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InAequabilitas

November 06(Sat), 2010

帰る

fc2に引っ越し返してきます。

November 05(Fri), 2010

海外留学に関して

中国人の知人に聞いた情報。中国では大学入学統一試験(『高考』)の受験人数がこの頃大幅に減少しているらしい。理由はあの一人っ子政策のせい…ではなく、<減少分>が欧米やオーストラリアに留学に行ってしまうからだという。もっとも、優秀すぎて中国が物足りないというような学生は少数であり、大半は『高考』の点数が捗々しくないので、国外に行く事で面子を保とうとしている学生である。国外に行って何を学ぶかと言うと、芸術だそうだ(笑)。TOEFLやSATの点数に対する要求が甘く、あんまり高等な英語を使わず、それに点数が悪くても「教官と審美感が異なっている」で言い訳できる唯一の科だから…。

中国人に限らず、東アジア地区の国民の多くが抱いている幻想のひとつに「欧米の教育水準はアジアより高い」というものがある。日本の大学の事はよく解らないから大学の比較は僕にはできないが、中高では決してそうとは限らないと言える。

まず、数学は絶対にアジアのほうが強い。教科書だけむやみにデカい(電話帳みたい)ので、何かとても偉そうな事を勉強しているように見えるが、日本のゆとり教育を一字一句違わず実践しているような公立校とさして変わらない事をやっている。たとえばアメリカの大学進学適性検査であるSATにはIとIIがあり、Iは英語ふたつと数学ひとつに分かれるが、その数学の問題を見てみればいい。分数のかけ算、一次関数、円の面積、云々。その上に選択制。仮にも大学進学適性検査ですから。

勿論欧米人でも出来る人は本当によく出来る。ただ高校から焦って留学しに行くのもどうかと思うだけ。しかし確かに、教育方針は「みんな一緒に成績を伸ばそう」というアジアと違う。最優先にすべき項目はカリキュラムの内容ではなく<合っているかどうか>。何かとてもありふれた事を言ったが、本当である。好きか嫌いかではない。(これは不思議なもので、嫌いだが合っているというのは矛盾しない。僕の高校がそうだったから。)またいきなり環境が変わるというのもかなり負担になるもの。国内の移動でも子供にはかなり重荷になるのに、突如として海外に飛ばされたら死にたくなること請け合いである。テレビか何かで、「友だちの見舞いに行こう」と娘を騙して職業学校だか訓練所だかに入れさせた酷い親の話を観たが、ああいうのは言うまでもなく論外だ。いくら自分の子供のためと思っていても、本人が望まなければ意味がない。たとえ<幸福>であれ、なすりつけは許されない。

同じように、親の面子や都合のために子供に相談もなく留学させるのはもってのほか。本人がぼんやり同意していても、はっきりした同意が得られるまで決定は控えるべきだ。留学はあなた方が思うよりずっと壮絶なのである。

November 01(Mon), 2010

言語教育と学習について

外国語の早期教育というのに僕は賛成だが、しかし早期過ぎるのもまた考えものだと思っている。いや早期過ぎても構わないが、「日本にいれば日本語は喋れるようになるだろう」という思い込みは、実は間違っているのである。

アメリカン・スクールやインターナショナルスクールでは全ての授業を英語で行う。もちろん現地語の授業もあるが、「日本語」とか「ドイツ語」という感じで、いわゆる「国語(読解なんかをやったりするもの)」はやっぱり英語で行う。すると当然子供は英語優先の頭になってくるわけだ。子供をインターにやるような親で英語が全くできないのは稀だから、子供が家で英語を話せば「母国語を話しなさい」とせっつくのも面倒なので一緒になって親も英語で話す。そして子供が現地語の授業を真面目に聞かず、英語の交流ばかりに耽溺していれば、母国語が話せなくなるぴったりの環境が出来上がる。

そんなふうに、幼稚園からずっと母国にいながら中学・高校になっても母国語が片言レベルの学生をたくさん見た。別に親がそばにいないとか子供の母国語が喋れないのではない。単なる親の怠惰から、せっかく本に齧りつかなくとも習得できる言語を学習する機会を失ってしまったのだ。

大人でも、そんな機会を自ら手放している人間をたくさん知っている。アメリカに30年も住んでいながら、英語の全く出来ない親の知人。日本に20年以上住んでいながら、日本人と意思疎通が侭ならない叔母。しかし逆にその機会をうまく捉えた者は、「日本語がお上手ですね」どころかたとえば逆に「ドイツ語がお上手ですね」と日本人に褒められてしまう(母語がドイツ語なのに、である)までに上達している。ちょっと学習したいと思うだけで、どこかに1週間も旅行に行けば、その国の言葉で「これいくらですか」とか「水を一杯ください」くらいは言えるようになるもの。10年経ってそれすらできなかったら、ずっと引きこもっていたのかと思わざるを得ない。

国外に居住する時、確かに母国民の集団を知っているというのは心強い。しかし彼らに頼ってばかりいるのも考えものだ。必要なときだけ彼らに頼り、言語的な自立心を培う事が重要である。

October 25(Mon), 2010

日本における英語教育

日本ではやっと来年か再来年から小学校での英語教育義務化が始まるそう。僕は今更かと絶望している一人である。

日本人の英語レベルの低さは自他共に(?)認めているほど。まず申し訳ないけれど、発音が悪い。ドイツ訛りの英語とか中国訛りの英語ならもう聞き飽きるくらい聞いているが、少なくとも彼らが英語を喋っているということは遠くからでも判る(よほど酷くない限りは)。しかしこれまで日本訛りの英語(カタカナ英語ってやつ)も聞き飽きるくらい聞いてきたが、じっくり注意して聞かないと英語だという事にさえ気づけないのだ。そして聞いていても非常に疲れる。たまに<流暢なカタカナ英語>を話す人に会って、一種の才能だなと本気で感心したりする(英語は英語専用の発音でこそすらすらと喋れるのであって、日本語の発音では絶対話しづらいはずなのに)。中学からABCを習い始めるなど笑止千万である。問題は、僕の中学はエリートの塊だったはずなのに(関東御三家の一つ)、本当にABCすら知らない学生が少なからずいた事。そして大学で英語能力試験として主流なのはTOEFLどころではなく、何とTOEICであるという。

こう言う僕は嫌味な奴に聞こえるかもしれない。しかしこれが大半の英語話者の印象だというのは本当なのだ。

発音の問題は日本語教師を下ろす事によって解決されよう。これくらいは誰でも判る。しかしここからが難題だ。英語圏の外国人を一人呼んで来るにしても、誰でもいいわけはないのだ。イギリス?アメリカ?オーストラリア?カナダ?ニュージーランド?果てはアイルランド?

日本の「外国人による英語教育(AETだっけ?)」の問題点はここにある。英語を喋れればどこも同じだと思っている点だ。確かにアメリカ英語がイギリスでは全く通じないとかそんなことはないが、しかし違う。例えばアイルランド英語の解りづらさは半端ではない。試しにブレア元首相(クイーンズ・イングリッシュ)とブッシュ元大統領(テキサス英語)の演説を比較してみるといい。もはや別の言語みたいな違いである。

英語の何が偉いのだと言いたくなるのは僕も同じ(笑)。しかしビジネス大国ニッポンの国民が、道を尋ねる外国人ごときにビビっているようでは新興国(BRICsとか)に抜かれてしまう。英語は仮にも世界共通語(共通語が英語なのは仕方ない。二つ前の記事に書いた通り)。日本語が世界共通語にならなかったことを恨みながら、それでも学ぶしかない。

October 18(Mon), 2010

情けない英語と実体のない言語学習

コマーシャルと言えば、7月半ば頃のサマージャンボともうひとつ何かのくじの広告があった(キャッツアイの方でなくて西田敏行の出てくるほう)。あれもまた笑ってしまった。サラリーマンが二人、「プランAだ!」「いやプランBだな!」とか何とか机を叩いて議論しており、「社長、決定を!」といって社長のほうを見ると、社長は議論そっちのけでどっちのくじにしようか迷っている、というしょうもない展開。展開ではなく、そのサラリーマン二人がなぜかヘタクソな英語で怒鳴り合っている所がおかしかった。英語である必要があったのか。どう見ても日本の会社の日本人ばかりがいる会議室なのに。

現在は<先進国総バイリンガル>の時代。非英語圏は母語と英語、そして英語圏は英語と仏語もしくは西語。トリリンガルだってそう珍しくもなくなってきた。そろそろ「英語を使うとカッコイイ」から抜け出して欲しいのだが、どうにもそうはいかないようだ。喋っている所だけ聴けば英語のネイティブスピーカーかとまごうほど上手なら勿論カッコいい。しかしそこまで要求しなければ、ほとんど誰でも英語ができるといえる。それでもまだ英語がカッコイイのですか。

変な英字Tシャツは未だ売れ続けているし、また英語を<装飾>した文房具も未だ大量生産されている(まあ、ローマ字の日本語長文を見かけた時の情けなさに比べたらよほどましか)。せめてフランス語だとかドイツ語だとか、もうちょっと学習者の少ないものにすればいいのに…結局は同じ事なのだけれども。

どの外国語を使うにしろ、どこか「実体のない言語学習」が透けて見えるように思うのだ。僕自身の経験からいうと、身を張って学習した外国語はカッコいいと思わない。たとえば僕は生まれがおかしいので母語を3つくらい所有し、外国語はそれなりにできるのが1つとカタコトができるのが3つくらいあるが、このうち使って「俺偉い(殴)」と思うのはカタコト言語の3つである。しかし母語3つとそれなりにできる外国語は<身を張って>習得した。どういうことかというと、つまりは「習得するか餓死するか」という選択だったのだ。

(何で母語もそうなのかというと、日本で育ったために母国語の環境が家庭しかなく、母は「日本語を喋るんだったらあんたは隣の日本人の家に行って食べさせてもらいなさい」という方針を取った。母国語を喋らないと本当に食事を出してくれなかったのである。文字通り餓死しそうな環境。)

それくらい言語と戦っていると、カッコいいと思うどころか憎悪すら抱いてくるものだ。そんなわけで僕はこの4つの言語を激しく憎みつつも、<謎の外国語の中に浮かぶ一筋の希望の光>みたいに拠り所にして、実にアンビバレンスな心情で生きている(笑)。だからラテン語などは、体を張って学習したくてもそんな環境がないわけだから(死語だもの)、僕はちょっとできるからといってやたらめったら使いまくるのである。ああ、自白してしまった(苦笑)。

僕は日本の携帯電話も英語表示にしているが、英語のほうがフォントデザイン的にすっきりしていて読みやすいし、それに半角カタカナが嫌いだからである。カッコいいのを選んだらロシア語とかで読めない(発音だけは判るけれども、それ以前に無いし)。ふつうは読めないものがカッコよく見えてくるものだ。英語をカッコいいと思って使いまくっている人々は果たして英語が読めないのか。そうではないと思うのだが。

英語を上手に喋れないのは母語話者でないから当然で、カッコ悪くはない。だが上手に喋れもしないのにそんなありふれた言語をカッコつけて喋るのは逆効果。小学生が大人の口調を真似て(いるつもりで)喋っているようで何だかこちらが恥ずかしくなってくる。