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2017-11-15

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女中がいた昭和 (らんぷの本)

女中がいた昭和 (らんぷの本)

 本屋の棚、「らんぷの本」のところにこんな本が刺さっていた。そういえば昔は女中さんというのがお金持ちの家にはいたよなぁと。うちの近所だったら、大きな電気店の旦那さんの家、日本郵船の専務の家、お医者さんの家なんかには女中さんがいたのを覚えているし、なんたって「女中っ子」という映画があった。

 1955年の日活映画で、女中さんは「初」という名前で左幸子の若かりし頃の作品。奥さんは、当時の山の手のお母さんといったら必ず轟夕起子。初の田舎の母親は東山千栄子だ。細川ちかこ、北林谷栄、佐野周二とくればこりゃ完璧。友達の家に泊まりにいったとき、近くの中学校の校庭で野外上映されたものを見たような気がする。まだ小学校2-3年だった。

 で、この本を立ち読みしたら、昔の雑誌からの記事の引用があって、住み込みの女中さんが住み込み先の男性から乱暴されることから如何に逃れるか、という注意事項特集があったりしたと書いている。怖ろしい。ほんとかね?

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 私の映画史は横浜私鉄沿線の東映封切館から始まったのだろう。なにしろうちの親父の仕事は客次第で、週末も仕事だったことはのべつ幕なしで、ひどい時は家族揃って出かけようとしているところへ電話がかかってきて「今すぐ来て」だったりした。だから、行けるときは必ずと云うくらい子どもを連れてその東映封切館へ行った。多分当時のことだから電話から逃げられていたんじゃないだろうか。

 当時の映画は毎週新しい映画が掛かるというわけで、毎週行っても違う映画が二本見られた。今から考えてみたら随分粗末な封切館で、椅子は多分ひとつずつじゃなかったんじゃないだろうか。ベンチだったのか、独立した椅子といっても背中は合板だったと思う。必ず「禁煙」と書いてあったけれど、たばこの煙もうもうで、誰も気にしていなかった。

 映画と映画の合間には、フィルムを巻き戻している「スレスレチャラチャラ」とでも云うような音がしていた。客席にはおじさんが「えぇ〜、おせんにキャラメル」といってせんべいを売りに来たし、「あんパンにラムネ」とか「アイスクリ〜ム」と次々に売りに来た。この習慣はかなり後まで続き、社会人になった頃だって、日比谷の東宝封切館でもアイスクリームを売りに来たものだ。

 そして必ずニュース映画があった。一番不思議だったのはアメリカンフットボールが映ることだ。スローモーションで選手が動く。何のことだかわからないけれど、華やかなアメリカの文化なんだろうと思っていた。あれは一体誰の為にニュース映画の中に入っていたんだろうか。だって、駐留軍兵士とか、駐留軍の家族なんか、絶対に東映映画を見になんて来ないし、あの時代に日本人でフットボールがわかった奴なんて多分ほとんどいないだろうに。

 台風の被害は必ずニュース映画で見た。テレビではまだ見られなかったんだから、動画で見る台風被害はすさまじいものがあった上に、バックには必ずおどろおどろしい音楽がかかっていた。あとから、あのての曲がみんなクラッシックにあるんだと知って不思議だった。

 松竹の封切館はひとつ電車に乗った駅にあった。あとは二つ目の駅に洋画館があった。東宝を見るようになったのはどこの映画館だったんだろう。電車で三つ反対方向へ行った町だったんだろうか。社長漫遊記シリーズは一体どこで見ていたのか思い出せない。日活もそっちだったのか。風速40米なんて裕次郎の映画を見た記憶があるけれど、あの唄には驚いた。「なんだ、ありゃ?風速40米?!」なんてセリフがあったような気がする。なんだ、こいつ?って思った。そして必ずギャング団のアジトはキャバレーの奥の事務所なんだね。

 岡山のおばあちゃんが出てきたときに一緒に「君の名は」を見に行った記憶がある。あれも伊勢佐木町だったと思う。佐田啓二と岸惠子だけれど、岸惠子が当時横浜に住んでいた。横浜に住んでいたといったら、あとからテレビで知った草笛光子も横浜だ。

2017年11月14日のツイート 2017年11月14日のツイートを含むブックマーク

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