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47thの備忘録 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2010-01-13

思いつき:ローとエコのすれちがいは、どこに?

 私は法学経済学ぐらいにシナジーのある学問はないんじゃないかと勝手に信じているんですが、世の中にはもちろんそうではない人たちもたくさんいます。

 「それがいい組み合わせである」と信じてもらうためには、まあ地道に実例や実績をつみあげていくしかないんでしょうが、最初から法学経済学水と油であるかのように思っている人や、そういう議論の構図になることが残念ながらあるようです。

 本当に残念だなぁ、と、思いながら、でもtwitterとかの140字では語り尽くせないぐらいに、誤解の溝が深いこともままあるんですが、いくつか典型的な奴について、思いつきでつっこんでおきましょう。

(現在の)経済学そのものに対する誤解

 まず、「経済学」ということでイメージしているものの内容に、そもそも誤解があるような気がします。

 ミクロ経済学の最初でみるような需要曲線と供給曲線が交わって均衡があるという図=市場に任せれば全てがうまくいくというのが経済学の全て(ないし、ほとんど)だと思っているとすれば、それはやはり誤解です。

 現代の経済学は、市場の失敗が起きる条件の特定や、それへの対処のために制度が有効であることを認識しています。とりわけ「契約理論」と呼ばれる分野では、契約が不完備であるという現実から出発して、当事者間の交渉だけでは最適な取引が実現しない場合があることを明確に認識しています。

 

 もっとも、需要供給分析に限らず、経済学の議論の特徴(だと私が思っていること)の一つである「モデル」を用いた議論は、それに慣れ親しんでいない人の拒否反応を招きやすいことには、十分に自覚的であるべきだとは思います。

 経済学の議論というのは、まず「モデル」を用いて最適(optimal)な状態を定義しますが、これは、それが実現可能だと思って、そう言っているわけではありません。

 「需要曲線と供給曲線の交わるところに価格と生産量が定まっていることが望ましい」ということは、現実に、それが達成されていることや、それが現実に達成可能であることを、自動的に意味するものではありません。むしろ「モデル」の前提条件を修正したり、色々な制約を加えていくと、こうした状態を達成することは非常に難しいことを知っています。

 それでもなお、こうした最適な状態を最初に議論するのは、目標とする方向(ベンチマーク)を明確にするためです。

 もっとも、これは方向性を定めるという程度の意味であって、予め最適な状態を知ることができるということではないので、注意が必要です*1。「均衡価格はあるはずだが、それを予め知ることができない」のは、市場で均衡価格に到達することを阻害している要因を特定して(例えば情報の非対称性)、それを解消するための政策的提案(開示制度)をするという目的においては、何ら不都合は生じません。

 ・・・と、脇道にそれましたが、こうしてベンチマークを明確に見据えることで、それが実現できない要因を整理して、採り得る対処方法を特定し、さらには考え得るいくつかのアプローチの中でより望ましいアプローチを選択する基準として、「モデル」を用いた議論は非常に重要なものです。

 ただ、こうした流儀に慣れ親しんでいない人に対して、まず「モデル」の正しさを納得させるところから始めようとすると、すれ違いが生じる可能性があります。

 というのも、ある状態Aと提案されている状態Bを比較する時に、あえて効率性の観点から「最適」な状態を定義して、そことの比較で論じるというやり方は、学問的には正しくても、普通に考えると、ダイレクトにAとBを比較すればいいのに、何でわざわざ「最適」を議論するのかという観点で直感的に分かりにくいところがあります。また、その「最適」状態の定義自体に、経済学に反感を持つ人が警戒心を有する最たるものである「効率性」という基準が、当然の前提として組み込まれているわけですから、「効率性」基準の妥当性を納得できない人は、そもそも「モデル」を用いてベンチマークを設定するという議論に対して、「何かだまされているんではないか」という警戒心を抱いてしまうことがあることもやむを得ないところがあるように思います。

「効率性」と「正義・公平」について

 というわけで、やはり「効率性」の議論は避けて通れないところがあるんだろうと思います。

 この観点でいうと、典型的な経済学の議論は、まずパレートあるいは、それを修正した意味での「効率性」基準に基づいて状態の優劣を定めます。

 このレベルの議論で達成された「効率性」は、分配の公平性を何ら保証しません。

 とりわけ一般の人に理解しがたいのは、最初の時点における資源の分配、もっと有り体にいえば貧富の差は効率性基準によって顧みられないことです。

 ただ、これを以て経済学は弱者に冷たいというのは早計です。「効率性」の問題と「分配」の問題をひとまず切り離すことは、それによって争点を整理するという方法論であって、それ自体が目的ではないはずです。

 パイの話にたとえれば、まずパイを大きくするためにはどうすればいいのかを議論して、パイを大きくしてから分けましょうという議論の仕方です。

 もっとも、そうきれいに両者を分けられるわけでもなく、パイを大きくするモチベーションを十分に与えるためには、大きくした後の分け前の仕方についても自然と考えざるを得ません。例えば、よくがんばった人にはたくさんあげるよ、といった動機付けです。

 多くの場合、このパイを大きくするための議論に際して、参加者に適切な動機付けを行うような分け前を考えていくと、自然と参加者にとって納得度の高い分配となるため、明示的に分配の議論を行う必要はありません。別の言い方をすれば、契約理論など個々の主体のインセンティブを十分に考慮した上で効率性を議論していくことによって、分配の公正性の問題が効率性の向上と一緒に解消されることも多いということです。

 ただ、こうした効率性議論は、(理由の如何を問わず)パイを大きくすることに貢献できない立場の人たちの救済のロジックは生まれてきません。

 ここに至ると再分配の問題に向き合わないといけません。もっとも、再分配というのは所得移転ですから、インセンティブの阻害やモラル・ハザードの問題をそれ自体含んでいますし、そもそも、そのような効率性に直接貢献しない所得移転のあり方についてのコンセンサス形成は非常に難しい話です。更にいえば、経済成長が期待できる場合には世代間所得移転なども考えられますが、不況期にはそういうわけにもいきません。

 いきおい、再分配の問題になると、誰しもトーンが弱くなり、最低限のセーフティネットは必要だが、財源は・・・という話になります。

 それでも、パイを大きくするための効率性の観点からの議論には大きな価値がありますが、その過程で出てくる「弱者」への配慮を欠いているととられると、やはり相互理解の障壁となってしまいます。

法律家」の二つの側面

 思ったより長くなったので、法律家による経済学への誤解だけではなく、「法律家」への誤解にも触れておこうと思います。

 この話を書こうと思っていたら、小倉秀夫弁護士twitter上で端的に問題をつぶやいていたので、引用させてもらいます。

@cloudgrabber @ny47th でも、法律家、とりわけ実務家って、対症療法を行うことを第1に求められているのです。経済学者の意見に従って対症療法を放棄ないし拒絶するようになったら終わりではないかと思ったりします。

 私を含めローエコが好きな法律家は、制度論を語るのが好きなので誤解を受けるかも知れませんが、小倉弁護士の指摘のとおり、実務法律家の責務は目の前にある事件の解決、より端的にいえば依頼者の利益の保護です。

 そして、実務法律家の依頼者は、社会的強者とは限らず、往々にして社会的弱者であり、その利益の保護は伝統的に実務法律家の存在理由の一つです。たとえて言えば、病人を助ける医者のようなもので、目の前に困っている人がいれば、法的なスキルを用いて、その人の困っている状況を改善してあげたい、というのは実務法律家の行動原理です*2

 

 医療保険保険料を惜しんだために保険未加入の患者が運び込まれた時に、現場の医者に対して、「そんな奴を治療すると医療保険を支払うインセンティブを失わせるから治療すべきではない」といえば、まあ、100人中99人は反発するんではないでしょうか?

 私も、多分、反発します(笑)

 そのような意味では、法律実務家のそうした現場の医者としての職務について制度論の観点から不合理だといわれれば、まあ、カチンとすることは当たり前というところもあります*3

 一方で、法律家というのは、制度設計者としての側面を持つ場合もあります。そうした制度設計の議論を行うときには、現場の都合だけではなく、制度設計のバランスということも、やはり大切だろうと思います。現場で働く法律家にとってみても、苦しむ人自体が減るような制度設計であれば、本来は反対する理由はないはずです*4。 

というわけで

何か思いつきで書いていたら、結構長くなりましたが、他にも、経済学徒の方は日本での判例法的なものを含めた法やルールの形成過程が、かなり柔軟なものであることや、実質的に立法的な作用を担っていることについて誤解しているところがあるんではないかとか、法律家は価格メカニズムや市場の失敗の含意について誤解しているんではないかと思われる節もあるんですが、とりあえず今日のところは、こんなところで。

ともかく、私の願いは、ローとエコの人がそれぞれの知見を組み合わせて、今の日本にとってよりよい「制度」は何かを活発に議論できるといいな、ということで。

*1:たとえていえば、解が存在することは分かっているが、その解が具体的にどんなものかを導き出すのはきわめて困難か、現実的には不可能というような状況でしょうか

*2:それ自体が合理的かどうかも経済学的には興味深いと思いますが、経済学徒の方は、「そのような行動様式をとることが法律家という職業のレントを維持するために望ましいからである」とでも思って、とりあえずはそういうものであるとして聞いておいてもらえると助かります

*3:また、そうした現場の人間の行動原理としては、目の前で手を施せずに人が苦しむというコストと感謝されるという心理的なベネフィットのネットのベネフィットと、その治療にかかる機会費用と金銭的な追加ベネフィットのネットの比較で前者を好むということは経済学的にみても不合理な行動ではありません。それを防止したければ、そもそも現場の医者のインセンティブ構造に手をつけなくてはいけません。もちろん、そのような極端な場合を想定したインセンティブスキーム副作用を及ぼす恐れがあるわけですが

*4:「本来は・・・はず」と書いたのは、苦しむ人がいることでレントを得られるということを暗黙のうちに理解している場合には、建前はともかく、苦しむ人が出てくる現状そのものを改善するインセンティブは乏しいからです。こういうことに限らず、制度設計を論ずる人とその影響を受ける人との間のエイジェンシー問題というのは、本当は相当に深刻な問題です

worm_gearworm_gear 2010/01/14 04:04  僕は、こういうときにふと頭に浮かぶことの一つは、たとえば「実数は自明ではない」ということです。僕達近代人は、何でも線引きしたがるのですが、線引きは非自明なことを含む。
 この非自明さを、ある正しさに適うよう自らのものとして引き受けることができるとして、そのようにして引き受ける精神運動を理性と呼ぶのではないでしょうか。したがって、理性は合理性を超え、この理性を備えた者を近代人と呼ぶのでしょう。
 「バットマン ダークナイト」の一場面のことです。ジョーカーに捕らわれた人々が、ジョーカーの合理的判断を超え「囚人のジレンマ」に陥らなかったとき、その行為を倫理的であると感じることができるのではないでしょうか。法学者なら、「よくやった!」と賛美し、経済学者なら「そんなバカな?」とその実現性を疑うのかもしれません。
 法学者は「意思できないもの」も当然に行為に前提されるとして、その結果の帰責を問うのに対して、経済学者は「意思できないもの」は行為の外に現われるとして、その結果との関係を問う。すなわち、法学者は行為「できる」ものと考え、経済学者は行為「する」ものと考え、したがって、法学者は行為の正しさを問い、経済学者は構造の正しさを問う。

 なーんて、ただの思いつきを羅列してみてから、法学の中にも色々な考え(鋭い対立)があって、簡単に言い切れるものでもないなぁと、自らの考えの浅はかさに気付いてみたり。
 「会社は誰のモノか」という議論に関して、私のような勉強不足の者にもわかりやすく説明していて、それに関して幾つか読んだ中では、一番安心して読めました。ありがとうございました。これからも勉強させていただきます。
 最後に、コメント欄を汚してしまい申し訳ありませんでした。

oooooooooo 2010/01/14 05:20 法学、経済学双方の観点から、明らかに追加すべき又は削除すべき憲法の条文は何かありますか?

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