さよならこどもたち

今日、おもひでぽろぽろを視聴。
ついでに、苅谷剛彦『教育改革の幻想』を読了。

「おもひで」は名作です。どうしようもなくいたたまれない気持ちにさせるシーンをコンスタントに入れていくのは高畑らしい。最初は流れがつかめたかったが後半になってつながってきて、主人公(名前忘れた)の結婚話が持ち上がったあたりの心理描写は痛いほどこちらにも伝わってきた。このあたりの手腕は見事。宮崎がある種行き着くところまでいった作品とかなんとか言っていたのは、頷ける。
ラスト、小学5年の時のクラスメートがわいて出てくるところがぐっときました。そのまま帰ってしまうのかと思ったら、引き返してしまって…。小学5年の私はもうおいて行ったという成長物語なのだろうが、僕は、そのまま帰って行ってしまってほしかったな…。僕なら返してしまう。子供のころの世界へ。

そういえば、僕が小学生のころ、僕は中学受験のために四谷大塚に通っていたのだが、その社会科の先生が有機農法について「それは勇気のいる農法だ」と言っていた。なぜか記憶に残っている。おもひでを視聴していて、そういえば元ネタはジブリだといっていたな、と、おもひでに浸った。

こんなことばっかりして勉学を放擲しているんじゃないかという罪悪感に駆られながらも、つれづれに書棚の前掲書を取り出して読んでしまう。

苅谷のまとまった主張を読んだのはこれが初めて。納得されるところも多く、気付かされるところも多かった。
受験戦争の実態はイメージされるほど極端な生活や精神状況ではなかった(四当五落、五時間寝たら落ちる、は嘘)。それは私たちが反復し誇張した偏見。受験戦争はピーク時に比べて相当緩和されているのだが、勉強する(させる)層は前倒しの英才教育、勉強しない(させない)層は勉学を放棄という二極化傾向にある。前者だけを見てゆとり教育を行うのだろうが、かえって後者の傾向を助長することになることが、統計から明らかにされる。
教育改革がステレオタイプの言説に振り回されて実態を把握したものではなかったこと、その改革の結果が正しく把握されずフィードバックされずに初期の方針が盲目的に推し進められたこと。
その後、ゆとり教育は完全に撤回され、教科書の厚さは元に戻った。
これで子供たちはもう少し勉強するようになるのか、教育現場はすったもんだの末元に戻って行ったのか。
そういえば最近教育に関する議論を聞かない気がする。加熱しすぎた反動なのだろうが、喧々諤々の議論が混乱を助長するよりずっとましだと思う。
ほとぼりが冷めたのなら、寝た子を起こすべきではないのかも。

受験勉強が勉学の動機づけとしても学力の維持としても一定の効果を持っていることは否定すべくもないけど、僕は個人的には肯定したくない。ゆとり教育で掲げられた理念は空理空論としても、僕は勉学はこの世界への興味だと思うし、何かに駆られてやるものだと思うし、自ら動いて自ら収集するものだと思う。この世界に関する有意な知見を習得することならなんでも勉強になると思うんですけどね。
でもそれはマニュアルで教えられるものではない。画一的に何かやろうとしても無駄。だから、現場を信用したらよい、それだけで、それ以上の意見はあまり持ち合わせていないのだけど。
でも受験勉強の否定ってほんとうにありきたりな話に簡単に堕してしまうから思い切って肯定するくらいのつもりでいた方がいいのかもしれません。でも僕は駿台の空気は好きになれなかったけど。