のともえ(仮)

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2009-05-29

[] 陵辱系ゲーム規制問題について

6/21追記:僕の主張を簡単にまとめると、(1)陵辱系ゲームは不可避的にいかに陵辱が残酷でやってはいけないことかということをプレイヤに伝えるのだから、一概に倫理的に悪いとは言えないということと、(2)例え陵辱系ゲームが差別的な考え方を助長するにしても、それは個人の思想の問題だから公的機関が規制するべきことではないということである。(ここまで追記)

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これは「レイプレイ」という陵辱系エロゲイギリス議会などで問題になり、日本に対して陵辱系ゲームの製造・販売の禁止を要請するに至ったものである。この問題について少し考えてみたい。

その要請を行ったのはEquitility Nowという人権団体だが、その際の声名文の翻訳が以下のものである。

Equality Nowのエロゲに対する声明を訳してみた。(更新あり) - yuubokuの日記 - 断片部

その結論は次のものである。

レイプレイ」のようなコンピューター・ゲームは、性に基づく差別的振る舞いやステレオタイプを許容するものであり、これは女性に対する暴力を維持する。日本政府は、このようなものをはびこらせず、女性の平等を妨げるこれらの振る舞いや行為に打ち勝つための有効な指針をとるべきである。

この結論に至るロジックを詳しく見て見よう。その際に主に引き合いに出されるのが、日本も批准している「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」(CEDAW)である。この声名の主張は基本的にこの条約に基づいてなされている。この条約を日本が批准している以上、この条約から論理的に帰結する陵辱系ゲームが現実の女性のへ暴力を促すという判断も日本は認めるべきだというわけである。

まず次の部分である。

レイプレイ」のようなコンピューター・ゲームは、性に基づく差別的振る舞いやステレオタイプを許容する

これはゲームにおいて女性に対する差別的な振る舞いやステレオタイプが描かれることが、現実において女性の差別ステレオタイプ的な見方を認めることに繋がるという主張である。これを日本政府が認めるべきだという主張の根拠として、次の事実が上げられている。

CEDAW委員会への報告にあたり、日本政府は「メディアにおける女性像では、女性はしばしば性あるいは暴力の対象として描かれており」、ジェンダーステレオタイプに対して「多大な影響を持っていた」と報告した。

次に、

これ(筆者注:性に基づく差別的振る舞いやステレオタイプを許容すること)は女性に対する暴力を維持する。

この主張は、次のように、CEDAWに従えば正しいということになる。

一般勧告第19条「女性に対する暴力」において、CEDAW委員会は「性に基づく暴力は、男性との平等の原則に基づく権利および自由を女性が享受するための能力を深刻に脅かす、差別の一形態である」ことを確認している。特に、「女性を男性の従属物とみなしたり、ステレオタイプな役割を持っているものとみなすような伝統的振る舞いは、暴力や抑圧を含む広く蔓延した行為を維持する……このような偏見また行為は、女性を囲い込むまたは支配する形態としての性に基づく暴力を正当化しかねない……これらの振る舞いはまた、ポルノグラフィーの蔓延や、女性を個人としてではなく性的な対象として扱うような描写またそのほかの商業的営為を増長するものである。これらがさらに性に基づく暴力を増長している」とコメントしている。

ここで言われてることは、CEDAWによれば、女性に対する伝統的な差別的な考えが存在することが、女性への暴力や抑圧、またはポルノグラフィーの蔓延や女性の性的対象としての描写や商業的営為に繋がるということである。

次に、

日本政府は、このようなもの(筆者注:「レイプレイ」のようなコンピューター・ゲーム)をはびこらせず、女性の平等を妨げるこれらの振る舞いや行為に打ち勝つための有効な指針をとるべきである。

これに日本が従わなければいけない理由は、次のものである。

日本は、CEDAW第五条(a)「両性のいずれかの劣等性若しくは優越性の観念又は男女の定型化された役割に基づく偏見及び慣習その他あらゆる慣行の撤廃を実現するため、男女の社会的及び文化的な行動様式を修正すること」に従う義務を有する。加えて、日本国憲法第十四条では法の下の平等を保障し、「人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において」差別があってはならないと述べている。

日本は公的に差別をなくすと言っているのだから、差別を助長するようなゲームを売るのは止めさせてくれ、というわけである。

ここまでに示したEquality Nowの議論の論拠をまとめると次のようなものになる。

(1) 陵辱系のゲーム内における女性の差別ステレオタイプの描写が、現実において女性に対する差別ステレオタイプを認めることに繋がる。

(2) 女性の差別ステレオタイプを認めることが、女性に対する暴力的な差別に繋がる。

(3) 女性に対する暴力的差別は悪いことである。

この論拠による議論は次のようなものであった。(1)と(2)より、陵辱系ゲーム内の差別等の描写は、女性への暴力的差別に繋がるということになる。そして(3)により女性への暴力的差別は悪いことであるから、陵辱系ゲームは悪いことに繋がると言うことになる。だから陵辱系のゲームを広めない方がいいというわけである。

ちなみに、(1)は日本政府CEDAW委員会への報告において認めたことであり、(2)は日本が批准しているCEDAWの条約に記されていることである。そして(3)はその条約憲法に記されていることである。つまり、Equaility Nowの主張の論拠は全て日本政府が既に認めていることなのである。だから、Equaility Nowの日本政府に対する要請は、その動機が何であれ、(声明文から論理的に判断する限り)正当なものであるということになる。

しかしそれは本題ではない。ここで問題にしたいのは、上の論拠の(1)と(2)が本当に妥当かということである。まず(1)であるが、これは一般化するとフィクションにおいてある思想が描かれていた場合、そのフィクションを鑑賞した人はその思想を現実に持つようになるという主張である。もしこれが正しければナチスを描いた映画を見た人はナチスと同じ思想を現実に持つようになり、痴情のもつれに起因する殺人事件を描いた推理小説を読んだ人は、例えば、小説の犯人と同様に浮気されたら恋人を殺してもいいという思想を持つようになることになる。だがこれは明らかに誤りである。そのような危険思想を描いたフィクションが普通に流通していて何の問題も起きないのは、人がフィクションと現実をきちんと区別できるからである。

だが、あまりにも印象的なフィクションの場合は、そのフィクション内の思想に影響を受けて現実の思想を改めることもあるかも知れない。女性の陵辱を描いた作品を鑑賞して、それがあまりにも楽しそうだったので、自分もやってみたいと思うこともあるかもしれない。そして僕は個人的にはそのような、フィクションの現実に及ぼす力というものを信じたいという立場である。なぜなら、例えば英雄的行為を描いた作品を見て、自分もそのようになりたいと思うような事態はあり得るし、歓迎するべきだからである。フィクション内の思想が多かれ少なかれ現実の思想に影響を及ぼすというのは真実だろう。

だがそれでも女性に対する陵辱を描いた作品を規制するべきではないことを支持する理由がある。例えばアウシュビッツ強制収容所での出来事を描いた作品が最近作られたとしよう。その作品の目的はなんだろうか。それはナチスの思想を広めるためのものではなくて、例えばナチスがいかに人を苦しめたかを描くことによって、そのようなことを起こそうと受け手が考えないように啓蒙するといったものだろう。ここからわかるのは、残酷な事態の表現というのは、一方で残酷な思想の存在を受け手に認めさせるが、もう一方ではその残酷さがいかに不幸を引き起こしたかをも受け手に理解させるものなのである。これは陵辱系の作品においても同様である。確かに陵辱系の作品は暴力的な差別の思想をを受け手に伝えるという一面があるが、もう一方ではそのような差別がいかに女性を不幸にするかということも受け手に伝えるはずである。もしかしたら、それによって女性に対して暴力的な差別を行って来た人が考えを改めて差別を止めると言うこともあるかも知れない。つまり、残酷な事態を描いた作品というのはそのような事態の存在そのものとその事態が引き起こす不幸の両方を一緒くたにして伝え、受け手はそのような事態への誘惑とその不幸のひどさの両方を感じうるのである。そのどちらかしか見ないのは一面的なとらえ方だろう。

だから、残酷な作品にそのような両面性があるとして、残酷な作品を広めるべきかどうかは、そのどちらの面が強く受け手に影響を与えるかにかかっているといえそうである。例えば、強制収容所を描いた作品を広めるるべきかどうかは、その描き方によるだろう。もしそれが拷問をする人の喜び(仮にそういうものがあるとして)しか描かれていなければ広めるべきではないだろうが、被収容者の苦しみや悲しみが中心的に描かれていた作品なら広めるべきだといえるかもしれない。陵辱系作品がもし暴力的差別しか描いておらず、女性たちの苦しみを描いていないということだったらその作品を広めるべきではないと言えるかも知れない。

しかし、実際問題、残酷な作品において、残酷な行為の喜びだけを描いて、そこから引き起こされる苦痛を描かないと言うことはできないだろう。例えば、拷問する人の喜びだけを描いて、被収容者の苦しみを描かないということは不可能である。例え拷問する人の喜びしか描かれていなくて、作品が明示的にそれを描くためのものだったとしても、人はそこからそのことによって引き起こされる苦しみを理解してしまう。むしろ、拷問の喜びが良く描かれるためには拷問される人がより苦しんでいる必要があるのだから、拷問の喜びの描写の印象の強さとそれによる苦痛の印象の強さは比例するともいえるだろう。同じように、陵辱系の作品に女性の暴力的な差別の喜びばかりが描かれていたとしても、受け手はそれによって引き起こされる女性の苦しみを理解せずにはいられないだろう。残酷な表現において、その行為の喜びとそれによる苦しみの印象は引き離すことができないものなのであり、その一方だけを印象づける作品は存在しない。それ故、その一方の特徴を持つ作品だけを選び出して広まらないようにすると言うことも不可能である。

さらに言えば、仮に残酷な作品に良い影響を与えるものと悪い影響を与えるものがあり、悪いものを規制しようとしたとして、一体それが悪いとどうやって判別するのだろうか。問題になっている規制を主張している人は、陵辱系エロゲは一般的に悪いと判断するが、恐らくアウシュビッツを描いた映画は一般的に悪いとは判断しないだろう。しかし、両方とも残酷な内容を描いたものであり、これまで言ってきたような良い影響と悪い影響の両方を与えうるという点で同じである。そのような判断を行うためには、陵辱系エロゲが常に受け手に悪い影響を与えるもので、アウシュビッツを描い映画が常に悪い影響を与えることを示さなければならない。しかし、これは二重の意味で困難である。一つは実際に全ての作品を吟味することは困難だし、これから現れる作品については判断できないという実際上の問題である。もう一つはそもそも作品の影響の良し悪しと言った、いわば「文学的」な違いを客観的な線引きで区別することはできないということである。例えば、「文学的」な表現の特徴は表面的には悪い影響を与えるように見えても、その裏には良い影響を与える意味が隠れていたりすることである。そういったことは客観的な基準で判断できるものではなく、客観的でない判断を元に行動を行うのは公的機関のするべきことではない。

これまでの議論をまとめよう。まず(1)の主張は陵辱系のゲームにおける差別表現が、現実において差別の思想を持つことに繋がるということだったが、人は現実とフィクションの区別が付いているものだから、そのようなことはあり得ないということであった。しかし、フィクションは強力だから現実の思想に影響を及ぼすことがあり、フィクション差別表現が現実の差別の思想を持つことに繋がることもあるともいえる。しかし、この場合でもフィクション差別表現による影響には、差別をする喜びを知るという悪い影響と、差別が引き起こす苦しみを知るという良い影響が表裏一体に存在しているから、差別表現が悪い影響しか与えないとはいえず、また悪い影響だけを与える作品をカテゴリカルに判別することは不可能だと言うことだった。さらに、もし良い影響を与える作品と悪い影響を与える作品の区別があったとしても、それを区別することは実際上の理由と客観的な基準を設けることの困難から難しいと言うことであった。

次にEquaility Nowの議論の論拠の(2)が妥当かどうかを考えてみよう。(2)は次のものであった。

(2)女性の差別ステレオタイプを認めることが、女性に対する暴力的な差別に繋がる。

これは次の引用されたCHEDAWの条約に対応する。

女性を男性の従属物とみなしたり、ステレオタイプな役割を持っているものとみなすような伝統的振る舞いは、暴力や抑圧を含む広く蔓延した行為を維持する……このような偏見また行為は、女性を囲い込むまたは支配する形態としての性に基づく暴力を正当化しかねない

これは、我々の常識から考えれば行きすぎた考えだろう。現在の日本でも伝統的な考え方に基づいて男性の意見を尊重したり、家事や選択などの女性的だとされている行為を女性が行うことを当たり前だと考えてる人も多いだろうが、それが暴力(原文では「violence」)と形容するような事態に繋がっているとは到底思えない。それに、伝統的な考え方に従って女性が差別されることが良い結果をもたらすことさえあるだろう。例えばマンガ『美味しんぼ』では主人公の山岡の両親は女性が男性に尽くすという伝統的な生き方をしていて、傍目には妻が夫に虐げられているように見えながら、実は共に幸福を感じていたものとして描かれている。もちろん、伝統的な女性についての考え方が暴力的な事態をもたらす例もあるだろう。だが、そういった考え方が良い結果をもたらすこともあることも合わせて考えると、伝統的な女性についての考え方と暴力的な事態の間に一般に関連があると考えるのは無理があると思われる。

そもそも、一般に男女差別が問題になるのは、個人の思想の問題ではなくて、社会的な権利の問題のはずである。声明文で引き合いに出されている差別についての憲法の条項でも「政治的、経済的又は社会的関係において」差別があってはならないと規定されている。差別的思想を持ってはいけないとは規定されていない。だから、確かに就職のしやすさ、給料や参政権などにおいて男女に差があれば正すべきだろう。しかし、個人が女性を男性に従属したものだと思おうが、女性は家事洗濯をするものだと思おうが、女性は性的な対象に過ぎないと思おうが、個人の思想においては人は自由なはずである。だから、男女差別をなくすために一般に行うべきだとされていることは、個人の差別的思想をなくすことではなくて、どのような思想を持っていても社会的な差別をしないように人を啓蒙・教育することではないだろうか。だから次のような主張は一般的な平等の思想の目的を越えているように思える。

CEDAW第五条(a)「両性のいずれかの劣等性若しくは優越性の観念又は男女の定型化された役割に基づく偏見及び慣習その他あらゆる慣行の撤廃を実現するため、男女の社会的及び文化的な行動様式を修正すること」

ここで「偏見」を撤廃するというのは、個人の自由な思想までを撤廃すると言うことである。個人の思想は自由とする一般的な平等思想の目的に従うなら、撤廃するべきは「偏見に基づいた行動」であって偏見そのものではない。この条項の「偏見」を「他人に悪影響を与える原因としての偏見」として捉えることもできそうだが、そうすると陵辱系エロゲを規制するという立場と矛盾が生ずる。というのも、作品が生み出しうるものは思想としての偏見であって、作品を鑑賞したからと言って、偏見に基づいて他人に影響を与えるようになるということはない。偏見を持つと言うことと、偏見に基づいて行動することは別問題なのである。だからエロゲを規制すると言うことは、単に偏見を持つことを規制するということであり、条項の「偏見」を撤廃するというのも単に持たれているだけの偏見を撤廃しようということである。

(2)の妥当性についての議論をまとめよう。(2)は女性に対する差別的な考え方が、暴力的な差別に繋がるという主張であった。これに対して、単に差別的な考えを持つことが暴力的な事態に繋がるのは、我々の常識から考えて無理があることが示された。さらに、女性に対して差別的な考え方を持つこと自体は、一般的な平等の思想から考えて認められるべきであり、単に偏見を持つことを規制することは行き過ぎであることが示された。

以上、陵辱系エロゲの規制を求める声明文に対して反論を試みたが、実際の所、その反論のほとんどはCEDAWの条項に対して向けられることになった。僕はあまりフェミニズムの歴史や現代の社会情勢について明るくないので自信を持っては言えないが、CEDAWの規定はかなり急進的で、極端なことを言っているように思える。少なくとも、伝統的な女性のあり方に多かれ少なかれ価値を認めている自分の周囲を基準に考えると、かなり無理のある考えのように見える。さらに驚いたのは、どうもそういった考えを日本政府がかなり受け入れてしまっていると言うことである。ここで日本政府の対応の批判をしたいところでもあるが、投票にも行かず政治についてあまり関心を持ってこなかった自分が、偉そうに言うべきことではないだろう。ただ、今回はたまたま自分が陵辱系エロゲに興味を持っていなかったのでさほどショックではないが、次は自分の興味の対象が標的にされるかも知れない。そう考えると、自分の幸福を考えるためだけでも、政治的な問題に対して無頓着ではいるべきではないと思う。

snow-windsnow-wind 2009/05/29 16:31 この場合、問題になってくるのは、差別や偏見を「否定すべき事」として日本政府が公的に宣言したあと、それをどう実現していくか、の部分だと思います。
実際問題、個人が差別意識を持つのが、「道徳的に良くないこと」だというコンセンサスは、間違いなくあるわけで、「差別意識があってもいいじゃん」と言うのは、政府として言うのは難しいでしょう。

つまり、政府がそれを防ぐために啓蒙したり教育したりする事は、公的機関として当然と言ってもいいかと思います。ですが、その道徳観念を基準に公権力が取締りをする所まで行くと、それこそ北のような国になってしまうわけで。

なので、今回問題になるのは、あの団体や政治家の一部が、義務でもなければやるべきでもない、強権的な規制をしこうとしている所ではないでしょうか。
「差別偏見をなくしていくために努力する義務」と、「国家権力を動員して思想や表現を叩き潰す」事の間には、雲泥の差があるわけで。

notomoenotomoe 2009/05/30 01:37 コメントありがとうございます。

確かに、差別が道徳的な悪だと政府が主張するするのは実際的には無難な道なのかも知れません。ですが理想としては、政府は(美意識に近い意味で解釈された)道徳性については何も言わずに、社会的な平等の保障のための差別の否定だけを主張するべきだと思います。

そう考える一つの理由は、政府が個人の道徳性について語ることも、差別の撤廃の不当な実現の仕方とともに、snow-windさんの言われているような弾圧に繋がると考えられるからです。つまり、政府が個人の思想を問題にすることは、個人の思想を基にした弾圧の下地になると言うことです。そもそも政府が個人の思想に口出しできないような空気が出来上がっていれば、個人の思想に基づいた弾圧は存在し得ません。(そういう空気が実際問題として差別の増加に繋がらないかという問題はありますが。) だから、公的機関が個人の差別意識を問題にすることを、思想の自由の原則に反したものであると主張することは、例え理想論だとしても、やってみる価値のあること思います。

とはいえ、実際には、やはり「実際問題」を考えないといけないでしょう。そのためには過去の事例や現実の社会の仕組みについての知識が必要になるでしょうが、そういったことについては僕は疎いので、これ以上は何も主張しない方がいいでしょう。僕が語ってるのは原則論だけのつもりです。

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