ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

保阪正康

 保坂が朝日新書から「占領下日本の教訓」をだしてこれで「教訓」シリーズは三冊になった。「東京裁判の教訓」「昭和史の教訓」である。で、新宿で保阪の話があった。いつものシリーズとは別立ての会で、なるほどいつも来られている方もお見かけするけれど、全く見たことのない方が何人もおられる。話はたいそう面白くてメモを取りまくる。
 人にはやはり世代によってその思考の基準たる価値観の違いがどうしてもあるだろうという。思考を構成する価値判断基準が、その判断のどの段階で作用するのかという違いももちろんあるけれど、世代による根本的な土壌というものがあるというべきなんだろうか。
 保阪は1939年の生まれだから敗戦後小学校に入った。だから教育としては戦後の教育を受けた世代。私は生まれたのが戦後だから小学校に入ったのは連合国による占領が終わってからの教育を受けた世代で、多分今年古希となる(どうもまだらしい)保阪とは彼がいう「思考帯(思考層)」が違っているらしい。それはもちろん個人個人の差があって当たり前だけれど。
 昭和8年ぐらいから皇民教育というものが突出してきたからその時代に育った人たちにはそうした思想帯を持っている。だから戦後のアメリカン・デモクラシーとの間に大きな葛藤を抱えていたのであり、そのひとつの例として山田風太郎の日記を取り上げていた。しかし、その上の世代は大正期の民本思想を根底に抱えている人がいて、その人たちは保阪のような戦後第一教育世代と共通するものを見て取れることが多いというのである。多くの人と接してきた保阪がいうのは説得力がある。
 保阪は先月の会であのアジア太平洋戦争を「官僚が始めた戦争」と指摘していたけれど(軍も官僚)、敗戦後、GHQがとった方針は「優秀な日本の官僚制を利用した間接統治」だったわけで、今回の民主党がどんな改革をするのかわからなけれど、初めての霞ヶ関官僚への試練になるということだ。
 これだけばらばらと長い時間をかけてこぼれ落ちてくる昭和天皇の発言、考え、生活を一回総覧できるように「昭和天皇語辞典」を誰か出してくれないものだろうか、と保阪が提案。

記者会見

 民主党鳩山由紀夫の総理就任会見がそれまで限られた記者クラブのメンバー + 外国プレス対象であったということを初めて知った。つまり民主党がこれまで記者クラブ各社に限らず、オープンな取材の場としていたにもかかわらず、この時はどうも首相官邸報道室には記者クラブ+外国プレスに限定する指示が出ていたらしいという書き込みが増えてきている。
 これは一体、何を考えているのか、どんな論理からここに至っているのか、本来的には官邸はつまびらかにする必要がある。それができないのだとしたら、こうしてみんなで書いていかなくてはならない。

旧態依然

 自民党総裁選挙では河野太郎が総裁に選ばれる目は多分相当に低いだろう。彼は「総裁選の推薦人集めで派閥の領袖から妨害を受けた」とはっきりいってしまった。それもニュアンスで判断するとその現況は知性のかけらも感じられない森喜朗のことだろう。まだ派閥なんかに振り回されて行く、派閥がその根底に存在している党運営をしていこうとするのであれば、またぞろこんな状況の繰り返しにしかならないだろう、後は民主党政権が何か慣れないが故に大失敗をして自己崩壊していくくらいしかてだてはないんだぞ、と河野太郎は警告を発している。
 しかし、谷垣を押している、これまで通りの自民党総裁選びのまま、意識改革もせず、雪崩(小さい雪崩だけれど)を打って一辺倒にくっついていく各派閥の人たちは、もう多分自民党の将来は自分たちにとってはこのまんまでいいやと思っている、ということなのか。これから改革していったら、これまでやってきた自分たちを否定することになるとでも思っているのだろうか。
 今更お情け当選の伊吹なんかにコメントいただいてもしょうがないじゃないか。
 どう見ても西村の立候補は河野太郎妨害工作のひとつでしかない。今度の三人のうち、本当に自民党をどうにか変えていきたいと思っているのは河野太郎、ただ一人だ。私から見たら河野太郎はもう自民党を捨てて良いんじゃないかとさえ思うのだけれども、河野は自民党を捨てる気はなくて本当に自民党を変えていこうと思っているらしい。
 もう自民党は腐っている。自浄能力を備えているとは思えない。もう見限っても良いのではないだろうか。河野太郎にそういってあげたい。