デイジーチェイン・アラウンド・ザ・ワールド このページをアンテナに追加 RSSフィード

新ブログ【オルタナティヴ・デイジーチェイン・アラウンド・ザ・ワールド】にて更新継続中

2005-03-12

[]第4回:奈津川四郎の魂の旅

以下には舞城王太郎著『煙か土か食い物』のネタバレが含まれます。未読の方は全力で回避してください。また例によって断定的な内容ですが、解釈のひとつと思ってください。あと、クソ長いんで気を付けてください。英語に関しては、ネイティヴじゃないんで間違ってても笑って許してください。


1.someとanyについてのちょっとした話

舞城論を始める前に、someとanyについて見ていきたいと思う。someには「特定の」、anyには「不特定の」というニュアンスが含まれている*1。例を挙げてみよう。

  • Do you have any questions?
  • Do you have some questions?

前者は「(あるかわかりませんが)何か質問はありますか?」という疑問文である。発話者にとって質問があるかわからない場合に使われる。授業の最後などで先生が言うのはこれにあたる。それに対して後者はニュアンスが前者と異なる。発話者にとって、質問の存在がある程度わかっている状況に用いられる。意味は「何か質問はありますか?(たぶんあるでしょう)」。相手の発言を促すような感覚だ。砕けた言い方にすると、「聞きたいことがあるんでしょ?」となる。もうひとつ、世界的に有名な歌詞を例に挙げる。

I need somebody. Not just anybody. You know I need someone.

ここではsomebody、someoneは「(特定の)誰か」、anybodyは「(不特定の)誰か」という意味になる。乱暴に訳すなら「俺にはあいつが必要なんだ。誰でもいいってわけじゃない。俺が欲しいのが誰かわかるだろ」といったところだ。さらにこれをsomeとanyのニュアンスを汲んで補足すると「俺にはあいつが必要なんだ。(俺に必要なのはあいつなんであって)誰でもいいってわけじゃない。俺が欲しいのが誰(を指しているの)かわかるだろ」となる。

また、somebody/someoneには「ひとかどの人物、大物」という意味もある。それに対応するanybodyの意味は「つまらない人物、並、小物」。nobodyは「名もない人物、取るに足りない存在、カス」。四郎が三郎に対して「ナッシング」と言うのはこのニュアンスだ。

以上を参考にしつつ『煙か土か食い物』を、四郎の魂の変遷に集中して読み解こう。


2.奈津川四郎の魂の旅

さて、『煙か土か食い物』のONEに以下のような箇所がある。

大体このアルバムのタイトルだってありきたりだけど超いいじゃないか。ミドルオブノーウェア。どこでもない場所。大体今俺のいる場所だってどこなんだ?空港の中に決まってる。でもそれはどこかではない。どこか俺のいるべき場所であるわけじゃない。それはどこでもいい場所だ。俺はここにたまたまいるだけでここにいるべくしているんじゃない。俺の心はこんなところでは休まらない。

上記は空港の中での四郎のモノローグである。今までの流れに沿ってsomeとanyについて見ていこう。「でもそれはどこかではない」のどこかは、somewhereである。つまり、「ここは(俺がいるべき)特定の場所ではない」という意味になる。「それはどこでもいい場所だ」のどこでもは、anywhere。言い換えれば、「ここは他と変わらないどうでもいい場所だ」という意味である。この引用部分でわかることは、四郎は形而下ではなく、形而上での居場所を求めているということだ。四郎の心が休まる場所。それはどこにあるのだろうか。NINEにはこんな記述がある。

現在地がどこだか判らない。ここもまたミドルオブノーウェア。

四郎はここが西暁だと判っているにも関わらず「どこでもない場所」だと言う。久しぶりに西暁に帰ってきた四郎は、なかなか故郷に、家族に馴染めずにいる。そこに変化が生じる。同じくNINEから、ラストパラグラフを引用する。

俺は精神安定剤を口に放り込む。飲み込んで悟る。俺には変化が起こっていると。原因にもすぐに思い当たる。一郎だ。一郎に病院でぶっ飛ばされたときに俺は何かに目覚めたのだ。何に目覚めたのかはまだわからない。でも今まで見えていなかったものに気付き始めている。(中略)今の俺は過去の俺の肉体から三メートルくらい離れた魂。俺は自分の何かが変わりつつあるのを悟っている。

一郎と兄弟げんかをしたことで、四郎の中で何かが変わろうとしている。それを四郎が自覚するのは、FOURTEENで理保子とファックしたあとのことだ。

ウーロン茶が喉の奥を濡らして通っていくのを感じながら、あれ、と思う。俺に虚しさがある。余計なことをやったという感じがある。後悔?それにも似た感じ。前に理保子とやったときは性欲を満たしてやあ良かった良かったとしか思わなかったのに。俺は一郎に殴られ蹴られてから一郎のことを兄弟として再び好きになったらしい。いや兄弟としての愛情は以前からあったからそれ以上に好きになったのだ。どうやら友達のように好きになったらしい。それはつまり心を許してもいいという気持ちだ。俺にはこういうのはなかなかないから非常に貴重で大切にしなくてはならない。その一郎の妻をファックしてしまうなんて。俺は自分で思う以上の馬鹿だ。

「心を許してもいい」というのは、つまり親密さである。四郎が親密さを欲しているのは後にもっとはっきりしたかたちで現れるので、それまではこれを覚えておいて欲しい。そして親密さを欲していると自覚したものの、四郎はそれがどこにあるのかなかなか見つけられずにいる。以下はSIXTEENの冒頭である。

切ってすぐコールバックがある。白碑だ。「もしもし」「おめえ今どこにいるんじゃ」俺はどこにいるんだ?ミドルオブノーウェア。「どこでもねえよ」と俺は言う。

「ミドルオブノーウェア」と言っていることからも、この時点ではまだ自分の居場所が見つかっていないことがわかる。繰り返すが、自分の居場所とは形而下の場所ではない。次項ではそれが何に根差しているのかを明らかにしよう。


3.母親との潜在的な確執

人間、弱気になると本心・本音が出やすいものである。超人的な活躍をする奈津川四郎も、その例に漏れない。順を追って見ていこう。以下はSIXTEENからの引用である。

痛み止めが切れてきて俺は全身苦痛の塊みたいになってくる。鎮痛剤がほしくて堪らない。(中略)俺を殺そうとしているこのクソっ垂れの苦痛を止めてくれる物がほしい。オールアイニードイズサムペインキラー。ないんだったらいっそ一思いに俺を殺してしまってくれ。大して生きてる価値もないんだ。

心を安らげるイメージ。女。俺を抱いてくれる優しい女たち。リタ・バスケス。フィオナ・ブライエン。マリア・デル・テオ。フェリシティ・オコナーのおっぱい。ヴィクトリア・シェファーのめくるめく性技。理保子が見せた獣みたいな姿。ヘイ、オールアイニードイズサムインティマシー。ファックに用はない。俺は女をマジに好きになったことがない。いや胸を焦がしたり追いかけたくなったりすることはあるが友達みたいに気を許したり一緒にいるだけで気が安らげられたりするようなことがないのだ。ファックファックファックファックファック。ファックオンリー。そればっかりだ。

ここでは四郎と関係を持つ、6人の女性の名前が挙げられている。それに呼応するようにファックの数も6。舞城作品はこういった小ネタがふんだんに仕込んであるのも魅力だが、ここでの問題はまた別である。上記6人とは性的な関係しか持てないということを四郎は嘆いている。彼女たちでは“ペインキラー”にはなりえない、“インティマシー”にはなりえない。そして、それ以外の女性ともどうやら同じような関係しか持てなさそうだと嘆いている。しかし彼の本心は女性に対して別の関係を望んでいる。引用を再開しよう。

クソ、でも俺は本当は親密さが欲しいんだ。全てを預けてしまえるような種類の親密さが。これまで持ってきて作ってきて溜め込んできたものを一度に全部投げ出してしまっても平気の余裕の楽勝の親密さが欲しいんだ。揉んだり吸ったりするためだけのものじゃない女の胸。大きさなんて関係ないと思うような胸。ただ俺の頭を優しく埋めてくれさえすればいい。薄くったって厚くったっていい。暖かければいいんだ。俺はその胸に頭を載せてゆっくりと眠りたい。守られて眠りたい。

四郎が求めるものは親密さである。それは一郎と殴りあってから一郎に感じたものでもある。それを四郎は女性にも求めているのがわかる。そして、ここで大怪我をして弱りきった四郎がつい本音を漏らす。それは引用部最後の一文、「守られて眠りたい」である。これが本音であることを示すパートは遡ってTWELVEにあるので、それを以下に引用しよう。

突然俺に激しい感情がやってくる。俺は唐突に気づいたのだ。俺がずっとおふくろを拒否し続けていたことに。

俺は自我もない頃から二郎が殴られたりするのをずっと見ているうちに丸雄だけでなくおふくろも受け入れられなくなっていたのだ。俺は確かにおふくろを愛していたと思う。当然だ。自分の母親なのだ。でも二郎を守ってくれていないことに不信感があったし二郎を守ってくれないことは俺を守ってくれないこととまったく同じ意味だったのだ。二郎が殴られているということは俺が殴られているということだった。二郎の痛みは俺の痛みだった。兄弟だ。まだ幼かった俺の未分化の感受性。俺はある意味もへったくれもなくて二郎だった。

四郎は母親に二郎を守って欲しかったのだ。そして二郎を守ることで四郎を守って欲しかったのだ。このあと四郎は眠る奈津川陽子の手を握り、声を殺して泣く。

俺はおふくろの手の暖かみを確かめている。おふくろは生きている。これが大事なことだ。俺は泣いている。これも認めてしまおう。俺は泣きたくなっている。くそ、昨日の夜一郎に殴られて以来、俺はちょっとおかしくなっているのだ。(中略)でもしょうがないのだ。しょうがないという気持ちのほうが強いのだ。今は泣くしかない。少なくとも誰にも見られずにおふくろの手を握り締めている今は。

なぜ四郎は泣いたのか。それは、このシーンの直前に出会ったマリックと自分を重ね合わせたからではないだろうか。四郎は二郎と未分化だっただけではなく、マリックとも未分化だったのだ。

  • なぜならマリックは俺の友達で俺の分身で俺はマリックのことが好きだったからだ。俺とマリックは同じ中学校で同じクラスに通って同じく親から暴力を振るわれていたのだ。(FOURTEENより)
  • 俺の友達は死んだのだ。そしてそれは俺の一部分が死んだことでもあるのだ。(FIFTEENより)

マリックが本当に母親を殺そうとしていたのかはわからない。しかし、虐待を受けていたことと仕事が忙しいと言って実家(母親)を避けていたことは事実である。つまり、少なくともマリックは母親が事件で死んでしまっても構わないと思っていたふしがあるのだ*2。それを四郎はその直後に、自分の中にも感じてしまったのではないだろうか。おふくろなんて野崎博司に殴られたときにうっかり死んでしまえばよかったのだ、と。病院で眠る母親の手を握り締めたときに彼女が生きていることを確認して、その感情に気が付いてしまったのだ。二郎が虐待を受けていたこと=未分化の四郎が虐待を受けていたことであり、母親の手に触れることで母親を避けていたことに気が付いたのだ。ここにはマリックと四郎の対比が見られる。そのことに気付いたあと、彼女が生きていて良かったと思い、泣く。ママたちで作られた点字のメッセージ「ママ助けて」は、二郎の叫びであり、四郎の叫びであり、マリックの叫びなのだ。四郎は母親を受け入れられないがために、女性との間にインティマシーを獲得できなかったのだ。


4.四郎の、二郎への執着

第3項で引用したTWELVEとSIXTEENには、“四郎の中の子供”についての記述がある。今度はそれを参照しつつ、話を進めていこう。

  • 俺は涙が浮かんできそうな予感を抱く。危険な予感。俺は泣いてしまいそうだ。それはまずいと今の俺は思うが俺の中にいるチビの俺が泣きたくてたまらないようだ。(TWELVEより)
  • ああ俺は苦痛に負けそうなんだ。弱気になってる。何だよ誰かに守られたいって。誰かの胸で眠りたいって。お前は傷ついた少年か。保護の必要な未成年か。お乳の吸い足りないママズボーイか。(SIXTEENより)

四郎は自らの中に子供の四郎を見出している。前項でも述べたがTWELVEで四郎が泣いたのは、陽子が死んでも構わないと思っていたことに気が付いてしまったからだ。守ってくれない母親への恨み。そのことに気付いているSIXTEENの時点では、「誰かの胸で眠る=母親との和解」を自分が望んでいることをまだ認められずにいる。それを大怪我で弱気になっているせいだとして退けようとしている。それを認めることができる契機は丸雄にある。それ故、ここで丸雄についての感情も見ておかなければならない。以下はTWELVEの中の一節だ。

丸雄の血。汚すぎる。でもその汚い丸雄の血こそが流されるべきだったのだ。

まるで二郎のように丸雄を忌む四郎。丸雄など死んでしまえばよかったのだと思っていたことがわかる。そして先ほど述べたように四郎は陽子も死んでしまえばいいと思っていたのだ。つまりTWELVEの時点での四郎は、両親ともに死んでしまえと思っていたことになる。しかし丸雄が野崎博司に包丁で刺されたとき、四郎の中でなにかが弾ける。それを表す箇所をNINETEENから抜き出そう。

俺はその瞬間、十数年ぶりに丸雄をこう呼んだ。

「お父さん!」

それからお父さんの真ん中に刺さった包丁が抜き取られ、血がまた噴き出る。ブーッ。あれはお父さんの血なんだ。お父さんの血なんだ!

ここで四郎の中にいる子供の四郎が現れる。子供の四郎とはNINEとTENに登場する過去の四郎だ。そこで描かれるのは、丸雄に対してだけでなく陽子に対しても不信とならざるを得ない原体験である。実際に四郎が虐待を受けたわけではないが、二郎というフィルターを通して四郎は傷を負う。NINEとTENで二郎についての記述が熱をもって書かれるのは、それが主人公である四郎のトラウマだからだ。決して、二郎が奈津川サーガにおいて特別な存在だからという理由だけではない。

さて、子供の四郎とは、上記のように二郎と未分化だったころの四郎に他ならない。丸雄が野崎博司に刺された瞬間、四郎の中でその光景と別の光景が1986年12月19日とオーバーラップしたのではないだろうか。三郎と四郎の前で、馬乗りになって二郎を殴りつけ血まみれにした丸雄と、包丁で二郎を刺そうとした陽子。四郎が見たわけではないが、野崎博司に殴られて意識不明になった陽子。四郎の目の前で馬乗りになった野崎博司に包丁で刺されて血を噴き出した丸雄。両親への断罪。このとき四郎は丸雄の中に二郎を、同時に自らを見たのだろう。未分化の感受性。まだ純粋で、無条件に人を愛することができた頃。そして四郎はTWELVEで後悔していた。運命の夜、二郎の肩を持つ人間が奈津川家に一人でもいるということを示すことができなかった、と。

俺は悔やむ。そうだ俺は二郎に何も示してやれなかったのだ。それから俺はまたおふくろと三郎に腹を立てる。俺はあの夜のあいつらが間違っていたことがはっきりと判っている。俺たちはあの夜最低最悪のクソ丸雄を二郎から引き剥がして地獄の袋叩きにしてやるべきだったんだ。それが俺達の本当にやるべきことだったんだ。

野崎博司が丸雄を刺したとき、そこに12月19日の光景がオーバーラップする。そしてここに倒錯が起こる。未分化の四郎にとって、血まみれになって刺されている丸雄は“あのときの二郎”だ。馬乗りになって丸雄を刺している野崎博司は“あのときの丸雄”だ。四郎の中で、あのときの後悔--最低最悪のクソ丸雄を二郎から引き剥がして地獄の袋叩きにしてやるべきだったんだ--が蘇る。あのときの丸雄=野崎博司を三郎とともに殺し、あのときの二郎=丸雄の手当てをする。このシーンの意味は、過去へと遡り、決定的な後悔を解消することである。これによって四郎は、二郎に対する執着を振り払うことができた。それ故、NINETEENの終盤で四郎は二郎への態度を変える。二郎をあれほど愛していたのに、もうどうでもいいというように。


5.四郎の、魂の終着

二郎に対する執着をなくす、ということは二郎という名のトラウマを解消したということだ。これ以降、二郎を通して不信となった両親との関係も改善へと向かう。

丸雄たちに応急手当てをしていたときの俺は神には程遠かった。しかしあのときの俺はちゃんと俺自身だった。本来の俺。等身大の俺。それは丸雄を父親として単純に愛し一郎や二郎や三郎を兄として純粋に愛していた七歳くらいの頃の俺でもあった。

理保子の処置をしながら、四郎はハンソンの“MMM BOP”を唄う。この曲は普遍的な“インティマシー”についての歌である。唄う四郎は、まるで憑き物が落ちたように晴れやかだ。そして高谷クリニックで内なる子供を解放する。それは、過去の時点で止まったままだった自分との決別だ。四郎は泣く。泣いて赦す。

そして俺は丸雄を赦した。(中略)「一郎、二郎、三郎、四郎!逃げろーっ!」俺はこの台詞を覚えて一生を生きていこうと思う。この言い間違いにすがりついて希望を構築していこうと思う。(中略)

俺にとって一番大事なことは丸雄が本当は俺達全員をちゃんと愛していたんだということだ。俺は今、それをようやく確信している。ようやくそれを認めることができたのだ。丸雄は俺達の父親で、父親なら当たり前の愛情を俺達全員に持っていた。そうだったのだ。

丸雄を赦すということは、二郎を守らなかった陽子をも赦すということだ。両親と和解してクリニックを出た四郎は、彼のアシーニに電話をかける。

「はい、もしもし」と旗木田阿帝奈が出る。

俺は自分の名前を名乗り、今日一日オフをとって一緒に寝ないかと誘う。「ムチャクチャ眠いんや」

「いいよ」と旗木田阿帝奈はあっさりOK。(中略)「あんた、どこにいるんや今」

「俺か?」。言われて見渡す。どこやここ。

ミドルオブサムウェア。

ミドルオブサムウェア。ここでついに特定の場所となる。「どこやここ」と言っているのに、その直後に「ミドルオブサムウェア」と言っていることからも、それが形而上の場所だとわかる。つまり四郎は自らの居場所、心の平穏を見つけたのだ。止まったままだった過去の自分と決別した今、四郎はインティマシーを得ることができる。彼女と眠ることで、彼女の胸で眠ることで。


以上で第4回は終りです。以下はわりとどうでもいい話です。hey11popさんに謝罪します。あなたから得た示唆をホントどうでもいいネタにしてしまいました。ごめんなさい。


6.蛇足とはこのことか

四郎は阿帝奈に寄り添い、眠る。それ以外の女性とはセックスという関係しか持ち得ない。しかし旗木田阿帝奈の隣では赤ん坊のように眠ることができた。これは四郎が両親との確執を乗り越えたということだ。それ故、女性に対して母親のような親密さを得られるようになり、阿帝奈のもとで四郎は眠ることができたのだ。

はたして、本当にそうなのだろうか?NINETEENでは丸雄を赦すという描写はあるが、陽子を赦すという描写は一度もない。四郎は丸雄を赦しても、陽子を赦してはいないのかもしれない。もしかしたら前提から間違っていて、陽子の手をとって泣いたときに既に赦していたのかもしれない。

「はたきだあてな→あなたはてきだ」というアナグラムは、守ってくれなかった母親も、父親同様に敵だったということを潜在的に表しているのではないだろうか。そんな意味を込めて、四郎にとって母親的な存在である、旗木田阿帝奈という名前に織り込まれたものではないだろうか。なんてね。なんてね。そんな馬鹿な。

書かなきゃ良かった。

*1:細かく言うなら、someを疑問文で使うときは相手の肯定を予想するとき。anyを肯定文で使うときは「どれでも/だれでも」という意味になる

*2:TWELVEの前半、マリックとの会話の最後を参照