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ヤサぐれ者の魔窟vs発掘亭日乗越

2008-12-12

ダンス】木村覚氏からのメールへの返事

 若手の舞踊評論家の木村覚氏からメールをもらっていた。

 オレの連載に対してのもの。

 http://blog.goo.ne.jp/kmr-sato/e/67ca3bc07c1b63877210f43bcdc65c36

 ただメールとはいえ、「このメールは、まさにダンス批評の論争化のために、後日拙ブログでアップするつもりです。ご理解下さい。」とあるとおり、公開を前提としたものである。一度はアップをしない旨のメールをもらったが、「プロの書き手同士が、公表を前提として互いに批評を書いたのだから」とアップしてもらった。

 ので、オレの返事もアップしておこう。

 残念ながら木村覚氏の「提案」にはつきあう気はないが、若い世代からのアクションは、できる限り応援していきたい気持ちはあるので。

この件につき、桜井圭介氏のレスポンスがあった。

  http://d.hatena.ne.jp/sakurah/20081216

  これに関するオレの見解はこちら

 【ダンス】吾は何故に舞踊の事を書きしか

  http://d.hatena.ne.jp/nori54/20081220

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木村覚様

 イベントのしわ寄せで仕事が修羅場中のため、あまり詳細に書くことができないので、要点だけお伝えしたいと思いますが、ご容赦ください。急ごしらえのため言い回しがきつく感じられるところがあるかもしれませんが、他意はありません。

 

 まずは若い人々の活発な意見は、好ましいことだと思いますし、できる限り応援していきたいと思っています。木村さん達が評論を募集しているとことも聞いており、すばらしいことだと思います。

 長く書いてきている中で、今回の記事の何が木村さんを駆り立てるきっかけになったのかはわかりませんが、とりあえずいただいた「提案」の件に関して感じたのは、僕と木村さんとでは、重要だと思っていることが、だいぶ違うなあ、ということです。ご提案の趣旨は、

 ・乗越は論文の作法(出典の明記など)で書くべきである

 ・なぜなら論争を起こすことが大事だからである

ということに収斂されると思いますが、まずは順を追っていきたいと思います。

●文筆=論文

 僕の文章に関して、いろいろ気を遣って書いていただいていますが、「〈出典を明らかにする〉ことが、言説空間において必要な手続きであると一般的に考えられているのでは、と思うからであります。」、そしてそれを満たしていないので僕の文章は「残念」なシロモノだといい、しまいには論文の書き方指導まで始まるに至って、にぶい僕でもどうやら木村さんは「乗越は出典明記という論文の作法程度のこともわかっていない、すくなくとも重要視していないヤツだ」という前提で書いていらっしゃるようだ、ということがわかりました。

 そんなわけないじゃないですか。

 たとえば僕の小説は膨大な取材と資料に基づいて書かれており、決して僕が出典を明らかにすることを軽んじているような書き手でないことは一読すればわかることです。むろん、普通なら僕の小説など読んでいる必要などないわけですが、今回木村さんがそれなりの覚悟と誠意を持ってメールを出したのだと仮定するならば、「そんな『裏を取る』必要もない」と判断したということ自体、いやそんな発想が湧きもしなかったということ自体、あなたがハナから「乗越たかおなんてその程度の書き手だろう」と思っていたことを物語っています。

 その予断が根底にあったからこそ「乗越は論文の作法などは百も承知の上でああいう書き方をしているのかもしれない」などという可能性には思い至らなかったのでしょう。

 

 同時に、木村さんにとって「文筆」とは、すなわち「論文の作法」であるとお考えであることもメールの論旨からは伺えます。だからこそその作法に則っていない僕の文章は「残念」であり、僕にもそうするように「提案」なさっているわけですから。

 なぜ僕が論文の作法に則って書いていないかと言えば、理由は単純なものです。

 あれは、論文ではないからです。

 そして僕にとって文筆の方法は、論文の作法だけではなく、媒体によって、また書く内容、伝えたい内容によって、様々な方法の中からベストの方法を選びとっているからです。

 論文において〈出典を明らかにする〉ことが一般的であることは、言を待ちません。木村さんのおっしゃるとおりです。しかしそれを「すべての文筆がそうであるべき」とするところが、あなたの視野の狭さです。木村さんは一般誌などにも色々書いていらっしゃるはずですが、意識や価値観が研究室から一歩も出ていないように僕には見えます。

 今回の「提案」は、僕に対して、あなたの視野の狭さに合わせるようにしてくれ、というものですが、それに関しては、いやまあ僕は遠慮しておきますよ、とお答えするしかありません。ましてや、木村さんのメールの中で「採点してもらうための学生の論文の作法」と、「プロが一人で看板を背負い社会に対して書いているもの」が同列に扱われているのを見るにいたっては、「そこの区別もつかないで書いている人に、これから説明することがわかってもらえるだろうか」と、非常な不安を覚えているところです。が、続けさせていただきますね。

 

●なぜ書かないか

 一般誌に書く場合、思いもよらぬ波及効果を生むことが往々にしてあります。些末なことが邪魔をして、本当に伝えたいことが伝わらないことも、実に多いのです。自分の主張を正確に伝えればいい、という論文と違うのは、そのあたりかもしれません。

 僕が論文の作法に従わずに書く理由はいくつかあります。

・不特定多数の人の意見である場合……誰かがその内容をどこかに書いていたからといって、その名前を出すことは、その人をその説の代表者であるかのように印象づけてしまい、かえってアンフェアな事態を招くことになるおそれがある。

・「情報源の秘匿」の場合……ご存じだと思いますが、「様々な事情で取材源の名を明かすことは出来ないが生の声で伝えるべき内容」の場合、仮名や匿名で伝える、という「情報源の秘匿」はジャーナリズムの世界では、それこそ「一般的な手法」です。「論文以外の方法の一例」ですね。当然、それには筆者の裏付け取材と、全面的に記事に対して責任を持つことが課せられます。木村さんは「出典を明記していないのは裏を取っていないことだ」という趣旨のことをおっしゃっていますが、裏を取る方法もまた出典明記だけではないのです。逆に言えば、その言い方だと、あなたは自分の「文筆」においては、文字にされたことしか参考にしないかのように聞こえます。まあ論文しか書かないというのならばそれも立派な方法ですが、僕はもっと文章化される以前の、もっとレアでデリケートな部分を生きた取材を通して書くことを心がけています。それが月刊誌というメディアの性格上、取るべきメリットだと考えているからです。そこで「ダンス関係者の○○が言っていたことだが」と書くことは、単なる責任転嫁になりかねません。だが伝えるべきことがあるのなら、自分の責任において書く。学生の論文とは、自ずから違うことです。もちろん「妄想」とかいうふざけた言葉とも無縁のものです。

 もちろん僕も名指しで書くことはあります。とくに権威に対しては、必要だと思っています。浅田氏のように明確な権威と椹木氏とは論争する意味もあるでしょう。よく読んでいただくとわかっていただけると思いますが、僕も新国立劇場やトヨタ・コレオグラフィー・アワードとか、「権威」に対しては名指しで言っております。

 しかし権威などない日本のダンス評論の中で、個人攻撃をすることにどれだけの意味があるのか、という疑念を僕は強く持っています。なるほど「○○がこんなことを言っていやがった」と書くことはできます。それで論争は起きるでしょう。しかし問題は個人攻撃へと矮小化され、結局は「あいつらがやっていること」という対岸の火事で終わることばかりです。

 それよりも、僕は今蔓延している時代の空気自体を撃つことで、より多くの人に自分のこととして意識してほしい。そのために書いているのです。

 

●論争の意義

 今回の提案で「出典明記」というのは、もう一つの論旨である「論争可能な形にすべき」ということとつながっていますね。「論争」こそが至上もしくは唯一の方法であると言わんばかりの勢いで、執拗に繰り返されています。

 若い頃は僕もそれなりに色々やってはきましたが、少なくとも僕は木村さんがいうような「一種の論争が生まれた時に、その場は活性化し、明るくなると思います。」という楽観論などは、とても持っておりません。

 僕はダンス界に興味はあっても、ダンス評論界(みたいなものがあるとして)をどうにかしようということに関心はほとんどないのです。僕はもうとにかく自分が書きたいことが山ほどあって、書くべきことをやるだけで精一杯です。他の人にも、まず書け! と思います。論争はその延長上に出てくるものでしょう。木村さんの今回の「論争を起こすために、論文の作法で書け」という提案は、まるで本末転倒な、「論争のための論争」にしか見えてこないのです。

 問題があるとすれば、まずはそこじゃないですか? 自分の主張をキッチリ書く層の薄さこそが「まともな論争」が起きない原因ではないでしょうか? そこをすっ飛ばして、「とにかく論争をしたい」という人々がいくら煽りたてたところで、ペラッペラな物にしかならない道理です。

 個人的な印象を言えば、木村さんのいう「一種の論争が生まれた時に、その場は活性化し、明るくなると思います。」といった言説は、往々にして「論争のための論争を正当化するため」に使われていた印象があります。そのあげく「言った言わない」「そういうつもりで言ったんじゃない」で終始する議論の徒労感はイヤと言うほど見てきました。

 もちろん木村さんは、「論争はそんなものばかりでなく、実りのあることができる。そしてそのための今回の提案なのだ」とおっしゃるでしょう。

 しかしメールを拝見するに、木村さんは丁々発止の「論争」に、なんというかロマンティックなあこがれのような物を持っているように伺えるのですね。僕としては率直に言うと「つきあいきれねえなあ」という気持ちです。何度も書いていますが、「そんなもののためにダンスを踊るヤツなどいねえよ」と思っているからです。

●煽動

 それから木村さんが僕に対して言っている「煽動」というのが、よくわかりませんでした。僕は「煽動」というともっと組織的な、派閥や子分を総動員して世論を形成する、みたいなイメージを抱いているため、一匹狼の僕は、「はてな?」という感じでした。ただ文脈からして批判なのはわかるし、特に興味もないので返事は結構ですが、「論争的な仕方(これは論争が起こるように論文の作法で書く、ということでしょう)でなく語ることで、読者を誘導する」のが「煽動」であり、乗越の文章はそうした色を帯びている、とことですね。

 僕は基本的に「ダンスを作る人々を応援したい」という気持ちが根底にあります。僕と違う意見の人がいるのは当然で、むしろ健全なことであり、それに対していちいち「オマエの言っていることよりオレの方が正しい」などという気はないのです。繰り返しますが、それぞれが自分の書くべきことをキッチリ書いていれば、それでいいことなのです。

 数年前、ダンス公演の後に「もう日本のダンスなんてダメだ!」と声高に言っていたダンス関係者が実際にいましたが、あなたの「提案」にしたがって、その人の実名をあげて記事を書き、論争を起こして「言った言わない」の水掛け論をすることが、そんなに大切なことでしょうか? それとも文章化されていないことなので、一切書くべきではないのでしょうか?

 僕のスタンスは違います。

 おそらく同様の人は日本中にいて、それを耳にしたダンサーや制作者は少なからずへこんだりするものです。僕は「こういうことを言う人はいるが、いま真剣にダンスを作っている君たちは気にするなよ。日本のダンスにはこんないいところもある。たとえば……」と書くことで、ダンスを作っている人々を勇気づけたい、と思って書いています。また日本のどこかで同様に「もう日本のダンスなんてダメだ!」と言ってしまっていた人が僕の記事を読んで、もう言わなくなってくれたらいいな…… そういう希望を持って僕は書いているのです。

 それが、社会に向かって書く、ということであり、僕の物書きとしての矜持でもあります。

 

 それが木村さんにとっては「評論じゃない」とか「煽動である」と感じられているようですが、でもまあ、それはそれでいいんじゃないでしょうか。

>ここからさらに上を目指していくことが(私の言う「上」が「獣道」とルートを異にしていないと信じています)

 というのも、いやあ、違うんじゃないかなあ、と思いますしね。そんなものは、違っていた方がおもしろいんですよ。「上」ってのがなんなのかよくわかりませんが、それぞれが、それぞれの立場で、それぞれの信じる方法でダンス界に貢献できれば、それが一番じゃないですか。

 ぜひとも木村さんはご自分の信念に従って、「論争」で日本のダンス界を変えてみてください。

   ◆◇◆◇◆◇◆◇  

  

 それにしても、

>「いうまでもないことですが、このメールは、誰かに扇動されてのものではありません。私の判断で、自分自身の目からもうしあげていることです。」

とは、ずいぶん変わった心配をされるものですね。そんな失礼なことを思うわけないじゃないですか(笑)。そちらには何か「そう思われるかも知れない」と考える事情があるのかも知れませんが、ご心配には及びませんよ。

 またいくつか「ここがわからない」的な質問もいただきましたが、基本的には僕が原稿に書いた説明で精一杯な物です。それで理解できなければ、「乗越は説明がヘタだ」と思っていただいて結構です。学校ではないので、納得いただくまで説明することもいたしません。

 

 仕事が修羅場のため、論争などもする余裕も体力もないので、これっきりにて失礼いたします。

 

 末尾ながら、ますますのご活躍をお祈りします。

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