ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

勤め人

 私も昔は大企業の勤め人でした。もっとも今はもうこの企業は生き残っていません。メーカーのくせに生き残れず、構造改革が必要だという業界の中にあって、吸収合併されてしまいました。 
 30代の頃は怖いもの知らずのように、世の中を舐めていました。そんな社員ばっかりだったからこんな結果になったといっても良いかもしれません。当時知り合った新聞記者のひとりが、今は孤高の評論家となって、一目置かれる存在になっていますが、当時彼は新聞記者に成り立てでした。
 私が長ずるに及んで、その吸収合併寸前にその企業を辞め、学徒の道を辿ったのも、その企業の中にいて世の中があまりにも不思議なことに充ち満ちていたのが理由なんだけれど、30代の頃はその世の中の不思議のまっただ中にいました。しかし、段々、正義とはいえない企業思想に嫌気がさしていました。
 その企業を辞めてから何年か経って、ある集会に顔を出したら、そこに押しも押されもしない存在となりつつあったかの元新聞記者に遭遇しました。で、ゆっくり話したいなと思ったので、「お久しぶりですねぇ、一献如何?」とお誘いしたら、体よく断られてしまいましたが、彼の目の中には明らかに、なんであんな企業にいた奴が今の自分に近寄ってくるんだろうという色が浮かんでいました。つまり、彼にしても私を今はもう既になくなった、背中に背負った看板で判断していた、ということでございます。
 世の中は不思議なんだぞ。

日本人

 日本人だから天皇が好き、日本人なのに天皇制を批判する、といういい方がありますな。日本人はすべからく、天皇制の支持者でいなくてはいけないような。
 お、突然何をいうのか!という雰囲気になりそうな気がしますが、今度の元侍従だった小林忍の日記というのが出てきたという新聞記事を今頃になってみたわけです。約一週間遅れです。多分23日の木曜日には保阪正康がこの件について触れていたに相違ありません。惜しいことをしました。
 で、驚いたのが1987年4月に、倒れる直前、昭和天皇裕仁は「細く長く生きても仕方がない(中略)戦争責任のことをいわれる」と書いてあるんだそうだ。戦争責任のことをいわれるのがイヤだった、という感想を述べたというのです。そりゃイヤかも知れないけれど、いわれますね。云われてもしょうがない。大元帥だったんだから。そりゃもちろん突っ走ったのは大日本帝国陸軍と海軍であり、当時の日本を牛耳っていた連中だけれど、その総大将だったわけだから。そりゃ本人がそう云えといっていたわけではないけれど「天皇陛下万歳」だったわけだから。
 日本は、勝ち負けは別として、あの戦争の総括を全く行っていませんよね。「こんなことをしたのはこういう面からいって間違っていた」とか、ここで、こんな作戦をとってしまったのは全く論外であるとか、なにも公式に決着をつけていませんね。だから、裕仁君もいつまでも陰で「アイツのせいだ」といわれるのでしょうね。
 一説によると戦後裕仁君はGHQマッカーサー総司令官に退位を持ちかけたという話がございますな。本当かどうかわかりません。三笠宮なんかに譲位するという考えがあったのか、当時はまだ幼い今上天皇明仁にか知りませんが。
 靖国に祀られてしまっている、いわゆる東京裁判で有罪となって処刑された連中はわたしたち日本国民が処刑したわけではありませんね。だから、日本国民は彼らを有罪と決定したわけではないという論理があります。つまり、敵国連合によって殺されちゃったんだから、正に戦死であって、だから彼らは英霊だといっても良い、という論理なのでしょうかねぇ。
 これは明らかに間違っていますよねぇ。奴らはわが国とその国民を戦争へと引きずり込み、貴重な命と資材をまるで我が物のように動かして消耗してしまいました。しかもその結果について責任もとっちゃおらんのですよ。もっともこの国では公務員も国会議員もなにも責任をとったりしておりませんけれどね。
 昭和天皇には明らかに責任がございます。この国をあの戦争に導きました。しょうがないんだ、認めるしかなかったんだから、というのであれば、誰も彼もみんな同じです。上の命令だったんだからしょうがなかったんだ、周りがみんなピー屋に並んだんだからしょうがなかったんだ、周りがみんなバブルっていたんだからしょうがなかったんだ、ということになるわけでございましょう。

都電

 うちのつれあいは中学・高校と私立の学校に都電で通っていたんだそうだ。中学から一緒だった同級生がちょっと先の方から都電に乗ってくるんで、示し合わせて22番の新橋行きの都電で浅草橋に行き、そこから今度は12番の新宿駅前行きの都電で学校近くまで行ったらしい。
 私が生まれて初めて都電にひとりで乗ったのは、晴海通りを走って築地が終点だった8番だったようだ。中学二年だったか、三年生の時に、私は新聞委員会というのに属していて、年に二〜三回出していた中学の新聞の編集発行を担当していた。なんでそんな役割をやっていたのかというと、二年の時に、授業でクラス新聞をガリ版で作ろう、という授業があった。今から考えてみたら随分前向きな授業で、多分国語の時間だったのではないか。しかし、それを担当した先生を思いつかない。校内のバレーボールのクラス対抗大会があって、うちのクラスは負けてしまったのだけれど、その記事に「惜敗す!」と書いたのが先生受けして、それがきっかけでその新聞委員会に入ったんだと思う。記事もどれほど書いたのかまでは全然覚えていないが、先生が最終的にまとめてくれた原稿を築地の印刷屋さんに持っていく、というのが私のある日の仕事だったらしい。京浜東北線で有楽町まで行き、朝日新聞日劇があった数寄屋橋から8番の都電に乗り、往復切符を車掌さんから買った記憶がある。横浜にも同じような市電があって、小学校4年の夏休みに、毎朝青木橋から市電に乗って本牧を通って間門の小学校まで臨海学校に通った経験があったから、別段なんの不安もなく、楽しく乗った。それにもう既に中学二年であったし、なにしろ横浜から大森まで毎日電車で通っていたのだから、なんにも困らなかった。

2018年09月01日のツイート