ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

年末

 いよいよ年末も詰まってきたらしく、あっち、こっちの居酒屋では飲みつぶれた奴がくだぁ〜としていたりするんだけれど、風邪やノロウィルスも猛威をふるっているらしく、私がアンテナを張っている皆さんのブログにはあっちもこっちも身体的症状が現れて苦しかったという書き込みが増えてきている。詰まってきたなぁ。

 そうそう忘れていた。どこの本屋で入手したのか、全く忘れてしまった。

  • 月刊「東京人」2008年1月号:特集「神田神保町の歩き方」:「神保町はもういいかぁ」と思って先日見付けた時はそのままにしていたのだけれど、これまでの神保町ものは3冊ほど持っているのでこの際、なにもここで途切れさせなくても良いかと思い直して結局買った。まんまツボにはまっているような気がする。家の「東京人」の列を見るとなんだ、神保町ものはこれで5冊目だ。
  • 季刊「環」2007秋号Vol.31:滅多に買ったことはないのだけれど、特集が「われわれの小田実」と「鶴見和子さん一周忌」だったので、手にした。この雑誌は実に重たい。季刊「あっと」の様にあぁいう紙で良いんじゃないのかと思うけれどなぁ。それにしても米谷ふみ子と小田実がそんなに幼い時から接点があったとは驚きである。世の中はとにかく意外なことの連続なんだ。

 「酒とつまみ」に今回はまだ手を出していない。どうするかなぁ。もうあの雑誌はやめちまったのかと思っていた。そういえば湯島の下のあたりにもぞもぞと潜っていったら結構洒落もののバーに行き当たったのだった。ところが名前を全く覚えていない。行きかかればわかるとは思うのだけれど、そんなつもりで二度と探せなかった店なんてのも存在するから全くあてにはならない。

  • 「母さんが死んだ」水島宏明著 (現代教養文庫 初版1994 元本は1990 ひとなる書房)先日のシンポジウム(→こちら)「ネットカフェ難民は、いま −ワーキングプアの実態と求められる対応」でのシンポジストだった日本テレビの解説委員水島宏明の原点となったという札幌の母親餓死事件のドキュメントである。

 この中では餓死した母親の育ちから追っている。こういう古い書籍は地元の図書館から借り出すのがもっとも迅速に一覧できる手段。貸し出し中であったけれど予約で確保した。
 この本を読むと憲法第25条問題はいつまで経っても解決されないという状況にあることが分かる。そしていつまで経っても自治体における住民に対する根本的な視線が変わらないことに驚く。当時彼が書いていることと、現時点でも問題視されて語られていることとほとんどなんら変わっていないのだ。こうした分野の行政職のあり方、現場をもっともっと表に出して語られるようにして行かなくてはならないのだと思う。それとも本来的にこの分野については表で語られるべきではないのだろうか。どの様な状態が望ましいかついて、市民が参加して語られるべきなのではないのか。
 最後に「文庫版のためのあとがき」が書かれている。本編が書かれたのが1988年で、文庫本の初版が1994年だからこの間に6年の時間が経っていることになる。
 1992年8月の文藝春秋が今では「花げし舎」なるものを主宰しているノンフィクション作家、久田恵を起用して「『母さんが死んだ』の嘘」なる記事を掲載したそうだ。彼女の記事は餓死した本人は男との関係が成り立たなくてそれを苦にしての死だとし、「あれでは行政が叩かれすぎてかわいそうだ!」と電話してきたのだそうだ。
 そのノンフィクション作家が主宰するものはなんだろうとウェブを捜すと「人生とはなんとこまごまとした困難に満ちているのでしょう、日々、なんと心に影差すことのみ多いのでしょう」(中略)「ならばこそです。この日々をいっときファンタスティックな世界に変貌させ、共に、遊びかつ自己解放の時を持つことはできないかしら?このリアルな日常の中に共にファンタスティックなことを見つけて、楽しみあって、明日への元気につなげていくような生き方ができないかしら」とつぶやくファンタスティック・プロデューサーなんだそうだ。つまり、いやなことはたくさんあるけれど、非日常に浸ってしまいましょうというわけだ。これでは眠れない時に宝くじが当たったらどうしようかと考え始めるとすぐに眠りにつくことのできる私のようではないか。

ここの家もそうなのか

 先日、石膏ボードに簡単に木ねじで留めてあった(そもそもその発想がダメなんだけれど)四連のコートハンガーによいしょとコートを掛けたら、そのまま簡単にも二本の木ねじごとすぽんと抜けてしまった。そりゃま、そうなるのは自明の理なんだけれどちょっとあっけにとられた。で、なにか良い手段はないかとハンズにいった。誰に聞くわけでもないのでどこを捜して、そもそも何を捜して良いのか見当がつかなかったけれど、時間だけはいっぱいあったから端から見て歩いていた。
 そこにやってきたのは私と大して年格好が変わらない夫婦だった。二人は何を捜しているのか分からなかったけれど、とにかく捜すものはきっちりと決まっているらしい。その上時間が切迫しているらしい。慌ただしく棚を端から見始めたのだけれど二人でくっついてつま先だって歩いている。するとその旦那がかみさんを振り返っていった。「くっついて歩くなっ!お前は向こうを捜せっ!」かみさんは何もいわずにすっと外れていった。そんな云い方しなくたって良いじゃねぇか。でも、きっと私もそんな具合にいっていたのかもしれないなぁと我が身を振り返る。
 効率としては二人で手分けをして捜した方が良いに決まっている。しかし、警察の捜査本部じゃないんだから・・と思ったけれど、実は私もそんなことを人に押しつけていたりするんだろうなぁ。
 で、結局木製の四連のコートかけは石膏ボードに壁紙を貼っただけの壁に両面テープで貼り付けるというなんとも心許ない解決策で済ましてしまった。とはいえ、ハンズの両面テープの棚を見ると、何種類もずらーっと並んでいて、どれが良いのか、要領の悪い私には分からない。適当に済ました。そのうちきっとまたずるっと外れたりするのだろうか。
 実は今ではコートかけやら何かを引っかけるためのフック類に石膏ボード様に小さい針のような釘があっちやこっちに向いて打ち込むようになっているものが存在する。中には「11kgにも耐えます」としたものまであるのだ。世の中はどんどん進歩しているんだと感心した。次の課題は帽子を掛けるために理想的なものがないか捜すことなのだ。

すぐに飽きる

 小学校の低学年の時から通信簿には「落ち着きがない」と書かれていた。こういうと、俺もそうだったという友人、知人は多い。今の子どもは教室で座っていられないなんていわれているけれど、私はそれを聞く度に「お前もなっ!」といわれているような気がする。で、その延長線上で何かをやり始めても飽きっぽい、という傾向にあるといわれていたんだけれど、今になってそれを思い知る。ひと頃は居ても立ってもいられないくらいぞっこんだったのに、今となってはそんなことを忘れている、というものがいくらもある。
 高校三年くらいから遊びに目覚めてしまった私は当時、あのボウリングに染まってしまったのである。居ても立ってもいられないのである。目黒駅から権之助坂をだらだらと下り、大通りを渡って大鳥神社の傍に目黒ボウリングというボウリング場があった。朝一番(9時だったのか10時だったのか)に行くと一時間600円で投げ放題だった(当時の私のアルバイト代が一日店員をやって600円)。それでぼんぼん放るとひとりで6ゲームを投げることができる。そんなことをしてようやく224点を出したのが最高で、その後どっと盛りになったボウリング・ブームの中、後から始めた奴がどんどん巧くなってあっという間に追い越され、2年ほどですっかりやらなくなった。
 その後はスキーである。金がかかるからやらないと心に決めていたのに、先輩からスキー場のロッジで、人前でバンドを4晩連続演奏するという話が持ち込まれた。とにかく人前で演奏できれば嬉しかった頃だから二つ返事で請け負った。バンドの誰ひとりスキーなんてできない。ひとりだけやれると言い張る奴もいたけれど、いざ現場に行ってみたら全くやったことのない私と大差なかった。しかし、いくらなんでも昼間やることがない。だから板を借りてやってみた。面白いじゃないのというので、そこから首を突っ込んだ。しまいにはワンシーズンに10回ほど行ったスキー場では行くと店長が挨拶にわざわざ来るというくらいの状態になった。就職してからも熱は冷めず、配属先の全く雪の降らない街の大会(長野まで行ってやる)にまで出た。これもまた後からはじめた奴がどんどん巧くなってそいつは業界の全国大会にまで出るようになった。彼らの様子を見ていてあぁかなわないなと思い始めたら、どんどん間が開いていった。最後に滑ったのは1997年くらいだっただろうか。
 1980年代中頃になっていたのだろうか。夏に群馬県の山にでかる時に、秋葉原のニッピンに立ち寄ったら小川テント家型のテントが値下げされていた。こりゃいいやとその場で買って担いで帰った。まだ若かったから全然平気だった。既に家に持っていたダンロップの安い二人用のドームテントと両方を持っていった。三角屋根のバンガローを借りていたのだけれど、面白いからテントを張った。そこからキャンプに目覚めた。連れあいにビニールコーティングされた生地を使ってタープを縫って貰った。さすがにアルミポールはニッピンで買った。集合住宅のゴミ出し場で捨てられている合板の板を拾い、足だけ買ってきて折りたたみ式のキャンプ用テーブルを作る。この趣味はどんどんコアになっていって現地で土を掘って炭焼きの伏せ焼きをしたり、パンを焼いたり、うどんを打ったり、ハイキングに行ったりどんどん深くなっていった。途中である人が遊びに来た時にかつてニジマスを放流したことのある池でフライを振ったら二投目でフックしてしまった。そこから今度はルアーとフライに染まったのだ。裏の川でも竿を出し、しまいにはあたりにニジマスやヤマメを放流して環境庁から怒られた(これは随分前にも書いた)。この趣味は1995年くらいまでは続いただろうか。そこから日本を離れ、海の釣りに転向。ルアーとフライからは全く足を洗ってしまった。しかし、それも日本に帰ってくると全くの話釣りから足を洗うことになった。今や当時のキャンプ用具の基礎的なものは非常時用としてしまわれている。
 音楽的趣味はどうだ。ビートルズが初めて意識したミュージッシャンだろうけれど、実は生まれて初めて買ったレコードは日活映画「独立愚連隊」の主題歌だというんだから、まぁ音楽的センスは期待できない。次に買ったのはブラザース・フォーの「アラモ」だ。ジャズに目覚めたのはお茶の水のジャズ喫茶で聞いたケニー・バレルだけれど、多分それは親しみやすいギターのプレイヤーだったからだろう。オスカー・ピーターソンを良いなぁと思ったのがもう20歳くらいの時で、とても早いとは思えない。当時の先鋭的なジャズを分かるような顔をしていたけれど、実は分からなかった。で、そこから先は全然進歩しない。今でもビートルズは初期のものでないと快適でない。
 ことほど左様に、何をやっても極めたことがない。「誰の前に出ても恥ずかしくない!」なんてものはなぁーんにもない。今になって考えてみると壮大な時間の無駄遣いをしてきたということになる。いや、そうだといったってそれこそ何百年も費やしているわけではないのだから大した時間を過ごしたというこっちゃないのだけれど、ないんだよなぁ・・・。最近は趣味はなんだと聞かれるのが一番困る。ないのだ。
 だから最近の若い人たちが、パソコンにやたら詳しくてメンテができちゃったり、ミュージッシャンのバックグラウンドに大変に詳しかったり、世界のサッカーに通じていたりして昨日の試合の分析ができちゃったり、あれもできちゃったり、これもできちゃったりしているのを見ると、「今の時代は本当に凄いなぁ・・」と舌を巻く。