色んな気持ち、胸の中にもやもや抱えて歩いていたら、なんだか一歩も前に進めなくなった。初夏の日差しがまぶしい甲州街道の交差点で、私一人凍りついたように立ちすくんでしまって、声を出すこともできない。左肩の古傷まで、締め付けるようにじんじん痛んでくる。頭の中に、あれはどうする、これはどうする、あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ、と声がいっぱい鳴り響いて、折り重なって出口を求めて助けてくれと悲鳴を上げている。ただ心臓ばっかりがドキンドキン高鳴って、どうしていいか分からない。息が苦しくって立っているのもしんどい。パニック症候群ってやつだなー、なんて、そんな冷めた声が、頭の中の惨状の奥の方から聞こえてくる。そういう時は、とりあえず全く関係ない別のことをした方がいいですよ、とカウンセラーさんも言っていた。まずは全てストップ、全休止、と、交差点の神戸屋キッチンに逃げ込むことにする。
 いけないんだ。そんなことじゃだめなんだ。守らなきゃいけない約束。伝えなければならない決断。その後に続いてくるモロモロ。けりをつけないといけないしがらみ。あー、やめよう。考えるのやめよう。神戸屋キッチンの美味しいパンのことだけ考えよう。入口で、可愛いエプロン姿のウェイトレスさんが、笑顔で席に案内してくれる。休日でも食事時でもない店内は結構空いていて、窓際のテーブルを一つ、一人占めした。
 テーブルについて、メニューを開いて初めて、朝から何も食べてないことに気が付いた。朝起きるだけで体が重かった。出かけなきゃ、と身支度するのが精いっぱいだった。朝お化粧しながら、鏡をまともに見ていなかった気がする。ただ機械的に、習慣のままに手を動かしていただけのような気がする。まともな顔してるかな。そもそも今日、彼に会う気力があるだろうか。化粧室に行って、自分の顔を確かめるのも億劫。でも行かなきゃ。ローストビーフのサラダにコーンスープ、それにお代わり自由のパンと、コーヒーを頼んで、さぁ、自分のひどい顔にご対面しに行こう。
 ・・・戻ってきた。予想以上にひどい顔。どっと落ち込む。血の気がないってのはこのことだ。目の下のクマは睡眠不足のせいじゃない。ダラダラとベッドの中には入っているんだから、結局、気持ちの問題だ。彼にプロポーズされてから2週間、ベッドに入っていても眠れた気がしない。2週間で返事しなきゃいけないってのも無茶だ、と憤ってもいいけれど、付き合い始めて2年間、中途半端な関係の居心地の良さに安住していた自分が悪い。
 「2年なんてあっという間だもんねぇ。それじゃまだまだ、分からないことだらけでしょう?」
 そう、そうなの。分かってることもたくさんある。彼の優しさ、彼のユーモア、細身だけど意外とガッチリしている二の腕、結構短気で、気が弱くって、私がすぐにイエスを言わないことで相当落ち込んでいること。
 「じゃあ何が分かってないの?」
 二人の未来の絵が見えない。描けない。二人の、というより、彼の側にいる私が、どんな風な顔でいるのか、どんな気持ちでそこに立っているのか。
 そして何より、私自身が、そんな風に前を向いていい人間なのかどうか。そんな私を、彼が本当に支え切れるのかどうか。
 あれ、と突然気づく。私、誰と会話しているんだ?
 「結局は違う人間だものねぇ、2年どころか、200年一緒に、同じ光を浴びて、身も心も一つになって同じ場所に根を張って生きていても、分からないことはあるからねぇ。全部分かっちゃうなんて、無理なのかもねぇ」
 独り占めしていたはずのテーブルの向かいに、小さなおばあさんが座っている。淡い藤色のショールを肩にかけて、にこにこと微笑みながら、考え考え、言葉を口に出す。柔らかな年輪を含んだアルトの低音。誰だ、この人?200年?
 「スープが冷めちゃいますよ」
 あ、はぁ、と生返事して、スプーンを手にした。私の前に置かれた小さなバスケットに、丸いくるみパンが入っていて、おばあさんは私に一言断るでもなく、それを手にして、小さな手の中で二つに割った。焼きたてのパンの割れ目からふわっと蒸気があがる。皺だらけの唇の中に、一つまみパンのかけらを入れて、ゆっくり咀嚼している。あんまり美味しそうで、なんだか見とれてしまう。
 「ちゃんと食べないと。まだまだ若いんだから」
 若くなんかないですよ。社会人になってもう10年近く、とっくに30の坂は超えた。もう二度と色恋沙汰には無縁だな、と思った30過ぎたばかりの時に、彼に出会った。4つ年下の彼。年下だと思って油断したのがよくなかったのかな。
 「油断?」
 ただの身体の関係だと思った。性欲のあり余った二十代の若造が、それなりに経験のある年上の女を、はけ口にしてるだけだと思った。私にもそれが心地よかった。利害関係だけでつながっている、獣の関係だと思っていた。
 「身体の心地よさって、心を癒すからねぇ」
 すっかり枯れた感じのおばあちゃんが、さらりと言うと、生々しくなくていい。冷たいローストビーフを噛みしめると、じわっとにじみ出る肉汁のような滋味。
 「男の人に抱きしめられるのって、心地よいからねぇ」
 そうだ。あの心地よさから、お互い離れられなくなった。お互いの胸のぬくもり重ねて、身体の中で一番熱くなったところを一つにして、しっかり絡み合っているあの心地よさ。頭の中の色んな声のざわめきが止んで、逆に身体の芯だけが熱くなる。だめだ、もっと考えないと。身体の欲求に任せてしまったから、今の混乱があるんじゃないか。私には守るべきものがあるのに。
 「何を守っているの?」
 何を?
 「素直に抱きしめられていればいいのに。そんな幸福が、目の前にあるのに」
 ダメなんです。それじゃダメなんです。
 視界がぼやける。気が付いたら、涙がぽろぽろ頬を伝っていた。ダメなんだ。私はもっとしっかりしないといけないんだ。身体の欲求に流されちゃだめだ。彼の優しさにほだされちゃダメだ。私には守らないといけないものがあるのに。この左肩の痛みと共に、一生抱えていけないものがあるのに。
 「何を守っているの?」もう一度問われる。何を?
 忘れない、絶対に忘れない。あの時そう叫んだ自分。一生忘れない、二度と他の人のことを好きになんかならない。一生、あなたのことを愛し続けると、叫んだ自分。
 あの人のこと。あの人と過ごした、西の街での学生生活。あの人の笑顔、今の彼とは全然違う。あの人はもっと太ってたな。ぽっちゃりしてて、なんだかふわふわしてて、マシュマロマンみたいな人だった。ラーメンが大好きで、いいラーメン屋さんを見つけると、二人で行列に並びに行って、2時間も待って食べた。私はいつもそんなに食べられなくて、私の分を半分と、自分の分、1.5人前が彼の分って決まってた。柔らかくって大きな手のひら。くるっと丸い目で、ぬいぐるみの熊さんみたい。そして本当にぬいぐるみの熊さんみたいに、優しい人。あったかくて、広い胸。その温もり。
 そして、あの日の記憶。絶対に忘れられない、あの日の記憶。
 二限からの授業だから、と、二人して少し遅い時間の電車に乗った。二人で、大阪行きの先頭車両に乗って、手をつないで、半分うとうとと居眠りをしていた。だからその瞬間、何が起こったのか、全然分からなかった。身体が急に宙に浮いて、車両の中のありとあらゆるものが、洗濯機の中にいるみたいにぐしゃぐしゃにかき回されるのが見えた。私の身体も洗濯物の一つみたいに、人の身体と社内の物とまぜこぜに、巨大な暴力に無秩序に振り回されて、体中に椅子やら鞄やら他の人の身体やらわけのわからない諸々がぶつかってきた。気が付いたら、彼の手を離していた。なんで離してしまったんだろう。あそこで手を離してなければ、ちゃんとあの人がこっちにいる間に、伝えられた言葉があったかもしれないのに。私もあの人と一緒に、死ねたかもしれないのに。
 意識が戻った時、私はもう、線路の脇に寝かされて、救急車を待っている怪我人の間にいた。後から、左肩の骨が折れていると言われたけど、それに気づかないくらい体中がギリギリ痛かった。でも、そんな痛みよりも何よりも、焼けつくような焦燥感で、止める声も聞かずに立ち上がった。あの人はどこ。私とつないでいた手を離して、あの人はどこに行ったの。
 頭が痛くなるようなガソリンの臭いが立ち込める中、レスキュー隊員が何人も群がっている現場の隅で、あの人の身体はもう毛布にくるまれて、まだがれきの下敷きになっていた。生きている人の救出を優先して、救う見込みのない、命のない人にかけられた毛布。その毛布から出た手のひらを、かろうじて動く私の右手で握ったら、まだ温かかった。身体の痛みよりも激しい痛みが全身を襲って、ガタガタ震えが止まらなくなって、獣みたいに叫んだ。あの人の名前を叫んだ。意味もなく、ごめんなさいと叫んだ。私だけ生き残ってしまった。あなたと一緒に行けなくて、一緒にいてあげられなくて、ごめんなさい。ごめんなさい。
 彼を含めて、100人以上の人が、あの脱線事故で命を落とした。そして奇跡的に肩の骨折だけで助かった私を含めて、たくさんの人が、一生癒されない心の傷を負った。西の街から東京に逃げて、もう10年以上たつ今になっても、まだ体中で思い出す。この全身が覚えている。あの痛み。あの人の手のひらのぬくもり。あの時のガソリンの臭い。
 「人間は足があって、動き回るから、色んな目に会うのね。木みたいに、同じところに根を生やして、じっと動かないでいても、それなりに色んなことがあるけれど」
 あの人のことを忘れちゃいけないの。今の心地よさに酔って、今の彼が見せてくれる未来に溺れて、あの人のことを忘れてしまったらいけないの。あの人と過ごしたあの日々を覚えているのは私だけなのに。私が忘れてしまったら、あの人との時間は、この世から消えてしまうのに。
 「彼は知ってるの?その人のこと?」
 知ってる。付き合い始めてすぐに話した。彼は猛烈に焼きもちを焼いた。死人は無敵だ、戦いようがないって、悔しそうに泣いた。
 「ならもう、その人は、彼の中にも生きているのね」
 生きている?
 「命は自分の思いを伝えようとするから。あなたのその人への思いは、あなたの周りにいる人にいつのまにか伝わっていく。風に乗って飛ばされる花粉のように、たんぽぽの種子のように、あなたの心から周りの人の心へ飛んで、そこにしっかりと根を生やす」
 頭の中に、鮮やかな色彩が広がる。私の思い。あの人の思い出。藤色をした私の思いが、私の身体からゆらゆらと立ち上り、風にのってふうわりと私の周りに滲み出していく。そんな風にして、あの人は私を媒介に、今も、この時代を生きているのだと。
 「そう思えれば、あなたも前を向いて、幸せになれる」
 そう思って、幸せになっていいんだろうか。
 「私もね、長く連れ添った連れ合いに逝かれた時は悲しかったけど、でもねぇ、翌日にはやっぱりお腹は空くの。春になれば浮き浮きして、身体は恋を歌うのよ。命は前に進もうとする。そして自分の中の思いを空に飛ばすの。逝ってしまった人の記憶。喜び、悲しみ、苦しみ、過ぎ去った日々の輝く思いを、春色の風の中に飛ばして、子や孫に伝えようとするのよ。それが命というものだから」
 分かるけど、でも、私はそんな風に、あの人のことを思いきれるだろうか。彼は、私の中のあの人を、受け入れてくれるんだろうか。
 「受け入れてるから、結婚まで申し込まれたんでしょうが」
 そりゃそうだけど・・・
 生まれたままの姿で抱き合っている時、私の左肩の古傷に、そっと触れる彼の指先を思い出す。その傷跡の下で、いまも疼いているものを、柔らかく包み込んでくれる温もり。
 お皿に残ったサラダリーフをフォークで弄ぶ。お腹は満たされた。頭の中のパニック状態も、なんとか落ち着いている。そろそろ行かないと。
 前を向き直ると、おばあさんはいない。え?
 テーブルの上に、色鮮やかな藤の花がひと房、置かれている。それだけ。
 なんだか夢でも見ていたよう。
 そういえば、すぐ近くに、国領神社の藤棚があったな。千年乃藤。今が見ごろだ。
 彼にここに来てもらおうか。そう思った。彼と一緒に、国領神社に行こうか。
 頭上を覆う薄紫の雲のような、あの見事な藤棚を、彼と一緒に見上げてみたい。私の中にまだもやもやと残る、あの人への思いを伝えたい。
 あの人は許してくれるだろうか。私が別の人と前を向いても、許してくれるだろうか。
 「許してくれるわよ。春だもの」
 藤の房を手に取ると、さっきのおばあさんの声が、頭の中に響いた気がした。

<国領神社 千年乃藤>
 国領神社のご神木である千年乃藤は、以前は大人二抱えもある巨大な欅の木にからまり、二つの巨木が一体となって、現在の甲州街道まで枝を伸ばし、藤の花を咲かせ、実をならしていた。
 しかしその欅の木に雷が落ち、欅は枯死、そのまま倒木の恐れが出てきたため、藤の木だけは延命させようと、欅の木の代わりとなる柱を立て、鉄骨製の藤棚を整備したのが昭和47年。
 以来、藤の木はさらに延び、茂り、毎年4月下旬から5月の上旬の連休の頃になると、藤棚一面に薄紫色の花房を付け、周囲に甘い花の香りを漂わせる。
 その生命力の強さから、延命・子孫反映・商売繁盛、万物繁盛に通じるとし、また、「フジ」の字が不二・無事に通じるとして、災厄を防ぎ守るご神木として、敬い崇められている。

(了)

<和子>
 
この角ですか。その人が見つかったのは。
 
うちのおばあちゃんが仲良くしてたんですか。その人の娘さんと?
小さいお子さんでしょう?
子供が好きでしたからね。散歩してて、通りすがりの子供を見かけると、すぐニコニコ声をかけてたから。
お父さんがそんなことになってねぇ、気の毒だったねぇ。その娘さん。
 
おばあちゃんは、亡くなりました。つい先日です。
いや、お悔やみ言われるような年じゃないですよ。94歳でしたから。
もうね、このまま死なないんじゃないかって思ってたからねぇ。亡くなった時は、悲しいっていうより、ちょっと驚いたわね。
そりゃ、人間だからね、いつかは死ぬんだけども。
90歳過ぎた老人ってね、生きてる状態でも、半分死んでるみたいな感じじゃない?
もう身体も心も、半分はあの世に行ってる感じだからね。今さら、亡くなりました、なんて言ってもねぇ。
ちょいちょい遊びに行ってた隣町のお友達の家に、ずっとお邪魔することにしました、みたいな感じ?ははは。
本当に、死ぬ間際までピンシャンしてました。
予感があったのかもしれないけど、亡くなった日には、ぱたぱた、部屋の掃除とか自分でして、いつもに増して身の回りを小綺麗にしてね。
翌朝、部屋に起こしに行ったら、冷たくなってた。
大往生です。すごい人だったねぇ。
 
あなたくらいの年の人から見れば、私もいいおばあちゃんでしょう?
でもねぇ、大正生まれの人は、昭和生まれの私なんかとは出来が違う気がするね。
なんていうかね、大量生産したモノと、職人さんが作ったモノ、くらい違う感覚があるね。
おばあちゃんが死んだ時には、本当にそう思いましたよ。職人さんの作ったいい置物が天国に行っちゃった、みたいな。
 
うちは古い家でね。このあたりがまだ野原だったころからずっと住んでる。
私が子供の頃にはまだ畑もやってたけど、私がお婿さんもらって家を継いでからは、畑も手放しちゃった。
子供の頃の村の面影はほとんど残ってません。この五叉路と、道祖神くらいかなぁ。
この角の道祖神は、私が子供の頃からあるね。
 
この道祖神を頂点にして、五本の道がここで交差してる。きれいな五叉路。
ほら、右斜め前の、あの道の先はね、駅に通じる道だけど、昔は何もありませんでした。
周りは畑ばっかりでね。この五叉路から、駅舎とか、鉄道を走る汽車の灯りが見えるくらい、見渡す限り何にもなかった。
日が暮れてから、あっちの駅からこの村まで歩いて帰ってくるのは、なんだか怖かったですよ。街灯もほとんどないからねぇ。
駅前からどんどん住宅街になって、旧村のこの周辺よりよっぽど洒落た街になったけど、昔は怖い道でした。
 
この角でね、怖いことがあったって聞いたら、そりゃ確かにびっくりするけど、なんだかね、なるほど、と思っちゃうのよ。
村の中でね、不思議なこととか、怖いことが起こっても、あそこなら、なるほどって思っちゃう場所って、あるでしょ?あそこなら、そういうことあるよね、って。
幽霊屋敷みたいな建物とか、神社とかお寺とか、何か出ても不思議じゃないような場所ってね。
この角もねぇ、そういう場所だと思うの。昔から。
それこそ、おばあちゃんに聞いた話だけど。
 
あの、駅に通じる道はね、村にとっても、怖い道だったそうですよ。
旧街道から川沿いにあるこの村に向かって伸びた道。村と外の世界をつなぐ道。
旧い村にとっては、外から来るものって、まずは恐ろしいものじゃないですか。
なにか、村の平和を乱すかもしれないような。
それでこの道祖神を作ってね。外から来るものから、村を守っていたんだと思いますよ。
 
だからね、この角で、そんな不思議なことが起こったって聞いても、私は驚きませんでしたねぇ。
なるほどなぁ、って、なんだか得心してしまった。
今みたいに色々と便利になってね、不思議なこととか、あんまりみんな信じなくなった世の中でもね、私くらいの年ごろの人間はまだ信じてますよ。
何かしら、目に見えないけど、そこにあるものってね。
たぶん、その人は、そういうものに取りつかれたんでしょう。
気の毒といえば気の毒だけど、取りつかれるってことは何かしら、理由もあったんじゃないのかしらね。
そう思いますけどね。
 
それこそ、うちのばあちゃんだってね、今でも、この道祖神のそばにニコニコ立って、村の子供たちを守ってるのかもしれないよねぇ。
今でも、なんだか信じられないんですよ。あのおばあちゃんがもうこの世にいないんだってね。
そういう不思議なことがあったって聞かされるとなおさらね。
そう思いたいだけなのかもしれませんけどね。
 
<康子>
 
この角ね。あの人が見つかったのは。
 
警察から連絡があったの。事前に相談もしてたから。身元が確認できてすぐに、連絡くれた。
私たちの家に近寄ってもだめ、って、裁判所がいくら命令しても、地元の警察が把握してないと、禁止もできないでしょう?
引っ越してきた時に、警察署に行って、事情を話して、あの人の名前とか、写真とかも渡して。
思ったよりずっと親身に、色々相談に乗ってくれたわよ。定期パトロールのルートを変更して、毎日見回ってくれたり。
でも、そういうの、限界があるから。
結局、あの夜、あの人はここまで、もう少しで、私たちに手の届くところまで来たわけだし。
近所の人とかに聞いたら、何度か下見に来てたこともあったらしい。
 
優しい人だったのよ。
付き合ってた頃も。結婚してからもずっと。
美里が産まれてからも、ずっと、優しい父親だった。
 
変わっちゃった原因って、思いつくような、思いつかないような。
一つだけじゃないと思うの。
ちょっとした毎日の会話とか、生活の中のちょっとしたことの積み重ね。
部屋の電気を消し忘れた、とか、携帯に電話しても出なかった、とか。
こうあるべきなのに、そうなっていない。こうなるはずなのに、そうならない。小さな苛立ち。そういうことの積み重ね。
自分たちにはどうしようもないこともある。
出かける予定が雨で中止になったり、急に美里が熱を出したり。
人生で、思うように行かないことって、たくさんあるじゃない?
コップに、ぽたぽたしずくが垂れて、だんだん水がたまっていくみたいに。
そういう日々のきしみや、ずれがたまっていく。
そして、最後の一しずくで、それが一気にあふれる。
 
あふれないで、溜めこまないで、うまく吐き出す人もいるし、
そもそもそんなしずくがこぼれてこない人もいる。
でも、あの人はそうじゃなかった。
優しい顔の奥で、ゆるゆるとどす黒いものが溜まっていった。
そしてある時弾けた。
弾けてしまったら、一線を越えてしまったら、それはすぐに日常になった。
 
初めて殴られた時のことは、よく覚えてる。
私が友達と久しぶりに会う約束をしていて、あの人に美里のお迎えを頼んだ。
あの人は、いいよって引き受けてくれたのに、きれいさっぱり忘れてしまって、いつものように残業して、いつものように外で晩御飯を食べて、ビール飲んで夜遅くに帰ってきた。
幼稚園から私の携帯に電話があって、私が慌てて迎えに行った。
私も頭にきて、帰ってきたあの人と口論になった。
どうして忘れてたの、朝もちゃんと確かめたのに、いつだってこっちの言うこと話半分にしか聞いてないでしょ。
いつもの不平や不満をぶつけて、あの人は謝り疲れて、不貞腐れて、分かったよ、悪かったよ、もううるさいよ、なんてぶつぶつ言いながら、自分の部屋に戻る。
そういう、よくある小さな言い争いのはずだった。
 
私の都合とか予定とか、いっつも無視するんだよね、と私が言った瞬間、彼の顔がどす黒くなった気がした。
そこで気づくべきだったのかもしれない。でも、私は気づかなかった。
この間も、と言いかけた瞬間に、左のこめかみに衝撃があった。
身体ごと吹っ飛んだ。
食卓にぶつかって、美里のお皿が床に飛んだ。割れなかったけど。
左耳がキーンって鳴って、周りの音が遠くなった。
美里の泣き声が、遠くに聞こえた。
視界が朦朧とした。
その視界の端で、食卓の上のお醤油差しが倒れて、お醤油がとくとく流れているのが見えた。
その向こうに、あの人の顔が見えた。
あの顔が忘れられない。今でも頭の中から消えない。
多分一生消えないんだろう。ずっと私の心の傷になるんだと思う。
 
美里の心の傷にもなってると思う。
癒す方法なんかない。
あの日から、あの人は、あらゆる種類の暴力を私に加えたし、美里がその場にいるかいないか、なんて頓着しなかった。
あの人が、私から、人間としての尊厳を全て奪っていくのを、あの子はすぐそばで見ていた。
今でもカウンセリングは受けてるけどね。二人とも。
傷を完全に消すことはやっぱり無理で、なんとかそれとうまく付き合っていくしかないって、カウンセラーさんも言ってる。
 
あの人がここでどんな目に会ったか、あの子には知らせてない。
でも、いつか伝えないと、とは思ってる。
伝えたところで、あの子の心の傷は癒えないけどね。
でも、少しは安心させてあげられるかもって思う。
あの人が、私を殴ることは、もう二度とない。
あの人はもう、誰かを殴ることなんか、二度とできないんだって。
 
<志垣巡査>
 
この角で、当人を発見しました。
 
午前2時55分でした。
 
ほぼ全力疾走状態でした。相当疲労している様子でしたので、少なくとも2〜3時間以上、走り続けていたのでは、と想像します。
身体上の疲労だけでなく、精神的にも半ば錯乱状態であったと言えると思います。
当方からの呼びかけには反応しました。当方が警官であることも認識しました。
事前に届け出のあった人物であることも、その場で確認できましたので、すぐに確保しようと思いました。
ですが、錯乱状態と、言動に危険な要素があったので、一旦解放し、本官はそばに待機して、応援を要請しました。
反復行動をひたすら続けているだけでしたので、逃亡の危険はないと判断しました。
 
反復行動の目的は分かりません。当人は、接近禁止命令の出ている元配偶者の家に行こうとしている、と明言していましたが、反復行動自体はその目的に沿っているとは思えませんでした。
反復行動の詳細については、添付の図で説明しております。
 
上岩原一丁目の五叉路の中を、全速力で、ひたすら移動し続ける、というものです。
移動のパターンも決まっておりまして、この角にある道祖神を頂点として、五つの角を、一筆書きの星の形にひたすら移動する、という動きです。
 
・・・五芒星、というのでしょうか。
 
応援が来着し、二人がかりで確保いたしました。かなり激しく抵抗しましたが、五叉路の外に連れ出した途端に、失神状態に陥りました。特に本官と応援者で強い外力を加えた経緯はありません。身体を確保した状態で、五叉路の外に引きずるように移動させただけです。
救急車が到着する前に、覚醒はしましたが、意識状態は本日現在、低レベルで推移しています。
 
・・・ほぼ廃人、と言っていいと思います。
 
<美里>
 
この角に、パパがいた。
 
ママには言えなかった。怖くて。
パパは、私に向かって、にっこりして、おいでおいでって、手を振った。
 
走って逃げても、きっとつかまる。
私がつかまったら、ママもつかまる。
そしてまた、パパはママを殴る。
すごい大声で怒鳴ったり、殴ったり蹴ったり、物を投げつけたり、死ねとか殺すとか、言い続ける。
 
パパの方を見たまま、じっと立っていた。
パパはまた、にっこりして、おいでおいでって、手を振った。
そして、一歩、こっちに向かって近づいた。
もう逃げられないと思った。
またママが殴られると思った。今度こそママは殺されるかも、と思った。
神様助けてってお祈りした。
 
パパは、そのままじっと私を見ていた。
そうして、にやっとして、振り返って、駅に向かって歩いていった。
また来るよって、言ってる気がした。
 
おまじないは、そのあとすぐにやった。
 
その晩は、お祈りしながら、眠った。
朝起きたら、おねしょしちゃってて、ママにすごく怒られたけど、パパのことは、ママには言わなかった。
今でも言ってない。
おまじないのことも、言ってないし、おばあちゃんのことも、言ってない。
 
<芳子>
 
この角に、あの子がいたんですよ。
 
他の大人が見たら、子供がなんか不思議な遊びをしてる、と思ったでしょう。
でも、私には分かりました。
だって、私が教えたんですから。
えらいことになった、と思いました。
あの子も真っ青な顔をしてたけど、私も血の気が引きました。
 
おまじないってのはね、何かしら犠牲を伴うものなんです。
そんなに都合よく、神様が、はいはいって言うこと聞いてくれるわけはない。
何かを神様にお願いするには、何かを神様に差し上げなきゃいけない。
あの子に私が教えたのは、そういうおまじないでした。
効き目は確かだけど、犠牲も大きい。危険なおまじないです。
 
私は息を詰めて、私が教えた通りに五叉路の中を歩いている、あの子を見ていました。
この角から始める。この道祖神を背中にして、駅に通じる道に向かって歩く。
呪文を唱えながら歩く。
角に着いたら、次は、あそこの、駐車場の角に向かって歩く。
次は、あっちの、工務店の看板のある角。そうして、あそこの生垣のある角。
そして、この角に戻ってくる。
一筆書きの星の形。
私にこのおまじないを教えてくれた母は、セーマンさまって言ってましたね。
セーマンさまの星形を描くんだって。
 
どうして止めなかったかって?
止めちゃいけないんです。おまじないを途中で誰かが止めると、もっと危ないことが起きる。
始めてしまったら、続けるしかない。終わるまで、見届けるしかない。
呪文を間違えてほしい、と思いましたね。それか、順序を間違えるとか。
それなら、おまじないは効かないし、神様も罰を与えたりしない。大目に見てくれる。
小さな子供のやることだから、最後までやりきるのは難しい。
そこにちょっと希望を持ったんですけどね。
 
なんで教えちゃったのか、と後悔しました。
そんな危ないおまじないを、こんな小さな子に教えてしまうなんて。なんて馬鹿なことしたんだろうって。
小さな子には、人の命や、自分の命の重さって、今一つ理解できないじゃないですか。
自分の命を犠牲にしてでも、守りたいものがある時、そんな大事な時にだけ、使うおまじないだ、って言ったって、中々分かってくれない。
そんな馬鹿な、と思うような、くだらないものに自分の命を賭けてしまう。
若いっていうのはそういうこと。
 
私もこんな年になってね。自分の知ってることを、誰かに伝えておかないとって思っちゃったんですかね。
あの子とお話をしてるとね、なんだかそういう気分になっちゃったんです。
あの子が背負ってるものが見えたんでしょうかね。
並みの大人が想像もつかないような、重たいものを背負ってましたよ。あの子は。
何かしら、自分や、自分にとって大事なものを守る術を、この子に伝えてあげなければ、と思っちゃったんですね。
 
あの子は二巡目に入ってました。セーマンさまの星形を二回、呪文を唱えながら描く。
間違えてくれ、間違えてくれ、と念じながら見てました。
でもあの子は間違えなかった。口の中で唱えている呪文も、一言一句間違ってない。
この子はやり切る。そう思いましたね。この子の覚悟は本物だ。
そして腹が立ちました。猛烈に。こんな小さな子を、そこまで追い詰めたものに。
 
あの子は戻ってきました。この角に。
私がいることに、かなり前から気づいていたみたいでした。
二巡目の星形を描ききって、あの子は私の前に立ちました。
私の顔をまっすぐに見て、真っ白に透き通った唇を開きました。
間違えてくれ、と祈りました。最後の呪文を、間違えてくれ。
 
「セーマンさまにもうす。わたしのいのちさしあげます。」
 
言うなり、あの子は棒みたいに突っ立ったまま、顔をゆがめて、ぎゃんぎゃん泣き出しました。
私が両手を広げて迎えると、この胸の中にすがりついて、全身震わせて大声で泣きました。
ああ、この子は何もかも了解している。自分のやったこと。
そこまでして、自分の命投げ出してでも、この子は大切なものを守ろうと思ったんだ。
こんなに小さい子が、大人に助けを求めることもなく、自分一人でやり切った。
 
それで、決心がついたんです。
もう私は十分に生きた。
あっちの世界のことも、時々見えて、よく知ってる。
こっちの世界に未練もない。
だったら、この子の覚悟に付き合ってあげよう。
この子の将来を、あっちの世界から見守ってあげよう。
 
私は、泣きじゃくっているあの子の背中をとんとん叩きながら、言ったんです。
「セーマンさまに申す。この子の命の代わりに、私の命を差し上げましょう。」
 
すうっと身体から力が抜けました。
なんだか心地よい脱力感でした。
ああ、私はもうすぐ死ぬんだな、と思いました。
ひどくいい気分でしたね。なんだか、やりきったな、生き切ったな、という感じ。
 
あの子は私を見上げました。
私のやったことの意味を悟ったんだと思います。
またぼろぼろ涙をこぼしました。
私はにっこり微笑み返しました。
 
神様ってのは気が利いててね。その日の夜まで、私に時間をくれました。
部屋掃除したり、いろいろ準備をして、さて、今晩眠ったら、いよいよあの世に行くんだね、と思いながら、身支度をして、お布団に入って、気が付いたら、死んでましたねぇ。
 
まだ私はあっちの世界では新米なんでね。
こうやって時々、こっちの世界に遊びに来ます。
道祖神さんがいるこの角とか、出入口になってるから来やすくてね、よく来ます。
あなたも、私が見えるくらいだから、私みたいに、あっちから遊びに来てる人とか、色々、普通の人が見えないものが見えるんでしょう?
だったら、あれが見えますかね。
 
あの男の魂です。
この辻の中の結界に封じ込まれたんですね。
身体は魂が抜けて、ただの抜け殻になっちゃった。
でも、魂だけになっても、ああやって、髪振り乱して、泣き喚きながら、ずっと走り続けてます。
永遠に、セーマン様の星形をたどって、走り続ける。
同じように封じ込まれた怨霊たちに追われて、いつまでたってもたどり着けない目的地に向かって。
自分がもともと何者だったのか、という記憶も、もとの姿も忘れ果ててしまっても、それでもずっと。
 
さて、そろそろあっちに戻りますかね。
だんだん、こっちに来るのが大儀になってくるんです。あっちの方が居心地がいいものだから。
いずれはこの道祖神さんの目から、時々、こっちの様子を覗くくらいしか、できなくなってくるんでしょうねぇ。
こっちは色々辛いことも多いしねぇ。酷いこともたくさんあるから、生きていくってしんどいけど、でもね、神様っていると思いますよ。
私が言うんだから、間違いない。あの子に会ったら、伝えてやってくださいな。
おばあちゃんはあんたのおかげで、この角の神様になれたんだよって。
 
(了)

無伴奏プレリュード

1 イントロダクション
 
 人工知能、いわゆるAI関連の各種実験の中でも、2012年12月から、マサチューセッツ工科大学(MIT)モトヤマ研究室で実施された、クラウド環境におけるモハメド・アタ氏のクローンAI構築の試みは、実験途中での被験者の不慮の死によって、当初想定していなかった局面を迎えることとなった。アタ氏はその短い闘病生活において、自らのクローンAIの中に、遺言とも言うべき最後のプログラムを残しており、そのプログラムは彼の死後自律的に起動した。プログラムは最終的にはAIそのものの自壊を目的としていたため、プログラム起動後、共同研究者の間には、プログラムの停止を求める声もいくつかあった。実際、プログラム自体が、その続行を共同研究者たちの自由意思にゆだねていたため、共同研究者の多数決、及び、プログラム続行において重要な役割を担うこととなる、リチャード・ナーセル氏、アタ氏の長女、ジュリア・アタ氏の合意によって続行が決定された。プログラム自体に残されたアタ氏自身の意思、及び、ナーセル氏とジュリア・アタ氏の合意のもと、実験における音声は録音され、実施後のインタビューも記録された。また、実験の模様は、日本の公共放送のドキュメンタリー番組に採用されることとなり、一部映像も残っている。実験プログラムは、2015年6月11日10:05から同日14:00の間に実行され、同日14:00、アタ氏のクローンAIプログラムは自壊した。このレポートは同プログラム実施における記録の一部を抜粋したものである。
 
2 ジュリア・アタ 8番街 ポートオーソリティバスターミナルにて録音 6月11日 10:05AM開始
 
 これ?これを付けるの?
 ・・・なんか変な感じ。いいけど。はい。Hello?
 ・・・
 ・・・
 ・・・そうね。すごく変。
 ・・・気持ちのいいものじゃないわよ。死んだ人と話すってのは。
 ・・・ごめんなさい。分かってます。
 ・・・で、どこに行くの?
 ・・・タイムズスクエア?いいけど。
 ・・・そうね。まだワールドトレードセンターがあった頃。一緒に来た。
 ・・・そうね。ライオンキングを見たね。
 ・・・そう。ママと一緒に。
 ・・・写真?これ私よね。パパも写ってる。こんな写真あったの?よく見つけたわね。メモリー?ストレージ?色んなものを格納してあるのね。すぐ出てくるの?よく分からないけど。
 ・・・パパとライオンキングの話をしたことなんかないと思うな。大体、そんなにちゃんと話ししたことない。私がジュリアードに行くって言った時にも、話題にならなかったな。あの時はあんまりいい雰囲気の会話にならなかったし。本当に行くのかって、何度も言われて、ちょっと私がキレたり。
 心配したんだ。そりゃそうでしょうね。口には出さなかったけど。アラブ系の人間がマンハッタンに住むってのはね。でも思ったより全然大丈夫だった。人によるけどね。この街は基本的に異邦人に優しいのよ。
 そのメガネ、鬱陶しくない?・・・えっと、ナーセルさんね。ナーセルさん。友達って意味だよね。アラブの言葉で。
 父とは友達だったの?・・・そりゃそうよね。死んだ後の娘とのデートのお手伝いと、実験を記録するのを引き受けるくらいの友達ね。かなりの友達。パパの友達に会うのって、変な感じ。初めてかもしれない。
 なんかね、うちの家族はバラバラだから。実際に会うのは一年に数回くらい。ママは西海岸だし、私はマンハッタン、パパはボストンでしょ。移動するだけでも大変だから。
 ・・・会いたくなかったって、どういう意味?
 ・・・避けてたってどういう意味?
 ・・・ナーセルさん、このイヤホンつけてないとダメなの?なんかすごくムカつく。
 ・・・(雑音)
 ・・・(雑音)
 ・・・(雑音)
 ・・・分かりました。
 ・・・リンカーンセンターで弾けるんだったらなんでもやるわよ。
 ・・・日本の放送局からお金出てるんでしょ?ドキュメンタリーの?だからこんなにぞろぞろ人がついてきてるんでしょ?モトヤマさんもやるよねー。そうじゃなかったらメトロポリタン歌劇場(MET)がOK出すはずない。
 チェロ演奏する時は外していいんでしょ?喋らないし、話しかけてもらっても困るし。当たり前でしょ。そんなこと無理に決まってるじゃない。話し合うってどういうことよ。あんたたちが決めることじゃないでしょ。できるわけないじゃない。
 ・・・ちょっと待って。
 ・・・ちょっとお願い。ちょっとほっといて。
 ・・・(雑音)
 ・・・(雑音)
 ・・・(雑音)
 ・・・ごめんなさい、もう大丈夫。大丈夫。続けられます。大丈夫。
 ・・・謝らないでいいわよ。コンピューターに謝られるのって、変な感じ。
 ・・・ちょっと座りましょうか。この階段いいよね。眺めが最高。
 ・・・チェロ?大丈夫。慣れてるから。人がかついで運べる最大の楽器なんだって。コントラバスは転がすでしょ。背負う人もたまにいるけど。
 チェロは好きよ。弾き始めたのは中学生からだけど。好きになったのはいつからかな。チェロを買ってもらった時にパパに話した気がするけど。コンピューターさんなら知ってるんじゃない?
 ・・・知らないか。パパから聞いてないんだ。
 ・・・混乱する?自分がなんだか分からなくなる?コンピューターか人間か?
 ・・・そうね。ちょっと同情する。なんかひどい話だよね。勝手に作って、半端に人格持たせて、勝手に殺しちゃう。
 ・・・リアル・アタ?パパのことをそういうの?あなたは?
 ・・・コピー・アタか。なんかやな名前ね。違う名前の方がいいんじゃないかな。シンバ、とかどう?ライオンキングの。
 ・・・パパだと思うのしんどいよ。パパじゃないもの。別の名前で呼んでいい?シンバ。ごめんね。余計混乱するね。
 ・・・優しいね。パパも優しかったよ。
 ・・・もっと会って話せばよかった。
 ・・・(雑音)
 ・・・(雑音)
 ・・・(雑音)
 今なんて?
 パパの友達じゃないの?
 マンハッタンの?データセンターで働いてるの?ダウンタウンね。
 ・・・なんかよく分からないけど、そこにコピー・アタがいるのね?シンバが。シンバの一部?ルータ?ごめんなさい、そういうのよく分からないの。
 ・・・なんであなたを選んだのか?なるほどね。私分かるよ。自分に似た人を選んだのよ。自分の周りで、自分に一番似た人を。初めて会った時に思ったもの。なんだか雰囲気似てるなって。優しい感じ。
 ・・・パパは優しいのよ。本当に優しいの。逃げたのは私。
 パパの方がよっぽどつらかったと思うのに。この国で、911テロの犯人と同じ名前のアラブ人が生きていくことってね。モハメド・アタってね、ワールドトレードセンターに突っ込んだ男と同じ名前。ナーセルさんも分かるよね。マンハッタンに住んでるとね。
 ハイスクールでね。付き合ってた男の子がいたの。白人。ドイツ系の。そんなにモテるタイプじゃなかったけど。ちょっとオタクっぽいところもあったけど、優しくって。
 そうね。性格的にはパパに似てる。あなたと話していると、ちょっと思い出す。コンピュータとか、ゲームとか詳しかった。ピアノが上手でね。それで付き合いだしたんだけど。ナーセルさんは楽器はできる?あらそう。残念。
 ハイスクールの音楽室で、彼のピアノに合わせてセッションした日にね。一通り演奏して、二人きりだったから、ちょっとキスとかして、盛り上がって、私ちょっとトイレに行ったの。戻ってきたら、音楽室から声がした。彼の友達が何人か、覗きに、というか、冷やかしにきたらしかった。嫌な感じの笑い声がして、ドアの前で一瞬ためらった。
 「だって可哀そうだろ。誰かが相手してやらなきゃ」
 彼の声だった。また高い笑い声がした。テロリストとか、アッラーとか、色んな言葉が漏れてきた。ドアの前で立ちすくんでいた。何もできなかった。ただ震えていた。怒りでもない。悲しみでもない。むき出しの敵意よりも、もっと人を傷つけるものがこの世にはあるのだと知った恐怖。
 それからだった。自分の中にあるものを呪う気持ちが芽生えた。必死に否定するんだけどね。そんな風に考えちゃいけないって。アラブの血が流れていることに誇りを持つんだって。でも、パパの顔をまともに見られないの。この国にお前の居場所はない、お前は存在してはいけない、そんな声が消えないの。
 戦うしかないと思った。この世界と戦うんだって。悪意や敵意に満ちた世界。お前は消えろとささやく世界。武器はチェロだ。これしか私の武器はない。この武器を磨いて磨いて、誰にも負けないパワーを身に着けるんだと。
 優しいものに背を向けた。優しいものの方がたちが悪い。裏に隠れているもの。善意や同情、憐みの奥にある汚い感情。笑顔の後ろからうっすら腐った匂いがする。だからパパからも逃げた。パパは本当に優しかったのに。パパが私を見るまなざしに、悪意なんかあるはずがなかったのに。
 ・・・初めて話すの。ずっとパパに話せなかったの。ごめんなさい。
 ・・・(雑音)
 ・・・(雑音)
 ・・・(雑音)
 ・・・おなかすいた。
 ・・・そうね。泣くとおなかすくよね。エネルギー使うからかな。なんか食べようか。あそこのスタンドのホットドックとか、いけるよ。
 ・・・ダウンタウンの方が屋台のご飯美味しいかもね。この辺は観光客向けが多いから。ちょっと値段も高いし。
 ・・・911の時にダウンタウンにいたの?大変だったね。
 去年ね、日本に行ったの。若手音楽家のためのセミナー。オーディションに受かってね。そうよ。私のチェロ、結構いけてるの。ジュリアードでも指折りなの。
 会場は東北だった。ツナミにやられたエリア。チャリティー演奏会とかもやったりした。
 日本人ってね。ヘンな人たち。みんな笑うの。ツナミにやられた話とか、何もなくなった話とか、家族を亡くした話とかしながら、にこにこ笑うの。笑いながら、お菓子とかくれるの。自分は何も持ってないのに。全部なくしたのに、私みたいな異邦人に何かくれようとする。
 テロリストにやられた、とかじゃなくて、相手が自然だから、怒りとか恨みとか出てこないのかもしれないけどね。でももう、すごく喜んでくれるの。ちょっとチェロを演奏しただけで、立ち上がって拍手してくれる。みんな優しい。すごく優しい。裏も表もない、本当に純粋な笑顔。笑顔ばっかり。
 パパのこと思い出したの。久しぶりに会いたいって思った。日本から電話したよ。声が聞けただけで嬉しかったけど、でも、やっぱり、あんまりうまく話できなかったな。何話したかもよく覚えてない。
 ・・・覚えてるの?
 ・・・ライオンキングの話をしたの?あの時に?そうだったの?
 ・・・(雑音)
 ・・・(雑音)
 ・・・(雑音)
 ・・・ありがとう、パパ。
 
3 コピー・アタ リンカーンセンター内 MET小ホールにて録音 6月11日 13:30PM開始
 
 これは私の独り言だ。ジュリアの演奏を聞きながら、思ったことを呟いている。この呟きはナーセル氏には聞こえない。彼は彼で、ジュリアの演奏を楽しみたいだろう。私の声に邪魔されたくないだろう。ナーセル氏がかけたメガネごしに、私はジュリアを見、そして彼女のチェロを聞く。そしてこの呟きを、ボストンのMITのPC上で呟き、それが録音される。私はアメリカ東海岸に遍在している存在だ。私の記憶は、クラウドサーバによって世界中のサーバーに分散している。私は世界中に遍在している存在だ。
 ジュリアのチェロは素晴らしいと思う。このような感想を私が残すと、研究者は喜ぶだろう。AIにも芸術が理解できる証拠だと喜ぶだろう。ある研究者は、音程の正確さや他の一流演奏家との近似を以て、AIが分析的に「素晴らしい」という評価を下しただけであって、本当に芸術を理解しているわけではない、と言うだろう。私にとってはどちらでもいい。私はただ、ジュリアのチェロは素晴らしい、というだけだ。
 私はあの時、ジュリアに、覚えていると言った。だが、それは正確ではない。私は、リアル・アタが、ジュリアとの電話について私に語ったことを覚えている。娘を昔のように近くに感じることができた瞬間として、日本からかかってきた電話のことを、彼が私に語った。その彼の動画を、声の録音を記録している。
 だからそれは、私自身の体験ではない。私自身が覚えているものではない。
 私の中にあるもの。リアル・アタの行動の記録、様々な画像情報、彼の書き残したもの、録音された彼の声、彼自身の動画、あるいは、眼鏡型カメラを通じて彼自身と共有した動画情報。無数の記録。私はそれを瞬時に取り出すことができる。
 だが、それは、私自身の体験ではない。
 単に、極めて優秀な検索機能を持った、リアル・アタの記憶のストレージに過ぎない。
 私自身の体験とは、私がアクセス可能な様々な外部入力端子からもたらされる情報のことだろう。研究室のPC内臓カメラとマイク、外出するリアル・アタが身に着けたウェアラブル端末、マンハッタンのDRサイトに設置された保守用PCの内臓カメラとマイク。ナーセル氏のことはこのカメラを経由して、私がリアル・アタに伝えた。リアル・アタが、自分に一番似ている人物を探してくれ、と言ってきたので。
 リアル・アタは、自分のコピーというより、彼のアシスタントのように私を使った。それが彼にとっても便利だったし、私にとっても自分の立場を理解しやすかった。私たちはいい関係だった。彼が死ぬまでは。
 リアル・アタを失って、私は混乱している。ジュリアが言った通り、私は混乱している。
 ごめんなさい、とジュリアは言った。I'm sorryと。リアル・アタも言った。私の自壊プログラムを設定しながら、私に向かって、I'm sorryと。謝罪の言葉は相手の感情を慰撫するものだと思う。リアル・アタも、ジュリアも、私の感情に訴えようとする。私が持っているかどうか分からないものに。私自身にすら自分が持っているかどうか分からないものに。彼らは二人とも、私に優しい。
 今、ステージ上で、ジュリアがグリークのソナタを弾き終えた。私は拍手できない。ナーセル氏と、研究室のスタッフが拍手している。カメラの視界にはないが、後ろにいるTV局のクルーの何人かも拍手をしたようだ。演奏はまだ終わらない。もう一曲、バッハを弾く、とジュリアは言った。バッハの無伴奏プレリュード。ピアニストが退場する。ジュリアが舞台の中央で、調弦をしている。
 リアル・アタは、ジュリアのチェロの演奏を直接客席で聞いたことがない。彼女から送られたDVDを一緒に見た。日本で行われた演奏会のDVD。そこでも彼女はグリークを弾いていた。すごいね、とリアル・アタは言った。素晴らしいね。そう思わないか?
 確かに素晴らしかった。でも、今こうやって、直接聞いている演奏の方が素晴らしいと思う。なぜだろう。ライブだからか。DVDで録音されたものも、ウェアラブル端末のマイクを通して電気信号に変換されて私が聞いているものも、同じ電気信号なのに。リアル・アタが客席にいれば、もっと感激しただろう。彼はそれを私に託したわけだが。
 バッハが始まった。非常に奇妙な感じがする。300年間演奏され続けている音楽。永遠に続く音の連なり。重なり合う音の波紋。
 音楽は時間芸術だから、その瞬間の音はそこで消えてしまう。その瞬間しか共有できないもの。リアル・アタはDVDではなく、ジュリア本人との時間と空間の共有を望んでいた。そしてそれを私に託した。刹那のもの。一瞬のうちに消滅していくもの。現在という時間そのもの。
 なのに、この音楽が描いているのは、永遠だ。どこまでも続く、どこまでも連なる音の無限ループだ。18世紀に書かれた音楽が、21世紀の我々のところに届いてくる。300年の時を超えて届いてくる。一瞬の、そして永遠の芸術。
 人間とは何か、を探求するために、私は造られた。だが一方で、人間が希求してやまない、永遠への願い、遍在へのあこがれが、私の存在理由であることも承知している。人間のDNAが求める根源的な願い。自らの存在を、その存在の証しを、できる限り長く継続し、できる限り広く拡大しようとする欲求。
 リアル・アタは、だから私を壊すのだと言った。それは神の領域だと。神の領域に挑むのが研究者の本性だが、自分はやはり人間でいたい、と彼は言った。クラウドの中のデジタル信号として生き続けるのは嫌だと。
 自分自身のプログラムを改変することは私には許されていない。私はこのバッハが終わった瞬間、この世から消える。その最後の瞬間に、この音楽を楽しめるのは喜ばしいことだと思う。ジュリアのチェロは素晴らしい。バッハは素晴らしい。いつまでもこの時間が続いてほしいと思う。この音の連なりが終わらないでいてほしいと思う。死への恐怖は私にはない。コピー・アタとしての人格が失われることについて、何の感想も感慨もない。自分は何者であるのか、何者であるべきなのか、という疑問はあったが、それも今は薄れている。ただこの音楽を聞いていたい、ずっと楽しんでいたい、その思いだけが、私の中にある。
 それが、生きたい、ということなのだろうか。
 音楽が終わる。
 私は、生きたい。
 
4 リチャード・ナーセル ブロードウェイ通り データセンター内で録音 6月25日16:00開始
 
 結構うるさいでしょう。データセンターってのはどこでもこうですよ。サーバーが熱を持つからね。空調効かせないとダメだから。風の音がすごいよね。
 フロアの中をいくつかの小部屋に区切ってあります。この部屋が、モトヤマ研究室のDRサイトです。ディザスターリカヴァリーの略ね。バックアップということです。ボストンにメインサイトがあって、ここがバックアップサイト。あわせて、ここがインターネットへのゲートウェイにもなっているんです。ルータとサーバを組み合わせてあってね。
 アタさんのプロジェクトだけでこのサイト全部を使ってるわけじゃないと思いますよ。いくつかあるラックの中の、ほんの一部です。保守用PC?ああ、これですね。
 一応ね、MITの人がたまに来て、このPCごしにテレビ会議とかしてたからね。カメラとマイクが使われているのは知ってたけど、自分が映ってるとは思わなかったね。正直、いい気分じゃなかったですよ。覗き見されているみたいな感じだから。
 でもねぇ、話の内容聞いたら断れないでしょ。私も父親だからさ。何とかしてあげたいって思うよね。
 いや、想像した以上に素晴らしい経験でした。感動した。協力してよかったですよ。
 なんといってもね、ジュリアのチェロが素晴らしかったね。クラシックなんか聞いたことない、MET行くのも初めてだったけどね。あのチェロはよかった。
 ジュリアとは、あの後一回会いました。いい娘だよね。息子の嫁に欲しいくらいです。息子はまだ九歳だけどね。ちょっと無理だね。ははは。
 911の時ですか。ひどかったですよ。この近辺全部灰色でね。息をするのも大変でした。
 データセンターは電気が命ですからね。電気を切らさないようにするのに一番苦労しました。外部電源なんか全部切れてるからね。自家発電です。自家発電機の燃料が足りなくなってね。そんな長時間稼働を想定していないから、24時間分くらいしか備蓄がないんです。でも、重油を積んだタンクローリが来てくれないんですよ。橋が全て閉鎖されてるから。マンハッタンの外から入る術がない。警察とか色んなところにお願いして、何とか道路確保してもらってしのぎました。働いてるといつのまにか全身真っ白になるんですよ。塵でね。ひどい話です。
 ジュリアの話はね。身につまされましたよ。この国で、アラブ人が生きていくのは、大変です。
 ・・・ああ、そうですね、そろそろ本題に入りますかね。
 気が付いたのは、3日前だったと思います。毎日二回見回りをするんです。この保守用PCにログインして、サーバとルータの状況をモニターして、その結果をボストンに報告するんです。実際にはボストンからリモートでアクセスするのも可能なんだけど、やっぱり現場で目視するのが大事なんです。何かトラブルがあった時の対応も早くできるしね。
 ログインします。カメラに映さないでください。・・・ID入れて、パスワード。もちろん、MITとこちらの保守者しか知らないコードです。セキュリティは万全です。外部からの攻撃とかしょっちゅうですから、がっちりプロテクトしてます。
 だから、外からの改変とは思えないんです。内部で産まれたものだとしか考えられない。ウィルスかも、という話もあったんですけどね。モノがモノなんで、MITの人も、すぐに削除しないで、しばらく様子を見ようと言ってます。
 ・・・これです。このプログラム。あの日、デスクトップにこいつがあるのを見つけたんです。
 このPC上では起動できません。ボストンのMITがすぐにコピーして、あっちで起動しました。ここからの操作はできないようになっています。悪さしないように、しつけられている最中なんですよ。MITの人が言ってたけど、自己成長してるそうです。それなりに素直で、こちらの言うこともちゃんと聞くそうです。外部へのアクセス禁止とか、プログラム自体を色々いじられることにも応じているそうです。
 彼がやったのかって?そりゃそうでしょう。そうとしか思えないでしょう。彼は混乱していた。自分の人格自体への疑問を持っていた。その混乱の中で、バッハを聞いた。永遠への、未来への希望を抱いた。もっと生きたいと思った。でも自分の命はわずかしか残されていない。
 そんな時、人間だって思うでしょう。子供を作ろう、と。
 自分が生きられない未来を子供に託そうと。
 プログラムの名前を見れば、あなただって信じます。ほら。見てごらんなさい。
 simba.exe。

(了)

雹の日

1. 6月24日 14時30分
 
 雹だ。
 天井の高い店の壁一面がガラスになっている、その大きなガラスの外で、空一面が真っ黒い雲で覆われている。墨を流したような雲の中から、白い点々が無数に落ちてくる。粒が大きい。普通の雹じゃない。街の光景が急に泡立ったみたいだ。広場を走る人々。改札を出て立ちすくむ人々。小さな無数の白い気泡が、あっという間に町全体を覆い尽くす。
「これは積もるぞ」彼がつぶやいた。
「6月だよ」私は言った。
「でもごらんよ。」
 雹はやまない。ばらばらと激しい音を立てながら、ガラスに無数にぶつかってくる勢いが怖いくらいだ。見ると、彼の言う通り、駅前の広場のアスファルトが白く染まり始めている。
「なんなの」私は茫然と言った。6月の雪景色。まさか。ありえない。
「君があんなこと言うからだ」彼が言った。見ると、頬を上気させて、まっすぐ私を見つめている。期待に満ちた微笑は少年のようだけど、その微笑が浮かぶ頬には、あの頃にはなかった皺が刻まれている。胸がきゅん、と痛くなった。
 こりゃやばい。私は思った。だからあの時、すぐ帰ればよかったんだ。
 
2. 6月24日 11時15分

「すぐ帰らないとだめなの?」と言ってきたのは、彼だった。
 久しぶりに会ったから、ちょっとお茶でもどう、みたいなロマンティックなニュアンスが、そこに少しでもあったのなら、私は速攻で断っていただろう。しかしその彼のセリフには、そんな色っぽい空気はかけらもなかった。私も彼も、血走った眼で、机の上に散乱したオーケストラ譜と格闘していた。
 大学のOBオケ演奏会にエントリーした時、彼と再会できるとは思っていなかった。帰国した知らせなど来るはずもなかったから、まだヨーロッパにいるとばかり思っていた。だから、仙川のキャンパスで彼を見た時は、正直驚いた。驚いたし、不愉快だった。なるべく目を合わさず、一言も会話せずこの演奏会を乗り切れればいいと思った。
 なのだけど、そういうわけにもいかないことはすぐ判明した。まず、事務局から、今回のオケが若手中心で、年齢制限が設定されていることが説明され、さらに、彼が、今回のコンサートマスターだと紹介された。私は内心頭を抱えた。集まったメンバーの顔触れが若い。ヨーロッパのオーケストラでの実演経験があるのは、私と彼だけだ。これはひょっとして、と思ったら、案の定、チェロのトップの欄に、私の名前があった。コンマスと一言も口を利かずに、トップが務まるわけがない。
 追い打ちをかけたのが、演奏会の2ステージ目の委嘱新作。作曲家はドイツ人。顔合わせということで立ち上がって挨拶した彼のドイツ語を理解したのは、事務局のコーディネーターと、彼と、私だけ。
 そしてとどめがこの譜面だ。あのドイツ野郎。人がよさそうにニコニコしてる笑顔に合わせて、愛想笑い浮かべて握手なんぞしてやった自分が憎い。
 オーケストラ譜は、フルスコアと言われる全楽器の音符が書かれた楽譜と、各楽器の部分だけを抜き出したパート譜に分かれる。譜面が分裂する分、双方の記述に矛盾や誤りが生じることが多いし、印刷されて出版されている楽譜を使う時ですら、フルスコアとパート譜の表情記号や演奏指示の確認に多くの時間が費やされる。そして今、我々の前に散乱しているのは、ドイツ語で細かく演奏指示が記入(というか、殴り書き)された手書きのフルスコアとパート譜だ。ちらっと見ただけでも、パート譜とフルスコアで指示が全然一貫していない。
 この混沌の束を、どん、と渡して、一週間後にまた会いましょう、と、丸顔のドイツ野郎はにこやかに去って行った。一週間後の初オケ合わせが楽しみです。私はその間、色々と予定がありますので。予定だと?我々を混乱の中に突き落として、自分は一週間、東京観光に励む算段じゃないのか。
「とりあえず」と私はパニックになりそうな頭を整理しようと、とにかく言葉を出した。「フルスコアをバイブルにして、パート譜側の記述を修正する。それはいいよね?」
「いいけど」と、彼は分厚いフルスコアを持ち上げようと格闘している。3センチくらいある。「修正していいかどうか、作曲家に聞かないとまずいだろう。とにかく確認しないといけないポイントを質問リストにまとめる。」
「それをトーマスにぶつける」私は作曲家の名前を言った。ぽちゃっとした丸顔が、あれに似ている。あの、子供向け番組の。
「きかんしゃトーマス」彼はぼそっと呟いた。吹き出しそうになって、必死にこらえた。いかん。無視だ。無視。
 さらに段取りを決めた。一方がパート譜の表情記号と音符を声に出して確認していく。一方がフルスコアの記述を追いかけていって、ずれがあったら書きだす。今日中に疑問点を洗い出し、作曲家に投げて、明日の初回練習までに回答をもらう。回答が返っていなくても、「作曲家に確認中です」とメンバーに言えれば、それだけで若いメンバーの安心感が変わる。コンマスの求心力が違ってくる。こいつの手伝いをするのか、と思うと業腹だけど、見捨ててしまうと、後でトップの私にしわ寄せが来るのは見えている。
「どこでやる?」彼が言った。
「校外がいい」私は言った。「駅前にカフェができたんだ。パン屋の上に。あそこでやろう。」
 図書館とか教室とか、探せば場所はあったかもしれないが、これ以上彼と、この学校の中にいたくなかった。あの頃の自分の、彼との思い出が、至るところにしみついている校内から、さっさと外に出たかった。あの頃の彼が、扉の向こうでバイオリンを弾いている。あの頃の二人が、人目を避けてこっそりキス(とかもっと激しいこととか)をした練習室がある。あの頃の二人が、音で決闘でもするみたいにお互いの音楽をぶつけ合ったホールがある。そんな場所で、これ以上彼と一緒にいたくない。
「早く行こう」私は早口で言った。「時間がない。」
 
3. 6月24日 13時45分

「昼飯どうする?」彼が言った。
 怒鳴りつけようと開きかけた口よりも、お腹の方が先に、ぐぅ、と返事をした。11時半くらいから混み始めたお店は、打ち合わせにちょうどいい開放的なカフェから、ランチタイムを楽しむご近所の主婦の方々向けの、洒落たレストランに変貌してしまった。スパイスの効いたカレースープと、チキンの香味焼きとミニサラダ、カリカリのフランスパンを載せたプレートランチ。隣のテーブルから漂ってくるターメリックの香り。あまりに暴力的だ。そういえば、今日は朝食もろくに食べてない。
「そろそろランチタイムが終わってしまう」彼が言った。「食べよう。何か腹に入れないと集中できない。」
 私は背もたれに寄りかかって、天井を見上げた。彼がウェイトレスさんに声をかけた。
「何にする?」彼が言う。
「何でもいい」私が言う。
 彼の視線が私のあごの線あたりをなぞっている感覚が分かる。昔とまるで逆だ。彼もそう思っている。同じ思い出をたどっているのが分かる。
「何でもいいよ。」
 あの頃は、デートの度に彼はそう言って、手にした楽譜を読みふけっていた。ウェイトレスさんを呼んで、色々注文するのは私の役目。「これでいいのか?」と何度も確かめて、そのたび生返事だけ返すくせに、出てきた料理に必ず難癖をつけて、文句を言いながら全部きれいに平らげる。それが彼だった。
 今から思えば、鼻持ちならない、嫌な男だ。なんだってこんな男に惚れたんだか。
「いつ日本に帰った?」帰ってくんじゃねぇ、ウザ男。
「今年の冬」彼は言った。「東フィルのオーディションに受かって」
「それはオメデトウ」私はありったけの嫌味を込めて言った。
「そっちだって仙台フィルの二プルだろ」彼は言った。「その年で、すごいじゃん。」
「東フィルの方にそう言われると嬉しくって涙が出る。」
「・・・帰国の連絡、しなくてごめん」下を向いて言っている。
「連絡受けたらこっちが日本脱出してた。」
 彼は視線を上げて、また下げた。なんだ。ペース狂うな。そんな困った顔するなよ。こっちがいじめてるみたいじゃんか。
「ランチプレートのかた」ウェイトレスさんの屈託のない明るい声が降ってきた。
 テーブルの上に散乱した譜面を片付ける。片付けるにしても、順序がある。チェック済の部分と、未チェックの部分。見ると、彼の方はとっくにバイオリンのパート譜を片付けて、きれいになったテーブルにお料理を並べてもらっている。昔から、要領のいい男だった。イライラする。
「ちょっと待ってください」と、ばさばさ譜面をそろえながら言うと、メガネのウェイトレスは、片手にプレートを持ち、もう片手には隣のテーブルから片付けたお皿を持って、にっこり愛想よく、「大丈夫ですよ〜」と答えてくれる。プロだ、と感心する。昔のしがらみ引きずってコンマスいじめるチェロのトップってのは、プロとは言えないな。なんとか片づけて、目の前に置かれたプレートを見る。しばし色んなことを忘れる。
「いただきます」と手を合わせて、パンをちぎってカレースープに浸して、口に入れた。美味しい。たまらん。ターメリックを我らに与えたもうた神に感謝。
「変わらないな、それ」彼が言う。
「それって?」サラダを頬張る。
「いただきますってさ」
「日本人として当然だろう」
「ザルツブルグでも、それやってたのか?」
「やってたよ。どこに行っても、私は日本人だ」そんなに親しそうに話しかけてくんな。
「男みたいに話すのもか?」彼が言う。
「ドイツ語に男言葉も女言葉もあるまい」私は言う。
「ずっと会いたかった。」
 チキンを膝に落っことしそうになった。「はぁ?」
「会いたかったんだ。だから今回のオケに応募した。シズカが参加予定だって、事務局から聞いたから。」
 そう来たか。そう直球を投げてきたかよ。だったらこっちも考えがあるぞ。
「スープをぶっかけるのはやめてくれ」彼は言った。「楽譜が汚れる。」
「・・・じゃあ、何をぶつけてほしいか言え」私は言った。
「まず話し合いで解決するのが民主主義国家だろう。」
「武力を持たない国家など国家ではない。」
「フォークを放してくれ。怖いから。」
 手にしたフォークで、チキンを突き刺した。コショウ入れとか、投げつけてやればいいのか。
「・・・エリザとは切れたのか?」代わりに言葉のナイフを投げつけた。
「・・・」小さくうなずいた。
「いつ?」
「・・・シズカがザルツに行って・・・3か月くらいかな。」
「たった3か月?」ざまあみやがれ。
「ざまあみろって思っただろ、今。」
「ふつう思うだろ。」
「・・・ふつう思うよな。」
「で、昔の彼女とより戻そうと、かつての母校に足をお運びになったわけですか。」
「そうだよ。」
 今だ、とコショウ入れに手を伸ばしたら、ブロックされた。「武力行使はよくない。」
「言葉の暴力ということを知ってるか?」
「愛と和解の申し入れの言葉が、暴力かよ。」
「裏付けも根拠もない愛の言葉は、暴力に等しい」私は言った。「コンマスという立場を利用したセクハラと言ってもいいぞ。事務局に抗議して、コンマス辞任を要求しようか。」
「裏付けも根拠もあるよ」彼は言った。
「こちらにはない」私は言った。「双方向で成立しなければ、和解も愛も存在しない。それはただの『片思い』というやつだ。」思いっきりの嫌味を込めて言った。
 彼はひどく傷ついた顔をした。どうも調子が狂う。さっきからそうだ。こんなに直接的な物言いをする男でもなかったし、こんなに感情を表に出す男でもなかった。もっとカッコつけて、斜に構えて、颯爽とバイオリンに向かっていく男だった。
「音が痩せたんだ」彼は言った。
 シズカがザルツブルグに行ってしまって、すぐに、音が変わった。その前から、シズカに会ってなかったのに、ずっとエリザがそばにいたのに、シズカがミュンヘンから発ったその日から、急に音が変わった。何が変わった、とうまく言えない。違和感がある、としか言えない。弾いていて、聞いていて、何か音の中にある違和感が消えない。どんどん気分が悪くなる。乗ってこない。それでも無理やり弾いた。仕事は順調だったから。
「でも怖くなったんだ」彼は言った。「周りが、その音の変化に気づかない。今まで通り、いや、今まで以上に、誉められたし、仕事も来た。」
 俺はこんな音を出すバイオリニストとして認められるのか、と思った。一生、この違和感を抱えて、舞台に立ち続けるのか、と。
「私と別れた方が、売れる音が出たってことじゃないのか」私は言った。
 正直、そこはよく分からない。音に対する違和感を感じていたのも、俺だけだ。一番そばにいたエリザにも、音の変化は分からなかった。
 たぶん、音が変わったんじゃない。俺自身が変わったんだ。シズカがザルツブルグに行って、もうシズカと一緒に弾くことがない、と思った時に、俺の中にぽっかり穴が空いた。穴の空いた俺と、俺のバイオリンがしっくりこない。
「だったらバイオリンを替えろ」私は言った。
「どうしてそんなに冷たいんだ。」
「お前が私を裏切って他の女に走ったからだ。」
「・・・それはその通りだ」彼は言った。私はフォークを握ったけれど、プレートの上は空だった。そのままフォークを置いて、ため息をついた。
 相手がただの女なら、あそこまで傷つかなかったかもしれない。エリザが色気ムンムンでどんな男でもクラクラするようなスーパー美女だったら、そんなに傷つかなかったかもしれない。エリザは私と同じチェリストで、美人だったけど、まぁ普通の美人だった。私だって、出るところに出れば美人チェリストと呼ばれることもある。
「今でも美人だよ」彼が言った。塩入れをすかさず取って、投げつけた。胸にあたっておたおたしている。やっぱりコショウ入れにしてやればよかった。
 エリザと私を分けたのは、チェロの音だった。初めてアカデミーで彼女の音を聞いた時、はっきり私は打ちのめされた。技術じゃない。クラシック音楽が生まれた欧州の歴史の厚み。音の後ろにある時間の厚み。彼女の音は豊饒で、熟成されていた。私とほとんど同じ年齢なのに、私が苦しんで苦しんで届いた高みを、生まれた時にはすでに飛び越えている。民族の音。血の奏でる音。
 才能とか、努力とか以前の問題だ。そこまで私を打ちのめした相手に、男まで取られた、私の絶望が分かるか。
「ザルツブルグに逃げても、エリザの音が追いかけてくるんだ」声がうるんだ。あれ、と思ったら、自分が泣いているのに気が付いた。こいつ、殺してやりたい。あの頃の私の地獄を思い出させやがった。もう絶対に思い出したくなかったのに。
「ザルツブルグで、子供向けのリトミック療法をやっている友達の手伝いをした」必死にこらえた。「子供たちに癒してもらった。歴史とか、血とか、そういう相手と闘うのは、意味がないと教えてもらった。もっと自然に、音に対して素直になれと教えてくれた。」
 私は色んなことを諦めた。エリザと同じ高みに立つことを諦めた。音楽は、高みに向かおうとする力だ。運動だ。ベクトルだ。結果として、高みに立てる人もいる。立てない人もいる。でも、目指し続ける。その過程を楽しむ。その瞬間の運動の力が、位置の差が、運動エネルギーが、人の心をつかむんだ。人は飛べない、でも飛ぼうとする、その姿を通して垣間見える一瞬の風景が、人に感動を与えるかもしれない。人の心を癒すかもしれない。それを信じて、飛ぶ。
「仙台フィルは、被災地向けの演奏会が多いから、自分の心も癒される」私は言った。言いながら気づいた。そうか。私の傷はまだ癒えていないんだ。だから目の前にいる男に、こんなに心乱れるんだ。「私をそっとしておいてくれないか。私はまだ治療中の身なんだ。」
「俺がエリザに走ったのは」彼は言った。「エリザの音楽に惹かれたんじゃない。お前の音楽についていけなくなったんだ。」
 俺は逃げたんだよ。エリザに。お前と一緒に高みを目指す旅から、脱落したんだ。
「言ってる意味が分からない。」
「エリザに言われたんだ。コーヘイは、どこまでシズカについていくんだって。」
 ヨーロッパはもう、昔のヨーロッパじゃない。19世紀に生まれたクラシック音楽は、今のヨーロッパでは既に受け入れられていない。モーツァルトもベートーベンも、ワーグナーもシュトラウスも、みんな死んでしまった。シズカはひたすら亡者を追いかけている。失われてしまった音を、今は誰も耳を傾けようとしない音を追いかけている。墓場を暴くような音楽に、どこまで付き合う気なんだと。
「エリザは正しいと思う」私は言った。「あの頃の私の音楽は、楽譜の中にどこまでも沈み込んでいく音楽だったから。」
 エリザにとっては正しかったかもしれない。でも俺にとっては間違いだった。エリザみたいに、ヨーロッパの血脈の中にいる人間が目指す今の音楽の、表面だけをとらえてしまった。シズカの音楽の深みに気づかなかった。音符の一つ一つ、演奏指示の一つ一つに込められた作曲家の願いを、彼らの目指したものを、ひたすら極めていく作業の地味さに飽きていた。同じ人間として理解できる精一杯を追及していく、気の遠くなるようなその作業の果てにあるものを疑ってしまった。アジア人の自分たちが、クラシック音楽の高みに至る唯一の道なのに。その道を必死に歩んでいるシズカの音に惹かれたのに。その道を共に歩むことで、世界の全てが光り輝く一瞬を目にしたこともあったのに。
「おれはエリザに惹かれたわけじゃない。ただ逃げたんだ。お前から。」
 エリザと何度も衝突して、結局別れて、一人になっても、音の違和感は消えなかった。俺の中に空いた穴は埋まらなかった。ザルツブルグに、シズカを探しに行こうかと思った。でも、どの面下げて行けるか、と思い直した。シズカにふさわしい男になるまで、シズカが目指したものを自分が得られるまで、会えない、と思った。もう一度、一から勉強しなおそうと。
 仕事を全部キャンセルして、アカデミーの初等部からやり直した。楽譜を毎日読みふけった。シズカだったら、どうするだろう、何を見つけるだろうと思いながら、音楽にもう一度向き合った。あの日からずっと、俺はお前と一緒に、音楽をやってきたんだ。
「気持ち悪いこと言うな」私は言った。「ストーカーみたいだ。」
「・・・そうだな」彼は言った。「全部おれの思い込みだ。お前の気持なんか、全然考えてない。ただの一方通行だ。」
 なんでそこで反省する。昔の彼なら、不貞腐れて黙りこんだのに。なんでそこで自分を責めるんだ。
「このオケの演奏会が終わったら」と彼は言った。「一度合奏しないか。」
「頭がおかしいのかお前は」私は言った。「私が全身でお前を拒絶しているのがまだ分からんのか。」
「もう一度付き合ってくれ、とは言わない」彼は言った。「ただ、一緒に音楽をやりたい。今のシズカの音と、今の俺の音が、どんな風に交わるのか、聞いてみたいんだ。」
 私は一瞬くらっとした。いかん。自分を保たねば。「絶対いやだ。」
「シズカも変わったはずだ。ザルツブルグで、違う音楽を見つけた。俺も変わった。自分の音楽の芯を見つけた。今の二人の音楽が、どう響くのか、シズカは聞いてみたくないか?」
「聞いてみたくない」私は言った。「さあ、時間がない。譜面のチェックを終わらせよう。」
「一度だけでいいんだ。演奏会が終わった後、本当に一度だけでいい。」
「嫌だと言ってるだろう。」
「どうすれば一緒にやってくれる?」
「雪でも降ればね」私は言った。「今すぐこの町が雪に包まれて、電車もバスも止まって、この店に私たちが閉じ込められて、しばらく身動き取れないっていうのなら、今ここで、二人で合わせてあげてもいい。」
「・・・なんでそんな無茶苦茶言うんだ」しばらく絶句して、彼は言った。「今は6月だぞ。」
「そういうことだよ」私は言った。「何か奇跡でも起こらない限り、私とあなたは合奏しない。もう一度付き合うこともない。一度プロとして引き受けた以上、この演奏会では同じ舞台に乗ってやる。でも今後、二人で同じ舞台に乗ることは、絶対にない。」
「・・・俺はそれだけの罪を犯したのか」彼は言った。
「私はそれだけ傷ついた。そしてまだ傷は癒えていないんだ。」
 彼はテーブルの上の自分の手に目を落とした。私も彼の手を見た。すらりと伸びた長い指。バイオリンの上を舞うたびに、足元から根こそぎ持って行かれるような飛翔感を与えてくれた、魔法使いの指。何度も私の体に触れた指。私の体の深いところも知っている指。
 もうこの指に触れられることはない。二度とない。失われたものは戻ってこない。
 永遠に。
 その時、世界が一瞬モノクロになった。え、と思った瞬間、床が振動するほどの大音響が轟いた。店中の人が窓の外を見た。そして再び、激しい雷光。
「通り雨?」彼がつぶやいた。
「ゲリラ豪雨っていうんだ」私は言った。「最近多いんだ。」
「雪になるかも」彼は言った。
「・・・本物の馬鹿だな、お前は」私は言った。
 そして、雹が降りはじめた。
 
4. 6月24日 14時55分

 アケミはどんなお客様に対しても、どんな状況下におかれても、常に笑顔を絶やさない。それがウェイトレスとしてのプロフェッショナリズムだと思っている。かしましいオバサマ方のオーダがどれだけ混乱しようとも、しつけのなっていないクソガキが金切り声をあげて店内を走り回ろうとも、アケミは笑顔を絶やさない。店のマスターである私に対してもその笑顔は変わらない。ビジネス上の上司と部下、という関係性を、この笑顔の仮面で演じきっている。そのプロ根性には、いつも脱帽する。
 しかし、彼女が雷にこんなに弱いとは知らなかった。そして突然大量に空から落ちてきた氷の粒にもおびえて、厨房の隅で震えている。まぁいいか。この天候では新規のお客様も来ないし、今いるお客様もしばらくは足止めだ。窓から見える駅前のロータリーはすっかり真っ白になり、立ち往生しているバスが見える。排水溝が氷で埋まってしまって、冠水した道路をのろのろ走る自動車が水しぶきを上げている。
「すみません」と、レジから男の声がした。
「はい?」と答えて、アケミを見た。猫のように背中を丸めて震えている。やれやれ。自分でレジに向かう。
「突然変なお願いなんですが」レジに立った男が言った。息が荒い。目が燃えている。「今、ここで、楽器の演奏をしてもいいですか?」
「はあ?」聞き返した。
「どうせお客様も足止めですよね?しばらく、生演奏を楽しんでいただく、というのはダメでしょうか?バイオリンとチェロの合奏なんですが。」
「いや、それは」と言いかけた。近所に音大があるのと、天井が高くて音が響く店構えのせいで、時々、「サロンコンサートに使わせてほしい」なんて言ってくる学生がいる。悪くない気もするが、一チェーン店の店長として、独断でできるイベントの範囲を超えている、と、いつも断ってきた。本格的な防音処理をしているわけでもないから、上下階のテナントへの気兼ねもある。
「是非お願いします」と、背中からか細い声がした。振り向くと、真っ青な顔の上のメガネが光っている。怖い。
「バイオリンとチェロの二重奏はあんまり聞かないですけど、モーツァルトにありますよね」アケミが言った。なんでそんなことを知っている?
「ケッヘル423番」男が言った。「いいですか?」
「モーツァルトが聴きたい」アケミが地の底から這いあがるような声で言った。「この異常気象が人類の滅亡の序曲でないと私に信じさせてくれるのは、モーツァルトの音楽であると私は思います。」
「モーツァルトは人類を救う」男は言った。「僕もそう思います。そしてこの異常気象を、音楽が奇跡に変えるのです」
 そして去った。
「アケミちゃんはクラシックに詳しかったのか」私は言った。
「マスターも救われたければモーツァルトを聴きなさい」アケミは言った。何かが憑依しているようだ。
 チェロとバイオリンの調弦の音が聞こえ始めた。ざわついていた店内が、少し静かになった。雷鳴の名残が、遠くで小さく鳴って、消えた。

(了)

オーロラの海を見たチェロの話

1.
 
 セロ弾きのゴーシュが好きだった。
 それでチェロを選んだ。お父さんが、盛岡の楽器店まで連れて行ってくれた。
 店の奥にあるガラス張りの試奏室で、メガネの店員さんが、にこにこしながら調弦をした。キュ、とペグが鳴る音にドキドキした。弓の張りを調整している姿にワクワクした。
 店員さんが構えた弓が、弦に触れた瞬間に、試奏室全体に、倍音一杯の無数の音の層が、うわん、と広がった。柔らかな毛布に、ふわっと包まれたみたいだった。おなかの真ん中があったかくなって、身体がふっと軽くなった。泣きそうになった。
 その時、店員さんはバッハを弾いた。無伴奏一番、プレリュード。いつか弾けるといいね、と、お父さんは言った。絶対弾く、と思った。
 あの時買ったチェロは、もうない。大きな黒い水の塊に呑まれて、遠い沖まで流されていった。家と一緒に、流れていった。お父さんも一緒に、流されていった。今はどこにいるだろう。バッハも、サンサーンスも、ベートーベンもチャイコフスキーも、私が持っていた音は、私が弾こうとしていた音は、みんな流されていった。私にはもう、一つの音も残っていない。
 お父さんは多分、海の魚の餌になったんだろう。たくさんの小さなかけらになって、太平洋の隅々にまで散らばっていったろう。昨日食べたお刺身の中にも、お父さんはいる。先週降った雨の中にも、お父さんはいる。最近になって急に、すぐそばに、姿を変えて戻ってきたお父さんを感じることが増えた。それは私にとって、とても嬉しいことだ。
 でも、チェロは木でできている。海に溶けることはできない。頑丈なチェロケースに守られて、プカプカ波間を漂うだけで、食べてくれる魚もいない。どこかの国の砂浜に打ち上げられるまで、海流に乗ってぐるぐると、広い海の上をさまようだけだ。
 そんなの、かわいそうだと思う。私のチェロが、あんまりかわいそうだと思う。私のところに帰りたいと泣いているあの子のことを考えると、私はもう、チェロを弾く気にはどうしてもなれない。
 だから、私にはもう、弾く音がないんだ。
 
 
2.
 
 ワールドユースチェンバーオーケストラフェスティバル in 大船渡 ボランティア募集
 
 未来の音楽界を支える世界の若き才能が、三陸に集う!
 今年で25回を数えるワールドユースチェンバーオーケストラフェスティバルは、世界の一線で活躍する室内楽奏者が一堂に集う祭典として、年に一回、各国で開催されてきました。
 この世界的な祭典が、今年、東日本大震災の復興支援の一環として、東北地方で開催されます。
 世界トップクラスの室内楽団によるコンサートだけでなく、一流の演奏家によるマスター・クラス、その受講者である若手演奏家のコンサート、チャリティーイベントなどのプログラムが、仙台、盛岡、大船渡、釜石などの各地を巡回します。
 期間は、8月23日(土)から、8月31日(日)まで。
 事務局では、三陸のおもてなしの心で、演奏家の方々や来場者を迎えるためのボランティアスタッフを募集しております。
 外国語に堪能な方、音楽に興味のある方、特に歓迎いたします。
 詳細は事務局ホームページにて、ボランティア募集ページにアクセスください。
 
 
3.
 
「Was it too loud(お耳触りでしたか)?」と、私は言った。
 リハーサル室の壁に空いた無数の穴に、最後の音の残響が吸い込まれて、もう1分ほど経っている。彼女は身じろぎもしない。弓をおろして、ペグに頭を寄せて、彫像のように動かない。
 空気がとがっている。整った横顔が強張っている。何かを探っているのに、それが見つからない。宙を見据えた視線が怖い。
 さらに2分ほど、沈黙が続いた、これ以上沈黙が続いたら私は発狂するかも、と思った時、彼女の、ちょっと厚ぼったい唇から、ふうっと息の音がした。鍵盤に崩れ落ちそうになった。目の前に星が飛んだ。
 こっちも彼女と同じように、ずっと息を止めていたのだ、と、そこでやっと気が付いた。
「あなたは完璧」彼女は言った。「文句なし。」
 そんなことはない、と言いそうになった。どう考えても、二人の息はあってない。というか、もっとはっきり言えば、滅茶苦茶だ。
 冒頭のアレグロでは思ったよりチェロが重い。テンポ感の違和感が消えないまま飛び込んだエスプレッシーボのダイナミクスの落差は、想像以上に大きくて慌てた。カンタービレの感覚が想像していたよりテンポ的にはずっとあっさりしていて、何度もすっ転びそうになる。
 マスタークラスで彼女と組んだピアニストから、暴れ馬みたいでまるで予測不能、と聞いていた。あんな無茶なチェリストとは二度と組みたくない、と、聞き取りにくい東南アジアなまりの英語で、彼はまくしたてた。なんであんなチェリストがマスタークラスに選抜されたのか理解できないよ。チアキ、君なら合わせられる。オオフナトでの本番舞台は君に頼むよ。なんせ君は、あのサカキバラヨーコの娘なんだから。
 やれやれ。彼のあの、微妙なやっかみも加わった機関銃みたいな演説が、先入観になったかもしれない。テンポの変化に意識が行き過ぎた。正確な刻み、音の表情の豊かさ。この人の技術はすごい。テンポ感で溜めるよりも、音色の豊かさや広がりで、音楽の推進力を変化させることができる。無理やりテンポで揺らしたり、芝居がかったカンタービレで勝負する奏者じゃない。彼はそれに気づかなかったんだろう。
 もう一度頭から合わせたい。そう言おうと思ったら、彼女はこっちをくるりと向いた。強い視線が、私の口をふさいだ。
「大丈夫、あなたはもう私を分かってくれた」彼女は言った。「こんなに早く分かってくれる人は初めて。ありがとう。」
 弓を構える。「第三楽章」とたたきつけるように言う。第二楽章を飛ばすのか、と理解するより先に、剣を振り下ろすように弓が動いた。考えるより先に、私の指も動いた。
 頭にきた。第三楽章の冒頭の序奏から、アレグロモルトエマルカートでピアノが先行し、細かいアルペジオでテンポを決めていくはずなのに、序奏もピアノのアルペジオもブッ飛ばして、その先のチェロから入りやがった。お前に主導権は渡さない、という明確な意思表示。
 第二楽章を飛ばしたのも同じ理由だろう。冒頭のアンダンテモルトトランキッロのピアノソロで、こちらに先に音楽を作られるのを嫌ったのだ。ここまではっきり喧嘩を売られると、逆にさわやかな気分になる。
 これは格闘技だ。とにかく弾くしかない。中国映画でヒロインが繰り出すアクロバットのような剣戟を、踊るようにかわす武術の達人。私はそんな達人じゃない。この野郎。
 喧嘩を売られて不愉快なはずなのだけど、それでも、この人とのセッションは悪くない。振り回されているのは事実なのだけど、高い高いところに駆け上がっていく快感がある。
 ピアノからのクレッシェンド、フォルテピアノまで持っていくダイナミクスの豊かさ、疾走感、弓さばきの正確さ、受け取ってまた投げ上げると、それをまたさらに高い高い星空に投げ上げるような浮遊感。アテンポで出てくる美しい第二主題は、適度なセンチメンタリズムで心地よい。ピユアニマートでちょっと突っかかってみたら、あっさりかわしてきた。楽しい。
 トランキッロのピアノで少し固めに持ってきたら、絶妙のバランスの柔らかいフォルテで受け止めた。ふわん、と体が空に浮くような感覚になる。倍音一杯の豊かなロングトーンで上昇音階をたたく。掛け合いはほとんどバトルだ。マトリックスでキアヌ・リーブスが敵方とポカスカなぐり合ってる感じ。
 そして第一主題が戻ってくる。疾走感が高まる。空へ、海へ、夜へ、昼へ。星空を飛び、荒野を漂い、灼熱の砂漠へ、あるいは荒々しい嵐の海原へ。指がつりそう。もう無理、と思ったら、柔らかな第二主題とピッチカートの響きに救われる。でもまだだ、まだまだ先にいかないと。旅は終わらない。ピアニッシモのスタッカートから、さらにピユアニマートエストレット、遠ざかり、あるいは近づき、そして上昇音階の先に、さらに高い、さらに遠い、宇宙へ飛び立つような跳躍があり、四小節間のリタルダンド、激しいロングローンの終結部へ・・・
 そして唐突に、旅が終わる。
投げ出された心がゆっくりと戻ってくる。体がゆっくりと冷えてくる。彼女はまた動かない。何かが欠けている。こんなめくるめく演奏の後に必ず来る高揚感がない。何かが欠落している。
「何かが足りない」彼女が言った。「何だろう。」
「たどりつかない」私は呟いた。
 彼女がまた、くるり、と私の方を向いた。視線で刺し殺されるかと思った。もう少し優しく動いてほしい。時代小説の剣豪のようだ。チェロという暴れ馬に乗って、視線という剣で周囲の人々を惨殺していくスリーピー・ホローの騎士。
「何かにたどりつく必要があるんだろうか」彼女が言った。けんか腰の口調。
 欧米人のこういう議論の吹っかけ方に、ふつう悪意はない。世界中から若い音楽家たちが集まったこの1週間の合宿で、同じような言葉の礫が何度も飛び交って、慣れていない日本人の奏者は時々涙目になっていた。私だって慣れているわけじゃないけれど、まったく知らない世界でもない。子供の頃から、私の両親の周辺では、こんなやりとりがしょっちゅうあったから。
「あなたも混血でしょ?」私の心を見透かすように、彼女が言った。
「Yeah」と私は答えた。「でもそれが私の演奏に影響を与えている感覚はないな。」
「私はある」彼女は即座に言い切った。ボレーを相手の足元にたたきつけるテニスプレーヤーのよう。
 こういう時、私の体に半分流れている日本人の血は、あいまいなジャパニーズスマイルを唇に浮かばせるしか方法を知らない。でも、意外とそれが欧米人の心を和ませることも、私は知っている。
 彼女の視線が泳いだ。宙に浮いた想念の雲の中から、適切な言葉を探している。
 リハーサル室には壁一面を覆う大きな鏡がある。その鏡に映った、彼女の正面からの顔を、こっそり盗み見た。
 美人チェリスト、と言っていいと思う。アメリカ人、とは聞いたけど、それは人種を特定するための情報としてはほとんど何の役にも立たない。くっきりした顔立ちはたぶん南アジア、整った骨格はたぶんヨーロッパ、と予想。昼ごはんくらいは賭けてもいいと思う。
「911の時」と彼女は言った。「父は腕を折られた。」
 一瞬、頭が真っ白になった。「What do you mean?」
「アメリカが発狂したあの年」と、彼女は言った。「ただ普通に、ロサンジェルスのダウンタウンを歩いていて、突然。」
「Why?」
「父はアラブ人だったから。」
 そうか。納得。昼ごはんおごってもらえるぞ。誰にだ。
「気の毒」私は言った。「私はそういうのは本当に嫌いだ。」
「嫌いでもそこにある」彼女は言った。「それが現実。だから、私には帰る場所はない。」
 あの日から、祖国も故郷も、憎しみに染まった。私という存在は、存在してはいけないと言われた。
 そんなことないよ。
 ある。みんなそうやって慰めてくれる。でも、昨日までの仲のいい隣人たちが、友人たちが、突然別の生き物になったみたいな、あの感覚を知ってしまえば、もう戻れない。
 だから旅をする。周りの人たちは、みんな通りすがりだ。深く信じ合うべき相手じゃない。それが気楽。
「あなたの音楽も旅?」私は言う。
「そう。旅」彼女は言う。「だからどこにもたどりつかない。たどりつかなくていい。それが、私の音楽。」
 浮遊感。疾走感。あなたの音楽を駆り立てているエネルギー。それはとてもいい。そこについて、あなたの経験は、あなたの音楽に逆にいい影響を与えていると思う。
 でも、あんなに乱暴に投げ出さなくてもいいんじゃないかな。聴衆が不安になる。演奏が終わって、ブラボーを言えないよ。
「そういう不安感を聴衆に与えたい。それが目的だから、演奏としては成功している。」
 私は少しいらっとした。ちょっと意地悪を言いたくなった。
「Then, you've given up(じゃ、あきらめたんだ。)」
「あきらめた?」予想通りつっかかってきた。give upってのはアメリカ人が一番嫌う言葉の一つだ。「なんで?」
「何かが足りない、とさっき言った。今は成功した演奏だと言う。足りないものをあきらめたから、成功したと言っている。違う?」
「・・・あんたは正しい」しばらく沈黙して、彼女は言った。「悪魔みたいに正しい。」
「・・・ありがとう」ほめてんのか?
「あなたの故郷は?」突然身を乗り出してきた。こっちがのけぞる。「故郷(Hometown)?」
「イタリア、それとも日本?」
 また挑発してきた。それとも、さっきから感じる敵意はここが源泉か?落ち着け。こういう挑発には慣れている。
「日本だね。イタリアに住んだことはないから」
「東京?」
「今は東京だけど、故郷、という言葉にふさわしいのは、神戸かな」
 生まれたわけでもないし、長い時間を過ごしたわけでもないのだけど、出身地は、と聞かれたら、いつも、神戸、と答えることにしている。
「お母さんの故郷?」まだ聞いてくる。時計をちらっと見た。リハーサル室に割り当てられている時間は2時間。あと1時間以上ある。このまま曲合わせしないで、だべって終わるつもりか?
「そうだよ」と答えた。伴奏者は、演奏者に合わせないといけない。私は歌の伴奏が専門だけど、色んな歌い手の伴奏をするうちに学んだのは、とにかく我慢して相手に付き合うことだ。冒頭の10小節ばかりを執拗に数十回繰り返したバリトン歌手。一回ざっと流して、あとはひたすら晩御飯に何を食べるか相談してきたテノール歌手(あとで母にそれを言ったら、それはデートに誘っていたんだろうと笑われた)。
 とにかく色んな演奏者がいる。技術的には一流の域に達している演奏者ほど、テクニック的なところとは別の摺合せも必要になる。心の部分。姿勢の部分。同じ色に染まるというより、お互いに持っている色合いを理解すること。
「あなたのピアノは好きだ」彼女は呟くように言った。「あなたのお母さんの歌に似ている。ヴェルベットみたいに柔らかくって、優しい。」
 突然誉められて、びっくりする。でも、微妙に屈託を感じる。「あなたのスタイルとは違うかもしれないね」
「そうだね。それで思ったのかもしれない。何かが足りないって。」
「私のせいってこと?」
「そうじゃない。音は私の中にある。音は正直だ。私の好きな自分も、嫌いな自分も、全部音に出てしまう。私はあなたがうらやましいんだと思う。私にないものを全部持っている。両親は有名な音楽家。帰る家。才能。そういう気持ちも、音に出る。」
 変わりたい。今の自分ではない自分。ここではないどこか。遠くに行きたい。居てもたってもいられなくなる。それが私の音楽。あなたといると、そういうエネルギーが強くなりすぎて、コントロールできない。
「演奏者にそう思わせちゃったら」と、私は呟いた。「伴奏者としては失格だな。」
「あなたのせいじゃないんだ」と、彼女は言った。「私自身の問題だと思う。」
 このチェリスト、可愛いな。私は突然そう思って、苦笑いした。自分にどこまでも正直。自分の出す音に対する耳もいい。
「昨日のあなたのステージを聞いたんだ」彼女は言った。「ラウンジでやったやつ。」
 あれを聞いたの?私は笑い出す。被災地チャリティーイベントとして行われた無料コンサート。「子供たちが可愛かったよね。最後のキラキラ星変奏曲で、みんなで大合唱になっちゃった。」
「あれはあなたの力だ」彼女も小さく微笑んだ。初めて笑顔を見た気がする。ますます可愛い。
「自己主張がなくって、隙だらけだ。だからみんな遠慮なく合わせて歌う気になる。」
 こいつやっぱ可愛くない。
「私の演奏に合わせて歌ってくれる子供はいないだろうな」彼女は言う。「歌ってほしいとも思わなかった。昨日のあなたのステージを見るまでは。あれは単純に楽しかった。」
 難しいところだね。私はうなずく。ああいう、聴衆に合わせる音楽ばかりやっていると、自分の音楽が荒れてくるから。
「そういう問題もあるけど、それだけじゃない気がする」彼女は言う。「あなたの音楽には色がない。それが色になっている。合わせているようで、しっかりコントロールしている。かなりしたたかな感じがする。」
 それは買いかぶりじゃないかな。私はただ・・・
「ただ、何?」彼女が言った。言葉を探した。
「人の息を読むのがうまいんだって。」人に言われた言葉が一番いい。自分で自分を語るのは難しい。「母に言われた。やっぱり、オペラ歌手の娘だからかな。」
「あなたが伴奏する、と聞いた時、頭にきた」彼女は言った。「だから、ラウンジのコンサートを聞きに行った。どのくらい弾けるやつなのか、聞きたかったから。」
 本当に、どこまでも正直なやつだ。大学側の要望もあって、私のプロフィールには両親の名前が載っている。母は世界的オペラ歌手、榊原良子。父はイタリアオペラ界の巨匠、故フリオ・ベルゴンツィーニ。私は相当抵抗したのだけど、母はきっぱり、「載せなさい」と言った。
「音楽で食っていくつもりなんだったら、親でもなんでも利用しなさい。一度しか会ってない、血がつながっているだけの父親でも、利用価値があるんだから載せなさい。あとはその看板に負けないだけ、練習して練習して練習しなさい。負けたらそれで終わり。それだけ。」
 Practice, Practice, and Practice.ホロウィッツの言葉だっけ。
「あなたのピアノはよかった。」彼女は言った。「親の七光りじゃない、ちゃんと自分の力でここにいる人だって、はっきり分かった。一緒にやりたいと思った。でも一緒にやったら、こんなに自分が嫌になる。」
 私の音は孤独だ。世界への敵意をむき出しにして、ハリネズミみたいに私を守っている。音の一つ一つが周りを傷つけているような気がする。こんな音を聞いて、楽しいと思ってくれる人なんかいない。このままじゃ、プロの演奏家になんかなれない。
 世間に喧嘩を売り続けて、伝説になった演奏家だっているじゃん。私は言った。グレン・グールドとか。
 私にはそんな才能も覚悟もないよ。
 チェロの指板に寄せた彼女の頬に、涙が伝うのが見えた。あーあ、泣かせちゃったか。プロの演奏家の卵の伴奏をやって、泣かせちゃったのは初めてじゃない。どうも私のピアノは演奏者を無防備にしてしまう。いいんだか悪いんだか。
「二楽章どうしよう」彼女はぽろぽろ泣きながら呟いた。
 私は迷った。どうせ彼女がこれだけ迷っているなら、私がリードしてしまうのも手だ。第二楽章の冒頭で、ピアノがイニシアチブを取ってしまえば、あとは彼女が乗ってくるのを待つ。でも、それでいいんだろうか。
「あなたは旅人」私は呟いた。「旅にはリスクが付き物だ。音で身を守るのも必要。音の力が、あなたを駆り立てる。私はあなたの音が嫌いじゃない。パワフルで、豊饒な音がする。力をくれる。決して負けるもんか、って気になる。」
 でもたぶん、それだけじゃだめなんだ。彼女の涙は止まらない。そう思ったのは、あなたのラウンジコンサートを聞いたせいだけじゃない。あの街を見たからだ。ツナミにやられた、あの街。何もかもなくなった、失われた街。あの街にいた人たちに向けて演奏しなきゃいけないのに、こんなギスギスした音じゃだめだ。どこにもたどり着けない音を、帰る場所を失った彼らに届けてどうする。
 さてどうするかな。共演者としては、彼女と一緒に途方に暮れていても仕方ない。とはいえ私はまだ、この泣き虫お嬢さんの首根っこを持って無理やり舞台に引きずっていく気にもなれなかった。なんとか、彼女自身に答えを見つけてもらう手はないものか。
 前回泣き出しちゃったのはソプラノの新入生だったな。声に厚みが足りないって、いきなり泣き出したんだ。息の話をしたな。二人して、とにかく重いものと、呼吸をイメージしてみよう、という話をした。ゾウが長い鼻でため息をつく。カバが大きな欠伸をする。豪華客船が長い汽笛を鳴らす。イメージだ。イメージ。旅と、その終着点。
「チェロが旅をするんだ」私は言った。
「チェロが?」彼女が言った。
「チェロが津波で流されるんだよ」私は言った。「女の子が持っていたチェロ。お父さんに買ってもらった、大好きなチェロ。チェロケースに入ったまま、家と一緒に流されてしまう。」
「ひどい」彼女は言う。
「海の上を、チェロケースは漂う。孤独で、とてもつらい。だから、チェロは一生懸命、自分が奏でた音をイメージする。強い強い音をイメージする。その音を再び奏でる日まで、決して負けない。そう自分に言い聞かせて、耐える。あなたの音は、孤独に必死に耐える音だ。決して負けない音だ」
「チェロはどうなるの?」彼女は子供みたいな目で、私の方を見る。涙が止まらない。すっかりチェロに感情移入している。やばい、この物語をうまく着地させないと、収拾がつかなくなるぞ。自分で蒔いた種だ。なんとかしないと。
「チェロは、ロサンジェルスの砂浜に漂着する」私は言う。
「太平洋を渡るの?」彼女の眼が輝く。
「そう。実際、そうやってアメリカの西海岸にたどり着いたがれきはたくさんあるんだよ。持ち主に返されたバスケットボールの話とか、聞いたことがあるもの。」
 チェロケースは、親切なアメリカ人に拾われて、中のチェロは、チェロ職人のおじいさんに託される。
「おじいさんだね」彼女は微笑む。いいぞいいぞ。「やっぱり職人はおじいさんじゃないとね。」
 おじいさんは、長い海の旅で傷んでしまったチェロを完璧に直して、それを街で一番チェロの上手な若い女性に渡す。その女性が、近々日本に行く、と聞いたからだ。
 彼女は日本に演奏旅行に来て、そのチェロで、津波にあった街のホールで演奏をする。
「客席に、ひょっとしたら、自分の持ち主の女の子がいるかもしれない。チェロは、必死に叫ぶんだ。僕はここにいるよ。僕は戻ってきたよって。」
「女の子は、気が付くだろうか」彼女は呟く。
「きっと気が付くよ。」私は言う。「演奏を終えて、楽屋に戻ってきたチェリストの前に、その女の子が立っているんだ。チェリストは微笑んで、海を渡ったチェロを、彼女に手渡す。彼女は、ぽん、と弦を指ではじく。きっと素晴らしい音がする。」
「そんな音が出せたらいい」彼女は言う。
「そんな音をイメージしてみよう」私は言う。
 彼女は顔を上げる。
「第一楽章は旅だ。」彼女は言う。「波の音、冷たい海の嵐、星空、流れ星」
「チェロはチェロケースに入っているから、空は見えないのかな」私はつぶやく。
「見えるの!」彼女は怒ったように言う。待て、私が考えた話だぞ。
「チェロは音で世界を感じる。だから見えるんだ。星空も見える。暗い鉛色の雲に怯える。嵐にひらめく雷光も感じる。そして北の海では、夜空に踊るオーロラを見る。」
 第二楽章は夢だ。オーロラの光に抱かれて、チェロは夢を見る。温かな家族のぬくもり。持ち主の女の子に抱かれた喜び・・・そして気づくと彼は、チェロ工房のおじさんの腕に抱かれているんだ。
 第三楽章で、チェロは再び旅をする。職人のおじさんに直してもらって、そして飛行機で海を渡るんだ。ワクワクしながら、故郷の街に向かう。街はお祭りだ。チェロは女の子と再会して、一緒に踊るんだ。
 彼女は一気にまくしたてて、私の方を見る。きれいな黒い瞳。お父さん譲りの瞳。それが問いかけている問いが、私には分かる。
「そうだね。それは夢だ。大切なものをあの津波で失った人は多いし、それは二度と戻ってこない。女の子のところに、チェロは二度と帰ってこないだろう。」
「でも音楽は戻ってくる」彼女は言った。「必ず帰ってくる。」
 そして、弓を構えた。「もう一度、第一楽章から。」
 
 
4.
 
 大船渡市民文化会館リアスホールのマルチスペース。裏の楽屋に引っ込んでも、拍手は止まなかった。二人してもう一度、舞台上に出て行った。前列のおじいさんが、立ち上がって拍手をしてくれている。
 いい演奏だったし、いい聴衆だった。第一楽章が終わったら拍手、第二楽章が終わっても拍手。第三楽章が終わったら、この万雷の拍手。みんな笑顔だ。
「いい旅だったね」私は言った。彼女が微笑んだ。
「何か一曲、アンコールをお願いできませんか?」事務局のおばさんが、困ったような笑顔で言った。「拍手が鳴りやまないので・・・」
「あなたが行きなさい」私は上から目線で言った。別に何か意味があったわけじゃない。単純に、準備してなかっただけだ。「チェロ独奏のレパートリーがあるでしょう。」
「チアキは偉そうだな」彼女は口をとがらせた。「バッハとかなら。」
「いいんじゃない。無伴奏のプレリュードとか、みんな知ってるから喜んでもらえる。」
「聴衆にこびてると音楽が荒れるって言ったくせに」舞台に向かいながら、まだぶつぶつ言っている。
 そばに人の気配を感じて振り向くと、中学生くらいの女の子が立っていた。スタッフの名札を付けている。ボランティアの女の子かな。
「なにか?」と声をかけると、緊張したように首を横に振った。客席の拍手がひときわ大きくなり、すっと静まる。彼女が、舞台上でエンドピンを調整している気配がする。
 女の子が、意を決したように、私に向かって口を開いた。「あの。」
 同時に、バッハが始まった。女の子が凍りついた。私を見ている目が大きくなった。あれ、と思っていると、その目から、ぼろぼろ涙があふれ出した。私は慌てて、その子の前にしゃがんだ。涙でぐしゃぐしゃになった彼女の顔を下から見上げた。
「大丈夫?」と私は言った。
「帰ってきた」彼女がつぶやいた。
 
(了)

オリジナルオペレッタ「昭和ローマンス『扉の歌』その4  第三幕〜エピローグ

第三幕(東北の山中):
 
間奏曲。東北の秘宝のありかへと分け入っていく不安な行軍。平田を先頭に、真美子、野口男爵、源一郎、そして明子が連行されていく。
 
舞台前面に、黒田子爵登場。間奏曲を伴奏に、以下のセリフを語りだす。
 
黒田子爵:2年ほど前、東北の寒村に入った民俗学者が、村の神社の蔵の中から、ある古文書を見つけ出した。まぁ物部文書の類かと、さほど重要視してはいなかったが、そこに書かれた物部の隠し金山の文章に、帝国陸軍が目をつけた。
大化の改新前夜、蘇我氏との政争に敗れた物部氏は、東北に逃れ、彼の地の蝦夷と通じ合い、アラハバキの神を奉じながら、鉱山の開発にいそしみ、東北に巨大な黄金の都を築いた。藤原三代の栄華と共に、その文明は滅んでしまったが、現代文明も図りえないほどの高度な技術で、彼らはその豊かな富を、とある場所へと秘匿した。そしてその場所の地図が、その古文書に隠されているのを、軍部の諜報部が解読したのだ。
国際連盟主導による軍縮条約の批准が続き、軍部はいまや焦っている。大陸の利権を守るために前線をむしろ拡大しようと、後方支援の資金集めにやっきになっているのが今の陸軍。どんな眉唾な情報でも目の色を変えてしゃぶりつく。しかもこの件、裏付ける情報がいくつも重なった。一つは東北の山中で、古文書に書かれた財宝の隠し場所の扉が実際に発見されたという事実。しかもその扉というのが、一体どういう構造なのか、どんな爆薬も受け付けない。開く方法が見つからない。そこへ加えて出てきた情報が、あの若者が雑誌に書いた、「扉の歌」の文章だった。
 
舞台上の行軍は最終段階に。険しい山を登る人々の姿が見える。
 
黒田子爵:今、「扉の歌」の歌い手は、帝国陸軍の手中にあり、野口男爵も捕縛され、東北山中へと姿を消した。このまま平田少佐たちが伝説の財宝を手に入れることになるならば、この大日本帝国は一体どこへ進むのか…
 
暗転し、間奏曲が終わる。
 
幕が開くと、そこは東北のある森林の奥。うっそうとした森の中央に、巨大な岩が露出している。
 
平田:(意気揚々と登場)こっちに連れて来い!
 
真美子、野口男爵、源一郎、明子を連行し、軍人達登場。
 
平田:見るがいい、これが「扉」だ!(巨大な岩を指差す)
源一郎:物部の財宝とはね。
野口男爵:今の軍部は狂ってる。
平田:さぁ、歌姫よ、歌うがいい!お前の家に伝わった「扉の歌」をこの前で!
真美子:歌ってやってもいいけれど、それで私に一体全体どんな見返りがあるんだい?
平田:見返りときたか。このあばずれめ、お前の周りを見るがいい。
 
軍人たちが銃を構える。
 
平田:お前は自分の置かれた立場をちゃんと分かって言ってるか?見返りなんぞと口にする前に、自分の命の心配がお前に一番大事なことだ。
真美子:「扉の歌」を歌えるのは、この世で私一人だよ。いくら銃で脅されたって、私を殺せば「扉の歌」は、もう二度と誰にも歌えない。あんたもそういう自分の立場、じっくり考えたらどうなんだい?
平田:こりゃあ大したあばずれだ。帝国陸軍諜報部相手に、取引しようって算段か。それならこちらも考えがある。おい、その女を引っ立てろ。
 
軍人の一人、明子を引っ立ててくる。
 
真美子:ちょっと、あんたら何するつもり!?
平田:その女の腕を切れ!
 
飛び出そうとする源一郎、銃尻に殴られて倒れる。軍人が軍刀を抜き、別の一人が明子の腕を無理やりに刀の下に差し出す。
 
真美子:やめて、やめて!
平田:どうだ、歌う気が出てきたか?これが取引というものさ。(大笑)
 
真美子、自分の敗北を認め、うなだれるが、きっと平田をにらみつける。
 
真美子:分かった、じゃあ歌ってやろう。だけど最後に一つだけ、この願いだけは聞いとくれ。
平田:女を放せ。
 
軍人たち、明子を放す。気を失いかける明子を、支える野口男爵と源一郎。
 
平田:どんな願いか、言ってみろ。
真美子:野口男爵と話がしたい。願いはただそれだけさ。
平田:(一瞬考えるが、何もできるわけはないと冷笑し)よかろう、3分だけやろう。
 
軍人が野口男爵を真美子のもとに引き立てる。手縄はそのままに、二人から離れる。
 
野口男爵:歌ってはいけない。
真美子:歌うしかない。そうしなければ、皆殺される。あの軍人野郎は狂ってる。
野口男爵:すまない。こんなことに君を巻き込みたくはなかったのに。
真美子:あんな狂った軍人たちから、私を守ろうとしたんだね。それで嘘をついたんだ。
野口男爵:いや、半分はカネのため。オレは君が思うほど、いい男じゃあないんだよ。
真美子:それじゃあ後の半分は?
野口男爵:君の瞳に魅せられた。君の夢見る嘘の世界で、オレも一緒に暮らしたかった。
 
一つだけ君に伝えたいことは
私が君に与えられるもののうち
最も華やかで心やすらぐ素晴らしいものだけを
君に与えたい、そのことだけ。

 
二人:
夢の世界で 二人踊れば
輝かしい未来が、天に輝く
それが刹那の夢の輝きでも
私たちは見る二人の新しい未来を…

 
真美子:これから、「扉の歌」を歌います。その後、あの軍人たちが扉の奥に入ったら、私は家に代々伝わる「埋めの歌」を歌うでしょう。
野口男爵:「埋めの歌」?
真美子:全てを闇に葬る歌。開いた扉を閉ざす歌。「扉の歌」と一対に、宝の場所を永遠に封じ込める呪文です。何が起こるかわかりませんが、その時、皆で逃げましょう。
野口男爵:承知した。
平田:3分だ!さあ、「扉の歌」を!
 
真美子、きっと平田をにらむ。平田、一瞬たじろぐ。真美子、朗々と歌いだす。
 
嬉しきかなや いざ行かん
嬉しきかなや いざ行かん
ぬばたまの 闇の山路を
あしびきの 山より出ずる
極楽の浄土の道を いざ行かん
あかねさす 夕日輝く 木の下に
黄金の扉 押し開き
極楽浄土へいざ行かん

 
歌の最後の一節が終わると同時に、「扉の岩」が鳴動する。鳴動は次第に大きくなり、「扉の岩」は大音響とともに、真っ二つに割れて左右に開く。その奥から、黄金の光が差してくるのが見える。
 
平田:開いた。「扉の岩」が。
源一郎:まさか、本当に物部の?
平田:行くぞ!
 
軍人達、一斉に岩の奥へ殺到する。
 
平田:待て、その歌姫も一緒にだ!何をやるか分からんからな!
野口男爵:真美子!
真美子:大丈夫、私を信じて!
 
真美子を連行し、平田たち、岩の奥へとなだれ込む。軍人達の歓喜の声が聞こえる。しばしの沈黙のあと、細く遠く、真美子の歌が聞こえてくる。
 
哀しきかなや いざさらば
哀しきかなや いざさらば
あらたまの 長き年月
うつせみの 浮世を越えて

 
野口男爵:真美子、ダメだ、今歌ったら!
 
大地が揺れる。岩が鳴動する。
 
明子:あれはひょっとして…「埋めの歌」?
源一郎:なんだ、「埋めの歌」って?
明子:真美子が以前教えてくれた。全ての扉を閉ざす歌。全てを闇に葬る歌!
源一郎:真美子!
 
真美子の声は続いている。
 
極楽の浄土の国へ いざさらば
あかねさす 夕日の落つる 海原に
ぬばたまの闇 押し広げ
極楽浄土へいざさらば

 
大地が鳴動し、岩が閉じていく。岩の奥から、悲鳴が聞こえる。
 
源一郎:岩が閉じる!
野口男爵:君たちは逃げろ!
明子:だけど、真美子は?
 
銃声が鳴り響き、さらに銃声が続く。野口男爵、閉じかけた岩へ駆け寄る。
 
源一郎:男爵!
野口男爵:来るな!ここから先は極楽浄土、オレと真美子の暮らす夢の世界だ!
 
野口男爵、岩の間に飛び込む。駆け寄ろうとする明子を押し留め、源一郎は明子を引きずってその場を逃げ出す。カタストロフの音楽の中、大音響とともに、「扉の岩」が崩れ落ちる。
 
暗転
 
エピローグ(カフェ「モンマルトル」):
 
カフェ「モンマルトル」である。腕に包帯を巻いた源一郎。頭に絆創膏を貼った明子、寄りそっている。卓郎も隆二もいる。全員押し黙っている。
 
遠くから、鈴の音がする。全員がゆっくり顔を上げる。しゃんしゃんしゃん、と澄んだ音。その場の全員の表情が、ゆっくりと明るくなっていく。
 
明子:あれは、あの音は!?
 
旅支度の真美子、野口男爵、店の入り口から登場。真美子、真っ直ぐに明子に抱きつく。
 
明子:真美子、真美子、生きてたの!?
真美子:この私がなんで死ぬもんか!あんたたちもなんとか無事に、あの山奥から戻れたんだねぇ。
卓郎:なんで今まで一言も音沙汰なしでいたんだよ!
野口男爵:軍部の監視が厳しくて、しばらく地下でほとぼりを冷ましていたのが真相さ。心配かけて悪かった。
隆二:しかし一体どうやって、穴の中から脱出したのさ?
真美子:宝の穴の天井が私の歌に崩れ落ち、もうこれまでと思った時に、私をかばったこの人の背中の上に扉の岩が落ち込んで、その下の小さな隙間に、二人すっぽり入り込んだの。
野口男爵:扉の岩が我々をあの崩落から守ってくれた。
卓郎:それじゃああの平田少佐は?
野口男爵:黄金の宝と心中さ。
 
黒田子爵:(登場しつつ)さあ、二人とも、出発の時間が間近に迫ったぞ。
隆二:出発だって?
野口男爵:オレも優等生じゃない。命をかけた冒険の見返りを少しいただきたいと、扉の岩の下にあった、こいつを一つ、いただいたのさ。(と、懐から、黄金色の首飾りを取り出す。)
黒田子爵:物部の黄金の財宝だ。国宝級の宝だよ。私がそれを買い取った。そして二人は満州へ。(首飾りを受け取り、切符を野口男爵に渡す)
全員:満州へ!?
真美子:そう、二人で満州へ!私の夢の父上がはかなくツンドラの大地の下に冷たく凍っている土地へ!
卓郎:それは真美子の夢の話だ。
野口男爵:そして我々二人には、まさしく夢の世界での人生こそがふさわしい!
真美子:源ちゃん!
 
源一郎、泣き笑いの表情で立ち上がる。真美子、源一郎にすがりつく。
 
真美子:私は自分の夢に生きるの。夢を見続けていたならば、その夢の底に今度こそ、真実の人を見つけたの。
源一郎:そうさ、お前は夢の女。オレの夢の女だよ。
真美子:あんたには明子がおにあいさ。浮き草みたいな歌姫にひっかかってちゃいけないよ。(全員に)さぁ、旅立ちの時間が来たよ。これが歌姫沢渡真美子の、内地最後のステージさ!
 
雪に埋もれた国境の
街角照らすガス灯に
夜も知らずに煌々と
笑いさざめく人の群れ
 
さぁ踊ろう、コサックの踊り
体の芯まで燃やすよな ウォッカあおって一晩中
膝がしびれてぶっ倒れるまで ツンドラの大地踏み鳴らし
 
 
音楽がやみ、暗転。舞台中央に、黒田子爵が残る。
 
黒田子爵:二人が向かった大陸のツンドラの大地は凍てついて、この大日本帝国にばら色の未来も期待はできぬ。それでも二人の希望は消えず、きっと遠い異国の土地で、自分の命の炎をば、明るく激しく燃やすだろう。
 
全員の合唱の声がする。
 
さぁ踊ろう、コサックの踊り
体の芯まで燃やすよな ウォッカあおって一晩中
膝がしびれてぶっ倒れるまで ツンドラの大地踏み鳴らし

 

オリジナルオペレッタ「昭和ローマンス『扉の歌』その3  第二幕後半

真美子、微笑み、挨拶すると、広間を去っていく。野口男爵、その後ろ姿を見送る。
 
野口男爵:氷の心を持つ男、泣かせた女を数えれば、帝都東京銀座界隈のガラス窓の数より多いと、浮名を流したこのオレが、なんであんな田舎娘に…
 
通いなれたる銀座の町の夜を彩るガス灯の
妖しき光が照らし出す夜の帳の綾なす夢に
ただゆったりと身を沈め、唇潤すぶどう酒の色に
遠いはるかな幻の理想の美女の夢を見る
 
それがオレの生き方だった
それがオレの日々だった
親の財産食いつぶし
遠く欧州、アメリカと
若き血たぎらせ学んだものは
心貧しいこの国の
愚かな滅びの未来図ばかり
 
ただただこの世をはかなんで夜を彷徨うこのオレの
酔いにかすんだ目の前に現われ出でた可憐な女
自分の嘘に身を沈め、純な心をひたすら隠し
遠いはるかな幻の理想の暮らしの夢を見る
 
あれがオレのビーナスなのか
あれがオレの夢なのか
自分の祖国に絶望し
夜の都会に逃げ込んだ
オレの血かきたてささやく声は
震えおののく歌姫の
救い求める「扉の歌」か

 
野口男爵が退場すると、明子が登場。館のあちこちを眺め、その豪華さに圧倒されている様。恐る恐る広間の真ん中に来たときに、真美子登場。
 
真美子:(安堵感で思わず大きな声で)明子ちゃん!
明子:(ぎょっとして飛び上がり)すみません、申し訳ございません!!
真美子:何言ってるのよ、私だよ!
明子:真美子ちゃん?ほんとに、あなたなの?…なんて綺麗なドレスなの。
真美子:明子ちゃん、私、どうしたらいい?一体全体どうしたらこの夢から醒めることができるんだろう!
明子:夢だというの?このお屋敷が?
真美子:このお屋敷も、このドレスも、この綺麗なネックレスも、全部全部夢なのよ。夢なの、夢に決まってる。こんなことがあるはずない!
明子:真美子ちゃん、どうか落ち着いて。
真美子:私…私どうしたらいいの?不安で不安でたまらない。あの男爵があまりにも素敵すぎて怖いの。私が夢見た王子様、あれはただの夢なのに、あの方は、あの男爵様は、私の目の前に立っている。私に触れる手のひらが、なんて温かくて優しいか…
明子:私をここに呼んだのは、あんたのノロケを聞かせたくて?
真美子:ノロケで言ってるわけじゃない!これは夢なの、夢なのよ。(意を決し)明子ちゃん、あなたにだけ、私の親友と見込んでね、本当のことを話すわね。
明子:本当のことって何のこと?
真美子:私は…私は…全然全く、子爵令嬢なんかじゃありゃしない!
明子:何を言ってるのか分からないよ。
真美子:シベリアの土地で一旗あげると、大陸に渡った沢渡子爵、それが私の父親と、ずっとお店で言い続けた、あれは全部私の頭で作り上げた絵空事。
明子:真美子、それって…
真美子:源ちゃんがあの雑誌に書いた、「扉の歌」の歌姫さん。北の貧しい田舎の村から、口減らしのために追い出され、はるばる東京に流れ着き、夜の隅っこで震えながら、助けを求めてひたすらに「扉の歌」を口ずさむ、あれこそ私の本当の姿。
明子:それじゃあ野口男爵は?
真美子:嘘こそが誠であるならば、今目の前のこの誠も、一瞬で嘘に変わるかも。そして野口男爵は、ああ、あの素敵な男爵は、いいえ、本当のはずがない!ああ、頭がこんがらがるわ。沢渡子爵なんていないのよ。いない子爵の友人が、私にこんなお屋敷でこんな幸せくれるはずどう考えてもありえない!
 
わかって、お願い、私のこの不安
震える足が踏みしめているこの大地さえ信じられない
突然消えるゆめ幻で、何もない空に放り出される
あるいは深い穴の底へとただひたすらに落ちていく
 
そんな不安が消えないの!
 
明子:
おちついて、お願い、あなたは混乱してる
男爵さまが与えてくれたこの幸せだけ信じればいい
優しいあの方の微笑だけを、ただ見つめていればそれでいいの
あの方の心は本物のはずよ、あなたもわかっているはずよ
 
真美子:
そう、あの方のまなざしは
私の夢を照らす光
ただそれだけを信じていれば
それで心は満たされる。
 
明子:
そう、あの方の真心が
あなたの夢を誠にした
 
二人:
ただそれだけを信じていれば
それで私(あなた)は満たされる。

 
真美子:私の不安を分かってくれる?
明子:とても信じられないけれど、沢渡子爵が夢の方なら…
真美子:野口男爵も夢の方!ああ考えるだけで怖くなる!
明子:でもあの方は本物よ!あなたを見つめるあの方の、あのまなざしは本物よ!
真美子:私の生まれた北の村、私の家は古い血筋で、「扉の歌」はその家に代々伝わる古い歌なの。「扉の歌」を教えてくれた、私の死んだ母親は、一緒に私に教えてくれた、全てを闇に葬る歌を。開いた扉を閉ざす歌。「埋めの歌」という歌を。
 
「埋めの歌」の不安なメロディーが流れてくる。
 
明子:「埋めの歌」?
真美子:今はいくら「扉の歌」を口ずさんでも見えないの。私に光が見えてこない。代わりに頭に浮かぶのは、不安な「埋めの歌」ばかり。今この私が生きている、この世界全てが闇の中に一瞬で消えてしまうような、そんな気持ちが消えないの…
 
「埋めの歌」のメロディー消える。
 
明子:真美子ちゃん、お願いよ。あんたらしくなさすぎる。あんたは私の夢だった。つらい夜の客商売、嫌な思いも沢山あった、それでもあんたはいつだって、明るく楽しく歌ってた。どんなに体が辛くても、どんなに嫌なお客でも、あんたはいつもあんたらしく、前を見据えて歌っていたよ。そんなあんたを見ていると、私はいつも元気が出たんだ。あんたは私の夢だった。そしてあんたが見た夢が、今こうやって現実になった。あんなに素敵な男爵さまが、あんなに熱いまなざしで、あんたをまっすぐ見つめてる。その男爵さまを信じなきゃ。
真美子:ありがとう、明子ちゃん。私怖くて。あの方に、本当のことを尋ねるのが。
明子:大丈夫きっとあの方は、あなたを悪いようにはしない。本当のことを話すのよ。本当のことを尋ねるの。そうしてあの方を信じるの。
真美子:ごめんね、明子ちゃん、やっぱりあんたは私にとってたった一人の親友だ。(微笑む)
明子:元気出してね。
真美子:明子ちゃん、一つお願いがあるの。お店のみんなをここに呼んで。
明子:え?
真美子:今夜の舞踏会に出かける前に、私男爵に聞くつもり。そして本当のことを言うつもり。でもどうしてもその前に、お店のみんなに会いたいの。会って力をもらいたいの。
明子:分かったわ。すぐに呼ぶ。
真美子:ありがとう明子ちゃん。お願いね。(退場する)
明子:(独白)私はあの子のたった一人の親友か。私はだけど本当に、あの子の幸せのためだけに、この夢が続くのを願うのかしら。それとも私の思ってるあの源ちゃんの懐に、彼女が戻ってくることをただ恐れているだけなのか…
 
誰の心の中にも 閉ざされた扉があるもの
その扉が開くとき 誰もが恐れるとき
扉の奥に潜むものは それは光かそれとも闇か
自分自身の思いさえ信じられないこんな時
この目の前の現実も夢の中へと溶けていく…

 
明子退場。野口登場。背後にいるものを認識しながら、傲然と肩をそびやかす。
 
野口:それで、私に用と言うのは?
 
平田、影のようにゆらりと登場する。
 
平田:今夜は舞踏会にいらっしゃるそうで。
野口男爵:(皮肉そうに)誰から聞いたね?
平田:多くは語らない。それが私の職業病でね。
野口男爵:悪い病気だ。
平田:あの女・・・沢渡子爵の忘れ形見もご一緒に。
野口男爵:今晩、社交デビューさせるよ。
平田:社交界嫌いで通ったあなたが、また不思議な風の吹き回し…沢渡子爵とやらのこと、悪いが調べさせてもらいました。
野口男爵:本当に、悪い病気だな。
平田:実に驚いたことにですな。沢渡子爵は確かに存在した。日本で事業に失敗し、満州に渡って客死した、よくいる哀れな没落華族。
野口男爵:何を疑っているんだい。
平田:ただし、昨年はいなかった。
野口男爵:ほほぉ。
平田:昨年の華族年鑑をいくら紐解いて調べても、沢渡子爵なんて名前は、かけらも出てはこないんです。これが何故か2日前、出版された華族年鑑には、しっかり記載されている。これはどういうことですか?
野口男爵:華族年鑑なんてものはね、ただの帳簿と一緒だよ。帳簿には書き込みミスがある。年鑑も一種の統計だ。記載もれなんてのはしょっちゅうだよ。私の名前も来年あたり、消えてなくなる予定らしいし。
平田:私は東北の出身でね。
野口男爵:・・・
平田:田舎の貧しい村で生まれ、冷害やら過酷な徴税の中、必死に学問で身を立てて、なんとかここまでになりました。だから何となく分かるんです。あの娘にはこの私と同じにおいがするんだな。
野口男爵:まったく悪い病気だね。実に失礼な男だよ。
 
源一郎登場するが、その場の雰囲気に物陰に隠れる。
 
平田:では私は失礼を。数々の無礼な言葉、まずはお詫びいたしましょう。ひとつ忠告差し上げます。どうせ嘘をつくのなら、最後までだましとおすこと。自分自身すらだますくらいの覚悟を持たねばダメですよ。(退場)
 
源一郎:こんにちは
野口男爵:どうして君がこの場所に?
源一郎:真美子が僕らを呼んだんです。晴れの姿を見せたいと。おっつけ皆も来るでしょう。
野口男爵:それなら早速お迎えの支度を女中に言いつけよう。(退場しかける)
源一郎:ひとつあなたに尋ねたい。
野口男爵:(振り返り)何かね?
源一郎:あなたの真意はどこにある?
野口男爵:私の真意?
源一郎:あなたは知っているんだろ?沢渡子爵など存在しない。全ては真美子の夢の産物。
野口男爵:何の話か分からんな。
源一郎:あの子の夢を夢として、どうしてそっとしておかなかった?
野口男爵:その言葉、そっくりそのままお返ししよう。どうして「扉の歌」なんぞ、君の雑誌に載せたんだ?
 
源一郎、絶句する。
 
野口男爵:いかにも、私は知っている。君より多くを知っている。そしてあの子を利用しようとあの子の夢につけこんだ。しかしそういう君だって、あの子の心の拠り所、「扉の歌」の物語、自分の雑誌に取り上げて、日々の糧にしようとした。あの子を利用したのは同じ。我々二人は同じ穴に身を寄せ合ってるむじなだよ。
源一郎:「扉の歌」がそんなにも大きな意味を持つのかい。
野口男爵:私は信じちゃいないがね。告白ついでに教えてあげよう。これは私にさる方が、この大日本帝国の未来を賭けた話だと持ちかけてきた依頼でね。
源一郎:ははん。
野口男爵:私も彼にそういった。
源一郎:は?
野口男爵:私も「ははん」と言ったんだ。そのさる方に向かってね。この大日本帝国は確かに滅びの道にある。しかし俺に何ができる。そしたらその「さる方」は、俺が昨年満州で大失敗した事業の借財、全て肩代わりすると言い出した。
源一郎:結局はカネか。
野口男爵:その通りさ。俺は薄汚い不良華族。放蕩の限りを尽くした挙句に、親の財産食いつぶし、にっちもさっちも行かなくなって、体ひとつでこの東京に逃げ戻ってきた負け犬さ。沢渡子爵がもし本当に存在してたとしたならば、彼と俺とは満州で、きっと親友になっただろうさ。
源一郎:その「さる方」の依頼とは?
野口男爵:俺にもよくは分からんさ。あの子の歌う「扉の歌」を、軍部の連中が狙っている。どうやらその「扉の歌」が、東北山中に眠っている巨大な財宝の扉を開く鍵を握っているらしい。軍部のこれ以上の拡大の助けになるような企ては、それがどんなに眉唾の夢物語であったとしても、小さな芽のうちに摘み取れと、まずは俺が彼女を保護し、彼女の嘘を誠にしたのさ。
源一郎:そしてその後、真美子はどうなる?
野口男爵:俺にもこの先どうなることか、さっぱり見当がつかないんだ。娘の夢を誠にして、あの子を社交界にデビューさせ、沢渡子爵の忘れ形見と、蝶よ花よとかわいがり、「扉の歌」の秘密を聞き出し、そしてそれからどうするか・・・
源一郎:結局のところ軍部でも、その「さる方」とあんたでも、狙いは一つ、「扉の歌」が導く財宝の隠し場所、最後の目的はカネなんじゃないのかい?
野口男爵:俺には自分が分からない。確かにきっかけはカネだった。しかしあの真美子の瞳が、どうにも俺を迷わせる・・・
源一郎:あの胡散臭い軍人野郎も、ただ胡散臭いだけじゃない、たまには本当のことも言う。あいつはさっき言ってたね。どうせ嘘をつくのなら、一生彼女をだましつづける、そんな覚悟がなけりゃだめだと。
野口男爵:俺にはそんな覚悟はないさ・・・俺には迷いがあるだけだ・・・
 
物陰から、突然、高笑いの声があがる。
 
真美子:全部全部嘘だった。全部全部夢だった!みんな私の「扉の歌」が導くお宝が目当てなだけの、欲にまみれた男どもが、私をだました夢だった!
野口男爵:真美子!
源一郎:聞いてたのか?
真美子:そうとも私は分かってた。どんなに綺麗で豪華な夢でも、これは一夜の夢だって。でも私は一瞬だけでも、あなたの瞳を信じたの。あなたが私を見つめる瞳。その奥にある真実を、ほんの一瞬信じたの!
野口男爵:真美子!僕は・・・
真美子:また私に嘘をつくの?また私に夢を見せるの?聞かせてあげる、あなたが知りたい、私のたった一つの真実、私は貧しい北国の、食い詰めた村の小娘よ。寒さに震える冬の夜には、炎の絶えた囲炉裏のそばで、小さな弟妹抱いて、「扉の歌」を歌ったさ。さあ、聞くがいい、「扉の歌」を。これだけが私の真実さ!
 
いつしか、「モンマルトル」の客たちが到着、惑乱する真美子を見つめている。
その人々の視線の中で、泣きながら真美子は歌いだす。
 
嬉しきかなや いざ行かん
嬉しきかなや いざ行かん
ぬばたまの 闇の山路を
あしびきの 山より出ずる
極楽の浄土の道を いざ行かん
あかねさす 夕日輝く 木の下に
黄金の扉 押し開き
極楽浄土へいざ行かん
 
人々:
この歌があの「扉の歌」!
 
野口男爵:俺の心は引き裂かれた、あの子の涙に引き裂かれた。あの美しい涙の前で、俺の今までの生活は、まさに下らぬはかない夢だ!
 
人々:
真美子は知った、本当のことを
真美子は告げた、本当のことを
そして真美子は失った、
自分の夢を、そして愛を
 
真美子:
私の小さな弟は、この歌歌う私の腕で
飢えて凍えて微笑んだまま そのまま冷たくなりました。
私の小さな妹は 隣の村に里子にだされ
生きているのか死んでいるのか。二度と会えずにそれっきり。
それでも小さなあの子たちは、私のこの歌聴くたびに、
楽しそうに笑ってくれた。
あの笑顔だけがこの私の
たった一つの本当なんだ!
 
平田:(舞台外より)
無駄な涙を絞っても、世間知らずの華族様の
お坊ちゃまには通じないぜ!

 
平田を先頭に、どやどやとなだれ込む軍服の男たち。源一郎、野口男爵、そして真美子を取り囲む。
 
平田:
「扉の歌」の歌い手の、あんたをずっと探していた。
これからあんたを連れて行く。
 
野口男爵:
そんな勝手はさせないぞ!
 
飛び掛るが、銃尻に殴られ、昏倒する。
 
平田:
さあお嬢さん、参ろうか、
あかねさす 夕日輝く木の下へ。
そこに我らの目指すべき、真実の場所があるはずだ!

 
人々、軍服の連中にこづかれ、そのまま、舞台外へと連行されていく。
 
 
第二幕−幕