創作者となる必要条件

佐村河内氏の一件以来、ゴーストライターというのが色々話題になっている。元ライブドア社長の堀江氏の本は本人が全く書いていないと、表紙絵を描いた漫画家の方が告発したりと巷で盛り上がっていた。佐村河内氏の件では、耳が聞こえないと偽っていたことは責められて当然ではある。ただ、作曲の方針に関して細かい指示を出したメモなどを見ると、創作活動に寄与していないという批判には少し違和感を感じている。


違和感のもとになっているのは、何かを創りあげた、と周囲や世間から認めてもらうためには、どの作業をしなければいけないのかという疑問。一人でアイディア出しから、執筆や楽譜作成までやり切れば、創作者として認めてもらえるのは間違いないが、では各工程の担当が分かれた場合にはどうなるのか。
他の国でもそうなのかはわからないが、少なくとも日本では、最終工程である文章や楽譜の記入の部分に重きがあるように思う。作家のイメージだと原稿用紙やワープロソフトに向き合うイメージが強いし、作曲家だと楽譜に音符を埋めたり、Macで音のエフェクト調整している姿が思い浮かぶ。
先の堀江氏の件もおそらく氏自身は全体構想のみで、文章をほとんど書いていないのだろう。そういう関わり方でありながら、堀江氏が創作者となったことに漫画家の方は許せなかった。自分で多少なりとも文章を書いてこその「創作」だろうと。


だが、企画や構想の作成という活動がもう少し「創作」とみなされてもいいように思う。実際に形作る作業はもちろん尊いし価値があるのだが、全体のデザインが優れていなければ、決してよいものはできない。さらに言うと、限定的な集団に伝えるのではなく、不特定多数に伝わる文章を書いたりするのは、ある種の特殊技能であり、万人が持つものではない。人に伝えるべき経験や知識があるのに、その特殊技能がないために伝えられなかったり、わかりにくいものになってしまっては社会的な損失になる。逆にそういう特殊技能はあるのに人に伝えるべきものはない、という人もおり、その人が活かされないことも損失である。


人が職業や職種を選択するときには、最終工程の作業への適性に重きを置くことが多い。絵の上手くない人が画家や漫画家を選択することはあまりなわいし、作文の苦手な人が作家を選択することも少ない。ただ、その作業はできなくても作品を創り出す能力はある人も少なからず存在する。そういう人達も「創作者」と認められるようになれば、優れた作品が今よりも多く生み出されるような気がする。