セカイ系の極地としての『スカイ・クロラ』

 そういえば押井守監督『スカイ・クロラ』が公開されたみたいです。運良く公開前に観ることができたのですが(別に悪い手段を使ったわけじゃないです。ただ単に試写会に当選しただけです)、あの原作をどのような形で仕上げてくるか興味深々でした。森博嗣作品の中で最も一般受けが悪いだろう作品(おそらく。独断と偏見によれば)を映画化する、ってのはどうかと思いましたが。
 そもそも『スカイ・クロラ』は森博嗣作品の中において特殊で、森博嗣らしさが最も発揮されている作品のひとつと考えています。そのような点から、『スカイ・クロラ』は森博嗣読者に対する試金石のような存在だとすら思っています。あのうだうだとしたストイックさや執拗過ぎる戦闘描写なんかは、あまり人にお勧めできるタイプの作品ではありません。エレベータ、エルロンなどの術語が多用されながら何の説明も与えてくれないのは、コンピュータ用語を当たり前のように乱用する『すべてがFになる』を思い出させました。まあ読み続けていれば何となく分かってくるとは思うのですが、ま不親切だわな。
 そんな映画版『スカイ・クロラ』なのですが、公開前から一抹の不安を抱くようになりました。映画ですので劇場まで足を運んでもらわなくてはいけません。今回は押井作品ということもあり、製作の日本テレビがかなり気合を入れた広告展開を打っています。そのためには内容を説明しなければいけません。ただ原作版『スカイ・クロラ』は、かなり説明しにくい内容になっています。詳細は後述しますが、この作品は物語の表層を眺めていてもどうにもならないタイプの作品だと思っているからです。
 実際、どのような広告展開を打ったのか、ですがキャッチコピーでは次の1文が使われました。

もう一度、生まれてきたいと思う?

 ギリギリっぽい感じのキャッチですが、まあ悪くないと思います。原作版『スカイ・クロラ』のテーマはきわめて文学的な「終わらない日常をいかにして生きるか、そして死ぬか」というところにあるからです。生まれる、という言葉を直截的に提示しているのが印象的なキャッチです。
 もう少ししっかりとした紹介はどのようになされているのか、公式ページで最初に流れる予告やパンフレットで用いられている文言を一部抜粋してみます。

完全な平和が実現した世界で大人たちが作った「ショートしての戦争」。
そこで戦い、生きることを決められた子供たちがいる。
思春期の姿のまま永遠に生き続ける彼らを人は《キルドレ》と呼んだ。
空と地表の境で繰り返される、終わらない愛と生と死の物語。

 映画は難しいなあ、とこの紹介文を読んで感じました。原作版『スカイ・クロラ』は書籍ですので、書店で手に取ってもらえたら勝ちです。だから書籍はこんな下らない(というと失礼なのですが)設定の紹介なんかしなくて良いのです。『スカイ・クロラ』の世界を説明しようとするとき、その要素の大きな部分として空中戦闘アクションがある以上、戦争という背景を説明せざるをえません。「完全な平和が実現した世界で大人たちが作った「ショートしての戦争」」なんてフレーズはまったくその通りなのですが、実は本作において重要な要素ではない、と思っています。確かに「戦闘法人」なんてことも作中では触れられていますが、あくまでも死が日常の延長にリアルなものとして存在する世界ならばどんなものでも良いはずです。
 原作版『スカイ・クロラ』は散文的で、さしたる物語展開もありません(正確には物語は展開するのですが、そこには重きが置かれていません)。「ショートしての戦争」なんてものも、あくまでも主人公に与えられた「設定」に過ぎず、それについて考察するのはナンセンスだとすら感じます。大した理由もなしにハイ・ファンタジーの世界設定に突っ込みを入れていっても、何も生まれないのと一緒です。原作版の魅力は、その美しい装丁の表紙に刻まれた次の言葉に象徴されます。

僕はまだ子供で、ときどき、右手が人を殺す。
その代わり、誰かの右手が、僕を殺してくれるだろう。

 まさにこれだけ。これだけの作品です。だから面白いのです。
 映像は見たくないものまで見えてしまいます。小説であったら、見せたくないものを書かないという選択肢が存在します。映画は背景をぼかしたまま物語を展開させることができないメディアです。『スカイ・クロラ』の背景世界にある「ショートしての戦争」の勃発可能性だとか、『バトル・ロワイヤル』におけるBR法の施行経緯だとか、気にするべきでないところ、見えなくて良いところが気になってしまいがちなのです。原作においては、明かされない設定が物語に緊張感と静謐さを与えています。そのような設定が大っぴらになるとき、物語は急速に矮小化され、求心力を失っていきます。そういう意味では、実に小説らしい小説だと言うこともできるのかもしれません。
 何はともあれ押井守版『スカイ・クロラ』。最新のCGで描かれる迫力の空中戦闘と見事に滲み出てきた押井臭は見事なものです。森博嗣臭も消えてはいませんが、かなり押井臭に押されています。『頭文字D』かと思うような(これはある意味、誉めています)空中シーンと地上ドラマのギャップ(これは多分、意図的。ある種の現実と虚構の対比)もなかなかオツなものです。観に行かれる方は、是非戦争や組織などの背景はすべてただの設定に過ぎないと目をつぶって、その上で観に行かれると良いと思います。これが当たらなかったらもう映画をやめる、というような発言を押井守がしているそうなので(当たらなくてもやめないと思いますが)、興味を持った方は是非。
 まあぐだぐだ書きましたが、簡単にまとめると、『スカイ・クロラ』という作品は一昔前の言葉で言う広義のセカイ系ではありませんが、セカイ系的なものの極地みたいなものです。そういう前提を忘れると入り込まなくても良い隘路に入り込んでしまうような気がしたので、こんな文章を書いたのです。個人的には、素晴らしい戦闘シーンがあればそれで満足なのですが、それじゃ押井守の方が満足しないよな。だけど押井作品としては、何かもう分かり易すぎるしなあ。うーん。やっぱり森博嗣ファンとしては、あの空中戦闘が見られれば満足です。もう一度原作に回帰したくなる点で、良いメディアミックスとも言えるかな。
 最後に、もう一度書いておきます。この映画を観て、作品世界のリアリティがどうしたとか、戦争の愚かさだとか、そんなことを考えているようじゃ、この映画の何も観ていないに等しいです。そんなピンとはずれのことを考える暇があるなら、もう一度劇場に足を運ぶべきです。それか書店へ行き、原作を手に取るべきです。って、何か今回の自分はやけに偉そうだな、というエクスキューズ。
 あと完全に関係のない話ですが、映画『スカイ・クロラ』のキャンペーンでピザハットまたなんかやってます。いつからピザハットがこういうオリジナルの箱をやるようになったのかしりませんが、全然関係ないキャンペーンだよね。そもそも双方にとって効果があるのか、ピザハット。自分が最初に気が付いたのは今年頭(2008年1月7日〜2月13日)の『マリア様が見てる』です。今度調べてみようと思いました。

スカイ・クロラ

スカイ・クロラ

素晴らしい装丁です。装丁オブジイヤー(C)6号さんです。ちなみに装丁は鈴木成一ですね。