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2014-08-01

かつては絵を描いていた(2)

大学に入ると世界は灰色になった。

ムサビを選んだ一番の理由は、構内の敷地や建物がかもす開放感にあったけど、それは高校生の頃に訪れた同校の芸術祭の様子がそういう印象をぼくに与えたからで、実際にそこの学生になってみると、日々の時間にそのとき感じたような雰囲気や自由を味わうことはほとんどなかった。

4年間を油絵学科で過ごした中で、これという大きなトピックはほとんどなかったけど、それでも一つ挙げられるとしたら画家の加藤泉さん(男性)と知り会えたことだろうか。

加藤さんは僕が入学するのと入れ違いのように卒業していたから、学内で会うことはなかったけど、あるとき、それは3年生の頃だったか、いわゆるゼミの教授であるところの赤塚裕二さんから声をかけられて、構内で配る機関紙の編集に手を貸してくれないかと言われ、具体的には「卒業生訪問インタビュー」というコーナーがあるので、学生代表としてその取材に行ってほしいんだけど、と言われた。

赤塚先生は油絵学科の教授だったけど、立場が偉いのか、いろいろ頼まれやすいのか、そうした機関紙の編集などにも関わっていたらしくて、その取材者を探す過程でなぜかぼくに目をつけたようだった。(そういえばその理由は聞かなかった)

「卒業生訪問インタビュー」というコーナーは、ムサビを卒業して活躍している卒業生を在校生が訪問するという文字通りの企画で、一人のインタビュー対象者につき二人の異なる学科の学生がペアを組んで話を聞きにいく、という構成だった。
ぼくはサラさんというカナダから来た留学生とそれをやることになり(彼女の所属学科は忘れてしまった)、取材当日には機関紙の編集スタッフである柴田さん(女性)と3人で、青梅街道を走るバスに乗ってムサビから15分ぐらい走ったところにある加藤さんの自宅兼アトリエにお邪魔した。

サラさんとぼくはその数日前に神楽坂の喫茶店で打ち合わせを行い、どのような質問をするかまとめて柴田さんに渡しておいた。柴田さんはFAXで加藤さんにその内容を送っていて、だから質問と回答はそれなりにスムーズに進んだように思う。
加藤さんは事前に質問を送っておいたことについて、「いろいろ取材を受けてきたけど、わざわざそんなことやる人いなかったよ」と、たぶん良い意味で言った。

サラさんの質問の中には「日本の若者がIターンやJターンと言われる、田舎に帰って生活を送るケースが増えているが、それについてどう思うか?」というものがあった。ぼくはとくにそういったことに関心はなかったけど、じゃあ自分がどんな質問を考えたのかというと、まったく覚えていない。

僕と加藤さんがそのときにどういうやり取りをしたか、ということも覚えていないけど、その後も加藤さんとの付き合いは続いた。不思議なことに、ぼくは加藤さんと電話番号や住所を交換した記憶がないのだけど、加藤さんが個展をするときにはDM(ダイレクトメール)がアパートに届くようになった。

ぼくはいつも暇だったし、自分がやりたいことを知らなかったから、DMが届いたら大抵それに行った。

大学を卒業して1ヶ月後、就職ができなくてボーッとしているときにも加藤さんからDMが来て、ぼくは京橋の個展会場に行った。
お客さんは他にいなかったか、いても1〜2人ぐらいで、ドローイングと小さな彫刻(のような何か)が展示された会場の端でぼくたちは少ししゃべった。5月の初めの、暑いような涼しいような中性的な季節で、たしか窓を開け放したまま交わした会話のひとつに、「いま何してるの?」という加藤さんの質問があり、「何もしてないです(笑)」というぼくの答えがあり、「じゃあバイトする? 俺いまペンキ塗りの仕事やってるんだけど、やる気あるなら親方に話しておくよ」と言われたので、「ああ、やります(笑)」と二つ返事をしたのだった。

加藤さんはぼくを見送りながら、(と言っても小さな会場だったから、表に向けて2〜3歩進んだらもう見送りなのだが)「最近はなかなかフラフラしてる若いやつがいないんだよ。親方から電話させるから」と言った。
ペンキ塗りのアルバイトは不定期で、しかしやるときには何日か連続で現場に出なければならないから、「フラフラした若いやつ」じゃないと頼めない、みたいな話だった。

同じ月の終わり頃からぼくはペンキ塗りのバイトを始めて、最初の現場は舞浜駅に新しくできる、ディズニーランドと結びついた「イクスピアリ」というショッピングモールだった。(その頃はまだディズニーシーもなく、その後にディズニーシーも塗りにいった)

エントランスに近い、モニュメント的な巨大な青い樹木(の擬木)を塗るのがその仕事で、ヘルメットをかぶり、安全帯を腰に巻いて、朝礼に出て、日が暮れるまで作業をした。
すべて終わって、道具を現場からけっこう離れた大きな駐車場の、親方のパジェロに積み終わると、いつ買ってきたのか、親方が4〜5人の職人みんなに冷たい缶コーヒーを渡して、その場で海風を浴びながら飲んだ。

知らない人たちが忙しく立ち働く現場で、目が回る思いをしながら何ヶ月か過ぎた頃、イクスピアリの広大な敷地の片隅に見覚えのある男子がいて、顔をじっと見たら美術予備校の同級生の一人だった。
彼とぼくは、前に書いた、トップで芸大に入った男子と3人でよくつるんでいた。彼は現役でタマビに入ってしまい、芸大の子は1浪で芸大に入り、ぼくは2浪したから、それぞれの環境はバラバラだったけど、それでもぼくが大学2年になるぐらいまでは時々会っていて、八王子の彼の家に泊まりに行ったこともあった。
彼はむちゃくちゃ美形で、芸大の子は加瀬亮のような男前だったので、それに挟まれるとなんだかぼくは捕獲された宇宙人のようだったが、そういう役割を楽しくも感じていた。

その彼に舞浜の工事現場でいきなり会って、ぼくは「うわ〜あるのかこんなこと! 世界すごい! 天文学的確率!!」とあまりの奇遇に軽くパニックに陥っていたが、彼の方はさほど驚いたふうでもなく、「ああ」みたいな感じだった。
「今何してるの?(ペンキ塗り以外に)」と言いながら互いの連絡先を交換し、彼はバンドでギターを弾いていたから、ぼくはそれを見に行って、いつの間にかドラムを叩くことになっていたけど、それはまた別の話だ。



大学の頃に話を戻すと、赤塚先生がぼくのいたアトリエに入ってきたとき、ぼくは2〜3人の同級生と話していたかもしれない。ぼくはカラシ色の誰がどう見ても大きすぎる、体に合わないツナギを着ていて、外はもう暗くなっていた。
先生はぼくを手招きして、何か重大な秘密を打ち明けるかのように、「ちょっと頼みたいことがあるんだけどさ……」と、その依頼をしたのだった。

今はどうだか知らないが、ムサビの油絵学科では1〜2年の頃は特定の教授についたりせず、数ヶ月単位で、教授陣が一人一つずつ用意した課題の中から好きなものを選び、それをやっていた。
制作は通常アトリエで行われ、教授が何日かに一度、それを見に回ってくる。そこであてどもない会話を交わし、講評の日には皆の作品を並べて、あれこれと議論や評価が行われた。それを2年間くり返して、3年生からはその教授陣の中から好きな先生を選んで、そこで残りの2年間を過ごすことになっていた。

ぼくは1〜2年生の頃に何度か赤塚先生の課題を選んで、先生の作品はよく知らなかったけど、話した印象で「いい人だな」と思ったので先生を選んだ。よくわからないが、肌が合うと感じたのだった。

加藤泉さんは赤塚先生の生徒ではなかったらしいのだけど、二人は親しくしていて、それで先生は卒業生インタビューの対象に加藤さんを選び、その取材者にぼくを選んだようだった。

加藤さんを訪問したその家に、やがてぼくは住むようになった。
アトリエと自宅を兼ねていたのが手狭になったから、近くに生活用の家を別に借りて、アトリエだけ継続して使いたいのだけど、その空いたスペースに入らないか? という話だった。まだ持ったばかりの携帯に急にそんな電話がかかってきて、ボーッとした頭のまま、以前にペンキ塗りのアルバイトに誘われたときのように「いいですね(笑)」と二つ返事で答えた。

想像もつかない、未知の世界への誘いという点でそれらは似ていた。
そしてぼくは何の確証もないままそこに飛び込んだ。

2014-07-31

かつては絵を描いていた

小学生だか中学生の頃に母と見た、『恋する女たち』という映画の主演女優は斉藤由貴で、彼女が恋する相手の男子高校生役は柳葉敏郎だった。
こんな話をすると、今の柳葉敏郎しか知らない人にとってぼくという人は、ぼくがかつて上原謙や志村喬の若い頃について語る人を見ていたようにぼくを見るだろうか。だったら面白い。昔の話をする人になってしまった。

その映画の中で若き(しかし見た目は今とほぼ変わらない)小林聡美が斉藤由貴の同級生役で、小林聡美は変わった女友達の役で、美術部員の役で、いつも放課後にはひとけのない美術室で一人石膏デッサンをしているのだった。

その光景がなんだか印象に残っていて、ほとんどそれだけのせいでぼくはそれなりに偏差値の高かった市内の高校で、その学年に一人だけの美術部員になってしまった。そしてほとんど映画で見たままの、誰もいない放課後の美術室で石膏デッサンをするようになっていた。

望みの地位を手に入れたまではよかったが、それが素敵なのは映画の中だったからで、美術部員としての研鑽しか積んでいないぼくがそのまま高校2年の秋を迎えてしまうと、「さあ、進路はどうしようか」と思ったときに選べる道はすでに出遅れてしまった普通大学の受験競争に参加することではなく、多少は周りより能力がありそうな美術系の進学を希望することぐらいで、だから高2の代ゼミの美大コースの冬期講習からぼくの受験勉強(というか受験を想定したお絵描き)は始まった。

高1の春に入部を希望して弱くノックした美術準備室の先生は小川先生といって、今から思えばなんだかまさに忌野清志郎が歌った「ぼくの好きな先生」みたいな人ではあった。ピンク色の木製の引き戸を開けて出てきた先生は「なんだ、入部希望?・・奇特だなあ!」と大きな声で言って、そのままなんということもない話をしばらくしただろう。

先生はぼくが代ゼミの冬期講習に通う前、というかその年の夏休みの間に亡くなってしまって、だからぼくは先生の代理として急遽現れた二人の非常勤の女性の先生とぼくの進路について話し合った。
2人の先生のうち一人は大学を出たばかりのような若い、日本画を専攻していた先生で、もう一人はおそらくオールラウンドの、若い先生よりは年配の先生だった。ぼくは年配の先生の方から、進路はどうするの? こんな予備校があるよ、と、代ゼミやそれより近所の地元の美術予備校を教えてもらって、結局高校3年になってから近所の方の予備校に通うことになった。それはふなばし美術学院というところで、たぶん今もある。

年配の方の先生は、その後もいろいろと気にかけてくれて、あるときに油彩画のレクチャービデオみたいのを持ってきて(もちろんVHSだ)、これを貸してあげるから、見てごらんと渡してくれた。「参考になるかわからないけど。私もちゃんと見たことがないんだけど、あったから」と申し訳ないような、とりあえず言ってみたみたいに笑いながらそう言った。家に帰って夕方の居間で一人で再生してみると、3本ぐらいのタームに分かれた、人物画や静物画の受験用にマニュアル化された、こんな順番で色を乗せていけば6時間でこのぐらいの絵はできますよ、みたいな教則を披露していて、おそらくは芸大生などがアルバイトで描いているのだろうけど、だからというかなかなか面白く、ほとんどそれを見たままのイメージで少し後に開催されたふなばし美術学院の統一コンクール(浪人生も高校生もみな一緒に受けるコンクール)で再現したら1位になってしまった。
それはまったくのまぐれというか、自分としては中途半端な失敗した出来で、でもなにか初々しいような勢いがあるような、そういう感じではあったのかもしれないとも思う。

そのコンクールの1〜2ヶ月後に、今度は学科試験も合わせたコンクールがあって、学科というのはたしか国語と英語だったけれど、これも高校生と浪人生が一緒に受けた結果で1位になった。いずれも参加者は数十人〜100人にいかないぐらいだったか。
後者のコンクールは学科との合計だったから、ぼくは腐ってもタイ的な意味でまだ高校生だったし、それなりに学科で得点をとっていたようで、それで1位になったのだった。たしか絵だけだと7位ぐらいだった気がする。
そしてまた、そのときの絵にしてもじつのところ、その少し前に見た他の予備校の参考作品(その予備校を宣伝するパンフレットとかに載っているキャッチーな絵)にインスパイアされてそれを真似するように描いてみたものだった。どうやらイメージを得ると強いところがあるらしい。

そのように現役生(高校3年)の頃はけっこう華々しい活躍をしていて、その予備校は年に1〜数人の芸大生を輩出していたから、ぼくは当然のように芸大合格候補者の筆頭みたいになってしまった。
その何年も後、当時の予備校の同級生と話していたときに、カド(私)はスターだったよ、と言われたことがあって「おお」と思ったけど、それを言った人はぼくが2浪している間に当の芸大にトップで合格してしまったのだからわからないものだ、というかなんだそれは。

浪人時代はなかなかつらく、「このまま受からなかったら俺、何者でもないまま人生終わるな・・親にも申し訳ないよ」と毎日のように思っていたから、2浪目にようやくムサビのアブラに受かったときは心の底から嬉しかった。いまだにあれを超える喜びや安心を感じたことがあるか、容易には思い出せない。
試験ではガチガチの、誰が見てもけっして面白くはないような、でもまあ上手いことはわかる、みたいな油絵と、木炭をとりあえず真っ黒になるぐらいまで木炭紙に塗りこんで、陰影のコントラストを強くつけて印象にだけは残りそうな自画像を描いて出したけど、それが何とかパスした。
すでに学科の得点はギリギリの低レベルだったろうから、余計になんというか、これならようやく受かるというぐらいの頃に滑り込みで受かった感じじゃないかと思う。

地獄のような浪人時代だったけど、受験がまだ遠く感じられる春から夏の終わりにかけての頃は毎年調子がよくて、先に言った参考作品になるような絵を何枚も描いた。2浪のその頃はとくに快進撃で、たしか何週間か連続で、5〜6枚の絵がすべて参考作品として予備校に保管されるということにもなった。
ひさしぶりにコンクールでも1位になって、その油絵(人物画)を見た1浪の男子が「ほしいので譲ってください、お金は払います」と講評の後に頼んできて、講師にどうしようかと相談したら、「未使用のキャンバスと交換したら?」と言われてそうした。

2浪の頃にぼくは二十歳で、後半以降はたしかに地獄になるんだけど、夏は夏で別の意味でイカレていて、毎日雪駄を履いてターコイズブルーのマニキュアを両手に塗って、眉毛も細くして鉄人28号のカオがついたネックレスをして街を歩いていた。街と言っても通学に使う船橋や千葉だけど。
そんな夏のあるときに、近所の祖母の家の近くのアーケイドの下を通りながら、ふと首を上げるとそのアーケイドのストライプが空からの光を通してなんだか啓示的というか、面白く見えて、顔を上に向けたまま足だけは前に動かして歩いていったらアーケイドが急に途切れて青い空が目に入って、その瞬間に「あ、全部わかった」と思った。

何がわかったのかはもう覚えていないけど、まあ「すべては繋がっている」とかそんな感じのことだろうとも思う。大学に入ってから読んだ岡崎京子のマンガで、『Untitled』だったかもしれないが、やはりそういう場面があって、そこで言いたいのもそうことだったのかな、と後からふと思ったりした。
今にして思えば、ぼくはそのときに自由を手に入れた。そしてそれにとらわれてしまった。良くも悪くもなく。

2014-07-26

ZDD(雑談駆動開発: Zatsudan-Driven-Development)のススメ

グループで作業をするときには様々な問題が生じうる。

たった一人で制作から販売まで完結する仕事ならばそういったものを避けられるかもしれないけれど、普通はなかなかそうならない。上司部下の関係もあれば先輩後輩、他部署との関係、他社との関係、その他社がまた立場的に上か下か、とかいろいろ。

理念としては誰もが平等だけれど現実世界ではそうもいかない。他者との関係においては喜びもあれば避けがたく不快も生じる。何しろ人の気持ちは流動的で、自分自身の考えすらコロコロ変わる。そして変わって良い。それが自然。一貫性は愚かな人間の言い訳である、と言ったのは誰だったか。(誰も言ってないかも)

ぼくは仕事を2〜4人のチームで進めることが多い。
少し前にやっていたボランティア団体ではその10倍ぐらいか。つまり20〜40人ぐらいのメンバーの一員としてあれこれやった。

『Team Geek』という本があったけど(感想も少し書いた)OSSの開発でもボランティアでも仕事でも、これは共通して使えるのでは、と思える作業の進行方法があってそれが「雑談駆動開発」(Zatsudan-Driven-Development: ZDD)である。

ぼくを含む大半の普通の人は怠け者で(ということにします)放っておけば「本来優先すべきこと」よりもラクなこと、あるいはよりタノシイことをつい先にやってしてしまって、あとから大量に溜まった「優先すべきだったこと」を前にして「なんでちょっとずつでも進めておかなかったの・・?」みたいなことになる。(あるある)

そして不完全な人間同士が不完全な情報共有をせざるを得ない世界だからそんな状況を100%確実に避けることは困難かもしれないけれど、それでも決定的な失敗状況に至る前にメンバー各自が不穏な進行を気づかせ合うことが、ここで挙げる「雑談」の威力であり機能である。

以前の仕事のチームはぼくともう一人のほぼ2人体制だったけど、とくに用がなくてもお互い午前10〜11時の始業とともにSkypeを上げて、おつー、とか言い合った。その目的は「おつー、と言い合うこと」そのものであって、それを通して何をどうしたい、とかは事前に考えていない(少なくともぼくはそうだった)。
しかしそのまま「いや昨日大変でさ・・」とか言い始めると、それが何となくトリガーになって、またその後の実務がイヤというか疲れるのでなるべくそれに取り組むことを後回しにしようとして、とりあえず頭の中にあるあれこれを報告し始める。

すると、その報告の「ついで」や「そのまたついで」みたいな感じで、話し始める前にはとくに思い浮かんでいなかったあれこれの「アイデア」や「報告すべきこと」が目の前に出てきて、どんどん「ついでに」報告しあうことになる。
その結果として、ぼくらの間にはつねにその時点で知っているかぎりの情報が共有されていて、どんなアクションを取るにもすでに前提が共有されたあとの「その次」のことから即スタートできてこれは大変効率の良いチームだった。
(まあもちろん、そのチームワークにおいても少なからぬ不備はあったけれどそれはまた別の話)

さて一方で、数十人規模のボランティアグループでもこれはそれなりに有効に働いた。あ、「これ」というのはもちろん「ZDD」のことです。

ZDDの特徴は、いちいちカッコつけない、ということだ。自分が偉い人だとか、大きく見られるべきだかという前提でアクションしようとすると、その前に何度もその「これからアウトプットしようとしていること(たとえば発言)」の中身を精査することになってしまい、そのうちだんだんアウトプットじたいが面倒になり、大事なことが報告されない、共有されないまま時間が過ぎてしまう。
アウトプットじたいを商品としてゴハンを食べている人ならばそうした事前精査(チェック)も重要だろうけど、そうではなく内部での意思共有の道具でしかない情報にそんな完成度を求めていたら最終的な成果物はいつまでも出てこない。

「とりあえず」のラフな発信はあまり洗練されていないように見えて、とくにいい年になってくるとそういう若者同士の雑談みたいなことを進んでする気にはなりづらいものだけど、ぼくは積極的にこれをやった。
メリットとしては何より自分がラクだから、そしてラクであることによって活動も無理なく続けやすいから、ということがあったけど、そうした自分にもたらされる利点だけでなく、周りとしても一人そういうのがいるだけで敷居が下がるというか、「あいつがあんなバカっぽく気軽に言ってるのだから自分も輪に加わって大丈夫だろう」みたいな、活動の参加までの障壁を下げる(下げさせる)効果がそれなりにあったろうと思う。

もちろんそんなに上手くいくことばかりではなくて、たとえば雑なほうに振れすぎるのも良くないし(荒い表現が出やすくなるとか)、礼節はそれとして重要なのだけど、それでも一番の目的は「互いを良く見せ合うこと」ではないのだからそれが最優先されないように、とは思っていた。

去年のYAPCの最後のLTで「ボケて」を運営する株式会社オモロキ代表の鎌田さんが発表していた内容がこれに近いんだけど、そのエッセンスというのは「レスは短くして最後に『!』を付ける」というもので、たとえば御礼のレスが「ありがとうございます!」だけ、とか。
(実際はそういう内容じゃなかったかもしれないんだけどそういう印象をもったということ)

自分のブランドを上げようと思いながらやりとりしていると選択肢の多くがNGワードやNGアクションになってしまって、それを避けているとそもそも何をしたかったのか/言いたかったのかがわからなくなってしまう。そしてその「つい本来の目的から外れてしまった感じ」を隠蔽するためにまたさらにカッコをつけてもはや誰にもわからない理論を振りかざしたりしてしまうこともあると感じる。

そのような帰結をなるべく避けるためにも、我々は本来の目的をトップに見据えた上での「とりあえずの雑談」をもっと有効に活かしてよいのではないかと思う。

一見すると雑談というのは本来の仕事とは離れた場所にあるように見えるけど、じつはこれこそが最も仕事を迅速に進行するために必要な「取り掛かり」を誘発してもいる。雑談は全方位的な「すべて」の要素を含んでいるから(だから「雑」なのだ)、「仕事大変だ〜イヤだ〜」と思っている人にも容易に侵入してしまう。仕事を後回しにしたいと思っている人に知らず知らず仕事の要素を飲み込ませてしまっている。それはまるでハンバーグの中に内緒で混ぜ込まれたニンジンのすりおろしのようであり、またすすったお茶に混ざっていた空気中のチリやホコリのようでもある。

楽しげで「非・仕事」のようであったそれが実は「仕事」のエッセンスを抱き込んだ多彩で多面的な雑物であるからぼくらはそれらを無警戒に自らの中に入れてしまい、そのときにはすでに本来の「仕事」に取り掛かってしまっている。



少し似た話で、情報を出す側がその流量をセーブしてしまうような傾向について、そんなことをしてはダメで流量のコントロールは原則的に受け手が行うべきである、という方針もあるのだけど、それはまた別の機会に書ければ書きます。(というか前に書いたかも・・)