コレの小指

映画評
ウスマン・センベーヌ監督
『母たちの村』Moolaade(2004)

母たちの村 [DVD]

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原題となるmoolaade(最後のeにはアクサンが付くのだけども、表示の仕方がわかりません)とは、舞台となっている村の伝統的な戒律のひとつで、いわば「結界」に似たもの。
ある立場に在る人物がモーラーデを宣言すると、そこには何人たりとも、その人の許可なしには入ることができない。

本作の主人公はコレという女性。
彼女は、幼いときに女性器切除手術を受けていて、その後遺症に苦しんでいる。たとえば娘を出産した際には、手術の影響で、帝王切開を処術せざるを得ず、おなかにその大きな傷跡が残っているし、性欲の旺盛な夫の相手は、苦痛に満ちたものであることが痛切な形で描かれている。性行為の間中、彼女は自身の小指を引きちぎれんばかりに噛むことで、その下半身の激痛に耐えている。

そういった経験から、彼女は自分の娘には女性器切除手術はさせなかった。
だが彼女のこの選択は、伝統を重んじる社会においては、その娘の将来を大きく左右することであるし、村の伝統に反することでもある。しかしこの選択は女性たちの密かな共感を呼んでおり、コレは村人から一目置かれる有名な存在となっている。

さて、ある日、彼女のもとに幼い女の子が数人逃げ込んでくる。
彼女らは女性器切除手術を怖れて、コレの庇護を求めて逃げ込んでくるのだ。
自分の娘の手術を拒否したコレなら守ってくれるに違いない、と。

逃げ込んできた女の子たちの親が、連れ戻そうと迫る中で、コレは奥の手を使う。
それは村の伝統の中でも重要だが忘れ去られていた取り決め。
それが「モーラーデMoolaade」だった。

彼女のこの行為は村の「割礼」の伝統に真っ向から反対するものであり、喧々諤々の議論を呼び、村中を巻き込んだ大問題となる。

しかし、「割礼」の伝統に「モーラーデ」というもうひとつの伝統が対抗していることから、村の長老たちは頭を抱えて身動きがとれないまま、母親たちと「割礼」を生業とする女たちの苛立ちばかりがつのり、ついに暴力的な衝突になりかかる。

こまった長老たちはコレの口から直接モーラーデ解除を搾り出させるために、彼女を村の広場で激しく鞭打つ。その痛みに歯を食いしばるコレを見て、母親たちが立ち上がる…。



ストーリーはこんな感じ。
個人的に興味深い論点は以下の2つ
?ラジオ
 母親たちはラジオを通して、他のイスラム圏でも実は「割礼」はほとんど行われておらず、この村特有のものであり、「割礼」の反対は必ずしもはんイスラムではないことを知る。つまり、外の世界を知ることで自分たちの村の因習の問題を知るのだ。これ自体はそれほど珍しいことでもないと思われるけども、それがいわゆる「欧米圏」ではない、ということが興味深い。これは主に論点?にかかわることなのだけども、西洋フェミニストによるある意味で植民地主義的な第三世界への「啓蒙」に抵抗するものとしてこの映画を読み解こうとする場合、このラジオのモチーフが決定的に重要なのだ。
 さらに、フランスに留学していた村長の息子がちょうど帰国を果たしたばかりなのだが、彼はこの村を席巻する問題にあまり深くは関わろうとはしない。この姿勢からも、この映画のプロットは単純な西洋的「知」の介入を拒んでいると言える。

?伝統的「割礼」に対する「モーラーデ」での抵抗というモチーフの重要性
 この映画のプロットレベルでの力強さはやはり、「割礼」伝統にたいして「モーラーデ」で対抗しようとする、というところにある。と思う。
 この映画は西洋世界のフェミニストが「野蛮な土俗の風習だ」として否定しがちな、つまり上から目線の「救済」としての女性器切除批判に回収されていない。もともと女性器切除手術を家父長制に沿ったものであり、女性蔑視の極限であると考えると、確かにこの慣習は再考されるべきなのだけども、それはSpivakが定式化した「茶色い男たちの手から茶色い女たちを助ける」という植民地言説に絡めとられかねないのだ。
 これに対して、この映画は伝統に対して伝統を突きつける。ラジオという近代的器機を用いた近しい文化圏との接続を経由しつつも、集落内部の伝統でもって、「割礼」伝統に抵抗する姿が描かれているのだ。野蛮な土人男性の手から可哀想な土人の「妹たち」を救い出してあげたい、という上から目線の「救済」に頼らずとも、「割礼」を含めた文化の中でそれに対抗する契機が確固として存在し、その中でこそ闘いが行われうる、ということを描くことにこの映画は成功しているように思われる。

だから、この映画は単純な「女性器切除反対キャンペーン」の映画ではない。
単純に「ひどいでしょ?」「かわいそうでしょ?」と同情をつのって手術を禁止させることを目的とした映画ではない。と思う。
むしろ、そういった安易な「野蛮な文化」観を一蹴し、地元の伝統文化を地元において見直すべきだ、という作品なのだと思う。
また、単純に映像レベルでもとても美しい。
西アフリカのどこか、ということになっている村は土壁の家々や原色の伝統衣装など、色彩に溢れている。登場人物たちもとても丁寧に描写されていて、ドキュメンタリータッチな感さえある。ぜひとも観てみてくださいな。



コレの小指の痛みは、もちろん彼女のモーラーデが解かれた後も無くなることはない。しかし自分たちの文化内部の痛みを一身に背負わされながらも、そこで自身だけでもって戦おうとするコレの姿は強く心に残る。男性中心的、家父長的「文化」が負わせたその小指の傷は、コレの耐え難い痛みをあらわしているとともに、彼女がその文化内で闘争を行う可能性そのものをもあらわしているのではないか?
その痛みとともに強さを象徴するコレの小指とその傷はポスコロを読む自分自身のひとつのカギだと思う。