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2014-09-09

言葉をゴルフにたとえると

異なる人間同士が意思を伝え合おうとした場合、言葉を共通の道具として使用することには必然性がある。

それを使わずにがっちり握手して見つめ合って、何かが伝わったかのように想像し合うことも不可能ではないが、同時期に同所にいなければ実現不可能であるという点においてそれも使いづらい方法であるとは言える。

また見つめ合ったりうなずき合ったりして得られる合意はどこまでも抽象的なもので、「今いる場所から一番近いコンビニまでの道順を聞きたい」などという時にはやはり言葉が有用である。

さらには言葉を文字に置き換えることで、時間的にも空間的にも遠く離れた誰かと交信することが可能になる。すでに死んだ人が書き残したものを読む時には相互通信を行えないが、情報を受け止めた誰かがまた別の誰かに対してその情報を送り出すことができるという意味では、継続的で有機的で建設的な側面をそれは持つと言えるだろう。

さてそのような有用な「言葉」ではあるが、負の側面も少なくはない。世界に生じている争いの発火剤にして燃料のいくらかは言葉であるとも考えられる。そしてそのようになる理由の一つに、言葉の性質が今ひとつ正しい形で理解されていないことがあるのではないかとも思う。

たとえば言葉で「犬」と言ったときに、それを聞いた(読んだ)人々の頭に浮かぶ犬はその人々の数だけあるはずである。
ある人の頭には柴犬が浮かび、そうでない誰かの頭にはシェパードが浮かぶかもしれない。犬種が同じでも大きさや色、座っているのか立っているのか、その表情までを含めたらその「犬」が完全に一致することはない。

一方で「犬」を想像しようというときに「ワニ」を思い浮かべる人はいない。つまり「犬」という言葉がこのときに何をやっているのかというと、「少なくともワニや猫やノコギリや自転車ではない、よく犬と呼ばれるようなそれ」という曖昧な領域を示しており、さらに言えば、この時により重要なことは「言葉がその曖昧な領域を指し示している」ということではなく、その前の「少なくともワニや猫やノコギリや自転車ではない」ということの方である。

これを言い直すと、言葉がやっているのは「何らかの対象そのものを示す」ことではなく、「いろいろな対象が考えられる中で、大体どの方向を見るべきかを示す」ことであり、つまり言葉が示しているのは「特定の点や領域」ではなく、「大体あっちの方」というような『方向』である。

言葉が特定の対象と1対1の関係にある「参照」(対象を示す別名)であると考えてしまうと、上記の「犬」がそうであったように、実際には異なる人間同士の頭の中で一つの言葉から別の対象が生成されているため、それを一致した物として扱わなければならず、いろいろと問題が生じやすい。

しかしそうではなく、言葉はたんに「大体あっちの方」という、あるいは「少なくとも他のアサッテな方向ではないコチラの方向」という、『方向』を示すものに過ぎないという前提を持つことができれば、我々はより厳密に特定の対象を共有しようと思ったときに、もっと深く言葉や対話を重ねていこうと思えてもう少し平和な世界を見ることができるかもしれない。

この経過のありようは、ゴルフに似ている。狙うピンは一つに定められているが、1回で言い当てることは不可能に近い。そこから何打も打って少しずつ目的に近づいて、グリーン上でもまだ何度もカップの脇を右へ左へと行き過ぎながら、徐々に「もともと言いたかったのはどういうことか」という対象を追い詰めていくことが肝要である。

最初の大きな(そして最もピンから遠い)一打目の落ちた箇所だけを見て「ああこの人は、こういうことが言いたいのか」と思ってしまうことは、思った側にも言葉を放った側にも不幸である。
そうではなく、その発言者が「どの場所から・どの方向に向けて・どの程度の力加減で」その言葉を放ったのかを見なければならない。それを見ることにより、「実際にボールが落ちたのはここだけれど、本当に言いたかったのはこういうことかな」と想像しやすくなる。

人は多くの場合、それを自然にやっているだろうが、ときに行き違いが起きるのは、そうした想像が成されていない、ボールが落ちた場所だけを問題にして対話をしているからではないかと感じる。

ぼくはこのように書く文章の多くが長くなる傾向にあるが、それは元々言いたかったことをなるべく厳密に指し示すために、言葉という矢印の大きいものや小さいもの、北を向いているものや東を向いているものをいくつも様々に組み合わせながら書いているからで、これはパー5のホールで何十打も費やしてしまう趣味のゴルファーの姿を彷彿させる。

プロの文章家というのはこれをより短く、適度な打数でまとめられる人のことで、たとえば1行で勝負するコピーライターなどはつねにホールインワンを狙っているとも言える。

いわゆる推敲という作業は、最初は50打もかかったパー5のホールを何度もやり直すことで、いかに少ない打数で、他の人からも追いやすい行程を通してカップインできるかを突き詰めていく作業であり、これをしていない文章は途中で森に入ったり池に入ったり逆向きに進んだり隣のホールに行ったりと複雑怪奇な行程をすべて辿ってみせるから、傍から見ると「そもそも何を言いたいのかわからない」文章ということになる。

しかしここで言いたいことは、そのようなわかりづらい文章が悪いということではなく、順番としてはつねに「わかりづらい長い文章(多くの打数を費やしたもの)」→「わかりやすい簡潔な文章(短い打数でまとめたもの)」という不可逆の流れがあるということで、つねに初めから短い文章で言いたいことを言えるという人はいない。

にもかかわらず、世間では時折、人はやろうと思えば初めから簡潔な言葉の表現で元々言いたかったことを言い当てられると考えられているふしがあると思われる。「それは単に人間個別の能力の問題であって、本来ある程度の知識や経験があればそれが出来るのは当然」という前提が少なからず浸透しているように思われる。

そしてまた、そのことが理由になって、実際には「大体の方向」を示しているに過ぎない言葉を取り上げては「誰々はこんなことを言っていた」と、文脈(どの場所からどのぐらいの力でどの方向に向けて放った一打だったのかという前提的な情報)を無視した争いのたぐいが起きがちであるように思う。

実際には言葉は、しつこく使い込めばそれなりに役立つ道具ではあるが、適当に触ってもなかなか期待どおりには働かない、思い通りには動作してくれない道具であるということがもう少し広く共有されていると、今生じているいくつかの不一致も多少は軽減されるのではないかと思うのだけど。

2014-08-24

雪道をゆく

降り続ける雪の中、任意の地点AからBへ移動すると、雪の積もった地面には足跡がつき、その連なりが道になる。
B地点からA地点への帰り道、同じ足跡を辿れば道はさらに深くなり、周りの積もった部分との差は大きくなる。

翌日も、その翌日も同じ軌跡をたどることで、かつて通った道はさらに通りやすくなり、その他の場所へは踏み出しづらくなる。
雪は依然として降り続き、やむ気配はない。

いつも同じことをやったり、言ったり、考えたりしていると、その動きや言葉は次第に洗練され、もうそのことについては考えなくてもできるようになってくるが、一方、他のことをしないでいれば、それらについては鈍くなるし、そもそもそれらをやろうという気もなくなってくる。

体はひとつだから、いろんなところに足跡をつけても結局中途半端になってしまいがちだが、だからといって単一的な考え方のみを良しとして、その他の可能性への想像ができなくなってしまうのもどうなのか。

歩き慣れた雪道の脇に足を踏み出せずにいるのは、すでにうずたかく雪が降り積もってしまったからで、しかしそれを崩すことは必ずしも難しくはない(大変なだけで)と考えることは有用であるかもしれない。

2014-08-20

かつては絵を描いていた(6)

ペン大の初めての授業は2004年の2月で、場所は菊地さんがバンドでよく使う新宿の音楽練習スタジオだった。

スタジオ近くの地下鉄の出入口で待ち合わせをすることになっていて、それらしき人がすでに何人か集まり始めていたところに、向こうから白い軽そうなコートを着たその人はスタスタとこちらに近づいてきて、ぼくに「ペン大のかた?」と聞いた。

そうです、と答えると彼は周りを見回して、じゃあこっちなので、とぼくらを引率してそのまま信号を渡り、練習スタジオ兼ペン大の教室に歩いて向かった。

その年の4月から菊地さんは大谷能生さんと東京大学の駒場校で1年間のジャズ講義を行うようになって、彼のサイトの日記を読むと学生以外でもモグれるみたいなことが暗示されていたから、ペン大に入ったことで気が大きくなっていたぼくは初回の講義に行ってみた。

自分が東大の構内に足を踏み入れることがあるとは想像したこともなかったし、それを望んだこともなかったけれど、それ以前にすでに28から29才になろうとしている自分がそんなところをウロウロしていたら、目立ってしまってたちまち守衛の人などにつまみ出されるのではないかと、とにかくその初回ほど緊張したことはなかった。

授業の2日ほど前に、一度下見で大学の近くまで行ってみた。開始時刻に遅れたくなかったから、自宅からどのぐらいの時間がかかって、乗り換えはどこを使って、とかまるで事前にデートコースを下見する若者のようだったし、実際そのようなものだった。

当日は早く着きすぎて教室はまだ開いておらず、近くにもそれらしい人は誰もいなかった。学内を一周散歩してから戻ってみると、すでにドアの前には何十人も並んでいて、「学生さんはこちらの列、そうでない方はこちらの列」などと誘導すら始まっており、ぼくは「そうでない方の列」に並んだ。

講義は毎週木曜の夕方に行われ、それに出るとバイトしていたレストランの夜の営業に間に合わないから、店長はなるべく木曜を外してもらうか、入れる場合でも遅い時間にしてもらうよう頼んだ。
それが半年、そして1年つづき、ぼくはほとんどの授業に出席した。

最後の授業後には懇親会が企画され、構内の隅の一部屋で簡素な宴会のようなことをした。誰とどんな話をしたのかは覚えていないが、その部屋の非日常的なまでに白く明るかった様子をよく覚えている。

二人のジャズ講義は好評だったようで、翌2005年度の前期も講義が続けられた。
前年度はジャズの歴史全般のようなことを扱ったけど、2年目にはマイルス・デイヴィス一人を扱った。
そのどちらもが書籍化され、前者は『東京大学のアルバート・アイラー』、後者は『M/D』という名前で世に出された。

最後の授業が2005年の7月11日に行われ、ぼくは教室前方の教壇脇にあるドア(校舎内の廊下に出るのではなく外に直接出られるドア)から外に出ながら、大谷さんと短い会話を交わした。授業の前にはまだ降っていた雨がやんで、しかしあたりは台風直前のように不穏な光と風に覆われていて、タイル貼りの地面には濡れた土と葉っぱと小枝のようなものが張りついて汚れて見えた。

大谷さんにおつかれさまでした、面白かったです、みたいなことを言ったら、月末にも渋谷でイベントやるんだよ、良かったら来てよ、みたいな話になって、知ってますよ、フランス革命でしょ(笑)バイトが空いてたら行きますから、みたいな話をしたのだと思う。

2週間後の7/28に渋谷のアップリンクファクトリーで『大谷能生のフランス革命』というイベントが行われて、これは大谷さんがホスト役で同世代の表現者をゲストに招き、対談をしたり共にパフォーマンスをしたりする、というイベントの第1回だった。
この時点で何回続けるつもりだったのかはわからないが、お客さんが来てくれたら(赤字にならなければ)続けます、みたいな感じだったと思う。

第1回のゲストは映画監督の冨永昌敬さんで、終わってから大谷さんに「面白かったです」と言ったら「いやあ、いっぱいいっぱいですよ」と言って笑った。



前年に行われた東大のジャズ講義が書籍化されることになって、ぼくはその巻末に掲載される対談の進行役と、その文字起こしをすることになった。

二人の東大講義はモグリが半ば公認であったことも特徴のひとつだったが、もうひとつ、「そっくりモグラ」というハンドルネームの人が管理するteacup掲示板に同氏が作成した講義録が毎週掲示されることも大きな特徴で、生徒は(その多くがモグリや教室に来れない人たちだったろうが)そこで、東大とはまた別の「講義」を受けていた。

ぼくももちろんそこに入り浸っていて、やがて自分でもそれ(講義録)を作りたいなと思った。

そっくりモグラさんの講義録は彼なりに内容を編集したものだったから、ぼくはノーカットで二人の発言を文字に起こせばそれぞれの良さで補完し合えるかもしれないと思った。
いや、おそらくは最初からそのようなことを思ったのではなくて、最初はそっくりモグラさんが作ったものを見やすくHTMLにレイアウトし直そうと考えただけだったかもしれない。
ぼくはジオシティーズでHTMLのサイトを少し作っていたから、それを応用してそこにそんな内容を載せようと思ったのだ。
そしてそのコピペの際に、少しだけ自分なりの補完をしようと思ったのだ。最初はたぶんそんなことから始まった。

そっくりモグラさんの許可をとって始めたその作業(コピペしたテキストのHTML化+わずかな補完)だったが、回を重ねるごとにぼくの補完の量は増していき、初年の9月を迎える頃には土台の部分から自分で起こすようになっていたと思う。
その後の仕事にも通じて言えることだけれど、文字起こしというのは「途中まで別の人にやらせて仕上げを自分で」ということが非常にやりづらい。
職業としてそれをやっている人にとってはそれも自然にできるのかもしれないが、ぼくにとっては文字起こしという作業は音楽を奏でることに近くて、最初に作り始めたメロディは最後まで影響するからその最初の部分を他人にやらせてしまえば最後まで他人が作ったメロディと自分の中で生まれたメロディとぶつかって非常にやりにくいことになる。

だから文字起こしは最初から自分でやった方が結局ラクで、その後も可能なかぎりはすべて自分でやっているし、他人が作った土台を使わなければいけないときも最終的にはほとんどその原型をとどめないぐらい細かく作り直してしまっている。

すべての東大講義が終わる頃には、そのような次第でぼくとそっくりモグラさんによる2パターンの文字起こしがすでに仕上がっているという状況だったから、大谷さんから書籍化するときの土台にぼくらのそれを使いたいんだけど、と話があったときにはもちろんぜひ使ってくださいと答えた。
そしてそのとき一緒に、「巻末で菊地さんと対談やるんだけど、その進行役やってくれない」みたいな話をもらって、「ああ、もちろん」みたいになったのだと思う。

率直な印象としては「え、俺? いいんですか、シロウトですよ?」という感じだったけど(やりたくないという意味ではなく、俺ごときでいいのかなという不安や驚き)、大谷さん的には「いやできるでしょ、文字起こしもしてるじゃん、ペン大で菊地さんのことも知ってるでしょ」みたいな論理があったのかもしれない。
だとすればまったくそのとおりだし、辞退する理由なんてどこにもないし、辞退しないでヘラヘラ引き受ける自分で良かった。

後からわかったことだけど、一方のそっくりモグラさんは注釈作成や資料提供を受け持っていて、どう考えてもそれ、そっくりモグラさんの方が大変だったよな、と思うけど知識量や能力から考えても確かにそれは妥当な割り振りだった。

対談は新宿の焼き肉屋で行われたが、その日は菊地さんが直前まで京橋の映画美学校で音楽理論の授業をしていたから、ぼくは大谷さんと教室脇のロビーで待ち合わせをして、そのまま菊地さんと合流して新宿まで行くことになった。

ぼくは東大講義で毎回使っていた録音機能の付いたMDウォークマンと、バックアップのためにもう一台、そのために母から借りた同様のMDウォークマンをスタンバイして、それから入念にシミュレーションしたノートと、いざというときに使うかもしれない資料を山のように抱えていた。
会場に着くとすでに関係者が何人か待ち構えていて、それは東大講義の打ち上げの一種でもあったのだろうか、皆は好きに飲み食いしていたけど、ぼくは酔っ払うのと食べているうちに適切な進行のタイミングを逃すことが怖くてほとんど飲まず食わずで最後まで過ごした。

用意していた質問をしたりしなかったりしながら、それでも対談は何となくいい感じに終わり、ようやくひと息つけるかと思った頃には終電間際になっていたから先に帰ることにした。「支払いはどうすれば?」と菊地さんのマネージャーさんに聞いたら「ああ、いいですよ」と言われたけど、よく考えたら何も食べていないのだからそれも当然だったし、もっと考えたらそもそも菊地さんのマネージャーさんに聞くべきことだったかもわからない。

西武新宿線の沿線に住んでいたから、焼き肉屋から西武新宿駅まで歩いていかなければいけなかったけど、終電まで時間がなかったのと大雪が降っていたのとで(冬だったのだ)、氷と水が混ざったジャクジャクのアスファルトの上を大量の資料と2台のMDウォークマンを大事に抱えながら駅まで走った。
終電には何とか間に合って車内で座ることもでき、それでも混んでいる中でさっき録音したばかりのMDを確かめたら音が入っていなかった。それは普段ぼくが使っている方だったけど、祈るような気持ちでもう一台の借りた方のMDウォークマンを確認したらそっちは録れていた。

1週間程度で文字起こしと簡単な(しかし慎重に)編集を施したデータを完成させて、大谷さんに送ったらOKと言われ、それはぼくの構成をある程度生かしてもらったまま上下巻に分かれた書籍の上巻の巻末に掲載された。

人生で初めての文字起こしは2004年の東大講義で、人生で初めて自分の文字起こしを使って編集をしたのはその冬の対談だった。

同書はメディア総合研究所という会社から出版されて、それは元々菊地さんと大谷さんを結びつけた人が編集者として勤めているから、という縁もあったようだけど、数年後には文藝春秋から文庫化され、しかしそのときにはその対談は外されてしまった。