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2014-08-24

雪道をゆく

降り続ける雪の中、任意の地点AからBへ移動すると、雪の積もった地面には足跡がつき、その連なりが道になる。
B地点からA地点への帰り道、同じ足跡を辿れば道はさらに深くなり、周りの積もった部分との差は大きくなる。

翌日も、その翌日も同じ軌跡をたどることで、かつて通った道はさらに通りやすくなり、その他の場所へは踏み出しづらくなる。
雪は依然として降り続き、やむ気配はない。

いつも同じことをやったり、言ったり、考えたりしていると、その動きや言葉は次第に洗練され、もうそのことについては考えなくてもできるようになってくるが、一方、他のことをしないでいれば、それらについては鈍くなるし、そもそもそれらをやろうという気もなくなってくる。

体はひとつだから、いろんなところに足跡をつけても結局中途半端になってしまいがちだが、だからといって単一的な考え方のみを良しとして、その他の可能性への想像ができなくなってしまうのもどうなのか。

歩き慣れた雪道の脇に足を踏み出せずにいるのは、すでにうずたかく雪が降り積もってしまったからで、しかしそれを崩すことは必ずしも難しくはない(大変なだけで)と考えることは有用であるかもしれない。

2014-08-20

かつては絵を描いていた(6)

ペン大の初めての授業は2004年の2月で、場所は菊地さんがバンドでよく使う新宿の音楽練習スタジオだった。

スタジオ近くの地下鉄の出入口で待ち合わせをすることになっていて、それらしき人がすでに何人か集まり始めていたところに、向こうから白い軽そうなコートを着たその人はスタスタとこちらに近づいてきて、ぼくに「ペン大のかた?」と聞いた。

そうです、と答えると彼は周りを見回して、じゃあこっちなので、とぼくらを引率してそのまま信号を渡り、練習スタジオ兼ペン大の教室に歩いて向かった。

その年の4月から菊地さんは大谷能生さんと東京大学の駒場校で1年間のジャズ講義を行うようになって、彼のサイトの日記を読むと学生以外でもモグれるみたいなことが暗示されていたから、ペン大に入ったことで気が大きくなっていたぼくは初回の講義に行ってみた。

自分が東大の構内に足を踏み入れることがあるとは想像したこともなかったし、それを望んだこともなかったけれど、それ以前にすでに28から29才になろうとしている自分がそんなところをウロウロしていたら、目立ってしまってたちまち守衛の人などにつまみ出されるのではないかと、とにかくその初回ほど緊張したことはなかった。

授業の2日ほど前に、一度下見で大学の近くまで行ってみた。開始時刻に遅れたくなかったから、自宅からどのぐらいの時間がかかって、乗り換えはどこを使って、とかまるで事前にデートコースを下見する若者のようだったし、実際そのようなものだった。

当日は早く着きすぎて教室はまだ開いておらず、近くにもそれらしい人は誰もいなかった。学内を一周散歩してから戻ってみると、すでにドアの前には何十人も並んでいて、「学生さんはこちらの列、そうでない方はこちらの列」などと誘導すら始まっており、ぼくは「そうでない方の列」に並んだ。

講義は毎週木曜の夕方に行われ、それに出るとバイトしていたレストランの夜の営業に間に合わないから、店長はなるべく木曜を外してもらうか、入れる場合でも遅い時間にしてもらうよう頼んだ。
それが半年、そして1年つづき、ぼくはほとんどの授業に出席した。

最後の授業後には懇親会が企画され、構内の隅の一部屋で簡素な宴会のようなことをした。誰とどんな話をしたのかは覚えていないが、その部屋の非日常的なまでに白く明るかった様子をよく覚えている。

二人のジャズ講義は好評だったようで、翌2005年度の前期も講義が続けられた。
前年度はジャズの歴史全般のようなことを扱ったけど、2年目にはマイルス・デイヴィス一人を扱った。
そのどちらもが書籍化され、前者は『東京大学のアルバート・アイラー』、後者は『M/D』という名前で世に出された。

最後の授業が2005年の7月11日に行われ、ぼくは教室前方の教壇脇にあるドア(校舎内の廊下に出るのではなく外に直接出られるドア)から外に出ながら、大谷さんと短い会話を交わした。授業の前にはまだ降っていた雨がやんで、しかしあたりは台風直前のように不穏な光と風に覆われていて、タイル貼りの地面には濡れた土と葉っぱと小枝のようなものが張りついて汚れて見えた。

大谷さんにおつかれさまでした、面白かったです、みたいなことを言ったら、月末にも渋谷でイベントやるんだよ、良かったら来てよ、みたいな話になって、知ってますよ、フランス革命でしょ(笑)バイトが空いてたら行きますから、みたいな話をしたのだと思う。

2週間後の7/28に渋谷のアップリンクファクトリーで『大谷能生のフランス革命』というイベントが行われて、これは大谷さんがホスト役で同世代の表現者をゲストに招き、対談をしたり共にパフォーマンスをしたりする、というイベントの第1回だった。
この時点で何回続けるつもりだったのかはわからないが、お客さんが来てくれたら(赤字にならなければ)続けます、みたいな感じだったと思う。

第1回のゲストは映画監督の冨永昌敬さんで、終わってから大谷さんに「面白かったです」と言ったら「いやあ、いっぱいいっぱいですよ」と言って笑った。



前年に行われた東大のジャズ講義が書籍化されることになって、ぼくはその巻末に掲載される対談の進行役と、その文字起こしをすることになった。

二人の東大講義はモグリが半ば公認であったことも特徴のひとつだったが、もうひとつ、「そっくりモグラ」というハンドルネームの人が管理するteacup掲示板に同氏が作成した講義録が毎週掲示されることも大きな特徴で、生徒は(その多くがモグリや教室に来れない人たちだったろうが)そこで、東大とはまた別の「講義」を受けていた。

ぼくももちろんそこに入り浸っていて、やがて自分でもそれ(講義録)を作りたいなと思った。

そっくりモグラさんの講義録は彼なりに内容を編集したものだったから、ぼくはノーカットで二人の発言を文字に起こせばそれぞれの良さで補完し合えるかもしれないと思った。
いや、おそらくは最初からそのようなことを思ったのではなくて、最初はそっくりモグラさんが作ったものを見やすくHTMLにレイアウトし直そうと考えただけだったかもしれない。
ぼくはジオシティーズでHTMLのサイトを少し作っていたから、それを応用してそこにそんな内容を載せようと思ったのだ。
そしてそのコピペの際に、少しだけ自分なりの補完をしようと思ったのだ。最初はたぶんそんなことから始まった。

そっくりモグラさんの許可をとって始めたその作業(コピペしたテキストのHTML化+わずかな補完)だったが、回を重ねるごとにぼくの補完の量は増していき、初年の9月を迎える頃には土台の部分から自分で起こすようになっていたと思う。
その後の仕事にも通じて言えることだけれど、文字起こしというのは「途中まで別の人にやらせて仕上げを自分で」ということが非常にやりづらい。
職業としてそれをやっている人にとってはそれも自然にできるのかもしれないが、ぼくにとっては文字起こしという作業は音楽を奏でることに近くて、最初に作り始めたメロディは最後まで影響するからその最初の部分を他人にやらせてしまえば最後まで他人が作ったメロディと自分の中で生まれたメロディとぶつかって非常にやりにくいことになる。

だから文字起こしは最初から自分でやった方が結局ラクで、その後も可能なかぎりはすべて自分でやっているし、他人が作った土台を使わなければいけないときも最終的にはほとんどその原型をとどめないぐらい細かく作り直してしまっている。

すべての東大講義が終わる頃には、そのような次第でぼくとそっくりモグラさんによる2パターンの文字起こしがすでに仕上がっているという状況だったから、大谷さんから書籍化するときの土台にぼくらのそれを使いたいんだけど、と話があったときにはもちろんぜひ使ってくださいと答えた。
そしてそのとき一緒に、「巻末で菊地さんと対談やるんだけど、その進行役やってくれない」みたいな話をもらって、「ああ、もちろん」みたいになったのだと思う。

率直な印象としては「え、俺? いいんですか、シロウトですよ?」という感じだったけど(やりたくないという意味ではなく、俺ごときでいいのかなという不安や驚き)、大谷さん的には「いやできるでしょ、文字起こしもしてるじゃん、ペン大で菊地さんのことも知ってるでしょ」みたいな論理があったのかもしれない。
だとすればまったくそのとおりだし、辞退する理由なんてどこにもないし、辞退しないでヘラヘラ引き受ける自分で良かった。

後からわかったことだけど、一方のそっくりモグラさんは注釈作成や資料提供を受け持っていて、どう考えてもそれ、そっくりモグラさんの方が大変だったよな、と思うけど知識量や能力から考えても確かにそれは妥当な割り振りだった。

対談は新宿の焼き肉屋で行われたが、その日は菊地さんが直前まで京橋の映画美学校で音楽理論の授業をしていたから、ぼくは大谷さんと教室脇のロビーで待ち合わせをして、そのまま菊地さんと合流して新宿まで行くことになった。

ぼくは東大講義で毎回使っていた録音機能の付いたMDウォークマンと、バックアップのためにもう一台、そのために母から借りた同様のMDウォークマンをスタンバイして、それから入念にシミュレーションしたノートと、いざというときに使うかもしれない資料を山のように抱えていた。
会場に着くとすでに関係者が何人か待ち構えていて、それは東大講義の打ち上げの一種でもあったのだろうか、皆は好きに飲み食いしていたけど、ぼくは酔っ払うのと食べているうちに適切な進行のタイミングを逃すことが怖くてほとんど飲まず食わずで最後まで過ごした。

用意していた質問をしたりしなかったりしながら、それでも対談は何となくいい感じに終わり、ようやくひと息つけるかと思った頃には終電間際になっていたから先に帰ることにした。「支払いはどうすれば?」と菊地さんのマネージャーさんに聞いたら「ああ、いいですよ」と言われたけど、よく考えたら何も食べていないのだからそれも当然だったし、もっと考えたらそもそも菊地さんのマネージャーさんに聞くべきことだったかもわからない。

西武新宿線の沿線に住んでいたから、焼き肉屋から西武新宿駅まで歩いていかなければいけなかったけど、終電まで時間がなかったのと大雪が降っていたのとで(冬だったのだ)、氷と水が混ざったジャクジャクのアスファルトの上を大量の資料と2台のMDウォークマンを大事に抱えながら駅まで走った。
終電には何とか間に合って車内で座ることもでき、それでも混んでいる中でさっき録音したばかりのMDを確かめたら音が入っていなかった。それは普段ぼくが使っている方だったけど、祈るような気持ちでもう一台の借りた方のMDウォークマンを確認したらそっちは録れていた。

1週間程度で文字起こしと簡単な(しかし慎重に)編集を施したデータを完成させて、大谷さんに送ったらOKと言われ、それはぼくの構成をある程度生かしてもらったまま上下巻に分かれた書籍の上巻の巻末に掲載された。

人生で初めての文字起こしは2004年の東大講義で、人生で初めて自分の文字起こしを使って編集をしたのはその冬の対談だった。

同書はメディア総合研究所という会社から出版されて、それは元々菊地さんと大谷さんを結びつけた人が編集者として勤めているから、という縁もあったようだけど、数年後には文藝春秋から文庫化され、しかしそのときにはその対談は外されてしまった。

2014-08-15

憎しみ合う原理とその対策

人が人を憎むと、憎まれた側もそれを踏み台にして相手をつい憎んでしまう。
ここで言う「憎む」とは誰か他人のことを自分の「敵」であると認定し、「こいつなら叩いてヨシ!」みたいに扱うということである。

このような現象に共通するのは、「こいつは敵だ」と認定した相手を、自分とはけっして同じものではない、まったく別の存在であり、自分が属している居心地の良い共同体から叩き出さなければならない異物として扱うということである。

逆に言うと、相手の中に自分と共通したものを感じ取り、相手を「自分とは切り離された異物」として感じられないときには、その人を敵とはみなさないし、憎む気持ちも消えている。

それはある意味で想像力の問題とも言えるが、想像力なんて意識的に起動できるものではそうそうなく、むしろ天気をはじめとする自然現象のように、こちらの都合に関わりなく勝手に動いているものだとも思われるから、「想像力を駆使して」その困難を乗り切ろうなどという楽観的なこともなかなか言えない。

普段から触れている環境の中に、「相手の中にある自分のような部分」や、「自分の中にある相手のような部分」を見つける習慣がまぎれ込んでいれば良いのかもしれないが、どういう方法でそれを成せるのかはわからない。

憎しみ合いの現象を目にするたびに、ああこの人たちは、相手を自分とはまったく別の生命体であり、自分自身とは微塵の共通項もない異物だと認識している、あるいは認識したいと思っているのだなと感じる。ぼくの中にもそれはあるが、そんなときには腰の重い想像力をなだめすかして立ち上げさせなくてはならないのかなとも思う。

解決策のひとつには、憧れという気持ちを利用する方法がある。
あの人のようになりたい、あのような生活をしたい、あのような風景を見たい、とかなんとか。もしも憎しみ合いからある程度離れた場所に、そういった憧れの対象があったなら、短い人生を同じ人間同士の叩きつぶし合いで満たすことを避けることもできるかもしれない。

その「憧れ」というひとつの策を、逆方向から悪用することもできるが、そもそも生というものがつねに死とセットで在るように、逆方向からの作用を完全に打ち消すことなどできないのだから、問題は「どの程度それと適当な距離をとりながら求める生を果たしていけるか」ということで、それが上手くできたらいいのだけど、と思う。