恋愛の解体と非モテの滅亡

恋愛について書く。半年近く前になる前回の記事でぼくが恋愛対象として選んだコとどうなったかといえば、まあメール毎日したりスカイプ通話したりだとか結構いい感じに事をすすめたつもりだったわけだが、結局頓挫いたしました(笑) で、今はまた別のコとちょっといい感じになってて経過観察というわけなのが、別に身辺雑記ブログじゃないんで詳しい事情は書きません。ほんとは今のコレが終わってからまとめようと思ってたのだが、決着つくのがいつになるかわからんので今なんとなく恋愛に関して考えていることを吐き出していきたいとおもいます。

結局恋愛って人間関係の一形態にすぎないよね、というのがぼくの実感である。二十歳直前まで恋愛にぜんぜん縁がなかったのになんでここ半年で恋愛に関する案件を二つも抱えんこんだのかおれは、という問題もここと関係しているようなのだが、たぶん多くの「非モテ」と呼ばれる人たちと同じで、恋愛市場に参入する前のぼくは「恋愛」というものを通常の人間関係とは切り離されたもの、恋愛小説やらドラマやらによって無意識のうちに刷り込まれた「甘く」「ロマンチックな」イメージとして捉えていたように思う。実は中学生のときにも恋愛に関するイベントが一件発生したことがあったのだが、そのときはまだ自分のなかに価値観やら世界観とよばれるようなものが一定の形で構築されてなかったから、ただひたすら内部にある恋愛的イメージに身をすりよせるような動きしかしていなかった(逆にいえばそんな動きが出来た!のだが)し、相手の女の子もそうだったとしか思えない。そんですぐに破たんした。つまるところドラマだのラブソングだのといった虚構と現実が区分されぬままカオスに渦巻いていて、それに翻弄されていた、というわけである。まあ逆にいえば中学生当時は世界との距離の取り方が確率されてないからある程度そんな動きも柔軟にとれたわけだけれど、高校を卒業するころにはもうおれはそんな状態にないわけで、それでも恋愛に関する原初的イメージはしつこく無意識にこびりついている。するとどうなるか。「そんな甘ったるい世界におれの居場所、あるはずないよね」とこうなるわけで、「恋愛している自分」というものをまったくイメージできず、恋愛経験あるのが当たり前な年齢にさしかかっているということすらイマイチ実感できぬまま、若干の不安にさいなまれつつ日々を過ごすこととなる。

悪い癖でまた小難しく書きすぎたような気もするが、これは全然珍しい現象じゃないだろう。他の事柄に関しては虚構と現実を混同しないはずのひとびとが、なんでこと恋愛に関してはそんなことになってしまうのか、というのは恋愛がきわめてパーソナルなものだということが関係している気がする。恋愛は、ふたりの人間が濃密な関係を構築し、共有するものであるのだから、その閉鎖性ゆえに他人がどういう恋愛をしているのか知ることは友情的に親密な関係にあってもなかなかむずかしい。要は「リアルな」恋愛についての情報が少なすぎるのである。

リアルな情報を知らず、虚構によってイメージを刷り込まれた人間はどうなるかといえば、だいたいは2パターンに分かれる。ひとつは、恋愛に関して無関心な態度を貫く。この「無関心」はよく「ほんとは恋人がほしいのに自分に自信がないからムリしちゃってるんだろ」っていう例のごとく自分の立場からしかモノが見れないバカの恰好の攻撃対象になるものだが、ほんとうは、上述したような「実感のわわかなさ」「恋愛イメージと現状の自分との乖離」によってもたらされてる場合が多数である。で、ふたつめは何かといえば自分のもつ原初的恋愛イメージに忠実に身を寄せようとして玉砕、みたいなパターン。まあ相手方も奇跡的に同様の原始的な恋愛イメージを持っていて、かつ、ルックスやらもろもろの条件が一致すれば交際関係にもなりえるだろうが、年齢を重ねるほどその可能性はどんどん低くなるだろうね。体育館裏に呼び出して「ずっと、ス、、スキでした」「実はワタシも、、、、(キュン)」みたいなのをリアルで再現しようってんだからまあそりゃ無理なはなしでしょ。あいかわらずアホですね。男子校とか女子校出身者で、大学はいったとたんに手当たり次第に告白して全敗みたいな例をときたま耳にするが、これはパターン②の超極端な例だろう。やたら恋愛欲求が切実なのに上手くいってないひとってだいたい②の要素を持っているな、というのがぼくのいまんところの実感です。

交際関係にもっていく前のあいまい状態では何に気をつけるべきかっていえば、温度差だろう。すげえざっくりした言い方すれば自分から向かってく場合は相手の好意の一歩先、相手から来る場合は一歩後方を歩くみたいなのが一番うまくいきそうですね。まあもちろん相性がよければ、という留保付きの話ではあるのだが、温度差の何がダメなのかといえば、すぐ上の話とも関連するが一方だけが熱を上げてる状態って、ほとんど相手の実態を把握できてないのである。要するに生身の相手を理想的イメージで捉えてしまってる。相手はそりゃビビるよね、「あなたに興味あります」って来てくれれば「よっしゃワタシという人間を見せてやろう」って自己顕示欲もくすぐられてイイ気持ちでしょうけど、「あなたのこと好き!もう好き!ぬぬぬん!」って感じでせまってこられたら冷静な状態の人間はふつう内省を始めます。「私」はこの迫りくるラブに対応するだけの立派な人間か? このヒトが熱を上げているのはこの「私」ではなくこのヒトの内部にある「私」に関するイメージ(=虚構)なのではないか? 言語化すればこんな感じだが、このバクゼンとした不安が「重い」といった言葉となって現れる、というわけだ。

そのひとがそのひとであるがゆえに愛するなんてことは不可能だ。私が私であるがゆえに愛することができるのは私だけだろう。最近再読した鷲田清一の「じぶん・この不思議な存在」のなかでナンチャラっていう古い哲学者の言葉が引用されていて、まあ正確な記憶はないのだが、要するに「美しさゆえにあるひとを愛した場合、もはやその美しさが失われたとき愛も失われるだろうし、能力ゆえに愛した場合も同様のことがいえる。結局ひとは他者についてその性質ゆえにしかそのひとを愛せないのだ」みたいなことが書いてありました。特に反論も浮かびようがない言説だが、だからといって恋愛なんてしょせん性欲を美しく表現したものさ、だとかその他もろもろ恋愛醜悪論に飛びつくのもあまりに飛躍しすぎというもので、中途半端なバカが未熟な思考を振り回すとロクな結果にならないね、ということのなによりの証明だが、じゃあどう捉えるのがいちばん正確といえるのか。

自分のなかにある感情を吟味しようとするまじめなひとたちにありがちなことなのだけれど、自分は、ほんとうに相手という個性、唯一性を愛しているといえるのか? ただ恋愛に対する憧れを実行してるだけ、いわゆる「恋に恋してる」状態なのではないか? という内省をはじめてしまうことがある。絶対にこのひとでなければならなかった、などということは、正直にいえば、ない。でも誰でもいいというわけでもない。とすればこの「私」は何を愛してるのかと言えば、相手と接触しているときの「私」自身を含めてその関係性、そのひとと積み上げた時間を、と表現するのがいちばん的確で実態にかなっているようにおもう。

ここも恋愛が親密な人間関係の一形態でしかないと考えられるゆえんで、通常の親密な友情関係が構築される過程では、相手の人間に対する狂おしいまでの指向みたいなものはふつうみられない。友情の片思いってなくない? 「こいつとしゃべってるとおもしろいな」「なんとなく気が合うな」ということを互いに思っていて、そこに接触の機会が外部から頻繁に与えられることがあれば勝手に自然に構築されている、というのがふつうである。このとき、「私」はべつに相手という一個の人間をそのまま直視しているわけではない。おれの「私」と相手の「私」との間に生まれた関係性、というフィルターを通して相互を見つめあっている。同じことを恋愛関係でもやればいんじゃね。世間は「私」というエゴが介在することにやたら嫌悪感を抱く傾向にあるのだが、私は「私」以外の生を生きることなんてできるはずないでしょう。むしろ恋情、片思いという名で呼ばれる相手という人間への直視のほうがよっぽど無謀で醜く感じるわけだが、世間ではこれがjpopとかで美しく謳いあげられているよね。ぜんぜんいみがわかりません。

通常の人間関係と恋愛関係のいちばんのちがいは、「私は/あなたが/好きです」「はい/私も/好きです」という言葉を借りて、両者の間に生まれた関係性について両者ともに特殊なもの(あるいは唯一無二のもの)と感じていることを明確化し、共有せねばならない、ということである。言語は外部に表明された途端にある種の拘束力を生む。これは法律だろうがマニュフェストだろうが単なる口約束だろうがそうだ。つか告白にはじまる交際関係って契約に似てない? チュートハンパな知識ふりかざして申し訳ないが申し込みと承諾の合致により相互に諸々の黙示の義務を負う。あまりにモテすぎる女が彼氏つくりたがらないのも結局のところこのへんが理由で、わざわざそんなしちめんどくさい義務を負わずとも、いろんな男からちやほやされてるほうが(恋愛庶民たちの)「恋愛したい!!」という欲求の主な要因のひとつである承認欲求は十二分に満たされるのだ。うわー。男みたいに性欲っていうもうひとつの切実な欲求もないしね。

話が逸れたが告白という確認作業によってふたりの関係は確定され固定される。それがどんな内容なのかといえば、互いに互いを(自分との関係において)唯一無二の存在とみなす双務契約だ。あたりまえだが「アナタのことがスキ(ハート)」というココロは目に見えない。そこでコトを分かりやすいカタチで表すために、双方は交際関係に入ると相手方を唯一と見做していることを証明するための諸々の行為を行う義務を負う。こんなことするのはほかでもないアナタが相手だからですよ、というわけだ。まあ端的にいえばセックスがその代表例なわけだが、交際関係にない者同士のセックスが忌むべきものとされるのも、要するに愛してなくたって物理的にはセックスが可能であることがおおっぴらにされたら(もう既におおっぴらだが)「スキだから→する」という公式が破壊されて愛が不安に陥るからじゃあないですかね。

ていうかなんか書いててすげえはずかしいぞこれ。読み返してみると、ちょっと冷めすぎ?こんだけ語っといてなんだがおれにとってあんま恋愛ってそこまで切実な問題でもないんだよね。とくに結論もくそもないがこれでおしまい