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2014-07-26

ZDD(雑談駆動開発: Zatsudan-Driven-Development)のススメ

グループで作業をするときには様々な問題が生じうる。

たった一人で制作から販売まで完結する仕事ならばそういったものを避けられるかもしれないけれど、普通はそうそうそうならない。上司部下の関係もあれば先輩後輩、他部署との関係、他社との関係、その他社がまた立場的に上か下か、とかいろいろ。

理念としてはすべての人は平等だけれど現実世界ではそうもいかない。何しろ人の気持ちは流動的で、自分自身の考えすらコロコロ変わる。そして変わって良い。それが自然。一貫性は愚かな人間の言い訳である、と言ったのは誰だったか。(誰も言ってないかもしれない)

ぼくは仕事を2〜4人のチームで進めることが多い。
少し前にやっていたボランティア団体ではその10倍ぐらいか。つまり20〜40人ぐらいのメンバーの一員としてあれこれやった。

『Team Geek』という本があったけど(感想も少し書いた)OSSの開発でもボランティアでも仕事でも、これは共通して使えるのでは、と思える作業の進行方法があってそれが「雑談駆動開発」(Zatsudan-Driven-Development: ZDD)である。

ぼくを含む大半の普通の人は怠け者で(ということにします)放っておけば「本来優先すべきこと」をよりラクな、あるいはよりタノシイことより後回しにしてしまって、「なんでちょっとずつでも進めておかなかったの・・?」みたいに言われるハメになる。

しかしそうして責めるのは容易だけれど、「その石を投げて良いのは誰か」と問われて「ハイ、俺!俺!」と答えられる者がいるだろうか?(反語)
不完全な人間同士がそれぞれの不完全さを決定的な失敗に至る前に気づかせ合うことが「雑談」の威力であり機能である。

以前の仕事のチームはぼくともう一人のほぼ2人体制だったけど、とくに用がなくてもお互い午前10〜11時の始業とともにSkypeを上げて、おつー、とか言い合った。その目的は「おつー、と言い合うこと」そのものであって、それを通してどうしたい、とかは事前に考えていない(少なくともぼくはそうだった)。
しかしそのまま「いや昨日大変でさ・・」とか言い始めると、それがなんかトリガーになって、あとその後の実務がイヤというか疲れるのでそれを迂回しようとするようにとりあえず頭の中にあるあれこれを報告していった。

すると、その「ついで」や「そのまたついで」みたいな感じで、話し始める前にはとくに思い浮かんでいなかったあれこれの「アイデア」や「報告すべきこと」が目の前に出てきて、どんどんついでに報告しあうことになる。
結果として、ぼくらの間にはつねにその時点で知っているかぎりの情報が共有されていて、どんなアクションを取るにせよすでに前提が共有されたあとの「その次」のことから即スタートできてこれは大変効率の良いチームだった。
(まあもちろん、その相手とのチームワークにおいていくつかの不備もあったけどそれはまた別の話)

さて一方で、数十人規模のボランティアグループでもこれはそれなりに有効に働いた。あ、「これ」というのはもちろん「zdd」のことです。(大文字にするのも面倒なのでもう全部小文字にしますね)

zddの何がいいかというと、いちいちカッコつけない、という前提であること。
自分が偉い人だとか、大きく見られるべき何かだという前提でアクションしようとすると、その前に何度もその「これからやろうと思っているアクション(たとえば発言)の内容」を精査することになってしまい、そのアクションじたいを商品としてゴハンを食べるならばその精査は重要だろうけど過程としてのアクションにそのつど商品性を求めていたら最終的な成果物はいつまでも出てこない。

去年のYAPCの最後のLTで「ボケて」を運営する株式会社オモロキ代表の鎌田さんが発表していた内容がこれに近いんだけど、そのエッセンスというのは「レスは短くして最後に『!』を付ける」というもので、たとえば御礼のレスが「ありがとうございます!」だけ、とか。
(実際はそういう内容じゃなかったかもしれないんだけどそういう印象をもったということです)

自分のブランドを上げようと思いながらやりとりしていると選択肢の多くがNGワードやNGアクションになってしまって、それを避けているとそもそも何をしたかったのか/言いたかったのかがわからなくなってしまう。そしてそのみっともなさ(そもそもの目的を忘れるという無様さ)を隠蔽するためにぼくらはまたさらにカッコをつけてもはや誰にもわからない理論を振りかざしたりしてしまう。

みっともなさを隠そうとして余計にみっともなくなってしまう、というのはぼくらがなかなか逃れがたい人間生来の傾向であるかもしれず、だからそのことじたいを責めるのは不毛だとも思うけれど、だからこそというか、そもそもの発端である最初のカッコつけをやめるために我々は「とりあえずの雑談」をもっと有効に活かしてよいのではないかと思う。

このように書いてきて思うのは、ぼくが言ってる「雑談」というのは「カッコつけ」の反対側に位置している。そこには自分の役職とか立場とかはない。
また一見すると本来の仕事の内容とも離れているようだけど、じつはこれこそが最も仕事を迅速に進行するために必要な「取り掛かり」を誘発してもいる。雑談は全方位を向いていて「すべて」の要素を含んでいるから、「仕事はイヤだ」と思っている人にも容易に侵入してしまう。「仕事はイヤだ」と思っている人に知らず知らず仕事の要素を飲み込ませてしまっている。それはまるでハンバーグの中に内緒で混ぜ込まれたニンジンのすりおろしのようであり、またすすったお茶に混ざっていた空気中のチリやホコリのようでもある。

他の楽しげで「非・仕事」のようであったそれが実は「仕事」のエッセンスを抱き込んだ多彩で多面的な雑物であるからぼくらはそれらを無警戒に自らの中に入れてしまい、そのときにはすでに本来の「仕事」に取り掛かってしまっている。

というわけで、雑談は仕事を駆動する(こともある)と思う次第です。

2014-07-21

流氷の上にくらす

以前、Mediumに以下の記事を書いた。

そして敵が生まれる
https://medium.com/@note103/d5d2cec9e41d

今日ふとそこに書いたことを思い出し、またそこからつながることを思ったので、場所を変えて同記事を再掲しつつ、新たに考えたことも記す。


そして敵が生まれる

おお、この人いいこと言ってるな、この考え方は役立つな、この情報は新鮮で面白いな、と思うようなことを言っている人が、同じ文中や一連のツイートの中で、他人を小馬鹿にしたり攻撃したりしていることがある。

典型的な例としては原発関連の話題などでよく見られる光景で、様々な観点がありうる複雑な問題において、一概にどの意見が絶対に正しいなどということは言えないから、Aという意見が論理的に正しくてもそれに真っ向から反対するはずのBという意見も見方によっては筋が通っていたりして難しい。

であるなら、AもBも論理的には正しいとした上で、そのどちらも許容する新たなCの論理を見つけなければならないところ、AかBのどちらかを選ばなければならない雰囲気に飲まれてしまって戦いが生じたり、それがいつまでも続いたりしてしまう。

役立つ観点や論理を生み出すことはそれだけで価値のあることだけど、その価値をより補強しようとして別の論理やその提唱者を悪く言ってしまえば、それはむしろそうした行為をする人への失望をもたらす。

別の論理が持つ事実としての誤りを指摘することに意味はあるが、上で言うのは単に相手に悪いイメージを植えつけて、その結果として相対的に自らのイメージを上げようとする行為である。

こんな風に書けばそれが愚かな行為だということは誰にでも分かりやすいが、実際には少なからぬ場においてこの光景が見られる。そしてそれはなぜだろう? と思う。

この答えの一つは、この記事に示されている。(日経のログイン必要)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20140514/264597/?P=9

松田:そして僕は「松田の最終定理」を考えるに至りました。それは「人間には理性は無い」という定理です。
ちなみに第1定理は「人は自分の意見は主張する、相手の意見は聞かない」。第2定理、「サルは反省するが人間は反省しない」。要するに人間は理性で動いていないんです。
(略)
この問題というのは実に根が深いのですよ。まあ、人間には理性がないと言ったらこれは言い過ぎですね。1割が理性で、残りの9割が感性なんです。

Y:私なんかはそうかもしれませんが、理系の大学の先生まで?

松田:ノーベル経済学賞を取ったダニエル・カーネマンをご存じですか?
(略)
彼が出した本で、『Thinking Fast and Slow』というのがあります。
(略)
単純化して言えば「fast thinking」というのは直感です。「slow thinking」というのは論理です。これを僕流に理性と感性と言いますと、人間は理性が1割で感性が9割だと私は思います。だから世の中の動きはだいたいこれで説明できる。あらゆることを感情が支配し、理性、論理を妨げる。

Y:私は、理科系の科学者こそ自分の感情に左右されず、信じていた仮説でも事実の前にはどんどん改めていくような人なんだ、と期待しちゃうんですけど、全然そんなことはないと?

松田:ないですね。まったく。これは知能、その人の思考能力とは関係ない。だって、大学教授になるような人は、入試を良い成績でパスしたはずですよね。頭は良いはずです。でも自信があるだけに思い込みも強い。それが、当人が「論理的」と思っているところにも影響するんだということです。だから、一度思いこんだ仮説を手放さないことも頻繁に起こる。

(日経ビジネス: 「飛行機がなぜ飛ぶか」分からないって本当? 間違った説明や風説はなぜ広がるのか(松田卓也インタビュー)より)


カーネマンの同書については僕も以前にブログに書いたが、
http://d.hatena.ne.jp/note103/20130114/1364447376

上の記事の引用(抜粋)部分はいろいろ頷けるというか、自分の感覚に近いものがあった。

これは僕なりに言い換えると、「論理というのは感情という土地に建つ家のようなものだ」ということになる。論理がいかに堅牢で精緻に構築されていたとしても、その地盤がボロボロだったらすぐに崩壊する。

どのように優れた理論家であっても、その根っこというか土台にあるのは感情であって、人間である以上はその構造(原理というか成り立ちというか)から逃れることはできないので、せっかくある時には良いことを言っていても、ちょっと気を抜いたらすぐ感情に(悪い意味で)捕われ、不毛な戦いの引き金にしかならないような攻撃に走ってしまう、というような。

山崎ナオコーラさんの小説に「論理と感性は相反しない」というものがあるけれど、以前にはどういう意味なのかわからずにいたが、そしてもちろん、そこで意図されていることは小説の中にしかないだろうけど、それでも上記を踏まえればそのタイトルで言われていることも分かるような気がしてくる(勝手に)。

論理というのは感情と対置するものではなくて、感情にいわば包み込まれたものだと考えた方がいろいろ役立ちそうだと思う。


宇宙が生まれるより昔

どれだけ論理的で冷静に見える人でも、あるいは実際にそのように生きている人であっても、それは曖昧で予測不可能な動きをする海に浮かぶ船のようなものであって、船がいかに頑強であってもその下が海なので航海を100%コントロールするなどということはできない。

このイメージはさらに、流氷の上に立つ人を想起させる。いかに確定的な思索と言動と行動をしようとも氷一枚隔てた下には無限に近い謎に満ちた海が待っている。人間はユラユラとその上を漂流しながらあれこれと考えたり動きまわったりしている。なんの保証もない。約束された見通しもない。

これはたんにイメージだけの話ではなく、現実的に我々の足元は不確かである。100年前の人間を想像する。そのまま1000年、1万年、数十億年、と過去へ遡ってみよう。いずれ宇宙が生まれるだろう。でもその前は? 5才の子どもが問うようなその疑問に我々は答えられない。不確かな、というよりそこに何があったのかわからないということだけは確実に言える何かの上に我々は立っている。それは流氷の上に立つ誰かのようだ。

それが虚しい、という話ではない。それを思いながら時間を過ごすことで、より求める何かに近づいていけるのではないかということだ。

2014-06-26

感想: 倉貫義人著『「納品」をなくせばうまくいく』をめぐって

掲題の本を読みました。面白かったです。



著者およびその主張するところについては、少し前に公開された以下のインタビューで先に(同書の発売より前に)知ったのですが、

クラウドとアジャイルを武器に「納品のない受託開発」に挑む 経営者 倉貫義人|三年予測 |IT・Web業界の転職ならDODAエンジニア IT

今思うと、同書のプロモーション的なところもあったのでしょうか。内容は似ているので、もしこのインタビューを読んで興味を持ったら本を読んでみる、というのでもよいかもしれません。

ぼくはまさにそんな感じで読みました。

導入

要旨としては、従来のソフトウェア開発の主流である「一括請負型の受託開発(&納品)」という商習慣からパラダイムシフト(考え方などの転換)して、「納品のない受託開発」という選択肢を作ろう、定着させよう、みたいな話でしょうか。

ここで言う「ソフトウェア開発」っていうのは、まあたとえば依頼主である事業者のウェブサイトとか、そういうインターネット上でサービスを提供する際の道具というかメディアというか、そんなのを作ることだと思えば大きくは間違っていないかと思います。

詳しくは本書や上記インタビュー、あとは著者の会社における以下にもいろいろ載っているようです。
http://www.sonicgarden.jp/category/concept/
http://www.sonicgarden.jp/32

同書に関しては書評というか、感想記事も多く出ているようですので、あらすじを語るように内容そのものを記していく、ということはここではしませんが、倉貫さんのTwitterを見ているといろんな感想記事がどんどんRTされてくるので、それを見ていけばおおよそのところは知れるかと思います。
https://twitter.com/kuranuki

第一印象 / 主題

著者は本書の中で、従来型の「一括請負&納品」による受託開発のデメリットというか、不合理で非効率な面をバシバシと挙げていきます。

なので最初は、「いや言ってることはその通りかもしれないけど、これ、言われてる側(従来型の開発をしている企業など)は素直に受け入れられないんじゃないかな〜」とか、「もう少し受け入れやすい言い方にしないとせっかくのグッドアイディアも生きないのでは〜」とかいう心配を勝手にしていたのですが、読み終えてみるとけっこうバランスが良いというか、要所要所でそういう懸念に対するフォローみたいなこともされていて、前半で投げ出されたりとかさえしなければ、そういう「無駄に敵を作る」みたいなこともないのかな、と思いました。

著者は従来型の開発のあり方とは別の、ある意味では新しい開発スタイルを提唱していて、仮に以前のそれを「納品型」と呼んだ場合、新しいそれは「顧問型」と言えるかと思いますが、この前者が基本的には顧客との一時的な付き合い(関係)を前提とするのに対し、後者は恒常的で永続的な付き合いを指向していると言えるでしょうか。

で、その主張が「前者は古いからもう後者にしようぜ!」みたいな姿勢だったりすると、なかなか受け入れられづらいと思いますし、実際それはナイだろ〜って感じになるわけですが、ここで主張されているのは、「前者に向いてる状況もあるだろうけど、後者の方が適してる状況もあるんだから、そういう場合は後者を選択しようぜ!」みたいなことなので、その辺がうまく伝わればいいんだろうな、と思います。

選択肢を増やす

たとえばぼくは、毎日ダイエットコーラを飲みますが(具体的にはペプシネックスですが)、それは「味のついた炭酸飲料を飲みたいけどレギュラーのやつは甘すぎる」という理由でそれを選んでいるわけで、もし世界にダイエットコーラがなかったら多分そもそもコーラ自体を飲まないと思われるわけですが、そんなぼくから見ると、この「納品のない受託開発」というのはダイエットコーラ的な「新たな選択肢」としてあるように思えてきます。

ついでに言うと、いま世間では缶チューハイやスピリッツのアルコール度数がどんどん上がって、かつては5%程度が普通だったのが、今では8%ぐらいが当たり前というか、低価格でどっぷり酔える、いわば「コストパフォーマンスの良い甘味系炭酸アルコール飲料」の全盛みたいになってるんですが、ぼく個人の好みとしては、それだとすぐに酔っ払ってしまってお酒の時間自体をあまり楽しめないので、もっと低アルコールのドライな(甘くない)炭酸アルコール飲料がいろいろ出たらいいのになあ、とは常々思っており(ノンアルコールとか、やけに甘いだけの低アルコールのそれでもなく)、しかしあまりそういうのに合致したものもないので、この界隈ではまだパラダイムシフトが起きてないな、と感じたりしています。

閑話休題。著者の言う「納品のない受託開発」の良さ、そして従来型のデメリットについては、書中で一つ一つ論理的な説明が成され、まあそうだろうな、という感じなので、その辺の「べつに全部入れ替えようってわけじゃないんだよ」「適材適所なんだよ」「これまで必要とされていたにもかかわらず存在していなかった選択肢を作ったんだよ」というあたりが上手く浸透すればいいんだろうなと思っています。

言いづらさのメリット

もうひとつ、読みながらつくづく思ったのは、「納品のない受託開発」というこの言い方、バズらないよな、ということで、でもそれはべつに悪い意味ではなく、たとえば「ビッグデータ」とか「クラウド」とか「アジャイル」みたいな「言いやすい」「ちょっと言ってみたい」「よくわからないけどそれ言うとなんか知ってるふうになる」みたいな感じで言葉が流通してしまうと、それを遠巻きに見ている、かつその内容をまだよく知らない人が、つい天邪鬼的にそれを敬遠してしまう、みたいなことになりがちなので、そういう「消費される言葉・概念」になりづらいという意味で、このバズりづらさ、言いづらさ、まあ何しろこうして何度か書いていますが、「納品のない受託開発」は書きづらい、書くのが大変面倒くさいので、「それでも言いたい人だけが言う(書く)」という状況になっているのは、著者の意図かどうかはわかりませんが、まあよい面ではないか、とも感じます。

ちなみにこれ、なにか名前をつけるとしたらなんでしょうね・・なんちゃら開発、とかいう言い方になるのかもしれませんが。それに普通に想像すると、一応はネーミング、著者さんも考えられたとは思うのですけども。

そもそも、この書名もそうですが、「納品のない〜」「「納品」をなくせば〜」というふうに、否定形がその存在、概念を表しているという時点で、けっこう異例ではありますね。それは言い換えると、つねに「従来型と対になってこそ成り立つ概念」であるということを示してもいるわけで、その意味でも、「全部を塗り替えるわけではない」「従来型と住み分ける、分担しあう関係なのだ」というところは(少なくとも現時点では)外せない要素なのだろうなと思います。

注釈の妙

話は飛びますが、同書では時折出てくる注釈や、注釈にはなっていないけど本文で説明されている専門用語の解説などが非常にわかりやすく、またその「一応この言葉、知らない人もいると思うので説明しておきますけどね……」というふうにピックアップされる語句がいちいちツボを突いているというか、「そうそう!その言葉、前から曖昧だったんだよなあ、そうなんだ、やっぱそういう意味なのね」みたいなことがたびたびあり、その辺はもっと評価されるべき、と感じました。(されてるのかもしれませんが)

たとえばですが、「システムインテグレーター」とか、あと「クラウド」の注釈もけっこうそういう感じで役立ちました。また、そうしたそれぞれの解説が、「本来はこういう意味の言葉だが、この業界ではちょっとズレてこういう意味で通っている」みたいな感じで多層的に説明され、しかもそれらがどれも1〜2行で簡潔かつ平明に説明されているところなど、ぼくも普段の仕事でよく注釈作りますけど、これはすごいなあ、と思いました。

そしてそういう作りっていうのはようするに、これがソフトウェア開発の現場や、エンジニア、プログラマーといった業界の人だけを対象としたものではなく、そのもう1〜2層外側の人たちにも向けて書かれていることを示しているのではないか、とも思われ、実際これを起点に、別の業種にこうした合理的な考え方を知らせていく、ということはそれほど突飛な未来像でもないだろうと思います。

肉じゃが理論

本書で語られていることというのは、著者自身が「パラダイムシフト」と幾度か言うことが逆説的に示すように、現状ではまったく主流ではなく、むしろ異端というか、まだまだ懐疑的な人も多かろうと思います。というか、懐疑的になってもらえればまだいい方で、おそらくは単にまだあまり知られていないので、それこそある程度バズって、よく知らない人から「なんだよ、あんなの」とか言われ始めてからが本当の勝負なのかなとも思いますが、いずれにせよ、その本当の勝負において大事になってくるのが、「いったいどれだけの人がそれを実践し、それなりの成果を出したのか」という点であろうと思います。

その点、すでに著者は一定のアドバンテージを持っていて、なぜならこれは単に机上の空論ということではなく、著者自身が3年(でしたっけ)にわたって自身の会社で実践し、成果を出してきたという実績があり(まあぼくが直接その実態などを見たわけではないですが)、さらに説得力を補強するかのように、同書には顧客インタビューというコーナーで2タイプの事例が掲載されているので、「こーんなふうに、なればいいあ〜とか思ってるんですよねえ(笑)」みたいなユルい話ではなく、現実世界でちゃんと叩き上げられているということが嫌でもわかります。

新しいことを始めようとしたときに、それによって不利益をこうむる人が嫌な顔をするのはある意味で当然ですが、べつに自分が損するわけでもないのに、なんだか拒否反応を起こすという人も居て、それを一概に悪いとはいいませんが、でもそのせいで、本来広まるべき、というか広まったら少なからぬ人が幸せになったろうと予想されるものが、そうではなくなった、みたいになるとけっこうツライというか、残念です。

ぼくの知り合いで、すごく印象深いことを言っていた人がいて、「新しいことをやろうとか思うな。料理でも、ちょっと変わった味付けしようとすると失敗してマズくなって、食材を無駄にするだろ。逆に肉じゃがっていうのは、今まで長い歴史を経て人々が作ってきた料理だから、誰が食ってもウマイだろ。新しい料理を作るんじゃなくて、すでにあるものを丁寧に作ることが大事なんだよ」という話でした。
そのときは、へえ〜、なるほどね、と思ったし、実際頷ける部分もあるんですが、よくよく考えると、「じゃあ初めて肉じゃが作った人ってどうなるの?」という問題もあって、まあ、破綻している。破綻しているけど、こういうことを言う人は厳然として存在していて、しかも自信を持っている。そういう人が悪いとかダメとかいう話ではなく、考えるべき問題は、そこで「なるほどねー」と思ってみたり、それについてこうして書いているぼくも含めて、ある種の人間の中にはそういう「肉じゃが理論」で考えてしまう部分が確実にあるということで、それをじゃあどう乗り越えて、どうやって新しい選択肢、役に立つ考え方を提示し、実現していけるのか、という点にあるのだろうと思います。

ようは意識的であれ、無意識的であれ、こういった異例の試みに反発を感じたり、嫌だなと思ったりする人たちとどうやって楽しい世界を作っていけるか、ということが、おそらくは今後長い時間をかけて解決していかなければならない重めの(そして避けがたい)課題になるのだろうなあ、とも思ったりしました。

求められる実践者

上記のように、この方法論はすでに著者自身が少なからぬ期間、実践しているという意味で、机上の理論とは言えないものではありますが、同時に、まだ孤独な戦いの最中であるとは言えて、結局のところ、この主張、試み、方法論の真価というのは、今後どれだけの著者以外の人による実践が成され、また成果を上げていくのか、という点にかかっているのだろうとも思います。

それは一朝一夕に達成される目標でもなく、著者自身もまた数十年単位の長い時間がかかることを書中(のどこか)で書いていましたが、それだけ長い変化の、今は突端、兆しに立っているということなのだろうと思います。

で、これを読みながら、というより読む前から、「この本を読みながらこういうことを考えるだろうなあ」と思っていたのは、自分がこれを参考にどういう働き方をできるだろう? していくべきだろう? ということで、じつのところ、ここで提唱されているような働き方というのは、すでにぼくが現時点で実践していること、また目指していることにかなり近い部分、重なっている部分があると感じられて、その意味でもいろいろと参考になるところがありました。

ぼくは今、こういう企画にフリーの編集という立場で携わっていますが、

commmons:schola(コモンズスコラ)-坂本龍一監修による音楽の百科事典- | commmons

commmons: schola vol.13 Ryuichi Sakamoto Selections: Electronic Music

commmons: schola vol.13 Ryuichi Sakamoto Selections: Electronic Music

ここでやっていることは厳然たる「納品型」でありつつ、また一面では「顧問型」のようでもあり、その割合は巻の内容や時期によってバラつきがあったりしますが、今後よりどのようにしていきたいか、といった場合にはやはり後者というか、実際にやっている作業の内容に照らし合わせても、その方がフィットすると思える部分が多いのでそうしたいんですが、ではそうした方向にシフトしていくにはどうしたらいいんだろう? ということを考えるにあたって、本書は良い参照先になる気がします。

大変でいい

一例を挙げると、ぼくが今の仕事で担当していることというのは、けっこう多岐にわたるというか、限られた種類のことを集中的に繰り返しながら洗練していくというよりは、マルチタスクぎみにあれもこれも、それがまたどれも違うテイストのことだったりして、具体的には一人でグッと引きこもって原稿を仕上げなきゃいけないようなときもあれば、外部の初めてやり取りをするような専門家の先生方と連絡を取り合って、取材をしたり交渉をしたりするような(そしてそれを円滑に進めるために初めてのことを勉強したりという)こともあったり、あるいはメールやチャットで同期的/非同期的にインターネット上の連絡を取ることもあれば、電話やFAXや直ミーティングを繰り返すこともあったりで、なかなか一つのことに集中できない、フロー状態に入れない、みたいなジレンマがあって、そういうときには、「もっと〜だけをできればいいのに」とか「〜は別の部署に任せられたらいいのに」とか思うこともありましたが、本書を読むと、この「納品のない受託開発」で仕事をするエンジニアの人たちは基本的に誰もがその状態というか、エンジニアがプログラミングも営業もマネジメントも全部一人でやり切る、的なところがあって、だから従来型の開発にあったようなデメリットはないけど、それは単純にそれまでよりラクができるってことじゃないんだよ、と。これをやるにはそれなりのすごいスキルや経験や人間性が必要になってくるよ、みたいなことがあって、それを見てなんというか、「ああ、なんだ、大変でいいのか」と思いました。

これまでは、「こんなに大変なのはおかしい。きっとやり方が間違っているんだ」とか「もっと効率的に、同じ労力でより高い成果を上げられるはずなのに」とか思っていて、そういう指向自体は必要に違いないんだけど、それだけの話でもないなと。
別の観点から言えば、「作業Aだけに集中できる状況」というのはたしかに良い面もあるけど、それは「作業Aしかできない人間でよい」ということでは全然なくて、だから今自分がやっているようなことにしても、まあ、どう考えても向いてないのに無理やりやってる、やらざるを得ない、というのは問題であろうけども、そうではなく、マルチに担当しているそれぞれの作業がそれなりにスキルとして積まれているのだとすれば(仮定ですが)、それは明らかに自分にとってはプラスであって、「AもBもCもDもやらなきゃいけない状態」というのは「AもBもCもDもできる人間になりつつある」ということじゃないの、それは良い面もあるんじゃないの、というふうに思えてきたというか。
そして実際、そうした状況から今後すぐに別の立場へ変わるわけでもないことを考えれば、余計にそうした考えの転換はプラスになったというか、救われる面があったとも感じます。

もちろんその一方で、なんでもかんでも参考になるということではなく、ぼくのような(少し特殊な)編集者と、著者・倉貫さんの会社であるソニックガーデンや、その社員の人たちとの間にはそれなりに異なる状況もあるわけなので、「ああ、ここは応用できるな」とか「ここで言われていることは自分の弱いところだからもっと補強すると良さそうだ」というふうに自分と重ねられるところもあれば、「ここはそもそも参考にしようがないよな」とかいう部分もあり、そういう異同をいろいろと感じながら読み進めました。

連想したこと

ちなみに、本書を読みながらぼくが時折思い出していたのは、知人の西條剛央さんのことで、近年では「ふんばろう東日本支援プロジェクト」というボランティア団体の代表としての活動の方が知られているかもしれませんが、元々は心理学者・哲学者、本人は理論工学者(?)と自称されていた気もしますが、彼の論理の立て方に近いものがここにはあるような気がちょっとしました。
また、理想論をぶつだけでなく、それを自ら実践することで論の確かさを証明しようとする、というあたりも似ていると感じた理由かもしれません。

西條さんはおもに上記の団体における活動を通して、まあ毀誉褒貶というか、いろんな面が取り沙汰され、ぼく自身もまた、以前にここにいろいろ書いたかもしれないように、彼のすべてを正しいと思っているわけではないですが、それでも良い部分は良い部分として明らかにあり、そういうところが上手いかたちで社会に広まっていけば、誰しもが限られた人生を多少なり幸せに生きていけるのでは、と思わなくもありません。

彼もいろいろ著作を出していますが、専門的なものかボランティア関連か、ぐらいの選択肢しか思い浮かばないので、コレというものが勧めづらいですが、個人的には彼の師匠である池田清彦さんとの対談集が好きで何度も読みました。一番読んだのは2006〜7年ぐらいですかね。最近は読んでないので、今読んでどう思うかはちょっとわからないのですが。


まとめ

なんだか別の話になりましたが、一応まとめます。

やっぱり一番、読みながら思ったのは、「それ、論としてはいいけど、現実味ないだろ」「絵に描いた餅だろ」みたいな声は絶対出てくるはずで、そういう態度にどう対するのか、みたいなことでした。
本書では、そうした声をいくつも事前に想定して、具体的に答えているわけですが(「このように思う人もいるでしょうが、それに対してはこうするのです」みたいなパターンがよく出てくる)、そもそもそういう反発を覚える人は、わざわざ本書のそういった説明を読んだりはしないとも思われるので、その溝が埋まるには(著者自身も想定するように)時間がかかるだろうなと思いますし、逆に言うと、その覚悟さえあればとりあえずいいのかなとも思います。

また同時に、上記の肉じゃが理論みたいなことを、「一括請負型(納品型)の受託開発」の良い面であるかのように言う人も少なからず居るはずで、そういうのも面倒は面倒だろうなとは思います。(しかもすべてが間違っているわけではない、というところがそういう論理の厄介なところなわけですが)

よって、いや適材適所なのだと、従来型がすべて無くなるべきだと言っているわけではないのだと。しかしすべてが従来型であるのはやはりおかしい、理不尽であると。だから選択肢を増やしたのだと。写真が生まれても絵画が残っているように、従来型も必要性があれば残るのだと。逆に携帯電話が出たことでポケベルがなくなったように、もし新たなスタイルの登場により従来型がなくなるなら、それは新たなスタイルが正しいとか古い方が劣っているとかいう話ではなく、人々がより良い生活を享受できるようになったということなのだと。
そんなふうなことをあの手この手で(時に熱く、時に静かに)訴えながら、これが社会や人生をベターにしていくひとつの試みになっていったらいいな、ということを思いました。