ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

その意気や良し

 花巻東高校の大谷翔平投手がドラフト前に「アメリカでプレイしたい」と宣言したにも拘わらず北海道日本ハムは指名した。前日に日本ハムが指名するということを知ったのだそうだ。それでも彼はアメリカでプレイしたいという気持ちは変わらないときっぱり宣言した。その意識は素晴らしい。
 それだのに、花巻東高校には「生意気だ」「日本球界を軽視するのか」と電話があったんだとスポーツ新聞が報じている。大バカだ。彼が覚悟を持って決断したのだから、祝福してあげるべきだろう。

大使館初体験

 残念ながらAmazonが扱っていないので入手は簡単ではないのだけれど、英国連邦占領軍が日本占領期に担当していた中国・四国6県の本部を置いていた呉に生まれたracial mixの子どもたちについて描かれた本。今年の7月に刊行されたそうだ。
 著者のWalter Hamiltonは豪州の国営放送、ABCの特派員として日本に11年間暮らした経験があり、この事実に気づき7年掛けて書いたという。インタビューや参考図書にはかなりのエネルギーを掛けたのであろうことがよくわかる。
 昨日は麻布二の橋にある豪州大使館のレジデンス棟にある豪州公使の官舎で著者のプレゼンテーションがあった。本の中に豊富に含まれている多くの写真を使って何人かの子どものその後を説明した。
 豪州政府は当時反宥和政策をとっていて、日本人女性との間の恋愛は御法度だったし、ましてや結婚は認めてもらえなかった。当時兵隊は軍に届けることになっていたので、決して許可にならなかった。だから、秘密裏に結婚生活を送っていたカップルも少なくない。
 戦後の豪州は欧州以外からの移民を全く認めていなかったし、戦争中に収容されていた日本人は戦後ほとんど日本に帰ることを強要され、ほんのわずかの日本人しか残っていなかったことは永田由利子の著書(こちら)に詳しい。だから、いわゆる「戦争花嫁」もいつまで経っても正式な夫婦となってオーストラリアに入国することは出来なかった。その最初の日本人戦争花嫁を書いたのが遠藤雅子の「チェリー・パーカーの熱い冬―オーストラリアの戦争花嫁第一号」(1989年 コスモの本 こちら)である。
 Hamiltonのこの本の特徴的なことは、これまで占領期について、あるいは「戦争花嫁」について描かれた本はあっても、呉に残されたracial mixの子どもたちに視点を置いたものはほとんどなかったという点にある。私ごとであるけれど、呉についても、英国連邦占領軍についても、そして「戦争花嫁」についても様々に考えてきたつもりだったのに、この視点は全くすっぽり抜け落ちていた。だから、Hamiltonのこの会のお知らせを戴いた時に思わず唸ってしまった。
 日本では占領中に日本に駐屯したのはすべてアメリカ人だと思われているし、ほとんどの人が疑問すら持たないが、彼らは1946年の2月から1952年の占領解除まで駐屯していた。しかも、朝鮮戦争にも豪州軍は参戦していたから、中には日本に子どもがいながら朝鮮戦争で命を落とした兵もいる。
 豪州国内では全く報道されることはなかったので、全く彼らの存在は認知されていなかった。しかし、1960-1961頃になって多くの帰還兵士の口からその存在が語られるようになり、ようやく認知されるようになった。それでも実際に豪州政府が「白豪主義」を返上するまでにはそれからまた約10年掛かった。
 今でこそほとんどracial mixの子どもは別に異なる視線で見られるということはなくなったけれど、ここにたどり着くまでには半世紀以上の時間が掛かった。世の中が変化するというのはこの国ではこういう事で、いつまでも変わらないように見えていて、実際には非常に遅い速度で変化しているのかも知れない。
 当時、呉にはISSというグループがこうした子どもの援助をしていたのだそうで、今から考えると経済的にも恵まれなかった当時としては画期的なことではないだろうか。その点では呉のracial mixの子どもたちにとってはかなりな心の支えとなったことだろう。九州大学発達心理学の山内光哉先生も彼らの支援に一役買っていたという話をHamiltonの口から聞いた。
 この日集まっていた人たちのほとんどは豪州大使館にゆかりのある人たちだったようで、彼の日本人の奥さんの通訳を待たずに反応している人がかなりの数に上っていたようだ。スーツを着た30代とおぼしき青年が数人いたのだけれど、彼らは一体何だろうか。
 POW研究会のメインスタッフの人たちが来られていて、その中に若い女性がいて、お話をさせて戴いたら母校の後期課程の院生であることが判明。

  • 追記:英連邦占領軍をBCOF(British Commonwealth Occupation Force)というのだけれど、私は「びぃー・しぃー・おう・えふ」といっていた。ところが彼はこれを「びぃー・こふ」という。最初のうち、その「びぃー・こふ」とはなにかと不思議に思っていた。

詳細はこちら

オーストラリア日系人強制収容の記録―知られざる太平洋戦争

オーストラリア日系人強制収容の記録―知られざる太平洋戦争

2012年10月25日のツイート