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2014-08-20

かつては絵を描いていた(6)

ペン大の初めての授業は2004年の2月で、場所は菊地さんがバンドでよく使う新宿の音楽練習スタジオだった。

スタジオ近くの地下鉄の出入口で待ち合わせをすることになっていて、それらしき人がすでに何人か集まり始めていたところに、向こうから白い軽そうなコートを着たその人はスタスタとこちらに近づいてきて、ぼくに「ペン大のかた?」と聞いた。

そうです、と答えると彼は周りを見回して、じゃあこっちなので、とぼくらを引率してそのまま信号を渡り、練習スタジオ兼ペン大の教室に歩いて向かった。

その年の4月から菊地さんは大谷能生さんと東京大学の駒場校で1年間のジャズ講義を行うようになって、彼のサイトの日記を読むと学生以外でもモグれるみたいなことが暗示されていたから、ペン大に入ったことで気が大きくなっていたぼくは初回の講義に行ってみた。

自分が東大の構内に足を踏み入れることがあるとは想像したこともなかったし、それを望んだこともなかったけれど、それ以前にすでに28から29才になろうとしている自分がそんなところをウロウロしていたら、目立ってしまってたちまち守衛の人などにつまみ出されるのではないかと、とにかくその初回ほど緊張したことはなかった。

授業の2日ほど前に、一度下見で大学の近くまで行ってみた。開始時刻に遅れたくなかったから、自宅からどのぐらいの時間がかかって、乗り換えはどこを使って、とかまるで事前にデートコースを下見する若者のようだったし、実際そのようなものだった。

当日は早く着きすぎて教室はまだ開いておらず、近くにもそれらしい人は誰もいなかった。学内を一周散歩してから戻ってみると、すでにドアの前には何十人も並んでいて、「学生さんはこちらの列、そうでない方はこちらの列」などと誘導すら始まっており、ぼくは「そうでない方の列」に並んだ。

講義は毎週木曜の夕方に行われ、それに出るとバイトしていたレストランの夜の営業に間に合わないから、店長はなるべく木曜を外してもらうか、入れる場合でも遅い時間にしてもらうよう頼んだ。
それが半年、そして1年つづき、ぼくはほとんどの授業に出席した。

最後の授業後には懇親会が企画され、構内の隅の一部屋で簡素な宴会のようなことをした。誰とどんな話をしたのかは覚えていないが、その部屋の非日常的なまでに白く明るかった様子をよく覚えている。

二人のジャズ講義は好評だったようで、翌2005年度の前期も講義が続けられた。
前年度はジャズの歴史全般のようなことを扱ったけど、2年目にはマイルス・デイヴィス一人を扱った。
そのどちらもが書籍化され、前者は『東京大学のアルバート・アイラー』、後者は『M/D』という名前で世に出された。

最後の授業が2005年の7月11日に行われ、ぼくは教室前方の教壇脇にあるドア(校舎内の廊下に出るのではなく外に直接出られるドア)から外に出ながら、大谷さんと短い会話を交わした。授業の前にはまだ降っていた雨がやんで、しかしあたりは台風直前のように不穏な光と風に覆われていて、タイル貼りの地面には濡れた土と葉っぱと小枝のようなものが張りついて汚れて見えた。

大谷さんにおつかれさまでした、面白かったです、みたいなことを言ったら、月末にも渋谷でイベントやるんだよ、良かったら来てよ、みたいな話になって、知ってますよ、フランス革命でしょ(笑)バイトが空いてたら行きますから、みたいな話をしたのだと思う。

2週間後の7/28に渋谷のアップリンクファクトリーで『大谷能生のフランス革命』というイベントが行われて、これは大谷さんがホスト役で同世代の表現者をゲストに招き、対談をしたり共にパフォーマンスをしたりする、というイベントの第1回だった。
この時点で何回続けるつもりだったのかはわからないが、お客さんが来てくれたら(赤字にならなければ)続けます、みたいな感じだったと思う。

第1回のゲストは映画監督の冨永昌敬さんで、終わってから大谷さんに「面白かったです」と言ったら「いやあ、いっぱいいっぱいですよ」と言って笑った。



前年に行われた東大のジャズ講義が書籍化されることになって、ぼくはその巻末に掲載される対談の進行役と、その文字起こしをすることになった。

二人の東大講義はモグリが半ば公認であったことも特徴のひとつだったが、もうひとつ、「そっくりモグラ」というハンドルネームの人が管理するteacup掲示板に同氏が作成した講義録が毎週掲示されることも大きな特徴で、生徒は(その多くがモグリや教室に来れない人たちだったろうが)そこで、東大とはまた別の「講義」を受けていた。

ぼくももちろんそこに入り浸っていて、やがて自分でもそれ(講義録)を作りたいなと思った。

そっくりモグラさんの講義録は彼なりに内容を編集したものだったから、ぼくはノーカットで二人の発言を文字に起こせばそれぞれの良さで補完し合えるかもしれないと思った。
いや、おそらくは最初からそのようなことを思ったのではなくて、最初はそっくりモグラさんが作ったものを見やすくHTMLにレイアウトし直そうと考えただけだったかもしれない。
ぼくはジオシティーズでHTMLのサイトを少し作っていたから、それを応用してそこにそんな内容を載せようと思ったのだ。
そしてそのコピペの際に、少しだけ自分なりの補完をしようと思ったのだ。最初はたぶんそんなことから始まった。

そっくりモグラさんの許可をとって始めたその作業(コピペしたテキストのHTML化+わずかな補完)だったが、回を重ねるごとにぼくの補完の量は増していき、初年の9月を迎える頃には土台の部分から自分で起こすようになっていたと思う。
その後の仕事にも通じて言えることだけれど、文字起こしというのは「途中まで別の人にやらせて仕上げを自分で」ということが非常にやりづらい。
職業としてそれをやっている人にとってはそれも自然にできるのかもしれないが、ぼくにとっては文字起こしという作業は音楽を奏でることに近くて、最初に作り始めたメロディは最後まで影響するからその最初の部分を他人にやらせてしまえば最後まで他人が作ったメロディと自分の中で生まれたメロディとぶつかって非常にやりにくいことになる。

だから文字起こしは最初から自分でやった方が結局ラクで、その後も可能なかぎりはすべて自分でやっているし、他人が作った土台を使わなければいけないときも最終的にはほとんどその原型をとどめないぐらい細かく作り直してしまっている。

すべての東大講義が終わる頃には、そのような次第でぼくとそっくりモグラさんによる2パターンの文字起こしがすでに仕上がっているという状況だったから、大谷さんから書籍化するときの土台にぼくらのそれを使いたいんだけど、と話があったときにはもちろんぜひ使ってくださいと答えた。
そしてそのとき一緒に、「巻末で菊地さんと対談やるんだけど、その進行役やってくれない」みたいな話をもらって、「ああ、もちろん」みたいになったのだと思う。

率直な印象としては「え、俺? いいんですか、シロウトですよ?」という感じだったけど(やりたくないという意味ではなく、俺ごときでいいのかなという不安や驚き)、大谷さん的には「いやできるでしょ、文字起こしもしてるじゃん、ペン大で菊地さんのことも知ってるでしょ」みたいな論理があったのかもしれない。
だとすればまったくそのとおりだし、辞退する理由なんてどこにもないし、辞退しないでヘラヘラ引き受ける自分で良かった。

後からわかったことだけど、一方のそっくりモグラさんは注釈作成や資料提供を受け持っていて、どう考えてもそれ、そっくりモグラさんの方が大変だったよな、と思うけど知識量や能力から考えても確かにそれは妥当な割り振りだった。

対談は新宿の焼き肉屋で行われたが、その日は菊地さんが直前まで京橋の映画美学校で音楽理論の授業をしていたから、ぼくは大谷さんと教室脇のロビーで待ち合わせをして、そのまま菊地さんと合流して新宿まで行くことになった。

ぼくは東大講義で毎回使っていた録音機能の付いたMDウォークマンと、バックアップのためにもう一台、そのために母から借りた同様のMDウォークマンをスタンバイして、それから入念にシミュレーションしたノートと、いざというときに使うかもしれない資料を山のように抱えていた。
会場に着くとすでに関係者が何人か待ち構えていて、それは東大講義の打ち上げの一種でもあったのだろうか、皆は好きに飲み食いしていたけど、ぼくは酔っ払うのと食べているうちに適切な進行のタイミングを逃すことが怖くてほとんど飲まず食わずで最後まで過ごした。

用意していた質問をしたりしなかったりしながら、それでも対談は何となくいい感じに終わり、ようやくひと息つけるかと思った頃には終電間際になっていたから先に帰ることにした。「支払いはどうすれば?」と菊地さんのマネージャーさんに聞いたら「ああ、いいですよ」と言われたけど、よく考えたら何も食べていないのだからそれも当然だったし、もっと考えたらそもそも菊地さんのマネージャーさんに聞くべきことだったかもわからない。

西武新宿線の沿線に住んでいたから、焼き肉屋から西武新宿駅まで歩いていかなければいけなかったけど、終電まで時間がなかったのと大雪が降っていたのとで(冬だったのだ)、氷と水が混ざったジャクジャクのアスファルトの上を大量の資料と2台のMDウォークマンを大事に抱えながら駅まで走った。
終電には何とか間に合って車内で座ることもでき、それでも混んでいる中でさっき録音したばかりのMDを確かめたら音が入っていなかった。それは普段ぼくが使っている方だったけど、祈るような気持ちでもう一台の借りた方のMDウォークマンを確認したらそっちは録れていた。

1週間程度で文字起こしと簡単な(しかし慎重に)編集を施したデータを完成させて、大谷さんに送ったらOKと言われ、それはぼくの構成をある程度生かしてもらったまま上下巻に分かれた書籍の上巻の巻末に掲載された。

人生で初めての文字起こしは2004年の東大講義で、人生で初めて自分の文字起こしを使って編集をしたのはその冬の対談だった。

同書はメディア総合研究所という会社から出版されて、それは元々菊地さんと大谷さんを結びつけた人が編集者として勤めているから、という縁もあったようだけど、数年後には文藝春秋から文庫化され、しかしそのときにはその対談は外されてしまった。

2014-08-10

かつては絵を描いていた(5)

フジロックのオレンジコート・ステージに行ったのは前日にそこで見た「勝手にしやがれ」というバンドがすごく良かったからで、今日はそこで何をやってるかな、と興味が向いたからだったけど、行ってみるとまだ次にやるバンドのサウンドチェック中で、大所帯のメンバーがすでにステージ上には居たけれど、パフォーマンスが始まるまでにはまだしばらくかかりそうだった。

ぼくはそのまま「じゃあ次のステージに」と思ってその場を離れかけたけど、どうもステージ中央でふらふらとしている男性が気になって、何となく移動しきれずにいた。
男性はまだサウンドチェックの途中なのにひっきりなしに観客に向かってマイクで何かをしゃべりかけては、途中でそれをやめてけらけら笑ったりしていて、客のほうもそれを楽しんでいるというか、しょうがねえなーみたいな感じで野次ったりただ見ていたりしているようだった。

男性は客と話していないときは急にリハーサルのようなことを始めたりもして、それに合わせてバンドもバッと音を出したりするのだけれど、イントロからしばらく演奏するとフゥッとやめてまたしばらくざわざわと、誰もよくはわかってはいない何かをみんなでただ待っているだけ、みたいな時間に逆戻りしてそれが何度もくり返された。

そもそも彼らのスタート時間はすでに回っているのに、いつまでもサウンドチェックだかリハーサルだか雑談だかわからない時が過ぎていく、その効率の悪さというか「ゴドーを待ちながら」的なじりじりする状況を半ば不快に味わいながら、それにしてもなんでこの人は、中心メンバーであるらしいにもかかわらず演奏中はずっと客に背を向けているのだろう、ということを不思議に思っていた。

通常バンドの中心メンバーというのは客席の方を向いて客からのエネルギーを一身に受けとめ、跳ね返し、それをくり返す中で何かを生み出していく、あるいはそうしているように見せかけていくことが役割であるはずだが、その人はそのように強烈なカリスマ性を発揮するとかいうこともなく、いつの間にかそこにまぎれ込んでしまったトランプのジョーカーのような風合いで、ただ場を撹乱しているだけのように見えた。

とくに理解できなかったのは、いわゆるロックスター的ではないそのあり方を客が普通に受け入れているらしいということで、ぼくには彼の魅力がすぐにはわからなかったけれど、客が彼のどこに魅力を感じているのか、という点には興味を惹かれたし、そのわからなさには魅力を感じていたと言えるかもしれない。

そのまましばらく演奏が始まるのを待っていたが、結局いくら経っても本番は始まらず、また時々鳴らされる一部のフレーズも自分の趣味の範疇なのかどうか判断がつかなかったから、ぼくは本来の彼らのパフォーマンスを見る前に別の場所へ移動した。

苗場から東京へ戻って何日かしたとき、吉祥寺のタワーレコードに入ったらそのバンドの2ndアルバムが売っていて、手書きのポップには「鬼才・菊地成孔がどうしたこうした」と書かれていた。
「菊地成」の後をどう読めばいいのかはわからなかったが、それがあのフジロックで見た奇妙なバンドの新譜であることはわかったし、彼と彼のバンド名を覚えることはできた。

家に帰ってインターネットを使い、彼の名前で検索をしてみた。ぼくがインターネットに繋がったのはその数ヶ月前の5月頃、父が使っていたVAIOをもう使わないからと譲ってくれたからで、「お前もこういうの、そろそろわかっといた方がいいだろ」と言われたのだったが、そのときにはとくに興味もなくて、というか回線を繋げたりするのがあまりにも大変でしばらく放置していたのだが、それもようやく「やろうと思えば繋げられる。検索もできる」みたいになったのでそれを使ってみたのだった。

インターネットを使い始めた最初の頃というのは「何でもできる、どこにでもアクセスできる」みたいな広大な希望に満ちた未来が待っているように思われたものの、いざWindowsを起動してみると「そもそも俺、何が好きなんだっけ?」という難問にぶつかって、結局何もしないでVAIOのフタを閉じる、みたいなことが何度もあった。

この時にはようやくその「調べたいこと」ができたわけで、そうして辿りついた彼のサイトには日記が掲載されていて、白と黒と膨大なテキストと奇妙な句読点とで構成されたそのWebサイトを訪問することが数少ないネットの日課になった。

それに前後して、ぼくは大学の同級生の一人にHTMLの書き方を教えてもらって、自分の日記をインターネットに公開し始めた。
教えてくれたのはWebの会社でバイトをしていた友達で、彼女はスケルトンのiMacを使って自分のWebサイトを公開してもいた。

たぶん最初から「HTMLを教えてもらいたい」と頼んだのではなくて、「自分のホームページを作りたい」とか何とか言ったのではなかったか。それはぼくからしたらものすごく恥ずかしい告白のようだったが、それを聞いた彼女は手元にあったチラシの裏にペンで基本的なHTMLタグをいくつか書きながら、その構造を簡単に解説し、どういう会社とどういう契約をすればそれが公開できるか、といったことまで教えてくれた。

ぼくが彼女にそれを教えてもらった場所は今で言うシェアハウスのようなところで、住んでいるのは皆ぼくの同級生だった。メンバーは3〜4人で、みな油絵学科を卒業し、中にはまだ大学院に通っている人もいたから、アトリエのスペースを確保できて、家賃が折半できるその家は誰にとっても都合が良かった。

「そのホームページとかいうのを作って、それでどうしたいの?」なんてもし質問されていたら何も答えられなかったはずだが、実際に聞かれたかどうか、覚えていない。
ただぼくはとにかくそれを作って、何でもいいから思ったことを書いて、それを自分の痕跡としてネットに残したいとは思っていて、それを初めてやったのが2003年の8月だった。

最初はレンタルサーバーの会社みたいなところと契約して3ヶ月ぐらい試していたけど、その内に自分のやりたいことはジオシティーズという無料サービスを使えば充分できるということがわかり、そこは解約してジオシティーズで手書きのHTMLのサイトを公開するようになった。

反響があってもなくても、考えたことを「自分の知らない誰かが見るかもしれないどこか」に公開できるということはそれだけで心愉しいことだった。イタリアンレストランのバイトに行く直前までそれをやって、終わってからもそれをやって、それを何日も続けた。



2003年のインターネットは菊地成孔とよしもとばななと高山なおみの日記を毎日のように読み、その合間に自分の日記を書いた。

2004年の1月にいつものように菊地さんの日記を読んでいたら、それまでも時々そこで話題になっていた「ペンギン音楽大学」という彼の音楽私塾の生徒が募集されていた。

「ペンギン音楽大学」には音楽理論科とサックス科の2つがあって、音楽理論の方には初級コースがあり、そこに入るために必要なものはペンと紙だけで経験は不要だった。
定員があり、応募するためにはいろいろと細かい質問に答えなければならなかったが、僕には資格があったから(つまり誰にでもそれはあった)、とりあえずすべて書き込んでメールで申し込んだ。

そのときに初めて知った重要な知見は、「もしもその人の近くに合法的にずっと居たいと思ったら、生徒になればいい」ということだった。ぼくは菊地さんの大ファンというのでもストーカー的にその私生活を知りたいと思っていたのでもなかったけど、彼が普段考えていることとか、何を見て何を読んで何を言っているか、とかそういうことを知りたいと思っていた。でも普通ならそんな機会はなくて、せいぜいライブに通うとかあるいはサイン会とかトークショーがあればそれを近くで聞くだとか(そのためには早い時間から場所をとる必要もある)しかないわけだけど、そうしてようやく手に入れたチャンスはほんの数秒から数分に過ぎなくて、そんな時間でわかることなんかそうそうない。

しかしひとたび「生徒」になったなら、ぼくは彼の「お客さん」になり、もちろん客だからといって傲慢な態度や非常識な接し方が許されるわけではないけれど、少なくともそれまで常識的に考えられたステージの上と下、あるいは「1対他」のような非対称的な関係ではなく、ある意味で対等な関係になることができ、それをある程度の時間とお金で手にすることができた。

アーティストを支えるファンはたしかに「客」で、有料の学校(や私塾)における生徒もたしかに「客」だが、そこには深く大きな違いがあって、これまでぼくはそのことをあまりうまく言語化できずに(せずに)いたが、今こうして書きながら考えると、前者における客(ファン)はアーティストにとって必須の存在ではないが、後者の関係における客(生徒)は必須であるとは言えるかもしれない。
アーティストにとってのファンが無価値であるということではもちろんないが、アーティストの創作力というものがファンの存在を前提としたものではないのに対し、教師と生徒というのはそもそもの成り立ちからしてその「関係」が前提にあり、どちらが欠けてもそれは成り立たなくなってしまう。

その時点でぼくがそこまで考えていたのか、といえばまったくそんなことはなかったが、このチャンスの波を逃しちゃいけない、みたいなことはうっすら思ったんじゃないかとは思う。

と言いつつも、実際に申し込むまでかなり悩んだことは覚えていて、なぜならそこにはチャンスにくっついた巨大なリスク(というか危険性)もあったからだ。
菊地さんはぼくにとってネットの「向こう側」の人であり、フジロックのステージの「上の人」であり、ぼくはそのときステージを「下から見る人」であり、ネットの「こちら側」にいた。
ぼくは「こちら側」にいるうちは自分だけのルールや判断材料、判断力をもってあれもこれも好きなようにさばいていればよかったが、向こう側にアクセスするということは、向こう側の価値観で自分自身をジャッジしなければならなくなるかもしれず、言い換えればもう「安全ではなくなる」可能性があった。
これまでとは別の、もうオレオレルールの中だけでは過ごせないかもしれないという不安は強烈で、わかりやすく言えばまず何よりも「入学を断られる可能性」を受け入れなければならなかった。

もし応募しても、不合格だと言われたらどうしよう? という恐怖は根深くて、それをグッと乗り超えるまでには少なからぬ時間を要した。

ぼくが使っていたネットの回線はPHSのカードみたいなものをVAIOに突き刺す形式のやつで、いわゆる無線LANとかいうものでもなければ、もちろん電話線から直接コードを繋げるようなものでもなくて、だからその回線の(というか電波の)調子がおかしければまともにブラウザを開くこともできなかったが、まさにその応募メールを送ろう、と心を決めたときに家の近くの電信柱の工事が始まり、家からネットが繋がらなくなったからぼくはVAIOを持って近くの神社の境内まで行って、石段に腰を下ろしてそこで菊地さん宛のメールを書いた。

年末年始に大雪が降って、神社の周りにはまだ雪がたくさん残っていたし、その日もすごく寒かったからコートを着込んで手袋をはめて、キーボードを打つ瞬間だけ手袋を外した。
恐れていたことだが、掃除に回ってきた宮司さんに見つかって、しかし知り合いではあったから「こんにちは」とだけ言って、書きかけの部分を仕上げて送信した。

家に戻ってしばらくすると回線が復調し、ぼくが送信してから50分後に菊地さんから返信があって、入学が許可されていた。

2014-08-09

かつては絵を描いていた(4)

初めてフジロックに行ったのは2000年の夏で、フジロックはそれまでの3年にわたって富士(というか山梨)、東京、苗場と場所を毎年移し、その年は4回めにしてようやく苗場に定着しようかというときでもあった。

僕は大学を卒業したばかりで、ペンキ塗りのバイトを始めたところでもあったけど、まださほどがっつり現場に入っているわけでもなかったのと、そのちょっと前に読んだロッキンオン・ジャパンで紹介されていたShing02がフジロックに出る、というのを見て「これは行かなきゃ」と思ったのだった。

ロッキンオン・ジャパンのその記事はインタビューでも特集でもなく、ただ『緑黄色人種』というすごいアルバムがあるぞ、みたいな2ページだけの印象批評のようなものだったけど、ぼくは何だか衝撃を受けてしまい、それを見て買ったCDがまた特異でやはりすごいと感じ、これを間近で見ることができるならそのためだけに苗場でもどこでも行くわ、みたいになって見知らぬ人たちとの相部屋前提の泊まり込みのバスツアーに申し込んだのだった。

後から知ったところでは、Shing02はフジロックの半月ほど後に新宿リキッドルームで開催されたオールナイトイベントにも出演したので、べつに苗場まで行かなくても彼を見ることはできたのだったが、後から知ったので仕方なかったし、その新宿の方にも行った。

その年のフジロックにとりたてて感動したとか開放感を味わったとかいうことはなかったが、それでもそこにしかない空気や土や植物の露の匂いみたいなものはあって、その匂いというのはそこに行かなければ思い出せないものとして挙げられる。

翌年(2001年)と1年飛ばして2003年にもフジロックに行ったけど、それらのときはどちらもテントをかついで前夜祭も含め3〜4泊したのだった。初年のホテルの相部屋ツアーという参加スタイルはけっして悪いものではなかったけれど、やはり門限や交通機関を気にしながら早めに会場を後にしなければならないのが残念だったから、会場のすぐ脇にテントを張ってそこから「通える」ということが、そこではかけがえのないメリットだと判断したのだった。

テント生活も貴重な経験だったとは言えるが、またやりたいかと聞かれたら「それはない」と答えるだろう。最後に行った年の最後の夜には体中がくたびれきって、シャワーもろくに浴びられず、眠ろうにも周りのテントから聞こえる叫声はやまず「早く明日になって、すべて終わってほしい」とそもそも呼ばれて行ったわけでもないのにまるで何かの被害に巻き込まれた者のように感じてすらいた。

フジロックで唯一良い記憶として残っているのは、2001年のエミネムのステージが始まる直前、その一つ前のTOOLを近くで見たいと思って前に進むうちにグリーンステージ真正面の2列目まで来てしまい、TOOLの演奏が終わるとともに奇妙な客の入れ替えが生じ、誰が前に行きたいのか、後ろに行きたいのかもよくわからないような混沌に飲まれるうちに最前列になってしまい、そのままフェンスにしがみついていたのだけど、数時間前から水分を補給していなかったからノドが渇ききって、これはちょっとまずいな・・と朦朧としていたところ、目の前の通路にスタッフが一人、水が半分ほど入ったペットボトルを持って歩いていたので「その水くれませんか」と声をかけたらそのままフラッと奥に戻って一杯になるまで水を足したペットボトルを持ってきて手渡してくれたことだった。
ぼくは御礼を言って一気にそれを飲み、そのペットボトルを持ち帰って何年も持っていた。



2000年、2001年と続けて行ったのに、なぜ2002年は飛ばして2003年にまた行ったのか、その頃の記憶がまったくない。
2001年の夏はディズニーシーの開園直前だったからそれなりに忙しかったはずだがエミネムを見ていたし、その翌年は逆にそれほど忙しくはなかったはずなのに行っていない。

2002年の2月の終わりに、ぼくは近所のイタリアン・レストランでアルバイトを始めたはずだ。
その頃はまだペンキ塗りとのかけもちだったが、徐々にそれも難しくなり、やがてイタリアンだけに絞られることになった。

そのイタリアン・レストランでアルバイトをしようと思った一番の理由は家が近かったことだが、表に貼られたバイト募集の紙に「28才まで」と書かれていたこともきっかけにはなった。
ぼくはもうすぐ27才になろうとしていて、「28才まで」という制限の外側に近づいていた。

電話をかけた翌週に面接が設定され、さらにその翌週から初歩的な仕事が始まった。
お客さんの注文を紙の伝票に略記で書きつけながら復唱し、レジで会計をしながら新たに入ってきた客を誘導し、キッチンでは什器の拭き掃除や素材の下ごしらえなどをした。やることすべてが初めてのことで、後から振り返ればこの仕事で得たものは有用だった。

リアルな対人関係でどのような時にどのような言葉を使うべきなのか、人はどんな表情や声色で接すれば適切に反応してくれるのか、そういう根源的なコミュニケーションを身につけたければ厳しい飲食店ほど効果的な場所はないかもしれない。
教えてくれる人自体が料理人のコミュニティでその先輩から殴られ蹴られしながら身につけたものだから、こちらが教わるときにもある種鬼気迫った、筋金入りのところがある。

何年も後になって、なりゆきで編集者のようなことをするようになり、見ず知らずの人たちと日常的に新たなやり取りをせざるを得なくなったが、そこから追い出されもせず何とか続けていられるのはその店で他人と接する方法を知ったからだとも思う。
見ず知らずの人と「普通に」接するということは、何も考えずにできる人もいるかもしれないが、そうでない人でもくり返し練習すればできるようになる。

店では掃除やフロア(いわゆるウェイター)からトレーニングが始まって、徐々に厨房の作業をやるようになった。
アルバイトに任される「調理補助」とは「火を使わない料理」ということで、サラダの盛り付けや料理に使う食材のカット、そしてピザ生地を麺棒でのばしてソースを塗ってトッピングをするまでのピザづくりもよくやった。

よく日本そばを大きな麺棒でのばすような映像をテレビで見るけれど、ピザをのばすときにもあれに近いことをやる。僕の働いたところはミラノ風という作り方だったから麺棒を使ったけれど、これがナポリ風だと指でグイグイ押して広げていく方式になるらしい。遠心力でのばす方法(回転させながら上に飛ばしてまたキャッチするとか)もテレビではよくやっているが、それがどこ風なのかは知らない。
慣れないうちはいくら麺棒を転がしても生地がのびなくてつらかった。夏は生地が柔らかいのでまだやりやすいが、冬はいつまでも固くてそれが「のびなさ」を手伝った。

2003年のフジロックに行くために、連休をほしいと店長に申し出たときのことをほんの少しだが覚えている。
お盆や夏休みは他の学生バイトが実家に帰ったりするから簡単に休めるわけではなかったけれど(まして僕は学生ではないから代役として貴重だった)、ある程度余裕をもって前から頼んでおいたのだ。

2000年の目当てはShing02とSuper Furry Animalsで、2001年の目当てはエミネムとNew Orderだったが、2003年の目当てはフジロック自体であって目的のアーティストはいなかった。
日常がストレスに満ちていたから、それを打ち破るための新たな視点や体験を得るために、それを得られる「場所」としてのフジロックを求めたのだと思う。しかし実際には、新しい驚きのようなものはもうそこにはなくて、アーティストがこう振る舞ったらぼくらはこうやって返しますから、みたいな予定調和を振り付けのようにただなぞっては、感動ではない安心を得ているだけという気になった。それはその年のフジロックがそうだったというよりも、受像機であるところのぼくが様々な魅力の源泉を持っているはずのその場所から、そうした信号しか受信できなかったということだろう。

ではその年のフジロックから得るものは何もなかったのか、といえばそうではなく、2日目のオレンジコート・ステージにおけるDate Course Pentagon Royal Gardenの本番前のサウンドチェックをたまたま通りかかって見たことが、その後の人生を変えた。