メディアリテラシーって言葉は

もはや人を馬鹿にするために使う言葉でしかなくなりつつあるように思った。「嘘を嘘と見抜けない人は〜」と大差ない。まあ、今になって思ったわけじゃなくちょっと前から薄々感じていたから先日のこの記事でもあえてメディアリテラシーという言葉は封印して、数字の裏を取らないで騒いでいる人たちへのDisをギリギリまで抑えたんだけど。
 
本音とキレイゴトの入り交じった気持ちで書くと、強いインパクトや一見もっともらしい理由づけさえあればすぐにその記事をうのみにしてしまう脊髄ピクンピクンな人たちはやっぱどうしようもなく馬鹿だなーと思うし、断片的にピックアップされた記事を見るだけで、それを書いた人あるいは組織の背景や、その記事に対する言及や反論を読まずに騒いで消費してまた次行っての繰り返しをしている人たちのことはパーマリンク脳なんて呼びたくもなるけど、だからといっておれがそうした足りない人たちとは明白に違うかと言うと、とてもじゃないけどそう言えるわけもなくって、おれもやっぱりどこかしらで予断を含んだ価値判断はしているから、同じ轍を踏んでいる可能性はとっても高い。だからうかつに人のことを言えない。
 
ぶっちゃけ、これだけ情報が氾濫していると、一個一個の情報の裏なんて取っていられないし、個人で取れる裏なんて限度がある。時間だって足りない。だからと言ってその判断を他人に委ねきるわけにもいかない。特定の個人に対してある程度の信頼は置きつつも、どこかで留保をつけて、最終的には自分で判断せざるをえない。そして、その判断には感情が入り込んできやすいので、「信じたくない」がいとも簡単に「信用できない」にすり替えられる危険性がある。そのことを常に自覚しなくちゃならない。
 
で、自覚するのはいいけど最終的な判断はどうすりゃいいのさーっていうと、変な言い方になるけど、判断の誤りを恐れないのがいいんじゃないのかと思う。判断の誤りを恐れないとはつまり、誤りは誤りと認めてすぐに判断を切り替えられるように思考の余裕を残しておくということだ。実際のところ、明らかにおかしい情報、不審な情報に対しては必ず誰かしらがその不審点を追及する。それを見たときに「あ、おかしかったんだな」と気づけばいい。まあここで「実はその情報も…」とか言い出すと無限退行しかねなくて怖いんだけど、そこも誤りを恐れずに判断するしかない。
 
こうやって考えると今の世の中、それっぽく言うと高度情報社会ってやつは、とてつもないタフさを強いられる環境だってことがわかるんじゃないかと思う。だって、海のものとも山のものともつかない膨大な情報について片っ端から正誤を判断しなくちゃならないんだから。こんな環境で無謬性を求めるのは無茶な話だ。だからもう、簡単にメディアリテラシーの一言で片づけずに、判断を誤ることは仕方ない、けれど、その誤りを認められるかどうかが問題だという考え方にシフトしていくしかないんじゃないかなー、と思いました。おしまい。