ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

渚でシャララ

 本日発売。銀座山野本日分売り切れ。明日は大丈夫らしい。ところでなんで鳥の頭なんだろう。アルバムは3月。カラオケもすぐに配信。

渚でシャララ

渚でシャララ

ウィリアム・メレル・ヴォーリス

 こちらの方のブログを拝見していたら、三越本店の地下でいつも人が並んでいるバウム・クーヘン屋さん、「クラブハリエ」というあの洒落のめしたお店は

 近江八幡市に本店のある「たねや」で バウムクーヘン作りでは50年の歴史を誇るしにせです。 「たねや」がバームクーヘンを製造するきっかけになったのが 近くに住んでいた宣教師で優れた建築家でもあった米国人ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories、1880年〜1964年)で この人の薦めと指導で「たねや」はバームクーヘンの製造販売を始めています。

 なんだそうで、イやぁ、びっくり。国立演芸場へ出掛けるときはあそこの地下で一番安くて旨そうな弁当を物色していくのだけれど、あのバウム・クーヘンを買う気には一度もなったことがない。そういうことなら、一度はかけらで良いから試さなくてはならない。
 ヴォーリスさん、何から何まで手がけていて、いつまで経っても驚きが終わりませぬ。次はなんだろう?

追記:ヴォーリスといえば未だ大阪の大丸をじっくり見ていない。そうかといって、今じゃ他に大阪に出掛ける目的も殆どない、京都ならまだしも。串カツを喰いにわざわざ出掛ける気にもならないし。三番街の噴水がどうなっているかを見に行くにはちょっと足代がかかりすぎる。訪ねる決め手がない。春にでも青春18切符でも片手にヴォーリス巡りの旅に出るべきか。

旧「しらせ」

 Asahi.com(2010年2月10日11時20分)によると旧「しらせ」は気象情報会社「ウェザーニューズ」社に引き渡され、タグに引かれて三菱重工本牧に入渠して一般公開前の改造を行うそうだ。生まれ故郷のドックでないのが至極残念だけれど、あそこにはもう乾ドックはない。「千葉県船橋市のコンビナート岸壁に係留され、5月2日から一般公開される予定」だそうだ。公開されたら逢いに行こう。

Cliff Richard

 話せば長いことながら、今朝、AccuRadioのCountry Heritageを流していたら誰だったか忘れたけれど、懐かしい「True Love Ways」が流れた。多分私が初めてこれを聞いたのはオリジナルのバディー・ホリーではなくてPeter & Gordonだったと思う。じゃ、他に誰か唄っていたのかなぁと検索するとCliff Richardがある。ところがYouTubeのすごいところはCliff Richardのバック・バンドで知られていたThe Shadowsも彼等のライブ・ステージでこれをやっているのも教えてくれる。ハンク・マーヴィンのギターが泣かせる。そのうちに気がついたのはCliff Richardも2008年に50周年記念ライブをやり、集大成の50曲入った「The 50th Anniversary Album」を出している。かつての録音をremasterしたものである。その上昨年にはThe ShadowsとreunionのCDとDVDを出しているのだそうだ。もう、50年。如何に生きるかをテーマにしてきた人と、如何に遊ぶかをテーマにしてきた人間とのその差はでかいなぁ。
 ロンドン・フィルハーモニック・オーケストラをバックに歌うCliff Richardのステージはこちら

 The Shadowsは音量レベルがとても低いけれど、こちらに。

「孤独死」はそんなに大きな問題か

 日経ビジネス2月10日号電子版に吉田鈴香というひとがこんなタイトルで書いている(こちら)。もちろん先日のNHKの「無縁社会」という番組に対する意見だ。
 極論をすると彼女が書いているのは「現実に厳しい生活を生きている人にとっては、正直を言って、生きることが重要であって、死に方などどうでもいい」ということであって、「自由が生んだ一つの結果」だというのである。

 「死とはこうあるべき」「理想の死に方」と決め付けるのは、人間を差別する。それに適わなかった人間をはじくメカニズムだからである。上から目線の「縁」なのである。

 型に嵌めるのはおかしい、それじゃ全体主義的であり、偽善的だといっておられるように私には読める。人がどんな「縁」を求めようと、どんな死を選ぼうとそれは本人の勝手であって、それよりも何よりも大事なのは「如何に生きるのか」ということなんだという。
 大事なのは「如何に生きるのか」である、ということについては私は全く異論はない。しかし、この番組の趣旨はそこではない。年間に3万人を超える人々が孤独死をしているというその背景だ。
 とりあげられていたのは、ここで取り上げられていた数例についていえば、「自ら選んで」そのような境遇になったというよりは、「そうせざるを得ない結果」そのような境遇になった方たちだったのではなかったか。
 この方が「縁のあった社会」として仮定している時代は「そもそも、移動の自由がなく、女性はイエに閉じ込められたままで、農村の中での相互監視が行き届いていた時代」をいっていて、「であれば、一人寂しく死ぬことはないかもしれないが、その代わり、自己決定権もない」である。
 「縁」は支えでもあったけれど、縛りでもあった、という表現であれば、それは正しいのかも知れない。固縛された縁をばらばらにすることによってそれまでの因習からすべての人が解放された。
 しかし、その結果孤立した生活に陥る人が発生したということの成り行きを無視して良いとは思われない。そうした「生き方」となっていった結果として迎えざるをえなかったのがここでテーマとされた孤立した死である。
 こんなことをいったら議論にならなくて、突きっぱなしになってしまうけれど、元気なとき、多少の不安があっても動ける間はそんな「縁(えにし)」なんてうるさくてしょうがない。できることならなんのしがらみもない、周りに誰も自分の過去、生い立ちを知らない、従って縛られることのない地域でゼロからやっていきたいと何度か思う。
 しかし、人生の残りであと何回ご飯を食べられるだろうかとカウントダウンに近いことをし始めるようになると、全く状況は変わる。
 その時に、どう感じるのだろうかということは人生の中でも大きなポイントだろう。そしてここで語られていたのは「如何に死ぬか」ではなくて、そこに至ってしまった「孤立した生」だろう。番組で語っていたのはこの方がいうようにまさしく「如何に生きるか」だったのだ。
 「ありとキリギリス」の寓話は人生の永遠のテーマだと思う。「好き勝手に生きて来ちゃったんだから、そりゃしょうがないよ。自分の責任は自分でとるしかないよ」という「自己責任」論は強者の論理だろう。

 ここのところ寝れば夢を見る。今日の夢はなんだか随分山の中にある学校法人を訪ねるのだけれど、それが私はサーフボードのように車輪がついているクロスカントリースキーを履いている。しかも、その達人のようで、がんがん滑っていく。多分寝る前に見たノルディックW杯レースのテレビのおかげだろう。この学校法人は専門学校と短大を持っていて、非常に近い将来4年制大学を設立しようとしている。それで現状がどうなっているのか、秘密裏に見に来たようだ。荒れた、まるで砂利採取の山奥のような校内には「ばら大学校舎建設予定地」と書かれているところがある。
 ところがぽつんぽつんと建っている校舎は学生に管理されている、といえば聞こえはよいが占拠されている。いや、ニュアンスとしては学校が気後れして何もできないうちに乗っ取られているかの如きである。学生といえば聞こえはよいがそこにいるのは暴走族のような連中で、私が来たことを知るとバットや鉄パイプを持って追いかけ回すのである。しかし、夢の中の私は現実の私とは大いに違っていてバンバン滑っていくのだ。あぁ、疲れた。

検察のやり方

 昨日は結局一日かけて検察のやり方をウェブ上で勉強したようなものだった。元福島県知事の佐藤栄佐久の高裁判決の一部始終を読むと検察だけの話ではなくて、こうなると司法全体で狙った魚を無理矢理にものにするという図式に見えてくる。どうやら小沢一郎はまだまだ狙われているようでもある。
 検察が石川議員を保釈したのにはどんな意味があるのだろうか。
 テレビ朝日の朝の番組で元検事の大澤弁護士がしきりに「まだ終わらない」といっていた言葉が意味を持って聞こえるようになってきた。検察はどこまでもやるつもりのようだ。マスコミはこれだけネット上で暴露されていながらまだ御用情報配達人を続けるのだろうか。