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以下、ネタばれがあります。
長きにわたる連載が先日完結した。必ずしも成功作とはいえないかもしれない(後半に広げた大風呂敷による迷走があったし、主人公と女性二人との葛藤もあいまいにやり過ごされて残念)が、やはり連載が終わると寂しい気持ちになる。最終回の盲目の女性のエピソードはやはり感動的だし、日本から満映に移った映画監督が、更にインドに移って映画を撮るというのも楽しい。
蓮實重彦『監督小津安二郎』が、小津作品の主題論的な豊かさを強調するあまり、小津作品の説話的な側面を軽視する結果となった、という批判。とても興味深く読んだ。
この批判は基本的には正しいと思うのだが、ストーリーばかりに注目しがちだった映画批評に蓮實が主題論を持ち込んだのだから、説話論的な側面が軽視されたのはやむを得ないかな、とも思う。むしろ、蓮實の仕事を踏まえて、改めて映画におけるストーリー、時間を考察するということが必要ということだろう。
『監督小津安二郎』に対する異論を読んだことがない、と書かれている。この論文が書かれた後の発表になるが、id:noza:20050618 で取り上げた中村秀之「映画のなかの東京」は、この論文に似た観点から『監督小津安二郎』に異を唱えている。「東京物語」のバスのシーン、純粋な映画の運動としてこのシーンを称える蓮實に対して、このシーンが物語的な機能も担っていることが指摘されている。
小津映画が与える、何か決定的なことが既に起こってしまったという感覚、それが何に由来するのかに関して、結婚式などの決定的なシーンが省略されていることが挙げられている。だが、決定的なシーンを省略するという手は、多少なりとも気が利いた監督ならやっていることで、小津映画の独特な時間感覚の説明とはなり得ないように思う。黒沢清が『映像のカリスマ』で、気が利いているつもりで、決定的シーンを次々と省略していく脚本家を戯画的に描いていたの思い出す。
また、ドゥルーズによる映像=運動と映像=時間の区別を利用して、小津映画を映像=時間の側に分類しているのだが、これはやや無理があるように思う。やはりドゥルーズがしているように、映像=運動の極限、または映像=運動と映像=運動の橋渡しとして考えるのが自然だろう。個人的には、映像=運動と映像=時間という分類にしてしまうと、必ず後者が前者よりよいという話になるのが気になるのだが、それはまた別の話。
鋭い指摘も多々あるのだが、テレビと映画を対比して、やたらと映画を持ち上げるのが気になった。テレビのニュース番組などが下劣なものであるという主張に異論はない。しかし、映画はその下劣さをまぬがれていると言えるのだろうか。そう断言するには、この本の論証は不十分に思われる。
例えば、その論証として、ゴダール(とセルジュ・ダネー)の議論が引かれている。確かに、ゴダールの発言「映画は投影=投げ出し project しか手にしていません。投げ捨て reject しか手にしていないテレビとは逆です。」など、実に鋭い。しかし、ゴダールの発言というのは、彼一流の無根拠な直感と駄洒落からきているのであって、ものを考えるきっかけとはなっても、それで論証とするわけにはいかないだろう。
また、『誰も知らない』の分析にも同意できるが、この映画がテレビ的な視線と全く無縁かといえば、それは微妙ではないだろうか。是枝監督がオウムを元ネタとした『DISTANCE』の監督でもあること考えれば、なおさらだ。テレビは上っ面しかみないが、映画は深く静かに対象を見つめるのだ、という論理にしてしまえば、これらの作品の面白さと危うさを見落とすことになりはしないか。
また、テレビはみるものをハイデガーのいう存在者のレベルでしか扱わないが、映画は存在として扱うというのも危うい理論ではないだろうか。ハイデガーとファシズム、映画とファシズムの関係を考えるなら、テレビを見て存在忘却していた方が無害なだけましでは、といいたくもなる(これはあまりにシニカルなものいいだけど)。もちろん、映画が場所を与えるという議論と、ハイデガーの住むことについての議論をつなげるなど、興味深い論点もあると思うけれど。
文句ばかり並べたが、映画が存在を与える、世界を信じさせる、という主張には真実が含まれていると思う。でも、映画は高貴でテレビは下劣という分割を前提にしてしまっては駄目だと思う。
第四章などに顕著だが、どうも書きぶりが道徳的なお説教に近くなっているのではないかという懸念はぬぐえない。お説教に聞こえてしまうのを承知でも、そう書かざるを得ない著者の危機感は分かるのだが、アーレントを引きながら、ギリシャ人には公共空間に現れる「覚悟」があった、「勇気」があった、という話にしてしまえば、現代人には「覚悟」がない、「勇気」がないという説教にしかならないのではないか。
アーレントの論には、公共空間に勇気を持って現れ政治的闘争を繰り広げる、というファシズム的な美とすら言える要素がある(斉藤純一が近いことを書いていたと思う。こんな雑な議論ではないし、ファシズムとまでは書いていなかったと思うけど)ので、先に述べたハイデガー的な存在への覚醒と映画とをつなげる議論と同じ危うさがあると思う。
『羅生門』『生きる』『七人の侍』『生きものの記録』、これらの黒澤監督作が、もの言わぬものの表象/代行という点で共通している、という分析。共通点の指摘だけでも非常に興味深いが、これら4作の差異、特に『生きものの記録』が表象/代行の臨界点に位置しているという指摘は鋭い。『生きものの記録』を黒澤の「異色作」として軽くスルーしていた自分としては、改めて『生きものの記録』を観直したくなった。
『文学界』のバルト特集で『表徴の帝国』が新訳で出ていることを知り、読んでみた。訳された時期が全く違うので、比較するのは酷ではあるが、新訳は実に読み易い。ドゥルーズ『意味の論理学』とフーコー『知の考古学』の新訳も、どこかやってくれないものか。
訳者による解説では、この本を日本論としてではなく、前期バルトから後期バルトへの重要なターニングポイントとして読むことが強調されている。確かに、今さらバルトのオリエンタリズムを批判しても生産的ではないとは思うが、やはり批判されて当然という面はある。
重苦しい意味を担わされたヨーロッパの記号とは違い、意味を欠いた空虚な記号が乱舞する国、それが、この本に描かれる「日本」なのだが、再読してみて、コジューヴが日本に見出した空虚な形式としてのスノビズムの称揚とそんなに変わらないのでは、という気さえした。もちろん、バルトは、歴史の終わりとか言い出さないし、あくまで自分の感覚に触れたものだけを取り上げるので、ずっと好感度は高いけれど。
何だかんだ言いながら楽しく読んだのだが、バルトが俳句をやたらと称えるのは、今ひとつピンと来なかった。フランス語に訳された俳句をバルトが称えるのを更に日本語に訳して読んでいるわけだから、ピンと来ないのも仕方ないところか。バルトが同じく称える文楽についての文章の方が、ずっと納得できる。文楽は上演の構造が明確だから、西洋演劇との対比も明確で、ロジックとしてもわかり易い。
バルトは俳句の「私」を称えるのだが、主体の重さを欠いた「私」ということなら、バルトがどこかでやっていたフランス語の中動態の「私」の分析の方がずっと納得できる(これは、逆に、こちら側のエキゾチシズムかもしれない)。