色んな気持ち、胸の中にもやもや抱えて歩いていたら、なんだか一歩も前に進めなくなった。初夏の日差しがまぶしい甲州街道の交差点で、私一人凍りついたように立ちすくんでしまって、声を出すこともできない。左肩の古傷まで、締め付けるようにじんじん痛んでくる。頭の中に、あれはどうする、これはどうする、あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ、と声がいっぱい鳴り響いて、折り重なって出口を求めて助けてくれと悲鳴を上げている。ただ心臓ばっかりがドキンドキン高鳴って、どうしていいか分からない。息が苦しくって立っているのもしんどい。パニック症候群ってやつだなー、なんて、そんな冷めた声が、頭の中の惨状の奥の方から聞こえてくる。そういう時は、とりあえず全く関係ない別のことをした方がいいですよ、とカウンセラーさんも言っていた。まずは全てストップ、全休止、と、交差点の神戸屋キッチンに逃げ込むことにする。
 いけないんだ。そんなことじゃだめなんだ。守らなきゃいけない約束。伝えなければならない決断。その後に続いてくるモロモロ。けりをつけないといけないしがらみ。あー、やめよう。考えるのやめよう。神戸屋キッチンの美味しいパンのことだけ考えよう。入口で、可愛いエプロン姿のウェイトレスさんが、笑顔で席に案内してくれる。休日でも食事時でもない店内は結構空いていて、窓際のテーブルを一つ、一人占めした。
 テーブルについて、メニューを開いて初めて、朝から何も食べてないことに気が付いた。朝起きるだけで体が重かった。出かけなきゃ、と身支度するのが精いっぱいだった。朝お化粧しながら、鏡をまともに見ていなかった気がする。ただ機械的に、習慣のままに手を動かしていただけのような気がする。まともな顔してるかな。そもそも今日、彼に会う気力があるだろうか。化粧室に行って、自分の顔を確かめるのも億劫。でも行かなきゃ。ローストビーフのサラダにコーンスープ、それにお代わり自由のパンと、コーヒーを頼んで、さぁ、自分のひどい顔にご対面しに行こう。
 ・・・戻ってきた。予想以上にひどい顔。どっと落ち込む。血の気がないってのはこのことだ。目の下のクマは睡眠不足のせいじゃない。ダラダラとベッドの中には入っているんだから、結局、気持ちの問題だ。彼にプロポーズされてから2週間、ベッドに入っていても眠れた気がしない。2週間で返事しなきゃいけないってのも無茶だ、と憤ってもいいけれど、付き合い始めて2年間、中途半端な関係の居心地の良さに安住していた自分が悪い。
 「2年なんてあっという間だもんねぇ。それじゃまだまだ、分からないことだらけでしょう?」
 そう、そうなの。分かってることもたくさんある。彼の優しさ、彼のユーモア、細身だけど意外とガッチリしている二の腕、結構短気で、気が弱くって、私がすぐにイエスを言わないことで相当落ち込んでいること。
 「じゃあ何が分かってないの?」
 二人の未来の絵が見えない。描けない。二人の、というより、彼の側にいる私が、どんな風な顔でいるのか、どんな気持ちでそこに立っているのか。
 そして何より、私自身が、そんな風に前を向いていい人間なのかどうか。そんな私を、彼が本当に支え切れるのかどうか。
 あれ、と突然気づく。私、誰と会話しているんだ?
 「結局は違う人間だものねぇ、2年どころか、200年一緒に、同じ光を浴びて、身も心も一つになって同じ場所に根を張って生きていても、分からないことはあるからねぇ。全部分かっちゃうなんて、無理なのかもねぇ」
 独り占めしていたはずのテーブルの向かいに、小さなおばあさんが座っている。淡い藤色のショールを肩にかけて、にこにこと微笑みながら、考え考え、言葉を口に出す。柔らかな年輪を含んだアルトの低音。誰だ、この人?200年?
 「スープが冷めちゃいますよ」
 あ、はぁ、と生返事して、スプーンを手にした。私の前に置かれた小さなバスケットに、丸いくるみパンが入っていて、おばあさんは私に一言断るでもなく、それを手にして、小さな手の中で二つに割った。焼きたてのパンの割れ目からふわっと蒸気があがる。皺だらけの唇の中に、一つまみパンのかけらを入れて、ゆっくり咀嚼している。あんまり美味しそうで、なんだか見とれてしまう。
 「ちゃんと食べないと。まだまだ若いんだから」
 若くなんかないですよ。社会人になってもう10年近く、とっくに30の坂は超えた。もう二度と色恋沙汰には無縁だな、と思った30過ぎたばかりの時に、彼に出会った。4つ年下の彼。年下だと思って油断したのがよくなかったのかな。
 「油断?」
 ただの身体の関係だと思った。性欲のあり余った二十代の若造が、それなりに経験のある年上の女を、はけ口にしてるだけだと思った。私にもそれが心地よかった。利害関係だけでつながっている、獣の関係だと思っていた。
 「身体の心地よさって、心を癒すからねぇ」
 すっかり枯れた感じのおばあちゃんが、さらりと言うと、生々しくなくていい。冷たいローストビーフを噛みしめると、じわっとにじみ出る肉汁のような滋味。
 「男の人に抱きしめられるのって、心地よいからねぇ」
 そうだ。あの心地よさから、お互い離れられなくなった。お互いの胸のぬくもり重ねて、身体の中で一番熱くなったところを一つにして、しっかり絡み合っているあの心地よさ。頭の中の色んな声のざわめきが止んで、逆に身体の芯だけが熱くなる。だめだ、もっと考えないと。身体の欲求に任せてしまったから、今の混乱があるんじゃないか。私には守るべきものがあるのに。
 「何を守っているの?」
 何を?
 「素直に抱きしめられていればいいのに。そんな幸福が、目の前にあるのに」
 ダメなんです。それじゃダメなんです。
 視界がぼやける。気が付いたら、涙がぽろぽろ頬を伝っていた。ダメなんだ。私はもっとしっかりしないといけないんだ。身体の欲求に流されちゃだめだ。彼の優しさにほだされちゃダメだ。私には守らないといけないものがあるのに。この左肩の痛みと共に、一生抱えていけないものがあるのに。
 「何を守っているの?」もう一度問われる。何を?
 忘れない、絶対に忘れない。あの時そう叫んだ自分。一生忘れない、二度と他の人のことを好きになんかならない。一生、あなたのことを愛し続けると、叫んだ自分。
 あの人のこと。あの人と過ごした、西の街での学生生活。あの人の笑顔、今の彼とは全然違う。あの人はもっと太ってたな。ぽっちゃりしてて、なんだかふわふわしてて、マシュマロマンみたいな人だった。ラーメンが大好きで、いいラーメン屋さんを見つけると、二人で行列に並びに行って、2時間も待って食べた。私はいつもそんなに食べられなくて、私の分を半分と、自分の分、1.5人前が彼の分って決まってた。柔らかくって大きな手のひら。くるっと丸い目で、ぬいぐるみの熊さんみたい。そして本当にぬいぐるみの熊さんみたいに、優しい人。あったかくて、広い胸。その温もり。
 そして、あの日の記憶。絶対に忘れられない、あの日の記憶。
 二限からの授業だから、と、二人して少し遅い時間の電車に乗った。二人で、大阪行きの先頭車両に乗って、手をつないで、半分うとうとと居眠りをしていた。だからその瞬間、何が起こったのか、全然分からなかった。身体が急に宙に浮いて、車両の中のありとあらゆるものが、洗濯機の中にいるみたいにぐしゃぐしゃにかき回されるのが見えた。私の身体も洗濯物の一つみたいに、人の身体と社内の物とまぜこぜに、巨大な暴力に無秩序に振り回されて、体中に椅子やら鞄やら他の人の身体やらわけのわからない諸々がぶつかってきた。気が付いたら、彼の手を離していた。なんで離してしまったんだろう。あそこで手を離してなければ、ちゃんとあの人がこっちにいる間に、伝えられた言葉があったかもしれないのに。私もあの人と一緒に、死ねたかもしれないのに。
 意識が戻った時、私はもう、線路の脇に寝かされて、救急車を待っている怪我人の間にいた。後から、左肩の骨が折れていると言われたけど、それに気づかないくらい体中がギリギリ痛かった。でも、そんな痛みよりも何よりも、焼けつくような焦燥感で、止める声も聞かずに立ち上がった。あの人はどこ。私とつないでいた手を離して、あの人はどこに行ったの。
 頭が痛くなるようなガソリンの臭いが立ち込める中、レスキュー隊員が何人も群がっている現場の隅で、あの人の身体はもう毛布にくるまれて、まだがれきの下敷きになっていた。生きている人の救出を優先して、救う見込みのない、命のない人にかけられた毛布。その毛布から出た手のひらを、かろうじて動く私の右手で握ったら、まだ温かかった。身体の痛みよりも激しい痛みが全身を襲って、ガタガタ震えが止まらなくなって、獣みたいに叫んだ。あの人の名前を叫んだ。意味もなく、ごめんなさいと叫んだ。私だけ生き残ってしまった。あなたと一緒に行けなくて、一緒にいてあげられなくて、ごめんなさい。ごめんなさい。
 彼を含めて、100人以上の人が、あの脱線事故で命を落とした。そして奇跡的に肩の骨折だけで助かった私を含めて、たくさんの人が、一生癒されない心の傷を負った。西の街から東京に逃げて、もう10年以上たつ今になっても、まだ体中で思い出す。この全身が覚えている。あの痛み。あの人の手のひらのぬくもり。あの時のガソリンの臭い。
 「人間は足があって、動き回るから、色んな目に会うのね。木みたいに、同じところに根を生やして、じっと動かないでいても、それなりに色んなことがあるけれど」
 あの人のことを忘れちゃいけないの。今の心地よさに酔って、今の彼が見せてくれる未来に溺れて、あの人のことを忘れてしまったらいけないの。あの人と過ごしたあの日々を覚えているのは私だけなのに。私が忘れてしまったら、あの人との時間は、この世から消えてしまうのに。
 「彼は知ってるの?その人のこと?」
 知ってる。付き合い始めてすぐに話した。彼は猛烈に焼きもちを焼いた。死人は無敵だ、戦いようがないって、悔しそうに泣いた。
 「ならもう、その人は、彼の中にも生きているのね」
 生きている?
 「命は自分の思いを伝えようとするから。あなたのその人への思いは、あなたの周りにいる人にいつのまにか伝わっていく。風に乗って飛ばされる花粉のように、たんぽぽの種子のように、あなたの心から周りの人の心へ飛んで、そこにしっかりと根を生やす」
 頭の中に、鮮やかな色彩が広がる。私の思い。あの人の思い出。藤色をした私の思いが、私の身体からゆらゆらと立ち上り、風にのってふうわりと私の周りに滲み出していく。そんな風にして、あの人は私を媒介に、今も、この時代を生きているのだと。
 「そう思えれば、あなたも前を向いて、幸せになれる」
 そう思って、幸せになっていいんだろうか。
 「私もね、長く連れ添った連れ合いに逝かれた時は悲しかったけど、でもねぇ、翌日にはやっぱりお腹は空くの。春になれば浮き浮きして、身体は恋を歌うのよ。命は前に進もうとする。そして自分の中の思いを空に飛ばすの。逝ってしまった人の記憶。喜び、悲しみ、苦しみ、過ぎ去った日々の輝く思いを、春色の風の中に飛ばして、子や孫に伝えようとするのよ。それが命というものだから」
 分かるけど、でも、私はそんな風に、あの人のことを思いきれるだろうか。彼は、私の中のあの人を、受け入れてくれるんだろうか。
 「受け入れてるから、結婚まで申し込まれたんでしょうが」
 そりゃそうだけど・・・
 生まれたままの姿で抱き合っている時、私の左肩の古傷に、そっと触れる彼の指先を思い出す。その傷跡の下で、いまも疼いているものを、柔らかく包み込んでくれる温もり。
 お皿に残ったサラダリーフをフォークで弄ぶ。お腹は満たされた。頭の中のパニック状態も、なんとか落ち着いている。そろそろ行かないと。
 前を向き直ると、おばあさんはいない。え?
 テーブルの上に、色鮮やかな藤の花がひと房、置かれている。それだけ。
 なんだか夢でも見ていたよう。
 そういえば、すぐ近くに、国領神社の藤棚があったな。千年乃藤。今が見ごろだ。
 彼にここに来てもらおうか。そう思った。彼と一緒に、国領神社に行こうか。
 頭上を覆う薄紫の雲のような、あの見事な藤棚を、彼と一緒に見上げてみたい。私の中にまだもやもやと残る、あの人への思いを伝えたい。
 あの人は許してくれるだろうか。私が別の人と前を向いても、許してくれるだろうか。
 「許してくれるわよ。春だもの」
 藤の房を手に取ると、さっきのおばあさんの声が、頭の中に響いた気がした。

<国領神社 千年乃藤>
 国領神社のご神木である千年乃藤は、以前は大人二抱えもある巨大な欅の木にからまり、二つの巨木が一体となって、現在の甲州街道まで枝を伸ばし、藤の花を咲かせ、実をならしていた。
 しかしその欅の木に雷が落ち、欅は枯死、そのまま倒木の恐れが出てきたため、藤の木だけは延命させようと、欅の木の代わりとなる柱を立て、鉄骨製の藤棚を整備したのが昭和47年。
 以来、藤の木はさらに延び、茂り、毎年4月下旬から5月の上旬の連休の頃になると、藤棚一面に薄紫色の花房を付け、周囲に甘い花の香りを漂わせる。
 その生命力の強さから、延命・子孫反映・商売繁盛、万物繁盛に通じるとし、また、「フジ」の字が不二・無事に通じるとして、災厄を防ぎ守るご神木として、敬い崇められている。

(了)