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2014-10-13

毎週みるTV

以前はどうだったかよく覚えていないが、ここ数年で大体みるTV番組が決まってきた。
圧倒的にTVを見る時間自体が減ってきたので(代わりにPCモニターかiPhoneの画面を見ている)必然的に「あれもこれも」という感じではなくなってきている。

ぼくがTVを見るのはほぼ夕食のときだけで、約1〜2時間である。そのときにちょうど好きなTV番組をやっている、などという確率は低いわけで、だから見たいものがあれば録画しておいてそれをタイムシフト的に再生する。

などと言いつつも毎週録っている番組は2つだけで、それは「アド街ック天国」と「サザエさん」である。
これらに特徴的なのは、まず大河ドラマのような毎回の連続性がないこと、そして1つの番組内ですら内容が断章的であることだ。

毎週見ているのだから連続的な内容であっても構わなそうなものだが、なんというかTVはあくまでリラックスするためのものとして使っているから、前後の文脈を前提とすることにより生じる緊張感がイヤでそういうものからは必然的に離れるようになった。

わざわざ録画まではしないがちょうど食事時にやっていたら見る、というのが「なんでも鑑定団」と「美の巨人たち」で、ここまでに挙げた4本中3本がテレビ東京である。

「なんでも鑑定団」もまた1つの番組の中でそれぞれの鑑定対象ごとのブロックを持つ(つながりが断ち切られた)断章形式と言える。それでいて番組のトーンは一定なので見やすい。ついでに言うと、出張鑑定のコーナーはその中でさらに細切れになっているのでいわば入れ子的な断章になっている。
各ブロックのオチはもちろん鑑定結果の金額であるわけだが、実際の見せ場は対象となる美術品を作った「知る人ぞ知る作家」の履歴を追うミニドキュメントで、作り方としては「美の巨人たち」と同系のようでもあるが、これが面白いのでよく見ている。

にもかかわらず録画まではしない、というのは途中の出張鑑定があまり好きではないからで、どうも僕は素人がTVに出ているのがあまり好きではない。ニュースの街頭インタビューですら良い印象を持たない。その理由は「素人はTVに出ると当たり障りのないことしか言わない」という先入観があるからかもしれない。

以前は「和風総本家」という、これまたテレビ東京の番組を時々目にするたびそのまま見ていたけれど、最近はなんだか「日本サイコー」という結論ありきで作られているようで面白くないと感じて見ていない。日本には良いところも悪いところもあるし、悪いところは特殊な悪い人だけが作っているわけではない。思考停止的な日本礼賛はそのことがわかりづらくなって良くない。

「アド街ック天国」や「サザエさん」を毎週録画するのは、それが飛び抜けてよく出来ているからとか、面白いからということではなくて(もちろんつまらないわけでもないが)、非常に機能的だからである。
ここで言う「機能」とはぼくがTVに求める「リラックスしたい」という目的を「短時間で」「確実に」果たす機能のことだと言える。
それらを見ていると、見る前より少し気分が軽くなっている。すこぶる楽しくなる、というほどではないが、ある要件に対する凝り固まった見方が一度リセットされ、それまでにやっていた仕事上の事象などを少し俯瞰的に眺められるようになっている。それがまた次の作業への力になる。ここでいう「力」とは体力とか滋養みたいなことではなくて、30cmの高さから物を落とすより30Mの高さから物を落とした方が大きくなる、そのような「力」を指している。

「アド街ック天国」でたとえば「武蔵小山」を特集したとしたら、ぼくは武蔵小山についてほとんど何も知らないから、次のランキングで何が取り上げられるのか、ほとんど想像できないまま内容を見続けることができる。
それが「新宿」や「上野」であっても、有名な場所が第何位に出てくるかまでは想像ができない。
ほぼ同じリズムで「何か」が出てくるが、その「何か」が何であるかは想像がつかない。その「断章性」「予測不可能性」の組み合わせがたぶんそこでは重要だ。

「サザエさん」も同様で、あれはかなり現代的というかドライな作りになっていて、30分番組が3本のエピソードから成っているがその3本それぞれにしても1本の筋を丹念に説明するというよりは、案外バラバラで関係のないエピソードと共に構成されているから、登場人物はもちろんほぼすべておなじみの面々ばかりだが、そこで展開するドラマの内容は予測不可能と言える。

最近のTVドラマは見ていないけれど、20世紀ほどではないにせよ、やはり典型的というか類型的というか、「それもう知ってるから」みたいな人物像やエピソードは少なからず出てくるはずで、正義は勝つし、悪役は悪や嫉妬のことしか考えていないし、いいところでCMに入ったり次回に続いてしまったりするし、そういう紋切り型に付き合うのが時間の無駄だから見ていないというところがある。

少し前に岡田准一の「SP」や西島秀俊の「MOZU」のような、クールでスタイリッシュな刑事モノみたいのがあって、系統としては「ケイゾク」とか「沙粧妙子」みたいな感じでいいなと思うが、それでもやはりスポンサーのつくTVドラマという場所で、完全にクールに振り切るというのは無理があって、どこかに甘い、わかりやすい「それ知ってる」的な部分を作らなければならないはずで、だから僕が見たい番組の選択肢からは外れてしまう。
どんなにドライに見えてもヒロインは主人公に恋をするし視聴者もそれを期待する。そしてそういうのはもういい、と感じる。
そのようにしか出来ないというのなら逆に、いつも同じようなことをある種ミニマルとも言える繰り返し具合でやっている船越英一郎や渡瀬恒彦などによる火曜サスペンス劇場系の勧善懲悪的な刑事モノを眺めている方がボーっとできて良いという気もする。

おそらくTVを見ているときにまで倫理というか物の見方を押し付けられるということが嫌で、だからそういうことから逃げ切れている番組を好んでみている。
いわゆるお笑い芸人を集めたバラエティ番組はそういった倫理や規律にもっとも縛られたジャンルの一つで、「面白くなければいけない」「つまらないことを言ってはいけない」という出演者の思いが画面を通してこちらに強く伝わってくるのでいたたまれなくて見ていられない。それは自由な雰囲気からもっとも遠い緊張感である。

「サザエさん」では次の瞬間に誰が何をするのか全く想像できない。そして何が起こっても構わない突き抜けた虚無がある。誰が誰に恋をしても、あるいは憎しみや嫉妬の感情を抱いても、それは言葉の上でちょっと言ってみた程度のことで、どれだけノリスケや波平がそれに慌てたとしても結果はつねに「大したことない」に収まる。

「サザエさん」に感じる唯一の懸念は、家の中のTVを始めとするセットがいまだに昭和のままだし、スマートフォンはおろか携帯も出てこない時代設定だから、やがて現実との乖離がごまかせないレベルになって、上記のような価値を想像しない誰かしらの少なからぬ声に押されて番組が終了してしまうのではないか、という点だが、いや、もうそういう時代劇なのだ、あるいは「ムーミン」や「アンパンマン」のように異世界の未知の生物たちによる寓話なのだとして、ぼくの数少ないリラックス・ツールとしてどうか継続してほしい。

2014-09-26

ブログの使い分け

以前はけっこう迷った記憶があるのですが、最近は自然に使い分けられている気がします。ブログの使い分け。

このブログは2004〜2005年ぐらいから使っているので一応大元というか、本当は最初に使ったブログはJUGEMだったんだけど、当時はすごい重くてこれかなわん・・と思って一時退避的な意味でしぶしぶはてなダイアリー使い始めたんだけど更新の手軽さとかいろいろあってこっちがメインになったという。
で、ここは機能的な側面から分類するなら「自分のこと全般を扱う」みたいな感じです。全般・・というか、その他の特化的なこと「以外」は全部ここ、みたいな。

で、今はそれ以外にはてなブログとMedium、あとはTwitterとFacebookを使っていまして、いや後者2つは普通ブログとは言いませんけど、「どこに書くか考える際の選択肢」という意味ではけっこう似た感じかと思います。

はてなブログの方には、僕はプログラミング入門者なのでそれに関わることを多く書いています。入門者ならではの、と言えるかはわかりませんがいずれにせよ、テック系。
http://note103.hateblo.jp/

Mediumはなんというか、ポエムというほどじゃないですけど「言葉だけがそこにある」的な、自分の出自や所属、普段の人間関係とかからはちょっと離れたような、まあアフォリズムというのか、哲学というのか、言葉がそれ自体として道具になるような何かを書き残したいときに使っている気がします。
その意味では、けっこうこのブログの(とくに最近の)傾向と近いんですが、Mediumはもっと何というか、自分じゃない誰かが言っても成り立ちそうなこと、古今東西のどこで流れていてもいいような話、という要素が濃い気がします。
https://medium.com/@note103

Facebookはその多くがけっこう細分化した友達リストに沿って「この内容はこのリスト、この内容はこっち」みたいに、相手をつどかなり絞って投稿します。複数の人と同時に電話する感じ、というか。
と同時に、このところは試験的に、これまでほとんどやってなかった「全体公開」の設定でさらっと何か投稿したりしますが、これはこれで新たな体験というか、広い相手先からダイレクトめの反応が返ってくるのでなかなか面白いなと感じています。
ちょっと不安があるのは、それにコメントをする人がそれを全体公開だと気づかずに(知り合い同士だけが見ていると思って)コメントしてしまうことですね。そのたびに「いやそれ、コンテキストが一致してない他人から見たら誤解されますから」なんて言うのも大変なので、それで余計に全体公開は余りしないでいたのですが、とはいえそういうことにしばられて人生過ごすのもどうなのか、ある程度適当でもいいか、という感じで全体公開率増えつつある最近のFacebookという感じでしょうか。
https://www.facebook.com/note103

最後にTwitterですが、
https://twitter.com/note103

これは世界中で同時に数えきれない人たちが投稿しているサービスで、その数があまりにも多いから何か言っても誰にも聞こえていないような、心地良い匿名感みたいなのがあって、しかし実際にはもちろん、カギ付きでないかぎりはすべて全世界公開なので、そのアンバランスさが面白いと思っています。
全世界公開である緊張感と、でもほとんど反応がないような涼やかな孤独感みたいのがどっちもあるこれ、ドラえもんの「[石ころぼうし:title=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%BC%E3%81%86%E3%81%97」みたいだなーとよく思うのですが。

そう考えると、ぼくは常時ほぼ5つの「書く場所」を選択肢として持っているわけですが、しかし上記のような「機能」によって使い分けているのかというとそうでもなくて、つくづく思うのは「その場所を誰が見ているのか」という、客層というのか読者層というのか、その人たちを想定して、このブログを見ている人にはこの話題はとくに興味ないだろうとか、あるいはこの話題はこの場所を見ている人には共感される部分があるかもしれないとか、そういう判断基準で選択しているという気はしていて、そういう考え方をするようになってからほとんど迷わなくなったなーという気がしています。

たとえばこのブログでも以前はPerl入学式の話やYAPC、あるいはVimの話を良く書いていたけれど、そしてその時にもすでにテック系のはてなブログはあったりしたのだけど、それでもなぜここに書いていたのかというと、そのときには「読者」ではなく「機能」を基準に選択していたからで、かつそのときぼくはこのブログが「メイン」であって他は「サブ」的なものだと思っていたので、ぼくの人生上の「メイン」的な出来事はここに書くだろう、と思ってそうしていたのだけど、後から思ったところでは、やっぱりテック系の記事を自分ごととして読んでくれる人というのはテック系の人で、そういう人がじゃあ、このブログの過去ログみたいなことに興味をもつかというと、まあ持つかもしれないんだけど、そうでもないのかもしれない。それよりは、テック系の内容を集めたところにそれを書いた方が、書いた側も読む側も綺麗にマッチする可能性があるのかもしれないと思えてきて、かつTwitterの方にはどちらの(メインの/テック系の)ブログ記事も1本化して流しているので(厳密に言うとはてなブックマークを経由してTwitterへ、という一本の筋を通して)、Twitterやはてブでつながっている人にはそのどちらにも触れる機会があり、もしそれでこっちに興味をもった人がいればそのままこっちも読まれるだろう、ということもあるのでその辺まで含めて考えても「その場所がどういう目的・機能を持っているのか」ということよりも「その場所をどういう人が読んでいるのか」という基準で考えるのがたぶんラクかなー、と最近は思っています。

2014-09-19

論理を信じる

何かにホッとするとき、というのはどうやら僕の場合、「こうなるだろう」と思ったとおりに現実が再現したときで、想定通りに事態が運ばなかったり、目の前の人が言っている理屈がまったく理解できなかったりするとけっこう苦しさを感じるようだ。

このようなときに僕が自分に対して頭の中で言うことはいつも似ていて「僕は論理を信じているからな」ということだ。

そして今日あらためて、というか初めてかもしれないが、思ったのは「僕は論理を、宗教を信じるように信じているのだな」ということだった。

宗教と論理はある意味でまったく反対のものであるように僕自身は思っていたけど、こう考えるとまったく矛盾なく結びついている。

チカラAで時間Bのあいだ動くとA*Bであるところの距離Cだけ移動できるのと同じように、論理AをBだけ信じるとCの恵みを得ることができる。
AとBは別ものだが結びつくことで新たなCを生む。

水平に走るAに角度Bを付けると高さCが生まれる。動力も角度も別のものだがそれらが組み合わさるとどちらだけでも行けなかった場所に行ける。

論理は道具で、誰にでも開かれ、提供されている。それは再現性を持ち、誰が遂行しても同じ結果に至る。
信じるということは感情で、それは力であり、エネルギーであり、そこに理屈はない。理屈が不要ということではなくて、理屈の話は他ですればいい。信じるということはただそれだけの何かで、それだけであることに価値がある。信じるということは力であり、感情であり、それだけでいい何かだ。

一般に言われる宗教とはたぶん、その信じるということに様式性を持たせて、ある種洗練させたものだと言っていいのではないか。その意味で宗教とは態度であり、あり方の表明みたいなことだとも言えるだろう。

僕はだから、話を戻すと、論理を信じている、という態度を明確に表明することで、「宗教を信じるように論理を信じる」ことをしているのだと言えるかもしれない。



もちろん世の中にはわからないことの方がわかることよりずっと多く、こうなるだろう、と想定したとおりには行かないことばかりである。
しかし想定したとおりに物事が運ばない、ということは失敗でもなければ損失でもなくただそこにある事実だ。僕が生まれてここにいるのもまた成功でも失敗でもない何かであって、それに近い。

再現性の何が重要かといって、限られた人生を楽しさに満ちて生きるために、一度味わった「あの楽しさ」を様々な形で何度でも、あるいはそれ以上の強さで味わいたいと思う、その欲望を実現するために有用だと思われる点である。

ただ指をくわえて空からそれが落ちてくるのを待っているのでもなければ、闇雲にあちこちへぶつかっていくだけなのでもなく、なんらかの根拠やヒントを道標に「あの楽しさ」あるいは「まだ見ぬ喜び」みたいなものを探し、そして得るためにそれが必要なのであって、だから論理という道具が通用しない状況に遭遇するとたまらなく不安を感じるのではないか。とそう思った。