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ヤサぐれ者の魔窟vs発掘亭日乗越

2018-01-21 ジェローム・ベル『Gala-ガラ』を見る 二つのレイヤー

【Jérôme Bel[Gala]】

●これから余分なことを言うよ

これはそれぞれのレイヤーで楽しめる・受け取れる作品だ。「身体の多様性と可能性を示した作品」と見ることもできるし、「劇場」という「人を感動させる装置」についての作品ともとれる。

しかしもちろん「正解」などはない。

以下はオレの舞踊評論家としての考察だが、舞台を心から楽しまれた人にとっては、基本的に「余計なもの」である。あなたが舞台から受け取った温かいものを損なう恐れがあるので、読まないことをお勧めしたい。

●個人とコミュニティの柔らかな関係

本作はプロも含むが一般から選ばれた老若男女その他、様々な人々が、それぞれに踊る。子供も車椅子の人もバレエダンサーも。

入手杏奈は終始光っており、オクダサトシは終始毛だらけの乳首が出ており、過剰な締めくくりも川口隆夫が成り立たせていた。

一見するとコミュニティダンスのようだが、一線を画すために様々なポイントがある。

たとえばバトントワラーの演技を、2回に分けてでも全員で踊るとか。これは中にいるバレエダンサーなど「あるダンスが優れた人も、他のダンスでは手も足も出ない姿」を見せている。

「全員そこそこできるライン」を見せるのがコミュニティダンスだが、これは「できない姿=多様性を見せること」にこそ意義があるのだ。

初演がサン=ドニという移民の多い地区の住人を対象に行われたことからも、それは明らかだろう。個人とコミュニティの柔らかな関係、不寛容な社会へのメッセージ、多様な身体の謳歌、それらはもちろん本作の魅力の根幹を成している。多くの「感動した」という声が出るのももっともだろう。

●感動に乗るわけにはいかない人々

だが、こうした「感動」に、容易に乗れない人々がいる。それがもうひとつのレイヤーである。

これは単にひねくれているというだけではなくて、ダンスという芸術が孕んでいる危険性を知っている・知っているべき人間としては、「乗るわけにはいかない」点でもあるのだ。

ダンス経験がない人、あるいは障害のある人が一所懸命やっていれば、しかも互いに助け合ったりすれば、感動的ではある。

だがそれはちょうど今月の連載のユニゾンを題材に書いたことと同じで、

http://ebravo.jp/digitalmagazine/bravo/201802/html5.html

そういう「条件反射的に生み出される感動」は、コンテンポラリー・ダンスの歴史の中で、慎重に避けられてきたのである。

それは独裁国家や新興宗教などが組体操の感動経験や映像を洗脳やプロパガンダに使ってきた歴史や、「簡単に満足を与えるための安易な方法」にすがることが、新しい表現の放棄と目されてきたからだ。

●だってベルだもの

ただそれは、もちろんジェローム・ベルも百も承知している。

承知したうえで、ベタな手法を使っているのだ。

常に議論を巻き起こすような作品を創ってきた彼が、少なくとも安易な方法を採るとは思えない彼が、これだけベタな「感動作品」を仕上げる以上、そこになんらかの意図があるのでは、と、彼に関する情報を知っている人々は考える。

もちろんほとんどの観客は、そんなことを斟酌する義務はない。目の前の作品が全てであり、いちいち振付家の他の作品スタイルなど関係なく、目の前の感動を受け取るのは、全く正しいことだ。

問題は「感動には乗れないが、ジェローム・ベルに関する情報もない人」である。彼らは、ただただその「ベタさ」に拒否反応を起こすことになる。

前の来日公演『ショウ・マスト・ゴー・オン』の時も、同じようなことを書いたが、思い出すのがデビッド・リンチ映画エレファントマン」を撮ったときの話だ。

この中で金持ちのマダムがエレファントマンを英雄の如く扱い、満場の拍手を得るシーンがあるのだが、これが「安っぽいヒューマニズム」だと非難されたのである。リンチはマダムの偽善ぶりを描いたつもりだった。「だってオレだぜ? そんな感動シーンなんて撮るわけないだろ?」と言いたかったろうが、まあしょうがない。

『ショウ・マスト・ゴー・オン』でも公演を額面のまま受けて「お笑いとして笑えない」という人もいた。お笑いじゃないんだからそれは当然なんだけど、これもまたしょうがないことだ。

ただ『ガラ』では、ベタな体裁を取ってはいるが、安易な感動作品に堕ちているわけではないことを示す、いくつかのツボは見事に抑えられている。

たとえば、演者はどんなに盛り上がっても、客席に向かってお辞儀や両手を広げたり拍手を煽ったりしない。演者は自分のターンが終わったら淡々と去り、次に移る。つまりフィナーレ以外は「客席との一体感による陶酔」を慎重に排除しているのである。

ベルが「意識的にベタな感動作品の体裁を取っている」とすると、「では何のために?」という疑問が浮かぶだろう。それは何か?

●これは「劇場という装置」を考える作品である

そのためにもう一度立ち返りたいのが、コンテンポラリー・ダンスの歴史が「安易な感動を排除してきた」とは言いつつも、そもそも劇場とは、本来的に「感動を生み出す装置」である、ということだ。

暗闇で見つめ、大音量で、尋常ならざる身体や芝居を見る。

当然、こういう疑問も湧いてくる。

「感動を生み出す装置」である劇場で感動を生み出して何が悪いのだ。

人の感動に、良いの悪いのというのは大きな世話だろ。

・・・という疑問に対して、意識の高い人々はこう答えてきた。

「そんなベタな方法ではなく、様々な芸術的な・革新的な方法で乗り越えるべきだろう。それがアーティストの仕事ではないか」

しかしそこで「そんな、ダンス界のお偉いさんのスノッブな要求になど従ってたまるか、お前らに気に入られるためにやってるんじゃないんだ」と、「劇場という制度」に物申すのが、ジェローム・ベルというアーティストの真骨頂なのである。

だって劇場ってそういうもんじゃないの?

なんで気取ったことをせにゃならんの?

それを踏まえずになにができるの?

そもそも人種や性別や障害を超えて頑張った姿を見て、少しも心は動かなかったの?

現実社会に悲劇は満ちているのに、なぜそれだけのことで心が動いてしまうの?

それは「劇場」という装置の作用じゃないの?

「ガラ」は、「感動を生み出す装置としての劇場の魅力と危うさ」を、「感動的な舞台」を作り出すという定番のやり方で示した。それはあえてベタな体裁を取ることで、感動的な作品として成り立ち、多くの観客に満足を与えるとともに、あまりにも、あんまりにもベタであることで、別の意図を深読みさせる手がかりとしている。

オレはこれを「劇場を考えるための作品」だと思っている。

それはそんなに間違ってはいないと思う。

なぜか。

ネットの感想を見ると、皆ほとんど忘れているようだけど、この作品の冒頭を、もう一度思い出して欲しいのだ。

何を見た?

開始から5分間近く、延々と流れたのは、オペラ座から、芝生の上のプラスティック製の椅子まで、世界各地の「劇場」の画像だったのである。

そう。ジェローム・ベルは、丁寧に「これは劇場についての作品なのだ」と最初に断った上で、全てを始めていたのだと、オレは思っているのである。