ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

カウラ

 おなじみ、豪州NSW州のカウラにあった戦時捕虜収容所で、日本人捕虜達が反乱を起こし、オーストラリア人4名、日本人231名が死んだ事件が起きたのは1944年8月5日だった。決行するか、しないかを捕虜達はトイレットロールの紙を使って、投票した。ほとんどが「決行」に投票した。あとで、聞くと、そんなことをする気はなかったのだけれど、虜囚の辱めを受けずではないのか!と檄を飛ばされたら、たぶんみんなは反対票を入れるだろうけれど、といって賛成票を入れたんだといったそうだ。
 今でも日本の選挙では同様の事態が続いている。

敗戦

 ポツダム宣言受諾表明記念日。連合国では”VJ day”といわれます。300万人の日本国民が死んだといわれていますが、未だに正確なところはわからないし、そもそもあの戦争に大日本帝国がどれほどの戦費をかけたのかもわからないままだ。そんな戦争に日本国民を追いやった連中まで靖国神社に英霊とかいって祀ってあるってのもおかしいし、それじゃ、一銭五厘で連れて行かれて死んじゃった人たちも十把一絡げになっちゃって、可哀想だよねぇ。
 旧大日本帝国陸軍の制服を着て、コスプレごっごしている連中の頭の悪さに実に悲しくなる。
 実際に日本軍が正式に敗戦したのは9月2日。それ以来日本は名目上連合軍に占領されたことになっているが、実はアメリカに占領された。その占領は今でもまだ終わっていない。米軍兵士は日本でどんなに乱暴狼藉を働いても、あっという間に転任という名目で帰国してしまうし、どんなにやめてくれといっても、上空をばんばん危険きわまりない整備不良、あるいは設計不良の飛行物体を飛ばして、知らん顔だ。もうそろそろ「いい加減にしろ!」とどついても良いんじゃないのか!?

松本商店街

 私が育ったのは東横線の反町という駅から多分歩いて10分くらいのところだった。当時は旧道沿いに商店街があって、駅から家に到着するまでに、その商店街を歩いてくるとずっとお店が続いていた。
 駅前のバイパスに、何軒か戦後の店があった。八百屋、肉屋、写真屋呉服店、たばこ屋、もう一軒の八百屋。このうち、福富精肉店、鈴木写真屋、久の屋呉服屋はそれぞれ同じ学年の子どもがいた。写真屋の前を通ると、現像液の酸っぱい匂いがした。この写真屋横浜駅の西口に相鉄名店街ができると出店した。
 その反対側には亀屋和菓子店、電気店、本屋、パチンコ屋が並んでいた。線路を挟んで東側にも何軒か店があって、洋食屋、鮨屋、パチンコ屋があった。ハヤシライスを食べたのはこの洋食屋だった。グリーンピースが乗っていた。鮨屋は「おかめ」という名前だった。うちはここから出前を取った。電話をすると「もしもし、おかめさん?」というのがわれながらおかしかった。この辺の裏、電車のガード下を含めてどうやら青線だったらしくて、子どもの頃はこの近辺は近づいてはいけない地域となっていた。長ずるに及んでたまたま通りかかってみると、小さな飲み屋が並んでいたのが、その名残だったんだろうか。
 バイパスから旧道へ入るんだけれど、東側には洗い張りの店、布団屋、内科の医者、床屋。その西側には小川屋という中華そば屋、電気店、喜利屋という和菓子屋、カラオケ屋になった斉藤洋品店、角を曲がって、おもちゃの大木屋、精肉店、だるま屋という屋号のたばこや、蕎麦の出前を頼んでいたやぶ蕎麦、乾物屋、交番、魚多といういつもお客がたかっていた魚屋、洋品屋、平原家具屋。北側に、瀬戸物屋、酒屋、浅井クリーニングという洗濯屋、文房具屋、レコード屋、歯医者、手芸用品屋、池田酒店、バス通りを渡って、北側は和菓子屋、ガラス屋、駄菓子屋、南側は角が消防署で、数軒置いて、花や、牛皮の鮎が名物だったうさぎや和菓子店。金物屋、かやしま写真店。その先はもうほとんど思い出せない。
 ちゃんと書いておかなかったから、もうほとんど思い出せないんだよなぁ。あぁ、本郷書店にはお世話になりました。それから塚越という名前だったと思うのだけれど、夏はかき氷、アイスキャンデー、冬は今川焼きの店にも良く行きました。
 栗田谷の坂道は昔はもちろん舗装なんてしてなかったので、雪が降るとすぐに積もった。だから朝早く、そりを持ち出して滑った。上からスキーで降りてきたお兄さんがいたことは忘れられない。お兄さんは下の方でぶつかったのか、血を滴らせながら登っていった。川に落ちなくて良かったよね。その川もとっくに暗渠の下に埋められた。

 

2018年08月14日のツイート