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2013-04-09-火

[][][][]ベルサイユのばら第21話 黒ばらは夜ひらく 孤独な者たちの闘争

ベルサイユのばら感想目次 - 旧玖足手帖-日記帳-

しかし、このオープニング前アバンタイトルのカジノの煙った感じを表現する撮影効果のぼかし、すごいな!1979年というアニメーションの奇跡の年。一気に70年代アニメから80年代アニメになったようだ!


ところで、私はアニメ版ベルサイユのばら・出崎統編を「アウトロー」をキーワードに見ていこうと思っている。

原作は読み、宝塚歌劇団のベルサイユのばらは見た。アニメ版をきちんと見るのがこれが初めてである。初見のアニメを10年前からのファンであるかのように語る癖があるのだが、やはり感想を書きたいと思うエネルギーは初見の時が一番高い。


原作のジャンヌの行動もマルキ・ド・サドの悪徳の栄えを下敷きにしている。(獄中で貴族のスキャンダルについて書籍を発行したところもサド的である。まあ、実際のヴァロア夫人もやってたことなんだが)

そういうわけで、サドの文脈においてベルサイユのばらは反権威主義アナーキズム、反キリスト教、反倫理主義であり、世の中の法が虚構に過ぎないということを暴いていく。

その点で言うと、アニメ版の出崎統バージョンの方が原作よりもさらに反論理的であり、アウトロー的である。

原作ではローアン大司教マリー・アントワネットに惚れたのは、女好きだからだとされており、wikiに載っている史実では彼はマリー・アントワネットに取り入って宰相になりたかったとのこと。

対して、アニメ版ベルサイユのばらではローアン大司教はこう言う。

「このローアン、名誉も地位も財産も世の中の楽しみごとは全て思いのまま。」

「けれど、そんなものは王妃様に比べればゴミであります」

「生まれながらの王妃、その高貴さに少しでも触れられたなら、このローアン、すべてを捨ててもよろしゅうございます」

ローアン大司教はキリスト教の教皇に次ぐ位である枢機卿にまでなった人物で、キリスト教の法の上位である。

同時に贅沢を好み、女好きであったそうな。

宗教的な法や、現世利益を極めた人物である。原作では女好きなのにモテない金持ちのオッサンとして戯画化されている。が、アニメ版ではさらに本質的に描かれている。というのは、宗教の法と物質的利益の法則を極めた上で、満たされず、実際は会話したこともないマリー・アントワネットの「高貴さ」という存在しない概念を求めたという上記のセリフで強調されているからである。

出崎統版ベルサイユのばらのキーワードを「アウトロー」として見ている筆者は、「宗教の指導者」「富と権力の貴族」であっても人間は法の中で充足できず、「自分の頭の中の概念」を求めて流離う、孤独なアウトローなのである、という風にアニメ版ベルサイユのばらは描いているように見える。

そして、アウトローが求める「高貴さ」や「本当に価値のあるもの」は本当に現存するのか?と言う疑問とそれに対するアプローチ、挑戦はおにいさまへ…一の宮蕗子の「誇り、ラストミーティング」の演説や劇場版AIRの「本気なんかないんだ!」という国崎往人の叫びなど、出崎統作品の主要なモチーフとなっている。


ジャンヌ・バロアとローアン大司教が親しくなったのも賭博場だという風にアニメ版では強調されている。

地位によって決まりきった富と権力を手にした貴族たちが「自分らしさ」「自分の人生の実感」を得られるのは博打の勝負によって自分の存在が揺るがされる時だけではないのだろうか?

そのような、自傷行為によって自分の存在を確かめる精神病者に似たような、破壊衝動に近い生への希求が、ローアン大司教やジャンヌ・バロアの犯行の動機になったように描かれている。その生命感こそ、出崎統らしさだ。


  • 出崎統、海

原作を無視して、オスカル、アンドレ、ロザリーは休暇を取って唐突に海に行く。

前回、フェルゼンと分かれて精神的に不安定になっているオスカル。そういうわけで、迷ったら海に行く出崎統キャラクター。フェルゼンのいるアメリカを思う。

午後の紅茶、海面を照らす西に傾いた太陽。アメリカを思う。

ノルマンディーらしい。

そこに砂浜に影を反射させてきらびやかに唐突に、現れるジャンヌ。オスカルに賄賂を渡そうとするというだけの、やろうとしたらセリフ一つで済むだけのシークエンス。それを光る海を背景に見せる。あまりに劇的な、あまりに映画的な、出崎統。出崎統もかなりの映画好きなので、フランスを舞台にアニメをできるということでかなりキレてる演出だ。


アニメでは初めてのロザリーとジャンヌの再会。

原作と違い、ロザリーが贅沢をしていることをを気にしないジャンヌ。自分の妹が自分より贅沢してることを嫉妬するのは女らしい、序列意識。序列や嫉妬があるというのは、まだlaw的な、論理的な思考。

だが、アニメのジャンヌはアウト・ロー。もうそういう次元を超えたところで勝負をして命を燃やす女になっているので、妹を無視している。妹を無視して犯罪を仕掛けるレベルとはかなりのアウトローぶり。

ジャンヌ「お前もうまくやってるじゃないか。私だってこれで上手くやってんのさ」

「私は私、お前はお前。かまいっこなしにしようよ」

妹に構いもしない姉。アウトロー。貸本萬画時代からアウトロー兄弟を描くことに定評のある出崎統の美学が光る。


ジャンヌは賄賂を受け取らないオスカルに対して、「私が一番魅力を感じない人だわ」と言い放ちながら、その後の夫との会話では「なんか、カンに障るのよね」と言っている。

妹を無視しているアウトローのジャンヌがオスカルを敵視するってのは、注目に値するポイントである。

普通、妹は無視しないだろ。(妹萌え的に考えて)

おそらく、ジャンヌはロザリーやオスカル本人に相対する時は外向きの作った言葉を言っている。

だが、(多分夫とのセックスの後、)鏡に向かって髪を結い直しながら、なんとなく言った「カンに障るのよね」という言葉が意図しない本音なんだろう。

そして、なんでジャンヌがオスカルを敵視するのか、っていうとそれはオスカルもアウトローなので、アウトロー同士、ライバル視するんだろうな。

オスカルは男装の麗人であるし(このことはジャンヌが後に攻撃する点である)、オスカルは賄賂を無視するので「お金が嫌いじゃない人はいない」という経済の法や欲求からも離れたアウトローなのである。

アウトローはカタギを食い物にするとき、金や権力といった法的な価値観による欲求を満たしてやろうと誘惑する。だが、価値基準が全くないアウトローとアウトロー同士の戦いは、もう、力と力の直接闘争になる。だからこそ、ジャンヌはオスカルを敵視するのだ。

という、出崎統のアウトローの掟が光る。


  • 女の底しれなさ、そして浅ましい悲哀

オスカルに挨拶して、ニコラスがひと月前から近衛隊に入ったと言うジャンヌ。しかし、この時点でオスカルはニコラスを知らない。既にウソだったのか?ニコラスは後にローアン大司教の推薦で近衛隊に入っている。いつ入ったのか?描写はされない。ジャンヌという女の嘘の奥深かさ、明かされないゆえに強いように見える。


ローアンにもレトーにもニコラスにも唇を触れさせ、足を触らせ、セックスのあとのように髪を梳かすジャンヌ。

ああ、この女は娼婦だ、という生々しさが非常に倍増している。

男と接吻した後に唇を拭い、ウォッカをでうがいをする。この女はセックスで汚れた自分を酒で焼こうとしている。

金貨をレトーに渡すときに床に落とす。女を求める男を汚らわしく思っている。汚らわしいと同時に自分も汚れていこうとしている。そういう風に自分を傷つけ続けないと自分が生きている実感が持てない、そんな風に常に自分を綱渡りさせていないといられない。

ああ。出崎統だ。

ジャンヌもフェルゼンも、そのようなハングリー精神を持つ点でアニメ版出崎統の美学の一翼を担う存在になっている。ジャンヌもフェルゼンも実在の人物である。史実と物語を連結させる人物であり、その行動は事実によって枷がはめられている。だが、そんな人物も作品の美学の一部とする出崎統の手腕。かと言って、理屈ではなく感性に訴える哲学だ。もう、出崎統的としか言えない。

ジャンヌ「面白いねえ、世の中ってさ」「いけないんだよ・・・おもしろくなきゃ・・・さ・・・」

ニコラス「なんでえ、お前、泣いてるのか?」

犯罪で財産を得ても空しく、犯罪を積み重ねるジャンヌ。ニコラスははっきり言って頭があんまりよくない武闘派のチンピラだしジャンヌのような策士とは釣り合わないように見える。だが、こんなふうにジャンヌが酔って涙を見せられるのは、ニコラスがバカだから気にしないでいられて夫として置けたのかもしれない。


  • 娼婦のアウトロー

「私の王妃様」と、ジャンヌに紹介された盲の娼婦オリバ。彼女はマリー・アントワネットと瓜二つで、王妃の替え玉に仕立てられた実在の人物、事件。

だが、アニメ版では盲目の美少女として描かれている。原作と全然違うじゃん!しかし、姫野美智らしい滅びの美学、聖闘士星矢で視覚を失ったドラゴン紫龍のエロティックさにも通じる美しさである。

(聖闘士星矢の魅力はいろいろあるが、「美形が酷い目に遭う」というバイオレンス描写の倒錯的な美しさは聖闘士星矢Ωになっても健在である)


しかし、原作ではただの馬鹿な娼婦だったのに、原作では盲目で薄幸の美少女となっていて、伝奇的な芸術性すらある女性になっている。

まあ、理屈で考えたら「マリー・アントワネットに自分が似ていることを利用しない」→「自分の顔を理解してない」→「盲目」という段取りが理由で盲目にしたんだな、というふうに理解できる。原作よりも原作らしいと言える。

原作では「自分の顔を利用しないのは馬鹿だから」ってなってるけど。

だが、そういう理詰めの段取りを超えた雰囲気がニコラ・ド・オリバ(偽名)にはある。

「よくいらっしゃいました。どうぞゆっくり遊んでらしてください。一晩でたったの10スー。先払いが決まりです」

「一晩でたったの10スー。先払いが決まりです」

「私の気持ちはお分かりですね」

「私の気持ちはお分かりですね」

と、決まりきったことだけを繰り返して自分の心を凍らせている、視覚障碍者の娼婦にはアウトローらしさがある。片目片足の「アコーディオンの詩人」と同じく、貧しい大衆を代表するものでありながら、障害者であるゆえにアウトロー性を持つ。

アパートの一室の売春宿に引きこもって、ベッドの上でただ同じことを繰り返し、男に抱かれ続けて生きている女。アウトローだ。

そして、人が生きていくことの空しさを体現するという点で、出崎統らしい。

娼婦であり障害者であるオリバはアウトローだ。だが、彼女は同じこと、自分の料金と時間と支払いの決まりを繰り返して、アウトローの自分に一つの規律を持たせて、なんとかパリという都会の中で生きていくよすがにしているんだろう。そうして規律で自分の心を凍らせなきゃ、アウトローの中でも弱いものは決まりに縛られた社会の中では生きていけないんだ。

と、アウトローの美学、生態に詳しい出崎統はアウトローキャラクターの行動を非常に明確な意思、統合性で描き、そのことで作品全体の美しさに昇華している。

素晴らしいとしか言い様がない。


  • オスカルとジャンヌの夜中の対決未満

ベルサイユ庭園のビーナスの茂みでのローアンと偽王后の密会のあと、ジャンヌは逃げるところをオスカルに見咎められる。

「こんな夜更けに何をしている」

「ただの、虚しい散歩ですわ」

そう言って、ジャンヌは通り過ぎる。

オスカルも特にそれ以上追求せず、すれ違うが、そっけなく言いながらジャンヌはナイフを握りしめていた。

オスカルから遠ざかりながらナイフを握る、ジャンヌのものすごい怖い表情の顔のハーモニー止め絵で、来週に続くが、特にこの時は何の事件にもならない。

だが、なんの事件にもならないことが、この作品の美学かもしれない。何も起きなくても、実際は女はひとり、懐中にナイフを持っているのかもしれない。女は悪意を抱えて生きているかもしれない。いや、悪女じゃなくても人生や他人との関わり自体が、いつ刺すか刺されるかわからない、薄氷を踏みながら綱渡りを続けるような、そんな虚しい散歩が、人生なのかもしれない。

そんな哀しい人生観が、直接の戦闘行為にならなかった二人の対決、心の裏に現れているのかもしれない・・・。出崎統、クール・・・。

アウトローには頼るものはない。だが、貴族も聖職者民衆も、誰だって本当に確かなものは持っていないんだ。誰もが孤独なさまよい人なんだ。

悪女じゃなくても、一般大衆でも、富豪でも、本当はこの世には正しい法則などはなく、皆が支えのない人生を生きるアウトローなのかもしれない。

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