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毎週みるTV

以前はどうだったかよく覚えていないが、ここ数年で大体みるTV番組が決まってきた。
圧倒的にTVを見る時間自体が減ってきたので(代わりにPCモニターかiPhoneの画面を見ている)必然的に「あれもこれも」という感じではなくなってきている。

ぼくがTVを見るのはほぼ夕食のときだけで、約1〜2時間である。そのときにちょうど好きなTV番組をやっている、などという確率は低いわけで、だから見たいものがあれば録画しておいてそれをタイムシフト的に再生する。

などと言いつつも毎週録っている番組は2つだけで、それは「アド街ック天国」と「サザエさん」である。
これらに特徴的なのは、まず大河ドラマのような毎回の連続性がないこと、そして1つの番組内ですら内容が断章的であることだ。

毎週見ているのだから連続的な内容であっても構わなそうなものだが、なんというかTVはあくまでリラックスするためのものとして使っているから、前後の文脈を前提とすることにより生じる緊張感がイヤでそういうものからは必然的に離れるようになった。

わざわざ録画まではしないがちょうど食事時にやっていたら見る、というのが「なんでも鑑定団」と「美の巨人たち」で、ここまでに挙げた4本中3本がテレビ東京である。

「なんでも鑑定団」もまた1つの番組の中でそれぞれの鑑定対象ごとのブロックを持つ(つながりが断ち切られた)断章形式と言える。それでいて番組のトーンは一定なので見やすい。ついでに言うと、出張鑑定のコーナーはその中でさらに細切れになっているのでいわば入れ子的な断章になっている。
各ブロックのオチはもちろん鑑定結果の金額であるわけだが、実際の見せ場は対象となる美術品を作った「知る人ぞ知る作家」の履歴を追うミニドキュメントで、作り方としては「美の巨人たち」と同系のようでもあるが、これが面白いのでよく見ている。

にもかかわらず録画まではしない、というのは途中の出張鑑定があまり好きではないからで、どうも僕は素人がTVに出ているのがあまり好きではない。ニュースの街頭インタビューですら良い印象を持たない。その理由は「素人はTVに出ると当たり障りのないことしか言わない」という先入観があるからかもしれない。

以前は「和風総本家」という、これまたテレビ東京の番組を時々目にするたびそのまま見ていたけれど、最近はなんだか「日本サイコー」という結論ありきで作られているようで面白くないと感じて見ていない。日本には良いところも悪いところもあるし、悪いところは特殊な悪い人だけが作っているわけではない。思考停止的な日本礼賛はそのことがわかりづらくなって良くない。

アド街ック天国」や「サザエさん」を毎週録画するのは、それが飛び抜けてよく出来ているからとか、面白いからということではなくて(もちろんつまらないわけでもないが)、非常に機能的だからである。
ここで言う「機能」とはぼくがTVに求める「リラックスしたい」という目的を「短時間で」「確実に」果たす機能のことだと言える。
それらを見ていると、見る前より少し気分が軽くなっている。すこぶる楽しくなる、というほどではないが、ある要件に対する凝り固まった見方が一度リセットされ、それまでにやっていた仕事上の事象などを少し俯瞰的に眺められるようになっている。それがまた次の作業への力になる。ここでいう「力」とは体力とか滋養みたいなことではなくて、30cmの高さから物を落とすより30Mの高さから物を落とした方が大きくなる、そのような「力」を指している。

アド街ック天国」でたとえば「武蔵小山」を特集したとしたら、ぼくは武蔵小山についてほとんど何も知らないから、次のランキングで何が取り上げられるのか、ほとんど想像できないまま内容を見続けることができる。
それが「新宿」や「上野」であっても、有名な場所が第何位に出てくるかまでは想像ができない。
ほぼ同じリズムで「何か」が出てくるが、その「何か」が何であるかは想像がつかない。その「断章性」「予測不可能性」の組み合わせがたぶんそこでは重要だ。

サザエさん」も同様で、あれはかなり現代的というかドライな作りになっていて、30分番組が3本のエピソードから成っているがその3本それぞれにしても1本の筋を丹念に説明するというよりは、案外バラバラで関係のないエピソードと共に構成されているから、登場人物はもちろんほぼすべておなじみの面々ばかりだが、そこで展開するドラマの内容は予測不可能と言える。

最近のTVドラマは見ていないけれど、20世紀ほどではないにせよ、やはり典型的というか類型的というか、「それもう知ってるから」みたいな人物像やエピソードは少なからず出てくるはずで、正義は勝つし、悪役は悪や嫉妬のことしか考えていないし、いいところでCMに入ったり次回に続いてしまったりするし、そういう紋切り型に付き合うのが時間の無駄だから見ていないというところがある。

少し前に岡田准一の「SP」や西島秀俊の「MOZU」のような、クールでスタイリッシュな刑事モノみたいのがあって、系統としては「ケイゾク」とか「沙粧妙子」みたいな感じでいいなと思うが、それでもやはりスポンサーのつくTVドラマという場所で、完全にクールに振り切るというのは無理があって、どこかに甘い、わかりやすい「それ知ってる」的な部分を作らなければならないはずで、だから僕が見たい番組の選択肢からは外れてしまう。
どんなにドライに見えてもヒロインは主人公に恋をするし視聴者もそれを期待する。そしてそういうのはもういい、と感じる。
そのようにしか出来ないというのなら逆に、いつも同じようなことをある種ミニマルとも言える繰り返し具合でやっている船越英一郎や渡瀬恒彦などによる火曜サスペンス劇場系の勧善懲悪的な刑事モノを眺めている方がボーっとできて良いという気もする。

おそらくTVを見ているときにまで倫理というか物の見方を押し付けられるということが嫌で、だからそういうことから逃げ切れている番組を好んでみている。
いわゆるお笑い芸人を集めたバラエティ番組はそういった倫理や規律にもっとも縛られたジャンルの一つで、「面白くなければいけない」「つまらないことを言ってはいけない」という出演者の思いが画面を通してこちらに強く伝わってくるのでいたたまれなくて見ていられない。それは自由な雰囲気からもっとも遠い緊張感である。

サザエさん」では次の瞬間に誰が何をするのか全く想像できない。そして何が起こっても構わない突き抜けた虚無がある。誰が誰に恋をしても、あるいは憎しみや嫉妬の感情を抱いても、それは言葉の上でちょっと言ってみた程度のことで、どれだけノリスケや波平がそれに慌てたとしても結果はつねに「大したことない」に収まる。

サザエさん」に感じる唯一の懸念は、家の中のTVを始めとするセットがいまだに昭和のままだし、スマートフォンはおろか携帯も出てこない時代設定だから、やがて現実との乖離がごまかせないレベルになって、上記のような価値を想像しない誰かしらの少なからぬ声に押されて番組が終了してしまうのではないか、という点だが、いや、もうそういう時代劇なのだ、あるいは「ムーミン」や「アンパンマン」のように異世界の未知の生物たちによる寓話なのだとして、ぼくの数少ないリラックス・ツールとしてどうか継続してほしい。