「感想」と「評価」の違いについて

前回の議論で、「批評」とはある作品に対する評価とその根拠が述べられた主張であり、その「評価」とは客観的な価値判断をすることであることを述べた。そして「感想」は自分が感じたことを記述することであり、感じた内容を感じたという主張以外は主張を含まないということを述べた。

ここでは「評価」の意味である「客観的な価値判断」とはどのようなことかについて考えたいと思う。また、それが「この作品を面白く感じた」といった感想とどう違うのかについても考えたい。

僕は、「評価」が客観的な判断であると言うことについて、次のように言っている。

しかし「このアニメは傑作だ」という文は話し手の主観的な感想を表していることもあるし、「このアニメは面白い」という文になるとさらに主張が客観的か主観的かが曖昧である。だから「評価」を明確に定義するのは無理だと考える人もいるだろう。しかしこれは文が曖昧なのであって話し手の主張が曖昧なわけではない。話し手の意図としてはその主張が自分の感じたことなのか作品自体の属性なのか区別がついているはずである。よって「評価」が客観的な価値判断を表すということは、全ての主張についてそれが評価であるかそうでないかを判断するのに十分な定義であると思われる。

この引用では、客観的な判断が「作品自体の属性」として判断することであると示唆されている。これは恐らく間違った定義ではないだろうしし、十分に考えれば明晰な定義も導き出されるかもしれない(例えば関数による定義)。しかし、ここではこの定義を採用しないことにする。というのも、この世界のどこかに、具体的に「作品自体の面白さ」なるものが存在するだろうか。アニメーションは具体的には画面上の光線またはセル画の束(もしくはパソコンのデータ)であって、「作品自体の面白さ」なるものを我々はその中のどこにも見いだすことができない。(時枝誠記の『国語学原論』においてなされている主張と似ているが、とくにその著作との関係は意識していない)。だから「作品自体の面白さ」なるものを使った議論はどうしても抽象的にならざるを得ない。我々はできればそのような議論を回避し、具体的なものだけを使って議論を進めたい。

具体的に存在する「面白さ」に相当するものは、作品をみて面白いと思ったという事実であろう。ここではその事実を「評価」における「客観的な価値判断」を定義するための材料とする。「作品を見て面白いと思ったという事実」は個人的な体験だから、そこから「客観的な価値判断」を定義するのは不可能であるかに見えるかもしれない。しかし、次のように行うことで少なくとも「感想」と「客観的な価値判断」との区別をすることができる。

我々が個人的・主観的に「面白い」と思うことと、客観的に「面白い」と判断することは、一見同じことであるかのように見える。先の引用のように、前者を主観的な主張、後者を作品自体の属性についての判断であると区別するしかないように思えるかもしれない。しかし、これらの間にはその主張が予測する現象において、違いが存在する。

まず前者の場合を考えよう。個人的・主観的に「面白い」と思ったことは、単に事実を述べているだけで何の予測も含まない。だから感想には予測は存在しない。次に後者の場合を考える。ある作品を「客観的に面白い」と主張した場合、そこには他の人間がその作品を見た場合に、その人が面白いと思うという現象が起きるであろうという予測が存在する。これは直感的に納得してもらえるだろう。

ここから「ある作品が客観的に面白い」ということは「誰かがその作品を見るならば、その人がその作品を面白いと感じる」という予測をしていることである、と言いたくなる。しかし、実際には必ずしもそうではなく、「ある作品が客観的に面白い」という主張の予測と矛盾せずに、「誰かがその作品を見ても、その人がその作品を面白いと感じない」という現象が起きることができる。つまり誰かのある作品が客観的に面白いという主張は、その作品を誰が見ても面白いはずだという主張とは違うということである。

しかし、「ある作品が客観的に面白い」という主張の予測の一般性が不明だとしても、我々は少なくとも次のように言えるはずである。「ある作品が客観的に面白い」という主張がなされていれば、誰もその作品を面白いと感じないという予測がなされていることはない、と。つまり「ある作品が客観的に面白い」と判断するということと、「その作品を面白いと感じるという現象が少なくとも一つは存在するという予測を立てている」ということは矛盾しないということである。

一体「ある作品が客観的に面白い」という主張の予測がどの程度の一般性を持って主張されるものなのかは興味深い問題ではあるが、これで「客観的な面白さ」と「主観的・個人的な面白さ」を区別するには十分である。まず、「個人的・主観的な面白さ」とは何の予測も含まないということであった。それに対して「客観的な面白さ」が主張されていれば、その主張をした人は、「その作品を誰か面白いと感じるという現象が少なくとも一つは存在する」ということと矛盾しない予測を立てているということであった。つまり、「個人的・主観的な面白さ」の主張と「客観的な面白さ」の主張の区別は、それに「誰かがその作品を面白いと感じる」という予測があるかどうか、ということによって行うことができる。「個人的・主観的な面白さ」は「感想」であり、と「客観的な面白さ」は「客観的な価値判断」だから、「感想」と「客観的な価値判断」の区別も同じことである。

これで、我々は「評価」の意味を、「感想」と区別する限りにおいて、明確に定義することができる。すなわち、「評価」とは客観的な価値判断であり、その「客観的な価値判断」は「評価された作品について誰かが同じ価値判断を下すという現象が少なくとも一つ起きる」という予測が含まれているという点において、何の予測も含まない「感想」と区別される。

ここで「批評」の意味を再定義したいところであるが、この「評価」の定義を使用すると、日本語として一般的な「批評」の意味との齟齬が発生してしまう。というのも、「批評」における価値判断は必ずしも作品に対する「面白い」や「つまらない」といった価値判断だけではなく、「この作品は現代の若者の心境を反映している」とか「この作品は人間の悪を見事に描いている」といった作品と世界との関係における価値判断も含まれているからである。ここで論じてきた「客観的な価値判断」を「批評」の価値判断だとしてしまうと、それらの価値判断が「批評」に含まれないことになってしまう。

もう少し考える必要があるようである。