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2014-09-19

論理を信じる

何かにホッとするとき、というのはどうやら僕の場合、「こうなるだろう」と思ったとおりに現実が再現したときで、想定通りに事態が運ばなかったり、目の前の人が言っている理屈がまったく理解できなかったりするとけっこう苦しさを感じるようだ。

このようなときに僕が自分に対して頭の中で言うことはいつも似ていて「僕は論理を信じているからな」ということだ。

そして今日あらためて、というか初めてかもしれないが、思ったのは「僕は論理を、宗教を信じるように信じているのだな」ということだった。

宗教と論理はある意味でまったく反対のものであるように僕自身は思っていたけど、こう考えるとまったく矛盾なく結びついている。

チカラAで時間Bのあいだ動くとA*Bであるところの距離Cだけ移動できるのと同じように、論理AをBだけ信じるとCの恵みを得ることができる。
AとBは別ものだが結びつくことで新たなCを生む。

水平に走るAに角度Bを付けると高さCが生まれる。動力も角度も別のものだがそれらが組み合わさるとどちらだけでも行けなかった場所に行ける。

論理は道具で、誰にでも開かれ、提供されている。それは再現性を持ち、誰が遂行しても同じ結果に至る。
信じるということは感情で、それは力であり、エネルギーであり、そこに理屈はない。理屈が不要ということではなくて、理屈の話は他ですればいい。信じるということはただそれだけの何かで、それだけであることに価値がある。信じるということは力であり、感情であり、それだけでいい何かだ。

一般に言われる宗教とはたぶん、その信じるということに様式性を持たせて、ある種洗練させたものだと言っていいのではないか。その意味で宗教とは態度であり、あり方の表明みたいなことだとも言えるだろう。

僕はだから、話を戻すと、論理を信じている、という態度を明確に表明することで、「宗教を信じるように論理を信じる」ことをしているのだと言えるかもしれない。



もちろん世の中にはわからないことの方がわかることよりずっと多く、こうなるだろう、と想定したとおりには行かないことばかりである。
しかし想定したとおりに物事が運ばない、ということは失敗でもなければ損失でもなくただそこにある事実だ。僕が生まれてここにいるのもまた成功でも失敗でもない何かであって、それに近い。

再現性の何が重要かといって、限られた人生を楽しさに満ちて生きるために、一度味わった「あの楽しさ」を様々な形で何度でも、あるいはそれ以上の強さで味わいたいと思う、その欲望を実現するために有用だと思われる点である。

ただ指をくわえて空からそれが落ちてくるのを待っているのでもなければ、闇雲にあちこちへぶつかっていくだけなのでもなく、なんらかの根拠やヒントを道標に「あの楽しさ」あるいは「まだ見ぬ喜び」みたいなものを探し、そして得るためにそれが必要なのであって、だから論理という道具が通用しない状況に遭遇するとたまらなく不安を感じるのではないか。とそう思った。

2014-09-09

言葉をゴルフにたとえると

異なる人間同士が意思を伝え合おうとした場合、言葉を共通の道具として使用することには必然性がある。

それを使わずにがっちり握手して見つめ合って、何かが伝わったかのように想像し合うことも不可能ではないが、同時期に同所にいなければ実現不可能であるという点においてそれも使いづらい方法であるとは言える。

また見つめ合ったりうなずき合ったりして得られる合意はどこまでも抽象的なもので、「今いる場所から一番近いコンビニまでの道順を聞きたい」などという時にはやはり言葉が有用である。

さらには言葉を文字に置き換えることで、時間的にも空間的にも遠く離れた誰かと交信することが可能になる。すでに死んだ人が書き残したものを読む時には相互通信を行えないが、情報を受け止めた誰かがまた別の誰かに対してその情報を送り出すことができるという意味では、継続的で有機的で建設的な側面をそれは持つと言えるだろう。

さてそのような有用な「言葉」ではあるが、負の側面も少なくはない。世界に生じている争いの発火剤にして燃料のいくらかは言葉であるとも考えられる。そしてそのようになる理由の一つに、言葉の性質が今ひとつ正しい形で理解されていないことがあるのではないかとも思う。

たとえば言葉で「犬」と言ったときに、それを聞いた(読んだ)人々の頭に浮かぶ犬はその人々の数だけあるはずである。
ある人の頭には柴犬が浮かび、そうでない誰かの頭にはシェパードが浮かぶかもしれない。犬種が同じでも大きさや色、座っているのか立っているのか、その表情までを含めたらその「犬」が完全に一致することはない。

一方で「犬」を想像しようというときに「ワニ」を思い浮かべる人はいない。つまり「犬」という言葉がこのときに何をやっているのかというと、「少なくともワニや猫やノコギリや自転車ではない、よく犬と呼ばれるようなそれ」という曖昧な領域を示しており、さらに言えば、この時により重要なことは「言葉がその曖昧な領域を指し示している」ということではなく、その前の「少なくともワニや猫やノコギリや自転車ではない」ということの方である。

これを言い直すと、言葉がやっているのは「何らかの対象そのものを示す」ことではなく、「いろいろな対象が考えられる中で、大体どの方向を見るべきかを示す」ことであり、つまり言葉が示しているのは「特定の点や領域」ではなく、「大体あっちの方」というような『方向』である。

言葉が特定の対象と1対1の関係にあると考えてしまうと、上記の「犬」がそうであったように、実際には異なる人間同士の頭の中で一つの言葉から別の対象が生成されているため、それを一致した物として扱わなければならず、いろいろと問題が生じやすい。

しかしそうではなく、言葉はたんに「大体あっちの方」という、あるいは「少なくとも他のアサッテな方向ではないコチラの方向」という、『方向』を示すものに過ぎないという前提を持つことができれば、我々はより厳密に特定の対象を共有しようと思ったときに、もっと深く言葉や対話を重ねていこうと思えてもう少し平和な世界を見ることができるかもしれない。

この経過のありようは、ゴルフに似ている。狙うピンは一つに定められているが、1回で言い当てることは不可能に近い。ティーショットから何打も打って少しずつ目的に近づいて、グリーン上でもまだ何度もカップの脇を右へ左へと行き過ぎながら、徐々に「もともと言いたかったのはどういうことか」という対象を追い詰めていくことは我々が言葉を通してやっていることに近い。

最初の大きな(そして最もピンから遠い)一打目の落ちた箇所だけを見て「ああこの人は、こういうことが言いたいのか」と思ってしまうことは、思った側にも言葉を放った側にも不幸である。
そうではなく、その発言者が「どの場所から・どの方向に向けて・どの程度の力加減で」その言葉を放ったのかを見なければならない。それを見ることにより、「実際にボールが落ちたのはここだけれど、本当に言いたかったのはこういうことかな」と想像しやすくなる。

人は多くの場合、それを自然にやっているだろうが、ときに行き違いが起きるのは、そうした想像が成されていない、ボールが落ちた場所だけを問題にして対話をしているからではないかと感じる。

ぼくはこのように書く文章の多くが長くなる傾向にあるが、それは元々言いたかったことをなるべく厳密に指し示すために、言葉という矢印の大きいものや小さいもの、北を向いているものや東を向いているものをいくつも様々に組み合わせながら書いているからで、これはパー5のホールで何十打も費やしてしまう趣味のゴルファーの姿を彷彿させる。

プロの文章家というのはこれをより短く、適度な打数でまとめられる人のことで、たとえば1行で勝負するコピーライターなどはつねにホールインワンを狙っているとも言える。

いわゆる推敲という作業は、最初は50打もかかったパー5のホールを何度もやり直すことで、いかに少ない打数で、他の人からも追いやすい行程を通してカップインできるかを突き詰めていく作業であり、これをしていない文章は途中で森に入ったり池に入ったり逆向きに進んだり隣のホールに行ったりと複雑怪奇な行程をすべて辿ってみせるから、傍から見ると「そもそも何を言いたいのかわからない」文章ということになる。

しかしここで言いたいことは、そのようなわかりづらい文章が悪いということではなく、順番としてはつねに「わかりづらい長い文章(多くの打数を費やしたもの)」→「わかりやすい簡潔な文章(短い打数でまとめたもの)」という不可逆の流れがあるということで、つねに初めから短い文章で言いたいことを言えるという人はいない。

にもかかわらず、世間では時折、人はやろうと思えば初めから簡潔な言葉の表現で元々言いたかったことを言い当てられると考えられているふしがあると思われる。「それは単に人間個別の能力の問題であって、本来ある程度の知識や経験があればそれが出来るのは当然」という前提が少なからず浸透しているように思われる。

そしてまた、そのことが理由になって、実際には「大体の方向」を示しているに過ぎない言葉を取り上げては「誰々はこんなことを言っていた」と、文脈(どの場所からどのぐらいの力でどの方向に向けて放った一打だったのかという前提的な情報)を無視した争いのたぐいが起きがちであるように思う。

実際には言葉は、しつこく使い込めばそれなりに役立つ道具ではあるが、適当に触ってもなかなか期待どおりには働かない、思い通りには動作してくれない道具であるということがもう少し広く共有されていると、今生じているいくつかの不一致も多少は軽減されるのではないかと思うのだけど。

2014-08-24

雪道をゆく

降り続ける雪の中、任意の地点AからBへ移動すると、雪の積もった地面には足跡がつき、その連なりが道になる。
B地点からA地点への帰り道、同じ足跡を辿れば道はさらに深くなり、周りの積もった部分との差は大きくなる。

翌日も、その翌日も同じ軌跡をたどることで、かつて通った道はさらに通りやすくなり、その他の場所へは踏み出しづらくなる。
雪は依然として降り続き、やむ気配はない。

いつも同じことをやったり、言ったり、考えたりしていると、その動きや言葉は次第に洗練され、もうそのことについては考えなくてもできるようになってくるが、一方、他のことをしないでいれば、それらについては鈍くなるし、そもそもそれらをやろうという気もなくなってくる。

体はひとつだから、いろんなところに足跡をつけても結局中途半端になってしまいがちだが、だからといって単一的な考え方のみを良しとして、その他の可能性への想像ができなくなってしまうのもどうなのか。

歩き慣れた雪道の脇に足を踏み出せずにいるのは、すでにうずたかく雪が降り積もってしまったからで、しかしそれを崩すことは必ずしも難しくはない(大変なだけで)と考えることは有用であるかもしれない。