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2008-01-28

[] 明日から五島列島へ視察

行ってきます。「武田家の血筋を訪ねる」。

と言う事になりそうです。

「武田有義」と言う武将を知っていますか。

平家全盛の時代から源平の合戦を経る時代まで、武田家の頭首として戦いぬいた武将です。

その子孫が武田信虎、武田信玄へと続くそうです。

なぜ五島列島福江島へ着いたのか。

今でもしっかり残っている武田菱の家紋など、今までの視察とはちょっと趣が違うところですがしっかり見てまいります。


「各々京を目指しつつ」と言う武田節の一節がありますが、西国から京を目指したほうが良かったのではと・・・。

邪推です。

全国にはその他に佐賀の祭りで武田菱がついた山車が出ていたり、結構点在している武田家の流れがあるようです。それらをまとめて「武田サミット」なんてのも面白いかもしれません。


歴史を紐解くと、様々な思惑や葛藤がきっと見えてくることでしょう。

風林火山博が終わった今、次の一手の役に立てばと考えます。


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西山 修平西山 修平 2016/01/12 18:12 私の父方の祖母の実家は、山形県上山市生居(なまい)というところで、奈良崎という姓を名乗っていますが、系図では先祖は武田信廉(逍遙軒信綱)となっています。家紋は剣花菱です。信廉公が森長可の配下に殺害されてから、その子の一人が信廉公の室の実家である南都を経て出羽の大江氏(承久の乱で負けて荘園のある出羽の国の今の大江町に逃れた子孫)に請われ出羽に赴き、隣接する最上義光との戦にやぶれ命を落とし、その子が上山生居で帰農したとなっています。奈良崎はたぶん奈良御前から取ったものと考えられています。信廉公の子供、弥太郎の後、二代が五島氏を名乗っており、その後奈良崎姓となっています。もともと、信廉公は肥前五島の領主であったとも記されています。甲斐にいて遠隔地である肥前の領地を経営することが可能であったのか、色々とミステリーがいっぱいです。なお、奈良崎家は上山生居の大庄屋として松平二万石の殿様から名字帯刀を許され、殿様がランチをしに来る家だったそうです。可能性、経緯のわかる方がいらっしゃれば幸甚です。

長坂長坂 2016/05/24 22:14 西山様、お初です。さて手前どももその件で親戚一同大騒ぎ
で調べています。奈良崎⇒須藤の過去帳が出てきたからです。
武田逍遥軒の子、弥太郎氏の子孫なのでしょうか?

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