ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

広島 原爆 スタンス

 戦争を早く終結させるために使用したという言い訳を今でも米国人は主張する。その結果としてどのようなことが非戦闘員に及んだのか、という点から目を背けているからこそそんなことをいっていられるのだろう。「はだしのゲン」ではないが現実から目を背けていればそんな言葉で逃れることができるということか。
 広瀬隆の「ジョン・ウェインはなぜ死んだか」を読んだら米国でもどれほどの事件が起きていたのかわかるはずだ。現実から目を背けていたらいつまでも誤った歴史を信奉することになる。
 反対に私たちも私たちの国がこれまでどのようなことをしてきたのかという点について目を背けることなく見つめていかなくてはならないことはいうまでもない。「笑ってごまかせ自分の失敗、鋭く追求他人の失敗」であってはならないはずだ。この63年間そのままにしてきたことが数え切れない。本当はそうあってはならないはずなのにそうでないことがあるんじゃないだろうか。
 人体には影響が考えられないから放射性廃棄物が放出されてはいたけれど、発表しなかった姿勢は「この国」の政府にあってはならないはずだ。「あの国」の政府は今でもそうしたスタンスにいるのかも知れないが、その延長線上に「この国」の政府はいてはいけないのだと思う。
 これを非科学的という言葉で一蹴されてはならないのだ。この姿勢がテロを呼んでいるのではないだろうか。
 ところで「電事連」の皆さんは“原子力発電は風力発電太陽光発電と同じように二酸化炭素を発生しません”キャンペーンを積極的に行っておいでですがねぇ、「他に発生してしまう危険性があるものを扱っています」を明記しないとそりゃ卑怯ってものではないだろうかと思うんだけれど、ありゃどうなんだろう。JAROってぇのはそういうのをチェックする機関じゃなかったのかね。それともJAROってのは木久蔵親子の宣伝のためにあるんだったのかね。

縁が切れる

 私は本当に情が薄いので、ちょっと時間が経つとひととの縁が平気で切れてしまう。後腐れがないという表現があるけれど、後腐れがなさ過ぎる。それはなんでなのかと考えるとひととの関係性の中で踏み込むことが怖いからなのかも知れないと思ったりすることもある。
 しかし、おおむね怠惰だからじゃなかろうかと思う。マメじゃない。ひとを甘く見ている。人様が感じるであろう感情について想像を巡らすことにすら怠惰だからなんだと思う。そんな具合に振る舞っても許されるような幼少期を多分過ごしたんではないかと思う。親が転勤族だったから小学校が三つに中学が二つ、ということとはあんまり関係性はないだろう。ひとえに怠惰だからだろうという気がする。だからなんでも次から次に企画を考え出してはどんどん前向きにスケジュールをまとめたりしている友達を見ていると、目が回りそうだ。
 だから私の情のなさというのはただただ怠惰であるが故なので、充分誤解のないようにお願いしたいと思う・・・ってどう誤解するというのだろうか。
 じゃ、私は多くの人たちと同じように持たせていただいている24時間をどのように使っているのかと考えると、そのほとんどをそんなことをしなくても別に今この時点でこまりゃしないだろうということに費やしているのがほとんどだ。じゃ、どうするんだと考えても改善できない。むなしくなるんだけれど、だからといってものすごく生産的なことに邁進できるわけでもない。昨日テレビを見ていたら手打ち蕎麦の店をやってきたおじさんが若いときは他の人と同じように寝ていたらみんなに勝てないと思っていたものだから三時間くらいしか寝ていられなかったのだという。ここだ。ここが違っている。「勝とう」という気力があったということだ。それが原点だ。今より、良くなりたい、向上したいという気力だ。それが重要なんだ。ここが違っている・・・。

半ズボン

 今は半ズボンといういい方はしないのだろうか。昔私たちは短パンといういい方をした。半ズボンにしたって短パンにしたってかなりきりりとしたイメージだったなぁ。今の若者たちが穿いているのは、ありゃ短パンでもなんでもない、ずるずる、でれでれ、だらしない、なんだかわからないズボンだな。そもそもズボンなんて彼らはもういわないか。パンツっていうもんな。パンツっていうのは下着だった。下着は今やトランクスだったりブリーフ(もうこんなの穿かないらしいけれど)だったりする。そういえば昨日のピストンの番組でもう「シミーズ」なんて理解不能の言葉になったといっても良さそうな話をしていたっけ。
 バスケットボールにしてもサッカーにしてもみんな短パンはでれでれ、だらだら、つるつるなものになった。今や昔の短パンを穿いているプレイヤーをテレビで見たらそれは昔の試合をすでにhistoryの一部としてみているということになる。
 もう夏用の短パンを買わなくなって10年以上経っている。何本か持っていたものもすっかりくたびれた。短い真っ白な短パンを穿いて、真っ白なハイソックスに真っ白な運動靴を履いて、白いシャツを着て、その上に白いパナマのハットをかぶれば立派なローン・ボウリング・プレイヤーができあがるのに、今やそんな衣装を探したってどこにもそんなものはない。かつては真夏のゴルフでもハイソックスを穿いて短パンでプレイすると気持ちがよいものだった。
 それがもうそんなきりりとした短パンなんて売ってない。中途半端な長さででれでれで、あるいは長いバミューダー・パンツのようだ。それしかないものだから爺さん連中もしょうがなくてそんなものを穿いている。そんな爺さんもかわいそうだ。しょうがないから全部若者仕様にしちゃって、惨めこの上ない。
 こんなものすらなくなっちゃうのである。そりゃ、ビルなんてものは簡単になくなるんである。
(写真は本件とは直接関係はありません・・ほんとにないんですよ。)

ぐるぐる地図

 噂には聞いたんだけれど、ぐるぐる地図もオーストラリア国内もストリート・ビューが見られるようになっている。早速大きく変わったといわれていた、10年ほど昔に暮らしていた家のあったところを見に行ってびっくりした。四軒建っていた一戸建てのいわゆるハウスを全部倒してしまって、4-5階建てのユニット、いわゆるアパートになっている。あの通りには二階建ての家を建てるにも地区の了解を取るのに何ヶ月もかかっていたというのに、オリンピック以降の住宅バブルに踊ってしまってオージーはこんな馬鹿なことを許してしまったということだ。あのオージーもバブルがどんなことをもたらすのかということについて学習していなかったわけだけれど、そりゃそうだろう。彼らはそんなことに興味はなかっただろうからねえ。彼らを羨望の目で見ていたのだけれど、今やこんなことになってしまって、やっぱり目の前にぶら下げられた人参に目がくらんでしまったということなんだと知って、これは実に残念だ。
 ジョン・ハワードのおかげなんだろうか・・・。

朋あり

 30年ほど前から顔を出し続けてきた「巣」があって、当時は業界は全く違うけれど同じような年齢のサラリーマンが集まってきては遊んでいた。それがもはやみんなバラバラになり、いい年をとってしまい、だんだん疎遠になる。そんなところに郷里に戻って商売をやっている当時の仲間がやってくるとただそれだけの理由で集まってくる。みんなすっかり様相が変わっていておっさんだ。昔話に突入してしまうといくらでも出てきてとどまることがなくなるからできるだけ避ける。
 みんないろいろなことがあって、いろいろ乗り越えてまだどうにかなっている。並んで座っていた三人が三人とも気がついたら当時仕事をしていた会社がもうすでにない。