す

るために人権保障の国際水準を向上させなければならないと考え、さまざまに異なる

各国の制度すべてにおいて遵守されなければならない普遍的なミニマム・スタンダー

ドを設定してきた。市民的及び政治的権利に関する国際規約(以下、自由権規約)

は、そのようなミニマム・スタンダードとして、実体的・手続的な権利そのものを規

定しているだけでなく、それらの権利を確保するために遵守すべき手続保障をも定め

ている。被逮捕者を裁判官の面前に速やかに連れて行くことを要請する自由権規約9

条3項は、そのような手続保障に関する規定のひとつである。自由権規約の保障する

権利を「尊重」し「確保」する(自由権規約2条1項)ためには、このように定められ

た手続保障を遵守しなければならず、そのさい当然に、手続保障の要請に応えている

かという観点から、「個別の制度の存廃」をも検討しなければならないのである。

 また、自由権規約は、その実施状況に関する政府報告を規約人権委員会が定期的に

審査することを通じ、各国の制度において国際人権のミニマム・スタンダードを遵守

するために自由権規約の要請がどのように具体化されるべきかを明らかにしている。

それゆえ、規約人権委員会の勧告を確実に踏まえた法改正がなされなければならな

い。しかし、法案が国際人権法の要請に応えているかについては、重大な疑問がある

といわざるをえない。

3. 無罪推定の原則の意義

 被疑者・被告人は有罪が確定するまで無罪と推定される(憲法31条)。自由権規約

14条2項も、この原則を明文で規定している。

 有識者会議においては、無罪推定の原則の意義について意見が大きく分かれ、提言

は、「『無罪の推定』とは、一般に、証拠法上の問題として、検察官が犯罪事実の存

在を合理的な疑いを容れない程度にまで証明しない限り有罪とされないことを意味す

る」との意見を示したうえで、未決被拘禁者の権利および自由の制限は必要かつ合理

的な範囲のものでなければならないとまとめている(提言3頁)。しかし、これは、

無罪推定の原則の意義を正しく理解したものとはいいがたい。

 第1に、無罪推定の原則からは、未決拘禁を可能な限り回避することが要請され

る。この身体不拘束の原則は、国際人権法上広く認められているところであるが、自

由権規約9条3項も、「裁判に付されるものを抑留することが原則であってはなら」な

いと規定している。現在深刻化している過剰収容に対処するうえで基本におかれるべ

きは、身体不拘束の原則である。

 第2に、拘禁された場合でも、被拘禁者の権利は最大限に保障されなければならな

い。市民的権利の制約は拘禁目的を達成するための必要最小限度においてのみ認めら

れ、防御権の実質的制約は許されない。つまり無罪推定の原則は、「証拠法上の問

題」にとどまらない、権利保障に関する「処遇原則」でもある。自由権規約10条2項

(a)も、未決被拘禁者は「有罪の判決を受けていない者としての地位に相応する別

個の取扱いを受ける」と規定することによって、このことを認めている。無罪推定の

原則の意義を正しく理解したうえで、それを具体化する法改正がなされなければなら

ない。

4. 無罪推定の原則からみた法案の問題点

 しかし法案は、処遇の原則を規定する31条(以下ことわりのない限り、法案の条文

引用)において、「未決の者としての地位を考慮し、逃走及び罪証の隠滅の防止並

びにその防御権の尊重にとくに留意しなければならない」とするにとどまり、無罪を

推定される被拘禁者の権利が最大限に尊重されるべきことを明示していない。このこ

とは、具体的な処遇に関する諸規定において、施設の規律・秩序の維持、あるいは管

理運営上の必要性を理由とする権利制約が定められていることに現われている。未既

決ないし男女の未分離を認める17条2項、一般条項的に遵守事項を定める74条2項10号

・211条2項9号・262条2項9号、面会制限を定める118条・220条・268条、信書発受制

限を定める130条・136条・225条など、そのような規定は数多く存在する。さらに、

信書の内容検査を原則とし、かつ被拘禁者が発する信書は全て内容検査を行うとする

135条・222条・270条、外国語による面会・信書の発受について、通訳・翻訳の費用

を被拘禁者に負担させ、この負担が不可能である場合に面会・信書の発受を禁ずる

148条・228条・274条は、過度に広汎な権利制約であるとともに、防御権侵害をも招

くものである。

 防御権の保障との関係においては、とくに被疑者・被告人が有効な弁護を受けるた

めに、弁護人との自由なコミュニケーションの保障が不可欠である(刑事訴訟法39条

1項)。この観点から法案を検討すると、弁護人などが発した信書については、該当

性確認のために必要な限度での検査にとどめるとしつつも、この検査が内容検査には

決して及ばないことを明示していない点(135条2項・222条3項・270条3項)、被拘禁

者が弁護人に宛てた信書はすべて内容検査を行うことを前提としている点(135条1項

・222条1項・270条1項)、弁護人と被拘禁者との面会の時間帯、弁護人等の人数につ

いて管理運営上の支障を理由に制限しうるとしている点(118条・220条・268条)、

提言において検討すべきとされた電話・ファックスによるコミュニケーションについ

て一切規定を置いていない点など、重大な問題があるといわざるをえない。さらに、

法案117条は、被拘禁者と弁護人との面会についてまでも、施設の規律・秩序を害す

る行為がある場合には面会の一時停止を認めているが、現実的にみてその必要性に重

大な疑問があるうえに、面会の秘密性について不安が生じる結果、自由なコミュニ

ケーションに対する萎縮効果がもたらされる。防御権の重大な制約として、決して許

されるべきではない。

 また、管理運営上の必要性による権利制約という点に関連して、各施設の人的・物

的体制によって処遇・権利制約のあり方を異にすることを意図したと思われる規定が

数多く盛り込まれていることも問題である。たとえば、法案は保護室が設置されてい

ない留置施設における防声具の使用を認める(213条)が、これは施設の都合により

生命・身体の危険に及ぶ措置を行うものであって、このような措置は必要最小限の制

約という基準を満たすものとは到底いえない。

5. 捜査と拘禁の完全分離と代用監獄の廃止

 未決拘禁は刑事訴訟法に基づき裁判官・裁判所によって決定されたものであるか

ら、司法的コントロールに服さなければならない。そのためには、未決拘禁すること

を裁判官・裁判所が決定し、拘禁場所を指定するだけでは足りず、拘禁が捜査に利用

されないよう確保する必要がある。自由権規約9条3項が捜査と拘禁の完全分離を定め

ているのはそのためである。

 代用監獄は取調べの便宜・効率のために被疑者を警察の留置場に拘禁する制度であ

るが、これによって捜査と拘禁はひとつに結合する。捜査・取調べを行う警察の手に

よって、被疑者が社会生活と情報から遮断され、睡眠、食事、用便にまで至る全生活

が管理されるとき、たとえ特別な暴行・脅迫がなくとも、虚偽自白への強い圧力が生

じる。取調べ時間の制限、録音・録画など、取調べの「適正化」だけでは解消しない

代用監獄固有の問題が残るのである。代用監獄が捜査と拘禁の完全分離という要請に

反することは、明らかである。

 ところが、日本政府は、規約人権委員会に対し、警察内部において捜査部門と留置

部門が分離しているから弊害はないと繰り返し主張してきた。提言もまた、捜査部門

と留置部門の分離について、「積極的に評価すべきである」と述べている(提言12

頁)。この点について、法案は、「留置担当官は、その留置施設に留置されている被

留置者に係る犯罪の捜査に従事してはならない」と規定し(16条3項)、留置施設に

おける懲罰が捜査目的に用いられることを禁止するにとどまっており(190条3項)、

拘禁が捜査に利用されないよう確保するという捜査と拘禁の完全分離の要請にまった

く応えていない。

 実際、捜査と留置の「分離」といっても、同じ警察署のなかで担当部署が分けられ

ているにすぎない。取調室と留置場は同じ警察署のなかに近接して設置されている。

留置担当者には、被拘禁者の健康管理、食事・睡眠・運動時間の確保のために、捜査

担当者に対して取調べの打ち切りを求める権限は与えられていない。深夜にわたる長

時間の取調べの例は、最近でも報告されている。警察内部での担当部署の分離では規

約の要請を満たさないこと、規約の要請を満たすためには代用監獄を廃止しなければ

ならないことは、規約人権委員会も再三指摘してきている。

 取調べの便宜・効率のために代用監獄が必要だという意見は、有識者会議において

も根強かった(提言10-11頁参照)。しかし、代用監獄による捜査と拘禁の結合、そ

のなかで生じる自白強要の圧力を考えたとき、取調べの便宜・効率を理由にして代用

監獄を存置することは許されない。代用監獄の廃止が国際人権法の要請であり、その

ために最大限の努力をすることが日本の国際的責務である。

6. 取調べと自白に頼りすぎない、透明で客観的な刑事手続の構築を

 有識者会議においては、拘置所の収容能力の限界も指摘されたが、これによって自

由権規約違反正当化され、日本政府の国際的責務が免除されることはない。現在の

拘置所の収容能力に限界があるのであれば、令状請求・審査の厳格化、保釈の積極的

活用などによって未決拘禁を抑制したうえで、必要な拘置所設置について具体的プロ

グラムを策定すべきである。

 ところが法案は、未決拘禁を抑制すべきこと、代用監獄への収容を例外的なものと

して限定すべきこと、代用監獄をたとえさしあたり存続させざるをえないとしても、

将来は廃止すべきことを明示していない。むしろ法案は、監獄法1条3項および刑事施

設ニ於ケル刑事被告人ノ収容等ニ関スル法律2条にあった「警察官署ニ附属スル」と

の文言を削除しており(14条1項)、そのことによって、警察官署から独立した大規

模留置施設の建設を追認し、代用監獄への収容を原則化しようとの姿勢を示している

かにもみえる。

 日本の刑事手続が目指すべき方向は、身体不拘束の原則に従い未決拘禁を抑制した

うえで、捜査と拘禁の完全分離という要請に応えるべく、代用監獄への拘禁を利用し

た取調べとそれによって得られる自白に頼りすぎることなく、透明性と客観性のある

手続を構築することである。これが刑事手続の国際水準であり、裁判員制度の導入を

控えた現在、焦眉の課題となっている。法案における代用監獄に関する規定は全面的

に見直されなければならない。代用監獄を直ちに廃止することが困難だというのであ

れば、廃止に向けての具体的プログラムを策定すべきである。

7. 死刑確定者の処遇について

(略)

自民党のコメント

http://seiji.yahoo.co.jp/gian/0164016403085/index.html

Yahoo!みんなの政治

自民党のコメント

賛成

※「第164回通常国会 提出法案要旨(平成18年3月13日)」自民党ホームページよりドットジェイピーが転載。

(1)刑事施設における未決拘禁者、死刑確定者の権利・義務を明確化し、外部交通を保障・拡充し、不服申立制度を整備しようとするものです。

(2)代用刑事施設制度を存続させ、留置施設に関する規定(施設の設置・管理運営、代替収容制度等)、被留置者の処遇に関する規定(処遇原則、物品の貸与、外部交通等)、不服申立制度、民間人から成る留置施設視察委員会の設置について定めようとするものです。

受刑者の通信の自由が認められた!

http://d.hatena.ne.jp/narushisu/20060323/1143122283 から

 刑務所の処遇改善を訴える手紙を出すことを違法に制限されたとして、熊本刑務所に服役していた男性が、国に慰謝料15万円の支払いを求めた国家賠償訴訟の上告審判決が23日、最高裁第1小法廷(泉徳治裁判長)であった。判決は「手紙の制限は原則的に許されない」との初判断を示したうえで、請求を棄却した1、2審判決を破棄、国に1万円の支払いを命じた。男性の逆転勝訴が確定した。

(略)

第1小法廷は違憲主張を退ける一方「憲法の趣旨を考えると、受刑者の更生や刑務所内の秩序の維持などに放置できない障害が生じる場合に限って手紙の制限が認められるというべきで、監獄法の規定も同様の趣旨」との初判断を示した。そのうえで「男性に手紙の差し出しを許可しても、本人の更生や刑務所の秩序維持に障害が出るとは言えず、不許可は裁量権の乱用」と述べた。

この事件の原告は加藤三郎さん。02年の12月に刑期を終えて出てきて、現在は岐阜に在住しているとのこと。

「驚くべきことに、ほとんど全面勝訴でした      加藤三郎」と本人もびっくりしておられる。

http://plaza.rakuten.co.jp/ssbdeva/diary/200603260000/

1977年(昭和52年)

2月21日、世界革命戦線大地の豚が、大阪東急観光を爆破。

5月2日、世界革命戦線大地の豚が、東大法文1号館を爆破。

http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/nihon.htm 日本赤軍東アジア反日武装戦線

上の「大地の豚」というのに関わった方のようだ。

1967年秋-78年1月

67年秋から反戦運動に参加し、75-78年にかけて、京都・大阪・東京などで10件ほどの放火・爆破事件を引き起こしました。

http://plaza.rakuten.co.jp/ssbdeva/profile/

と本人は書かれている。

欧米諸国やアジアの多くの国においては、日本の刑務所のように受刑者の表現の自由が極端に制限されている国は非常に少なくなっています。自由と民主主義を理念とする国において、このような状態が維持されていることは、反時代的、反現代的なことです。

http://plaza.rakuten.co.jp/ssbdeva/diary/20060210/

加藤氏によれば、欧米諸国だけでなくアジアの多くの国と比べても、日本の受刑者の情況はひどい、ということのようだ。

加藤三郎さん

については、人名索引の一部「か・カ」の欄に次のように記されている。

松下昇による『概念集シリーズへの索引と註〜1996・1〜』より)

笠井潔 G4・26、G6・7

・加藤三郎 G5・8、G7・4、G9・24右

加藤典洋 G5・8、G7・4

偶然笠井潔、加藤典洋という90年代を代表する?批評家二人に挟まれている。

加藤典洋については加藤三郎と頁が同じであり、「加藤三郎」論を書いた者として取り上げられているようである。

加藤三郎さんに関わる上記3項目のうち、G7・4(概念集7p4〜を示す)は右傍線が引かれているが、これは特に重要であることを示しているのであろう。

そこで下記にこのG7・4、「反日(続)」を掲載して見よう。

 「反日」については下記に掲載している。

http://from1969.g.hatena.ne.jp/keyword/%e5%8f%8d%e6%97%a5

反日(続)

   反日(続)


 74〜75年の東アジア反日武装戦線の爆弾闘争に対する最高裁の死刑・無期を含む87年3月の判決の確定後になしうる共闘は何か、と自らの無力への痛苦をこめて模索する人々の先端に、少なくとも最深部に、爆弾闘争を闘った加藤三郎氏がいることを『意見書−「大地の豚」からあなたへ』 (92年1月)はあらためて示している。収録された表現の大部分は前記の87年3月以降に獄中で執筆され、特に同年夏の〈お盆〉 (加藤氏が調べたところでは正確には孟蘭盆(うらぼん)で、元の梵語 ullambana の意味は〈甚だしい苦しみ〉)に執筆された「死者と残された者の間を架橋するために」は、例外的とさえいえるほどの少数派である爆弾闘争グループの中からさらに弾き出され自死した人たちを、第二次世界戦争の死者たちと対比しつつ、それぞれの〈甚だしい苦しみ〉を解決しえない闘争形態や発想を批判しているが、たんなる批判ではなく、自分自身の潜ってきた〈甚だしい苦しみ〉をへた問題点の深化として衝撃的である。

 かれは「転向」したのではなく、「深化」したのだ、という加藤典洋氏の巻末の解説は肯定してよいと考える。加藤典洋氏が『思想の科学』 (86年4月)に初めて加藤三郎氏を紹介的に論じた文章に獄中で書かれた散文詩風の表現が引用されている(このページの右参照*1)が、その中に、 〈私は非日のそよ風〉という一行がある。反日から非日へ…加藤氏にとってはそれが最も必然的であることは了解できる。 (なお、「必然的」はドイツ語でいうと notwendig であり、語源からは〈苦しみ・困難〉Notを〈転倒する〉wenden から来ていることを付記する。)ただし、私は、反日から非日へ…というベクトルを、加藤三郎氏の〈甚だしい苦しみ〉とどこかで微かにでも共通する転倒体験なしに共感の対象にすること、まして他の獄中ないし地下の反日闘争者を批判する道具にしてしまうことには異議を提出したい。前記のベクトルの変化は一方通行ではなく、可逆的な相互通行でありうるし、さらには二つの概念の間ではなく、この世界をとらえ直すいくつもの概念の間で相互に可逆的でありうる。そのように把握しない限り、〈日本〉のもたらしてきた〈甚だしい苦しみ〉の総体への責任は加藤氏の到達した地点を口実としたまま安易に救済されてしまいかねない。反日闘争を必然的たらしめてきた現実の矛盾は持続し、深化しているのだから。また、ベクトルの固定化は反日─>非日であろうと、非日<─反日であろうと、固定化自体において、いずれも実数性の限界を帯びており、そこから飛び立ち、虚数領域をへて自在に、最も必要な戦闘に赴く方法が〈そよ風〉のように求められているのである。加藤三郎氏の表現は、このような拡がりをもって受け止める場合に最もよく生きてくると考える。

 加藤三郎氏の表現の大きい特性は、目の前の直接的なテーマへの硬いメッセージによる暴露や脅迫ではなく、やわらかい幻想の跳躍力による本質への迫り方であるといってよい気がする。〈大地の豚〉という戦線名のみならず、声明文に出てくる〈闇の土蜘蛛 浮穴媛のこどもたち〉や、〈われらが戦闘のいのちをささえるこの地上と宇宙のすべての精霊たちに感謝と祈りを〉というイメージは、これまでのいかなる(爆弾)闘争における表現よりも原初的なコンミューン性に満ち、それゆえ未来的な可能性を秘めている。かれを宗教的な、内面への沈潜による〈転向者〉として否定的に評価するのは的はずれであるのみならず、評価者が支援する人々や、これから出現してくる人々が内包している可能性を破棄するに等しい。


 ところで、92年1月27日の朝日新聞(夕刊)の文芸時評(高橋源一郎)は、前記の本に出てくる自死した人々の「しぐさ」を取り出して論じている。(このページの右参照*2)文芸時評としては重要な指摘であるし、特に最後の( )の中の数行は巨大マスコミを応用する情報宣伝の試みとしても有効であると考える。ただし、表現それ自体として見る場合、この文章の全体は筆者のテーマ(ここでは「しぐさ」)の一つに、かなり無理をして取り込んでいるだけではないか、という印象がある。時評は、闘争から離脱して自死した二人の「しぐさ」だけを論じているが、加藤氏は、逮捕後に毒カプセルを飲んで死んだ人や死刑執行に直面している人を含めて論じているのであり、この差異は時評の全体に影響してくる。また、時評は様々な文学作品における「しぐさ」を列挙し、かつ「しぐさはある特定の個人に属していてその意味を別の言葉に翻訳することができない。」としているけれども、このように論じることがすでに翻訳、しかも誤訳である可能性に気づいていないように見える。時評が取り上げる二人の死者の「しぐさ」に限って考えても、そこまで追い詰められていく過程の総体における「しぐさ」との関連や自分の距離(行為における距離というより表現の根拠の距離)についての苦痛の感覚なしに論じても無意味であるし、むしろ死者を一瞬の観察の対象としかねない危うさをもつ。死者にとっては、自分のしぐさを意識する余裕などないままの一瞬ごとを潜ってきているのであり、それを強いてくるなにものかの〈しぐさ〉と戦っているはずなのだ。

 かつて菅谷規矩雄は68年1〜2月の現代詩手帳の文芸時評に「アドレセンスの証明」と題して、自分の詩の立場はテレビの映像や共同声明が届かない、路上で乱打され続ける者の苦痛、その孤立への共闘の姿勢である、という趣旨の記述をしている。「(かれの)拒否は身ぶりをつきぬけて、うめきへ、そして了解の身ぶりをひきはがして無言へとふみこんでいるのである。」そして次のようにもいう。「石を投げ、棒をふりあげるものは、そうすることによってデモンストレーションの、そして暴力の身ぶりをつきやぶりつきぬけるところまで達するべきなのだ。」菅谷のいう〈身ぶり〉はブレヒトの概念に影響されてもいるが、前記の「しぐさ」論よりも死者に近く迫っている。「石や棒」が鉄パイプや爆弾に変化しても菅谷の提起はいまなお新鮮であり、この68年の簡潔な時評は、92年の博識ぶりに化粧された時評よりも永続性をもつ。菅谷のいい方を持続すれば、アドレセンスとは「青年期」と定義するよりは、他者としての私を発見しようとしつつも、どうにも生きられない、とうめく時期である。〈日本〉にこの時期が持続している以上、アドレセンスを求め続ける者が提起する場合にのみ〈反日〉論も示唆的でありうるのではないか。

松下昇『概念集・7 〜1992・3〜』p4-5 より)

“非日”の“そよ風”

私は“非日”の“そよ風”

私の存在の内側を吹き抜けてゆく姿なきもの

目を閉じ内側に耳を傾けると

かけ抜け

舞上り

柔らかな渦巻きとなって

私の内宇宙をたわむれてゆく

“そよ風”

(「かぜのつうしん」第二号後記より)

東本願寺爆破事件がひきおこした反省

 加藤三郎氏に関連する『概念集』のもう一つの項目は「G9・24右」つまり概念集9のp24右側である。

 概念集9のp21から24は「おふでさき小論」として天理教教祖中山みきの表現を論じたものであるがその資料の一部として掲載されたもの。

最初にある天理教教会長の「東本願寺爆破事件に思う」という投書を紹介し、それについての刊行委員会(松下昇)による註を加えている。

 テロリズムに対して敵意というベクトルに収束するのでない反応などありえないというのが現在の雰囲気だが、三十年前はかならずしもそうではなかったことが分かる。

東本願寺爆破事件に思う

一読者より

 一九七七年十二月十九日付の朝日新聞の「ぺんざら」欄

十一月二日の京都・東本願寺爆破事件で出された「アイ

ヌモシリ(アイヌの土地)を侵略した」という「やみの

つちぐも」の声明に対し、同寺を本山とする真宗大谷

はこのほど、機関誌に「批判をあえて甘受する」という

見解を出した。

報道され、次いで一九七八年即ち、今年三月六日の同じ朝

新聞に『「ツチグモ」への回等*3づくりで」、「若い僧ら自己批判

」「宗門改革の導火線にも」「爆破事件の東本願寺」

という見出しで、真宗大谷派の人々の反省が伝えられてい

る。

(中略)

 これは決して他人事ではない。私たちにとって「中山み

きの弟子たる身で」と置き換えたらそのまま当てはまるこ

とである。否、神殿放火事件があったにもかかわらず、大

きなふしんを計画して浮かれている状態は、もっと厳しく

反省すべきである。他山の石とすべきことであり、対岸の

火と見ていることは許されることではない。

 本願寺の反省の中に「教団が天皇制の歴史と関連しなが

ら幾多のあやまちを犯した」というのがあった。お道の信

仰者が東宮御所訪問等、支配者に臣礼をとることなど今日

においてはあってはならないことであり、教祖に対する反逆

であるとの自己批判が必要である。

(後略)

    (教会長・61歳)

「ほんあづま』No・110  (78年4月)

昭和五十三年四月五日 印刷

昭和五十三年四月十日 発行

編集兼発行人 八 島 英 雄

(後略)


(刊行委の註 - 神殿放火事件とは、76年9月に

教団から全財産を騙し取られたという信者が

神殿の地下室へ献金を投げ込むスベリ台式の

集金装置へ燃えやすい液体を侵みこませた布

に火をつけて投げ入れ、かなりの紙幣を焼い

た事件である。しかし、平生から警察当局を

饗応して手なづけている教団側は、刑事事件

にすると問題が全社会的に取上げられるのを

怖れてもみ消し、一方では焼けた紙幣以上に

相当する献金を信者たちに指示した。

 この放火の根拠自体は東本願寺爆破とは異

なるとはいえ、他宗教の事件を自分の長年に

わたって布教してきた宗教のあり方を反省す

る契機になしうる人が例外的にではあれ存在

していることを、この投書は示しており、こ

のような人々に〈おふでさき小論〉を読んで

ほしい。なお、東本願寺爆破に関わった加藤三郎

は、概念集7で言及した「意見書」の中

で東本願寺派が反省の公式見解を発表したこ

とへのうれしさを記している。獄外にいる私

たちは、その後、公式見解を実践しているよ

うには見えない東本願寺派や「反省」さえし

ていない他の全宗派・宗教・集団への批判を

具体的に展開していかねばならないだろう。)

私の「懺悔」

真宗大谷派「不戦決議」

http://d.hatena.ne.jp/nappa2914/20060401#1144129566

上記にありました。参考まで。

 私たちは過去において、大日本帝国の名の下に、世界の人々、とりわけアジア諸国の人たちに、言語に絶する惨禍をもたらし、佛法の名を借りて、将来ある青年たちを死地に赴かしめ、言いしれぬ苦難を強いたことを、深く懺悔するものであります。

 私自身懺悔するのかどうか考えてみた。アジア諸国の人たちに、言語に絶する惨禍をもたらした。それは事実だ。深く反省すべきだろう。ただそれだけでは私にとってはどこか他人事である。「佛法の名を借りて」というところがポイントだと思う。私も私の先祖も仏教に縁がほとんどない。だから「佛法」に換えて、「アジアの大義の名を借りて」、とか「近代の超克の名を借りて」、とか言い直して考えてみる。すると戦後の思想や政治思想が「アジアの大義」や「近代の超克」を本当に克服できたのかという問いが現れる。答えはノーだろう。この辺を(サイードなどの力を借りつつ)まじめに考えるなら、鬼畜米英と戦うことに幾分かの大義があると信じようとして死んでいった者たちに対し、イラク戦争支持なんて恥ずかしくて言えないはずだ。きれいに展開できていないが、かって「佛法の名を借り」たのと同じように今も「佛法の名を借り」るという薄らみっともない自己欺瞞に、わたし自身が荷担している。と残念ながら言えるように思う。わたしが懺悔しなければならないとすればそのことについてだろう。(4/6記)

*1:クリックすると該当の画像ファイルが出るはず。詩行は下記の通り。

*2:クリックすると該当の画像ファイルがでるはず。

*3:ママ

加藤三郎加藤三郎 2006/04/03 23:24 加藤三郎です。私のことなでについて、いろいろ書いてくださってありがとうございます。私のプログにもこれらのうちのいくつかを、コピーして引用などさせていただきます。なを、私が東本願寺を爆破したのは、当時の気持ちとしては天理教に対する批判の気持ちもこもっていました。出来るなら天理教の本部も爆破したかったのですが、私が天理教の分教会の会長の息子であることなどから、私がやったものと推測され易いと思い、断念したようなところもありました。また1976年の本部放火事件のこともかなり意識していました。

noharranoharra 2006/04/04 07:47  加藤さん コメントありがとうございます。
私自身は何かを爆破しなければならないと思いこむほど、求心的に自分を追い込んでいった経験がないので、爆破について語る権利はないかもしれないと思っています。(でも例えばパレスチナについて対話しているとそういう話題にも触れざるをえない。一方で反日武装戦線などについてはそういう主体がありうること自体がタブーになっている、そういう時代が長く続いたため存在自体忘れられているようでもあります。)
この日の記事は、ごらんのように、「代用監獄を廃止しよう」という方向のある刑事法学者の長い意見をコピーしたものです。一方、現在の刑務所のありかたに対し、最高裁が「裁量権の乱用」を認めたケースとして3/23の最高裁判例があったことを思い出しそれについてもコピーしました。そこでこの加藤さんとは誰か?と考えた場合に松下昇が加藤さんに触れていくつかの文章を書いていることを思い出しました。松下氏は加藤さんに深い関心を持っていただけでなくおおきな敬意を持ち続けていました。そしてそれと同時に、加藤さん自身が美しいサイト(ブログを含む)を持っておられることを(検索で)知りびっくりしてコメントした次第です。
 加藤さんが天理教と深い関わりがある方とはまったく知りませんでした。『意見書−「大地の豚」からあなたへ』にも書いてあるのであれば、天理教の欄に加藤さんへの言及があるのは、いつの日か加藤さんにその部分を読んで貰いたいと松下が願ったからということもあると思います。いずれにしても三十年近く前のある天理教教会長の意見とそれを引用した松下の文章が加藤さんのブログに、喜びをもって転載されたことは〈奇跡〉に近いことだ。と素直に喜びたいと思います。

あびあび 2006/06/19 23:11 加藤三郎さんが話すイベントです。

【映画「ライファーズ 終身刑を超えて」をめぐって  上映会と話し合い】

日時:2006年8月26日(土)第一部 1時半〜 第二部 3時20分〜

場所:ラポールひらかた(枚方市総合福祉会館) 4F大研修室

内容:第一部 映画「ライファーズ」の上映 1時半〜3時10分
   米国における犯罪後の更生施設「アミティ」の刑務所内プログラムに 参加するライファー  
ズ(終身刑受刑者)たち。なぜ罪を犯すに至ったのか、生育暦にさかのぼる深い自己直面を通して変わっていく彼ら。そのライファーズとの出会いを通じて変わっていく、他の受刑者たち・・。

第二部 加藤三郎さんのお話、パネルディスカッション
                      3時20分〜4時50分
※加藤三郎
67年から反戦運動に参加し、75-78年にかけて10件の放火・爆破事件を引き起こす。83年逮捕。拘置所生活の中、未決無期囚の飯田博久さんの勧めで、自分の犯した罪と人間関係、成育史などを文章化して捉えなおす作業に入り、自らに直面する中で、深い自己変容を体験。02年12月10日、出所、現在は岐阜県の片田舎の生家に帰り、新しい生活に取り組んでいる。

             〜終了〜

第三部  小グループでの話し合いとまとめ(参加任意)
                       5時05分〜6時半


参加費:  第一部 上映会 800円
       第二部 講演とパネルディスカッション 800円
       通し  1500円

主催:    NPO法人 りりあん
       ホームページ http://love-dugong.net/lilian/

参加申し込み:当日直接来てくださっても構いませんが、人数把握のためできるだけメール・FAX等でりりあんまでお申し込みくだい。

映画「ライファーズ」について
 凶悪犯罪のニュースが流れるたびに「厳罰化を」の合唱が後に続く。だが「どうか自分を殺してくれ、一刻も早く死刑にしてくれ」と望む犯人が登場するにおよんでは、「厳罰化には抑止力がある」という説は、悲しくも絶望的な形で破綻している。
 人はいったいなぜ「殺し殺されたい」とまで望むにいたるのか。
 加害者の非常に多くは、その生育過程のいずれかの時点で、虐待等の被害者であったことは、研究によって明らかにされている。米国における犯罪者の更正施設アミティのプログラムで、参加者たちは、自らの根源にあるこの「被害の体験」にまでさかのぼる。
 被害の体験は、強い屈辱や恥の観念とともに事実であることすら否定され、自ら封印している場合が多い。その抑圧されてきた体験を認め、感じなおし、怒りや悲しみを安全な場「サンクチュアリ」で、適切な方法で表現すること。同じような体験を経てきた「当事者」からの促しや援助・見守りの中で、そのような「被害の語り」を進めていくことは、アミティのプログラムの中でも、とても重要な要素だ。
 被害体験を、その後の加害責任の言い訳にしようというのではない。なぜ、生き生きとした感情や信頼感を自ら封じ込めたまま、生きてきてしまったのか。その根元にある体験にさかのぼり、封印を解こうというのだ。閉じ込められてきた「人間らしい生き生きとした気持ち」が、再び息を吹き返してこそ、参加者は加害の体験についても、ありありと感じなおし、その真の重みを知ることができる。
 映像ジャーナリスト坂上香にとって、アミティの更正プログラムを取材したドキュメンタリー作品は今回が三作目である。今回の作品では、特に終身刑受刑者ライファーズが、他の受刑者に与える影響に焦点をあて、セラピューティック・コミュニティ(治療共同体)における「当事者」の役割に深く注目している。

なぜ加藤三郎なのか
加藤三郎もまた、自らの犯した罪を徹底的に見つめなおす中で、深い自己直面を通して再生した「当事者」のひとりだ。しかも、彼が拘置所の中で、そのような自己直面の作業を進めていったのは、未決無期囚の飯田博久との手紙での交流に触発されてのものだった。
 残念ながら日本ではまだアミティのような活動はほとんどない。が、いわばライファーである飯田と、加藤の間では、まさしく「当事者」によるセラピューティック・コミュニティが生まれたのだとは、言えないだろうか。
映画「ライファーズ」の上映、そこに映し出されるアミティの活動と、「当事者」のひとり加藤三郎の話はどのように響きあうことだろうか。そしてまたこの出会いを通して私たちのひとりひとりは、どのようにして自己自身に出会い直すことだろうか。
果たして私たち自身は、虐待や共感疎外をもたらす「はなはだしい苦しみ」と無縁の人間だろうか? それとも私たちもまた「当事者」なのであろうか?    あび(「あびの万華鏡」 http://plaza.rakuten.co.jp/abhiabhi/ )

noharranoharra 2006/06/20 22:19 あびさん
はじめまして。コメントでの告知ありがとうございます。

実はわたし関西在住で枚方からも遠くないので、是非参加させていただきたいと思っています。
とりあえず、お礼まで。

あびあび 2006/06/21 08:46 はーい。お待ちしていますね。
よろしくお願いします。

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 (2006.1.02設置)
 敵でも味方でもない、ある圧倒的な力によって問題提起の正しさが弯曲していくのではないかという一瞬おとずれる感覚のむこうに、はじめて、ほんとうの闘争がはじまっている。(松下昇)
(仮称)仮装被告団〜刊行委員会