村上F春樹 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2010-01-01

闇夜(やみよる) 目次

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2009-01-26

闇夜(やみよる)45

ねえ 綾香


あたし達の出会いを覚えてる?


あたしは運命とか


かなり信じちゃうタチだから


これはやっぱり運命だと思う


笑ってもいいよ


あたし達の出会いを覚えてる?


 鳥取の町はいつの間にか、バットマンが暴れ回るようになっていて、電車が走ったり止まったり。結局、今日も学校まで行くのに5時間もかかってしまったけど綾香との会話を盗聴したファイルを聴いていたあたしは少しも退屈しなかった。だけど綾香は自分のことばかりしゃべってあたしの話は少しも聞いてくれてなかったね。ときどき意味不明だし。今だって鳥取駅の改札前でおしゃべりをしていたのにバットマンがホテルニューオータニを爆破しにくるって聞いた途端、レンから借りたギブソンフライングVを担いで北口へと飛び出しちゃったね。


 ねえ 綾香 あたしは今、あなたを後ろから見つめている。怪人との戦いで擦り切れた白い夏の制服。つむじ風に翻る短いスカート。肩に担いだフライングV。美しい戦いのミューズ。あたしたちのクラスメートだった小向美奈子を覚えてる?ミナコだよ?もっとも、素行不良な感じのコで、窪塚君アイキャンフライ事件のあと、ひっそりと学校を辞めてしまったから、綾香はもう覚えてはいないかもしれないけれど。ミナコ、コンドームに入れた覚醒剤を性器に隠し持って国道9号線を歩いていて逮捕されたんだって。そう あたしたちが夏が始まる前、肩を並べて海を彩る光を見たあの白兎海岸の近くで。クラスのみんなは誰もミナコのことを思い出そうとしない。あんなに綺麗だったミナコが住所不定なんだよ。ミナコのガラスの靴はなんで途中で脱げたんだろうね。


 鳥取有数のホテルが燃えている。綾香。バットマンが来るよ。爆風と爆音ですらも綾香を引き立てる脇役に過ぎない。バットモービルが来るよ。フライングVを振り回しながら綾香が黒い変態チックな車に突進していく。そして歌う。「バイト代どおしてくれんのおおおおお!あとニコラスの仇いいいいいい!」フライングVがバットモービルに振り下ろされる。中学の修学旅行。真夏の長崎を二人で抜け出したときのことを覚えてる?通り雨にあたしたちは打たれて石階段の上にあった名前もない教会に逃げ込んだよね。あの荘厳な鐘の音。今、バットモービルからはあの鐘の音がしたよ。ガゴンガゴン。あの鐘に合わせて口ずさんでいたメロディーをもう一度聴かせてよ。そしてあたしは声を出してしまう。「綾香…その黒い変態をぶっ殺せっ!!!頭潰せっ!!!」 


もしも綾香が男だったら


一世一代の恋が出来るのに


あの頃あたしはよくそう思ってた


だけどそしたらこんな楽しい


思い出ばかりにはきっとならなかったよね


恋に痛みはつきものだから


溺れてゆく程苦しいものだから。


 バットマンに逃げられた綾香が肩で息をしている。まさか、潰したはずのバットモービルからバイクが飛び出してくるなんてね。あたしは綾香の肩を包む。駅前のロータリーバットマンに襲撃され怪我をした人や死体であふれ始めたよ。綾香。おつかれさま。今日は帰ろう。南口の方で爆音がする。また何かが破壊されたらしい。綾香の手の下に力なくぶら下がったフライングVが乾いたコードを鳴らしたようにあたしには思えた。


 「ミキ?」「ん?」「また逃げられちゃった…」「次はやれるよ」「うん…」そうだよ綾香。次はバットマンを倒せる。今日だっていいところまでいったんだから。もう夏は終わる。学校は学園祭に向けて大騒ぎになる。今年の会場は変な仏像のある鳥取城址。夜中に目が光るってウワサのヒゲ仏像のあるあそこ。「ロミオとジュリエット」頑張ろうね綾香。


ねえ 綾香


あたし達の出会いを覚えてる?


あたしはかなりのタチだから


綾香がネコであったらなんて


ベッドのなかで想像しながら


身体の芯を熱くしていたりしたんだ。


笑ってもいいよ


あたし達の出会いを覚えてる?

2009-01-13

闇夜(やみよる)44

 「移動だ、移動がはじまったのだ」と男はポケットを落ち葉でいっぱいにしながら歩道橋の下を絶え間なく走る長距離トラックに向かって呟いた。福島県山形県をつないだ新国道13号を移動する大きな車体が男の濁った目には、アフリカサバンナを駆けるヌーの群れに映る。

 いま、男は大自然を生きる動物の生態を調査する動物学者だった。トラックのマフラーから吹き出された黒煙は乾いた大地の砂煙、アスファルトとタイヤが摩擦するゴリゴリという騒音は彼らの生命の主張だった。ついさっきまで、頑なに自らを骨相学の創始者であるフランツ・ガルであると言い張ってやまなかったこの男を、誰も気に止めなかった。ましてや彼がかつて、北日本独立紛争時の勇士、ブルース・ウェインであることなど分かりようがない。みすぼらしく汚れたコートの袖に収まった腕は醜く萎縮し、薬物の影が彼の全体を覆う。彼の象徴であった巨大な男根さえ、干物のように股の間にぶら下がるだけの無意味な存在へと変容している。

 東京が制圧され、全日本政府鳥取で臨時政府を樹立してから半年が経った。この間、紛争は小康状態にあり、武力衝突は一切おこらなかった。だが、いまだ終戦のための調印や紛争の勝利宣言はおこなわれていない。これが寒い冬の季節に唐突にやってきた小春日和のようなつかの間の安息であることは全日本側でも北日本側でも予感されていた。

 しかし、ブルース・ウェインは違った。血と暴力の祭典のような期間が過ぎ、この静かな時間のなかで彼だけが絶望していた。自分が倒すべき相手も、殺すべき敵も現れない短期間に彼は一気に気力を失ってしまったのだ。もっと血を!もっと殺戮を!――吸い込まれてしまいそうな深い闇に向って彼は叫び、得ることができなくなった快楽の代替を薬物に求めた。そして、七色に歪んだ幻像のなか、彼は現実には存在しない他者の血を流し続けた。

 理性はとうに擦り切れていた。次第に彼は自分が何を求めていたかも忘れ、放浪を始めた。自意識のめまぐるしい変革が始まったのは、この頃からでもはや自分が戦士であったことすら定かではなかった。とにかく彼は今、動物学者であり、ヌーの群れが猛々しく移動する姿を網膜に焼け付けなくてはならない。ヌーは年に1度、出産のためにサバンナを大移動する。その旅路のなかで群れと群れは合流を繰り返し、最終的には数万から数十万頭へと膨れ上がる。これほどまでに大きなコミュニティを作って生活をおこなう生物は蟻や蜂の仲間のほかは人間しかいない。しかし、その移動集団社会には雌のみが参加を許される。ファロスなき社会。彼女たちの移動は、すでに失った虚像の男根を追い求める彷徨なのである。

「ぶざまな姿ね、バットマン

 この狂気の後姿に声をかけた女がいた。だが、男はその声を無視する。というよりも正確には認識できない。女の声は、タイヨウチョウのさえずりにしか彼には聞こえない。男にとって鳥類は興味がわかないものだった。鳥類鳥類学者の仕事、私の仕事ではないのだ。女はため息をつき、そして男の肩に手をかけ強引に自分のほうを向きなおさせようとする。彼の肩はおどろくほど薄く、力がなかった。かつてバットマンと呼ばれたこと男を知る女は、その非力にぞっとする。

「なんだね、君は!私の仕事を邪魔しないでくれ」

 口角に泡を浮かべながら怒鳴りつける男の表情に、女はまたため息をつかざるをえなかった。

「どうやら、本当に覚えてないみたいね。さすが湿った目をした男だわ、ヤツが嗅ぎつけた噂どおり、バットマンは廃人同様……でも、私は私の仕事をしなくては……」

 女はもはや男に話しかけてはいなかった。だが、男は女の言葉に過敏に反応する――「会ったばかりで人を廃人呼ばわりとはなんて無礼なんだ!」。男はそう叫びながら女に掴みかかろうとする。女はそれを軽く避け、その際に男のわき腹に拳を一発お見舞いした。完璧に決まったボディ・ブロー。衝撃が肝臓を突き抜けて、一瞬で男は意識を失う。

「あなたには、まだやってもらうことがあるの」

 崩れ落ちた男の背中に女は言葉をかける。


 男は囚われている。場所は、青森県鯵ヶ沢。そこには北日本の軍事施設「ACID TANK」があった。男の両手両足は鎖で繋がれ、男は一日に5時間のトレーニングを強制され、投薬され続ける。しかし、男の静脈に注がれる緑色をした液体は男の血を薄める類の幻覚剤ではない。「これはな、さまざまな筋肉増強剤や栄養剤を混合したスペッシャルなクスリなんだよ、ヘッヘッへ」。最初、糞原淋太郎と名乗る男は囚われの男にそう説明した。いまだ正気を失った状態でいる囚われの男に、その説明は無意味だったにも関わらず。

 糞原は囚われの男を治療すると言った。その言葉通り3ヶ月もすれば、囚われの男は以前そうしていたように自分のことを動物学者やフランツ・ガルだと思い込まなくなった。だが、ブルース・ウェイン自意識が元通りになったわけではない。治療の間、バットマンと呼ばれ続けてきた彼は、自らの名をバットマンだと認識する。ブルース・ウェインの記憶は一切が消失する。アメリカ大企業の若い経営者という身分を捨てて、血と暴力のために極東の地に赴いた記憶が。そして、男の、バットマンの意識のなかで、血と暴力を求める欲求だけが純化していく。

 糞原がリハビリと呼ぶ毎日のトレーニングが、バットマンは待ち遠しい。地下に建設された古代ローマ時代の闘技場のような空間で、バットマンは毎日犬を殺す。もちろん犬は通常の飼犬ではない。戦闘用に交配が進められ、教育された軍事クローン犬「WSO-172」がバットマンのリハビリ・パートナーだった。捨てられた羽毛布団から詰め物が飛び出したような白い毛を持つ、その凶暴な犬の生命をバットマンは奪う。喉笛を狙うWSO-172の頭蓋を拳で粉砕する。腕に噛み付いてきたWSO-172の頚椎をへし折る。闘技場の床が犬の血で汚れ、施設のごみ捨て場には日々、ずたぼろになった犬の死体が積み上げられていった。

「さすがはバットマンです。逸材だ。いまやヤツこそインドラの化身といって過言ではないでしょう」

 糞原は女に治療の経過を報告する。女は施設のオフィスにある黒革張りのソファに身を預けながら、黙ってそれを聞いていた。

「それで?もうバットマンは実戦にも使えるぐらいまで回復しているの?」

 冷たい口調で女は訊ねる。

「もちろんですとも。今のバットマンにはあなたのような特殊戦でも適わないかもしれません……菊地凛子さま、ヘッヘ」

「そう」

 男の下卑た話し方を女は不快に思いながら、女は言った――「明日、バットマンの治療を終わらせるわ」。


 次の日の朝、女は地下室に囚われたバットマンの前に現れる。

「あんた、どこかで会ったことがあるな。誰だ?何の用だ?まだ、リハビリの時間には早いはずだぜ?」

バットマン。もう犬コロと遊ぶのはおしまいよ。その代わり、あなたに仕事をあげる。あんたの大好きな殺しの仕事よ。セルゲイ・オマンコーノフ。この男を殺して欲しいの」

「誰だ、そいつは?」

「あなたは何も知らなくて良いの。ただ、ヤツを殺してくれればそれで良い。どんなことをしても良いわ。とにかく、ヤツの息の根を止めて」

「……そいつはどこにいるんだ?」

鳥取よ、足は用意してあるわ」

 2時間後、黒塗りの特殊装甲車鳥取に向って時速280キロメートルで疾走している。

2009-01-07

闇夜(やみよる)43

 絵里子が十六歳で初めて男を知った次の日の朝、彼女自身が後に「トライブ・コールド・クエスト」と名づける能力が覚醒した。まっ黄色な寂寥の中、目を覚まし、シャワーを浴び、下着を履き、電子レンジで暖めたレトルトのコーンスープに口をつけた瞬間に、舌を火傷する自分自身のビジョンが脳裏に焼きついた。絵里子はシャワーから出ると、下着を履く前にレンジを止め、下着を履き、いい火加減になったところのコーンスープを安心した心持でいきなりゴクゴクと飲んだ。そのことは絵里子にとって、すんなりと受け入れられる事態だった。ジャスト・ファクツ。絵里子は約二分先(実際は、地球が太陽の周りを公転する時間の二十六万二千四百七十三分の一の感覚だが、このときの絵里子にとって知る余地もなかった)まで未来を予知することができるようになっていた。絵里子はハッと思い、額をさわった。が、別にハゲてはいなかった。安心パパ。いや、安心した。

 一週間後、学校帰りのコンビニの前で座り込んでる自分に突っ込んでくるトラックを「トライブ・コールド・クエスト」により予知し、違う道からサササササッと帰った。事故死を回避した。絵里子は漫画や映画で常人を超越した能力を身につけた超人が、世間から疎まれる描写をよく見たことが心にひっかかっていた。そのため、自分の能力を誰にも見せず、誰にも言わず、誰のためにも使わなかった。このときも、絵里子は、自分だけを守った。仲の良かった三人の友達はいつもと同じように、コンビニの駐車場のむき出しのコンクリートの上で、たわいもない話を続けており、突っ込んできたトラックに跳ね飛ばされて二人が死んだ。絵里子の親友のヒトエはとっさに車を避けたものの、統一朝鮮製の偽物のシャネルのマフラーがトラックのフロントミラーにからめとられ、強く引っ張られたために、キリモミをしながら宙を舞い、コンビニの前面のガラスに向かってはじきとばされ、ガラスの破片で左足を切断し、右の眼窩からほほにかけて突き刺さったガラス片は、ヒトエの右上の犬歯から奥歯にかけてのすべてをこそぎ落としたが、かろうじて一命を取り留めた。興味本位で近くにいこうとしていた絵里子は、つい昨日、弓道部の旧部室のかび臭い畳の上で、自分にまたがり腰を振っていた重岡洋二がトラックとコンビニ内のATMにはさまれて、消化中の昼食のからあげ弁当と大量の黒い血液と腸液とが混じり合った汚物を腹から垂れ流してる様子を見て、その臭いに嘔吐している自分を予知し、思い直してコンビニに近づくのをやめたのだった。絵里子が逆方向に振り向くと、運転手が居眠り運転をしているトラックが見えた。絵里子は「ラッキー。力のおかげで助かった」とそれだけ思った。クスクスと笑いがふき出した。そのとき、絵里子は自分が万能の存在なのだと信ずるに至った。力を使って、思うがままの人生を歩めるはずだと確信した。

 だが、大学で遊びほうけ、上場企業に就職して、絵里子のボキャブラリーで言うところの「勝ち組」を演じるはずだった彼女の人生にあったものは、虚しさと停滞感だけだった。絵里子が入社してすぐに関係を持った総務の小出聡とは、もう七年になった。課長になり、頭も禿げてきた小出が絵里子のために家庭を捨てることは、絶対にないように思われた。それは、予知できなかった。いや、力を使わなくても、わかっていた。それなのに-それなのに私は-。絵里子の心の中では重たく黒いしこりが、耳障りなノイズを奏でていた。

 宇田川町の、いつもの、ブティックホテル。腹はぶよぶよと醜くたるみ、肌は枯れ木のようにしゃがれ、おえっとくる加齢臭がするようになり、豚のような不快ないびきを立てることしか取り柄のない小出が、ふざけて、絵里子の髪を掴み、無理やり喉元まで突っ込もうとするビジョンを予知した絵里子は、下着姿のまま、シャワー室におどりこみ、持っていたボールペンで、小出の睾丸をえぐった。長い付き合いだがこんな高い声が出せたのか、とびっくりするような金切り声を上げて、小出は鏡張りのシャワー室の中でのたうちまわっていた。排水口に向かって透明な水と赤い血がとぐろを巻いて流れ込み、美しいコントラストを描いていた。絵里子は、それを呆然と見つめていた。

 気づくと街を歩いていた。当時の全日本大統領補佐官だった武田鉄矢四世が三十年前に提唱した、超バビロン復興計画により、戦前とまったく同じ姿に復元された渋谷スクランブル交差点に足を踏み入れると、歌が、聞き覚えのない歌が、直接頭の中にひびいた。絵里子の電脳を"SPEED"がハッキングした瞬間だった。フラッシュバックするビジョン。桜の下で微笑む少女。その少女のことは何度も見ていた。絵里子を監視し、絵里子にスタンド能力を与えた蝿型ロボット「マンイーター」が何度も絵里子に見せていた女の子だった。その女の子のことは、遠くの時間であっても見ることができた。だが、それはコントロールできなかった。一年に二度か三度、突然に、女の子のビジョンはやってきた。絵里子はいつしか少女に焦がれてすらいた。絵里子は"SPEED"に同化することで、"SPEED"のネットワークを完全に掌握した。そして、SPPEDは人になった。コマンド。デコイ。突破した。公安と軍部ネットワークから0.2秒で少女の情報を引き出す。西脇綾香。私はこの少女に会わなければならない。そして…Delete Allしろ!「私は、生まれた」。絵里子の意識を覆い尽くすように歌は止まらなかった。断続的な、しかし繰り返すポリリズムが絵里子の電脳をシェイクした。圧倒的な快感が押し寄せていた。行きかう無数の人々の虚像の中、絵里子はオルガズムに達し、力なくしゃがみこんだ。誰も絵里子を見ようとはしなかった。

2008-12-23

闇夜(やみよる)42

 暴力は感染する。ひとつの暴力が新たな暴力を呼び起こす。鳥取市郊外で薪割りをしていた田中邦衛は己の身体のなか、意識の底で沈黙していた悪の蘇生を知った。内蔵の内側でうごめきを感じた。俺は…俺は…。田中邦衛は頭を抱え、両の手で顔を被う。赤子のように涙が溢れてくる。こぼれてくる。「これでは…」、田中邦衛は卑屈に笑った。「これではまるで栓の壊れた水道だ」。

 東北戦線から帰還した田中邦衛の心と身体は戦争後遺症で蝕まれていた。戦場から戻った邦衛を待っていたのは腐りきった人々の姿。とりわけ戦争などそ知らぬ顔で鳥取砂丘に突き刺さったテポドンを観光名所にしようと企ててる役人ども。田中邦衛は絶望した。俺はこんなもののために命を掛け戦ってきたのか。首を切られ顔を抉られはらわたの浮く血沼で息絶えていった戦友はこんな奴らのために戦っていたのか、と。そして俺も。田中邦衛の顔に一瞬別の顔が宿る。「とっくに死んでいる」。

 田中邦衛の行動は迅速を極めた。本能と怒りに突き動かされ、疾る。邦衛のダガーナイフの一閃は月夜に煌めいた。邦衛が帰還した翌朝、鳥取県庁の前にはペニスの先端から血抜きをされた歴代観光課課長代理の全裸死体が積み重ねられた。邦衛の怒りはおさまらなかった。矛先はスナック「北の国から」の雇われママ内田有紀を純朴そうな話し振りと冴えない風貌を利用して騙し、犯し、なかば強引に結婚し、そのしなやかで美しい身体に飽きるとあっさり捨てた医師吉岡秀隆に向けられた。

 田中邦衛の首には戦場へ赴く際に内田から貰った十字架がぶら下げられていた。戦場識別タグが十字架の傍らで揺れる。タグに刻まれた「13」の文字。13-それが戦場での彼の名前だった。白河から宇都宮にかけての激闘で田中邦衛の所属する機械化歩兵師団は北の特殊戦に補給を絶たれ血と肉の塊になって壊滅した。屍の山で死体のふりをしてやりすごす田中邦衛は敵の姿を見て、震えた。あれが死神だ。彼は内田有紀の十字架を血に塗れた右手で握り締め、死神の鎌が振り下ろされないよう祈った。神を持たない彼は内田有紀を女神として、祈った。ヘルメットを被った死神の目はじっとりと湿っていた。生き抜いた田中邦衛宇都宮の傷病者キャンプ内田有紀の死を知り、泣いた。

 田中邦衛ダガーナイフが吉岡の首と胴体を切り離すことはなかった。歴代課長代理殺人犯として指名手配された邦衛の行方を警察と軍が塞いだのだ。田中邦衛は顔と姿を変えて人前から消えた。あれから15年。姿を変えた田中邦衛鳥取の山にこもりログハウス自給自足静かな生活を送っていた。夜中に悪寒を覚えた邦衛はログハウスの脇にある牛舎を点検し、それから心を落ち着かせるように薪を割り始めた。月明かりが消えた。邦衛は薪を割る手を休め月のある方向を眺めた。月にはコウモリのマークが踊っていた。田中邦衛のなかでかつての妻あゆみの声が邦衛のなかを反響しながら駆け巡る。「寝ちゃ駄目」「寝ちゃ駄目」「寝ちゃ駄目」二時間後、変態クラブ「コトー」の扉の前にニット帽を被った田中邦衛の姿があった。

 「コトー」は公営住宅の五階の一室に偽装されてあった。扉を開けた邦衛の行方を岩城滉一が遮る。「旦那、ここはあんたのような…」岩城は予め決められていた台詞を終えるまえに心臓を抉られて絶命した。ぼたぼたと邦衛の右腕から粘りけのある液体が床に落ちた。邦衛は一番奥、窓側のソファーに深く腰をかけた男の姿を認め、向かいのソファに腰をかけ声を出す。「久しぶりだな」「誰だいアンタ?」白衣を着た吉岡秀隆の足の間には女がひとりひざまづいて吉岡のペニスを激しく吸っていた。女の看護帽が闇に白く揺れていた。


 「おまえはいったいなんだ?」「僕は闇夜だ」と女を脇にどかせた吉岡秀隆はいう。女のネームプレートには「RUI」と書かれていた。「俺は音楽だ」と田中邦衛。「音楽?」吉岡秀隆の声を無視するようにして田中邦衛は歌い始める。「ルールルルルルルルル。ルールルルルルルルルル」吉岡秀隆の顔に苦悶が浮かぶ。訴える。苦しみを。恐怖を。<<父さん?>>吉岡秀隆はうめきながら、ことばに頼る。<<父さん、助けて>>涙。「ぼくがなにをしたっていうの?」吉岡秀隆はテーブルの上に乗る。それから、吉岡秀隆は逃げるように飛び出す。地上に。公営住宅の五階の高みから。田中邦衛は視る。街路樹に照らされた、白い、歩道に、みるみる吉岡秀隆の赤い血が染みていく。

 殺した−。俺は。殺した−。俺が。息子を。田中邦衛は自問自答した。俺は悪を消した。俺の望みどおりだ。だがなんだ?この身体中を駆け巡る不快は。満たされない心は。「悪とは…暴力とは…」、彼は結論に至る。「俺自身だ」。歩道を歩く田中邦衛の脇をバットモービルが轟音を残して通り過ぎていった。田中邦衛は作業着の胸ポケットから亡妻あゆみの遺した赤いルージュを取り出し、眺めた。雲が流れ満月の青い光が冷たく差してきた。「月夜にダンスを踊る悪魔は俺ひとりだけだ…」そう呟くと、田中はその厚い唇に紅をひいた。