慎泰俊『働きながら、社会を変える。』

「備忘録」と名付けたブログ自体、危うく忘れそうになってしまうぐらいの久方のブログ更新です。
すっかり半年に一度の更新ペースになりつつあるのですが、それもこれも今年は忙しかったから・・・などという言い訳を用意していた自分の頭をガツンと殴られたようなショックを感じたのが、二人の友人が時期を同じくして送ってくれた新著でした。

まずは、先に届いた慎泰俊さんのこちらです。

働きながら、社会を変える。――ビジネスパーソン「子どもの貧困」に挑む

働きながら、社会を変える。――ビジネスパーソン「子どもの貧困」に挑む

慎さんとは、私がニューヨークでブログを書いている頃に、お互いのブログを通じて知り合いました。
それがいつぐらいなのかとふと思って慎さんのブログ調べてみると・・・どうも2005年9月のHurricane Katrinaに関する考察の辺りのようです。
そうすると、それからもう6年が経つということになります。いや、まだ6年しか経っていないと言うべきかも知れません。
6年前は独学でMBA進学を志しながら、たくさんの知識を吸収し、それをブログでアウトプットし続ける一人の青年でした。
その彼が、たった6年間の間にMBAを修め、外資系金融機関で金融モデルを組み立てる専門性を身につけ、更にPEファンドに転身し、(まだ直接一緒に仕事したことはありませんが)同じフィールドで働くようになり・・・たった6年の間に、彼はビジネス・パーソンとして、自分の目指した道をものすごいスピードで進んできています。そのことだけでも凄いことなのに、彼はビジネス・パーソンとしてのキャリア以外の自分の可能性の追及も怠らず、それをLiving in Peace(LIP)という形で実現させてきました。
前書きで彼はこう言っています。

 僕は、世の中がよくなるためには経済がよくなる必要があると信じている。だから、企業の成長をサポートするこの仕事(筆者注:PEファンド)には大きな意味があると考えているし、もっといろいろなことができるようになるためには、早くこの業界における一流のプロフェッショナルになりたいと思っている。

 でも、この「本業」だけが僕の人生のすべてなのか、というとそうでもない。世の中には本業を通じて解決できる問題もあるけれど、本業では直接的な対象としていない問題もある。たとえば、教育問題や貧困問題などは、僕の本業の主な守備範囲には入らない。・・・
 自分が取り組むべき課題を一つに絞ることは重要だと多くの人がいう。そうかもしれない。けれど、本当に人は一つの課題だけに取り組むべきなのだろうか。たとえば、「仕事と子育ては両立できない」と言って、仕事をする人は子育てをなおざりにしてよいのだろうか。
 目の前にたくさんある課題について、たった一つに取り組む、と言わずに、きちんと優先順位をつけてそれぞれの課題に自分の24時間を割けばよいのではなかろうか。

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これから「原発」とどうつきあっていこうか

最初に告白してしまうと、3月11日の巨大地震以後これまでぐらい、自分のチキンぶりを思い知らされたことはありません。
携帯に入ってくる地震速報にびびり、福島第一原発の状況に一喜一憂し、文科省の環境放射線水準を確認しては、家族を実家に疎開させるべきかを思い悩み、今日もまた情報収集をしながら、いろいろなリスクを考えてしまいます。
こういうストレスがかかると、人間は攻撃的になりがちで、私も反省しなくてはと思うことが多々あるんですが、それにしても「原発」まわりのことについては、感情的に過ぎないかと思うことがあります。

一方の極みには、今回の福島の事故をもって、原発は人間に扱えるものではないと決めつけて、早急な原発廃止を求める声があります。
確かに、目に見えない放射線は不安ですし、今もまだ予断を許さない状況であることは間違いありません。
ただ、ギリギリのところとはいえ、今この時点でも、原子炉を制御下に置くための努力は続いています。楽観はすべきではありませんが、核反応の進行は抑制されているようですし、放射性物質の漏出についても二重三重の封じ込め構造が一定の成果をあげているように思えます。また、同じく津波の被害を受けた女川や福島第2原発では今のところ事故は報告されていません。地震の専門家ですら想定外であった超巨大地震と巨大津波の直撃を受けて2週間、亀の歩みのようでも原子炉を制御下に置こうとする営みは続いており、今この時点で白旗をあげてしまうのは、余りにも性急という気がします。

とはいえ、もう一方の極みにある、ともかく原発は経済活動に不可欠なんだから、原発廃止論は非現実的だという決めつけも性急だと思います。
もちろん、今、福島第一原発で起きていることなんて、全て想定の範囲内でリスクは織り込み済みだった、というなら別ですが、普通は、日本の原発はしっかりとした安全体制がとられており、放射性物質の漏洩はまずないという前提で考えていたんではないでしょうか?あるいは、事故は起きるにせよ、例えば、東京の水道で基準値以上の放射性物質が検出されるような状況になるとは思っていなかったのではないでしょうか?
少なくとも、地震前の私の認識はそこまで及んでいませんでした。
そもそも、福島第一原発地震後立て続けに起きた事象については、未だ現在進行中であり、水素爆発や原因不明の黒煙騒ぎ、タービン建屋への放射性物質を含んだ水の流れ出し等々、専門家ですら予想できなかったことや、現場への接近が限定されているため、その原因を確定できないことが多数生じています。
原発の有するリスクは、今回の経験を踏まえて、こうした事象を安全にコントロールできる手法が確立できるかどうかにもよるわけで、当然ながら、リスクの見直しは必要なはずです。
それを見極めないうちから、原発は不可欠だと言っても説得力は感じません。

あるいは、今回の事故でも健康被害が直ちに生じるような水準の放射線被害は出ていないから原発の安全性は揺らいでいないとか、過剰反応だという意見があるのかもしれませんが、これは少し違うと思います。
放射線に関する基準は一定の前提を置いたものであり、短時間の被曝で直ちに健康に影響が出るものではないことは、その通りでしょうが、原発は相当の長期間そこにあり運営されるものであり、また、今回の事故による放射線量の増加がどの程度の期間で収束するのかということも、未だはっきりとしたことは誰も言えない状況です。
今、まだこの時点で健康被害が生じないということと、今後もその心配がないということは、(当たり前のことながら)全く別です。
原発が安全であるというためには、通常の恒常的な運転状況での放射線量が基準値以下に抑えられることはもちろん、今回のような事故による放射線量の基準値超過状況が、最終的に健康に被害を与えるようなレベルに至る前の短期間あるいは狭い地理的範囲で収まって言える話だと思います。
後者は、今まさに進行中ですから、この推移次第では安全性が確保されないという評価になることは十分にあり得ます。

他方で、原発による生命・健康リスク「だけ」を、ことさらに問題視することも合理的ではないと思います。
人間の経済活動は、たくさんの生命・健康リスクを生み出します。それこそ、交通事故で日本国内だけで何千人の人が死んでいますし、たばこは本人の健康リスクだけでなく受動喫煙により周囲の人の健康リスクももたらします。もっとマクロな視点でいえば、電力不足による停電は、例えば暑さ寒さによる健康へのリスクや交通事故リスクの増加などの形で間接的に人の生命身体に影響を及ぼすでしょうし、それによる経済活動の低下は、貧困や社会サービスの水準低下による生命・健康へのリスクを増大させる可能性もあります。
原発による生命・健康リスクは、最終的には原発を失うことにより生ずる、そうした他のリスク要因とのバランスで議論せざるを得ないはずです。

・・と、いつものように、あっちの話もこっちの話にもけちをつけ、結局、おまえはどうなのかと、原発廃止派からも推進派からも石を投げられそうなので、最後に私の「今」のスタンスを明らかにしておきます。

私が、今欲しいのは、自分の頭で考え、自分なりの結論を出すための判断材料です。
中でも、福島第一原発の今の状況のメカニズムは何で、それはどのような形で対処されるのか、そして、今後対処可能なのか。現在進行形で起きている、今のこの事象が、やはり私自身のリスク判断にとって一番大きな要因とならざるを得ません。逆にいえば、福島第一原発の状況がある程度目処がつく前に、原発をどうするかについて自分の意見を固めることはできません。
しかし、別に、何もせずに様子見するつもりはありません。
私自身、今回のことを通じて、原発、そして日本のエネルギー事情について、もっと勉強しないといけないということを痛切に感じています。とりあえず、電気事業連合会が出しているINFOBASEという資料をダウンロードし、ipadに入れて勉強し、同じく電気事業連合会の出している過去の電力統計などを見ながら、当面の発電能力を欠いた東日本での電力供給にどのような道があるのかを自分なりに考えています*1原発の安全性についても、二次情報を鵜呑みにするのではなく、推進派・反対派によるものを問わず、なるべく偏りのない情報を集めていこうと思っています。
そうした個人レベルで判断材料、能力を高めるのとは別に、マクロレベルでは、今回直接に影響を受けなかった既存の原発の安全性についても、早急に検証がなされるべきだと思いますし、その情報は広く公開されるべきだと思います*2。安全性の前提となる想定の妥当性、想定に対する安全確保のための方策の妥当性、想定外の事象が起きた場合の事後的・非常的な安全確保のあり方について広い範囲で多様なレベルの専門家の目にさらされることが、安全性の確保と共に、原発に対する不安感の払拭には必要だろうと思います。
また、想定外の事態が起きたときの原発のもたらす経済的なリスクも踏まえた上で、改めて代替エネルギーやエネルギー需要側の構造転換との経済性比較がなされるべきだと思います(もしかしたら、これまでにも十分それはなされているのかもしれませんが、そこも勉強していきたいと思います)。
いずれにせよ、今回のことを通じて思い知らされたのは、自分と周囲の人たちの生活にかかわる大きなリスクであるエネルギーと原発のことについて、上っ面なことしか分かっていなかったことです。原発反対、賛成と自分の旗幟を明らかにするほどの情報もなければ、そう主張する人たちを合理的に説得できるような材料も有していません。
もちろん、原子力の専門家になろうとは思いませんが、反対・賛成という形で自分の意見を持つのであれば、自分と違う立場の人に対して、自分の立場を説明して説得できる程度には一次情報やロジックをきちんと踏まえないとと思っています。
エネルギー問題というのは、理論で全てが決まる問題ではありません。リスクを定量的に把握することは科学的なアプローチでできるかもしれませんが、その結果明らかになったリスクを、どの限度まで、どのような手続で受け入れていくかは、純粋な科学の問題ではなく社会的・政治的な問題です。
自分の立場が正しいと思うのであればあるほど、その「正しさ」を相手に納得してもらうための丁寧なロジックと対話の姿勢をもって、違う立場の人を説得していきコンセンサスを形成できなければ、その「正しさ」が実現することはありません。

随分長くなってしまったので、最後に、もう一つだけ。
今回の事故について、もう犯人捜し=誰の責任かという議論が始まっているようです。
ただ、元々「原発」については高度の専門性、政治性、経済性が絡まっている上に、そのきっかけとなったのは地震の専門家でも想定外と言ってしまう巨大地震と巨大津波です。
見方によっては、誰かに責任を押しつけることは容易にできるでしょう*3が、今回の事故による巨大な被害の全てを引き受けさせるだけの帰責性を見いだせるかは、そう簡単な話ではありません。
また、「罰」や「責任」は何のためにあるのかという視点も重要です。私は、「責任」や「罰」は、それによって人々のインセンティブに影響を与え、将来過ちが起きないようにするためのメカニズムだと思っていますし、そうした形で運用されるべきだと思っています。
単に、誰か犯人を見つけて溜飲を下げたいというのは、ペストの発生を魔女のせいとして火あぶりにしたいという欲求*4と大して変わらないような気がします。
ここでも、事故の発生メカニズムが明らかになった時点で、将来に向かって同じような間違いを防ぐために必要な責任のあり方という観点から議論がされることを期待したいと思います。

最後に、こちらは昨年の春、福島第一原発から直線距離で50キロほどの三春で撮った写真です。
この美しい場所が、もし人の立ち入れない区域となってしまうようなことがあれば、もしかしたら他のものを犠牲にしても原発は不要と考えるのかもしれません。
感情に偏った過剰反応はいけませんが、こうしたセンチメントは、やはりそれはそれで人間が人間らしくあるために大事なものだということも、特に私のような頭でっかちな人間は忘れないようにしないといけないのかもしれません。

*1:産業インフラである電力が一定期間にわたり不足する状況で、社会がどのように対応していくのかは、壮大な社会実験でもあり、これの行方もまた将来のエネルギー政策を自分なりに判断する上での貴重な情報源となると思います

*2:何でもいいからとりあえず危険だから原発を止めるというのは賛成しません。ただ、原発を止めると電力不足になるからそのまま運転し続けるというのも乱暴な話で、需要予測や地域を越えた電力融通の可能性も踏まえた上で、設備の安全性チェックのロードマップは早めに示すべきだと思います。

*3:つまり、「あれなくばこれなし」という意味での条件関係は、いくらでも見つけることができる

*4:もちろん、手続や理由付けはもっと洗練された近代的なものが使われるでしょうが

facebookへの出資スキームのどこが問題か?


遅ればせながら、皆様明けましておめでとうございます。

写真は本文とは全く関係ありませんが、最近、趣味をきかれると「写真」と答えるぐらいにはまっているので、今年はブログにも積極的に載せていこうかなどと考えています。
中身ではなく、写真の方へのコメントも歓迎いたします。

それはそれとして、今年最初のエントリーはやはり今年の抱負かなぁ、でも毎年そんなんちゃんと立ててないし、どうしよう・・・とか迷っているうちに、正月休みも終わってしまったんですが、今日、さる方から電話がかかってきて、新年のあいさつもそこそこに、「facebookGoldman Sachsが出資したスキームについてSECが調査しているらしいですけど、どこが問題なんですか?」ときかれて、「その話は知っているけど(心の声:twitterのTLに流れてたな、なんか)、具体的なことは知らないけど、もうちょっと話してみて」と、伝聞情報だけで与太話をしていたら、面白いかもと思って、ちょこっと調べてみたので、結局備忘ということで。

元ネタ収集は無料登録で記事が読めるNew York Timesからですが、とりあえず以下の3つぐらいを見てみると・・・

ちなみに、皆さん、ご存じのようにfacebookは非上場会社です。したがって、今のところ、日本でいう有価証券報告書とか四半期報告書の開示義務はない上に、そもそもこうした報告書に必要となる財務諸表作成義務とか監査を受けなきゃいけない義務もありません(もちろん、SOX法の各種ガバナンス関係規制もかかりません)。
今回のスキームでは、GSがロシアの投資家と一緒に5億ドルの投資を行いますが(GS分は4.5億ドル)、それとは別に投資ビークルを設立して、そこへの投資をGSの資産家クライアントに募っているようです(ちなみに、最低投資額は200万ドルのようです)。
最終的に、どのぐらいの人数の投資家がこのビークルに投資するかは分かりませんが、こうして投資ビークルを介して、法定開示を行っていない企業への投資を勧誘するのは脱法じゃないの、というのが、今回のSECによる調査の一つのポイントではないかと記事は言っているわけです。

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新たな役員報酬規制への違和感

 おおむね月1度ペースで開催されている資本市場研究会の勉強会は、本当にいつも勉強になります。
 で、今回は首都大学東京の尾崎悠一准教授による「金融危機役員報酬規制」というご報告でした。

 詳しい内容は、きっと研究会の成果をまとめた本に載ると思いますので、私の印象に残った要点だけでいいますと・・・

    • 金融機関の役員報酬規制は、元々「過大なリスクテイクのインセンティブを役員に与えない」ということを主眼として主張された。
    • 具体的なコントロール手段としては、さまざまなものが言われているが、大きく分けると、報酬決定権限の所在と報酬の形態について議論がなされている。
    • 決定権限の所在としては、(1)独立取締役からなる報酬委員会の権限の強化、(2)株主総会決議(勧告決議)の要求(いわゆるSay-on-Pay)の流れがある。
    • 報酬の形態については、リスクに整合的な報酬体系をとることが主張され、(1)インセンティブ報酬の割合又は額の抑制、(2)インセンティブ部分については、stock optionではなく、長期のrestricted stock*1の利用、(3)後にリスクが顕在化した場合の報酬の一部の返還(clawback)の導入等が主張されている。
    • 近時は金融機関だけでなく、事業会社についても同様の役員報酬規制が議論されている。

 技術論的にも色々と興味深い話はあるのですが、個人的に違和感を感じたのは、規制目的と手段の整合性がとれていないような気がしたことです。

 まず、「過大なリスクテイクのインセンティブ」という問題は、預金取扱金融機関については、それなりに合理性があるような気がしています。というのも、一般的に、負債提供者が事前に予測している以上の過度のリスクテイキングがなされると債権者から自己資本提供者への利益移転が起きます。通常は、財務制限条項や期限の利益喪失条項等によって、そのような利益移転の発生を防止するわけですが、預金提供者の大半を占める個人預金者間には集合行為問題等があり有効なモニタリングや、適切なアクションがとられない可能性があり、結局、効率性が害される可能性があります。加えて、預金については一定の預金保険で守られることから、ますますこのような債権者=預金者による規律は弱まります。その意味で、預金保険による直接の効果は、(経営者ではなく)預金者による(モニタリング・コスト等をかけないという意味での)モラル・ハザードといった方がいいのかもしれません。そのため、利益移転のみを意図した、その意味において「過度な」リスクをとる判断がなされる可能性があると思われるからです。
 その意味で、目的には一応の正当性はあると思われるのですが、このような意味での「過度の」リスク・テイキングの防止は、もっと直接的に自己資本比率規制やリスク管理体制の義務づけなど預金取扱金融機関のリスク管理を規制することでも可能です。また、上記のような意味での「過度の」リスク・テイキングは、経営者と株主との間のエイジェンシー問題から生じるのではなく、預金者と株主との間で生じるエイジェンシー問題に起因するものです。
 したがって、少なくともSay-on-Payのような株主のインセンティブと経営者のインセンティブを一致させる手段は逆効果ですし、同じようにインセンティブの方向性が株主と一致している限りは、インセンティブ報酬の形態は本質的な問題ではないようにも思われます*2
 端的にいえば、株主と預金者との間のエイジェンシー問題から生じる「過度の」リスクテイキングに対しては、報酬規制というのは余り効果がないのではないかという疑問を持ったわけです。

 でも、まあ、預金取扱金融機関については、預金者の属性と預金保険の存在を前提とすると、経営者を少しリスク回避的なぐらいにふっておいた方がいいという判断もあり得ないわけではないので、やはり設計の仕方次第だろうなと思います。

 これに対して、預金取扱をしていない金融機関と事業会社については、そもそも「過度の」リスクテイキングの意味がよく分からないところがあります。というのも、例えば、今回の諸悪の根源とされている投資銀行についていえば、その資金提供者は零細な預金者ではなく、モニタリング・コストをかけようと思えば、ある程度かけることのできる債権者です。彼らは財務制限条項や期限の利益喪失条項等を用いて利益移転のみを目的としたリスク・テイキングにはある程度の歯止めをかけることができます。
 また、いわゆるプリンシパル・インベストメントについていえば、これは完全な自己資本ですから、自己資本提供者、例えばパートナー性の投資銀行であればそのパートナーが経営者を管理する(あるいは相互監視する)インセンティブを持っています。
 その意味で、利益移転のみを目的としたという意味での「過度な」リスク・テイキングは、私的なアレンジに任せていても、ある程度防止できるはずです。
 なので、ここで「過度の」というのであれば、あとはこうした直接的な当事者以外の外部的な効果を意識したものと考えざるを得ません。例えば、余りに大きな企業が潰れると回り回って預金取扱金融機関も潰れて預金保険の対象になるからとか、あるいは、もっと直接に預金保険の対象とならなくても政治的に公的資金が出されるからといった議論になります。
 確かに、こうした外部効果は考えられますが、それを理由として、当事者間の私的なアレンジメントに介入することには、大きな危険が伴います。端的にいえば、ここでは利益の移転のみを目的としたリスク・テイキングは既に私的なアレンジである程度抑止され、リスクとリターンの関係は見合っているわけですから、ハイリスクな活動を抑止することを目的とした規制は、そのままハイリターンな活動も抑止してしまうからです。
 この意味で、預金取扱金融機関や事業会社に対しても、「過度のリスク・テイキング」の防止を目的とした報酬規制を導入しようとするのは、預金取扱金融機関以上にしっくりとこないものを感じます。

 もう一つテクニカルな面で違和感があるのが、報酬の払い戻し(clawback)です。
 これは、過度のリスク・テイキングでリスクが顕在化して株価が下がると株主が害されるからということのようですが、市場が少なくとも情報効率的であれば、株価には企業の選択したリスクが既に反映されており、結果としてプロジェクトが失敗に終わって株価が下がったとしても、その下落可能性自体が予め株価に織り込まれていた以上、株主は何も「害された」わけではありません。
 にもかかわらず、裏目に出た際には報酬の払い戻しをさせるというのは、しっくりとこないところがあります*3
 ということを、尾崎先生に聞いたところ、ここでの問題意識は、元々の開示においてリスクが十分に開示されていなかった(つまり、市場価格がリスクを反映していなかった)ような事態を考えているようだとのことでした。それなら、理屈は納得できますが、それならそれで、そのようなことは不実開示責任の責任追及の枠組みで議論すべきであって、リスク情報をちゃんと開示している企業まで巻き込まれてしまう報酬規制で対応するのは、これまた目的と手段のバランスが崩れているようで違和感を感じたところです。

 とまあ、簡単にまとめるつもりが、少し丁寧に考えを追うと長くなってしまいました。
 ただ、報酬規制というそれ自体はきわめて会社法的な論点を考えるにあたって、目的の正当性や目的と手段の相当性を検証する意味で、ファイナンス理論や経済学的な考え方というのが有用だというイメージの一つの例にはなるんじゃないでしょうか。

 今日はこんなところで。
 

*1:株式報酬であるが、株式の譲渡可能となるまで一定の期間の経過や条件の成就が求められるもの

*2:もっとも、株主は長期的にみれば預金者に対して機会主義的行動をとらないというコミットメントを行うことで預金利子を低水準とするインセンティブを持っている場合でも、経営者に一回限りの裏切りを行うインセンティブが生じるような報酬体系となっていることはあり得ます。その意味では、ストック・オプションではなく、株式報酬(restricted stock)を用いるべしという主張には一定の合理性があるように思われます

*3:もちろん、ストック・オプションのようにアップサイドは無限に利益を享受できる一方、ダウンサイドリスクには限定があるような報酬形態については株主からオプション保有者への利益移転のみを意図した行動を誘発する危険もあります。もっとも、いつでも株式を売却してexitできる株主と違って経営者はその会社に特有の資源に投資をしなければならない時点でrisk averseな傾向があることから、アップサイドによった報酬形態の方が望ましいということでストック・オプションは採用されているわけであって、元々、そうしたバランスをとろうという試みがあるわけです。もちろん、企業によっては、ストック・オプションではなく、ダウンサイドも共有される株式報酬や後払い的スキームでバランスをとる方がいい場合もありますが、それも私的なアレンジメントに任せればよく、あえて規制で介入することを正当化する理由には弱いでしょう

思いつき:ローとエコのすれちがいは、どこに?

 私は法学と経済学ぐらいにシナジーのある学問はないんじゃないかと勝手に信じているんですが、世の中にはもちろんそうではない人たちもたくさんいます。
 「それがいい組み合わせである」と信じてもらうためには、まあ地道に実例や実績をつみあげていくしかないんでしょうが、最初から法学と経済学は水と油であるかのように思っている人や、そういう議論の構図になることが残念ながらあるようです。

 本当に残念だなぁ、と、思いながら、でもtwitterとかの140字では語り尽くせないぐらいに、誤解の溝が深いこともままあるんですが、いくつか典型的な奴について、思いつきでつっこんでおきましょう。

(現在の)経済学そのものに対する誤解

 まず、「経済学」ということでイメージしているものの内容に、そもそも誤解があるような気がします。
 ミクロ経済学の最初でみるような需要曲線と供給曲線が交わって均衡があるという図=市場に任せれば全てがうまくいくというのが経済学の全て(ないし、ほとんど)だと思っているとすれば、それはやはり誤解です。
 現代の経済学は、市場の失敗が起きる条件の特定や、それへの対処のために制度が有効であることを認識しています。とりわけ「契約理論」と呼ばれる分野では、契約が不完備であるという現実から出発して、当事者間の交渉だけでは最適な取引が実現しない場合があることを明確に認識しています。
 
 もっとも、需要供給分析に限らず、経済学の議論の特徴(だと私が思っていること)の一つである「モデル」を用いた議論は、それに慣れ親しんでいない人の拒否反応を招きやすいことには、十分に自覚的であるべきだとは思います。
 経済学の議論というのは、まず「モデル」を用いて最適(optimal)な状態を定義しますが、これは、それが実現可能だと思って、そう言っているわけではありません。
 「需要曲線と供給曲線の交わるところに価格と生産量が定まっていることが望ましい」ということは、現実に、それが達成されていることや、それが現実に達成可能であることを、自動的に意味するものではありません。むしろ「モデル」の前提条件を修正したり、色々な制約を加えていくと、こうした状態を達成することは非常に難しいことを知っています。
 それでもなお、こうした最適な状態を最初に議論するのは、目標とする方向(ベンチマーク)を明確にするためです。
 もっとも、これは方向性を定めるという程度の意味であって、予め最適な状態を知ることができるということではないので、注意が必要です*1。「均衡価格はあるはずだが、それを予め知ることができない」のは、市場で均衡価格に到達することを阻害している要因を特定して(例えば情報の非対称性)、それを解消するための政策的提案(開示制度)をするという目的においては、何ら不都合は生じません。
 ・・・と、脇道にそれましたが、こうしてベンチマークを明確に見据えることで、それが実現できない要因を整理して、採り得る対処方法を特定し、さらには考え得るいくつかのアプローチの中でより望ましいアプローチを選択する基準として、「モデル」を用いた議論は非常に重要なものです。
 ただ、こうした流儀に慣れ親しんでいない人に対して、まず「モデル」の正しさを納得させるところから始めようとすると、すれ違いが生じる可能性があります。

 というのも、ある状態Aと提案されている状態Bを比較する時に、あえて効率性の観点から「最適」な状態を定義して、そことの比較で論じるというやり方は、学問的には正しくても、普通に考えると、ダイレクトにAとBを比較すればいいのに、何でわざわざ「最適」を議論するのかという観点で直感的に分かりにくいところがあります。また、その「最適」状態の定義自体に、経済学に反感を持つ人が警戒心を有する最たるものである「効率性」という基準が、当然の前提として組み込まれているわけですから、「効率性」基準の妥当性を納得できない人は、そもそも「モデル」を用いてベンチマークを設定するという議論に対して、「何かだまされているんではないか」という警戒心を抱いてしまうことがあることもやむを得ないところがあるように思います。

「効率性」と「正義・公平」について

 というわけで、やはり「効率性」の議論は避けて通れないところがあるんだろうと思います。
 この観点でいうと、典型的な経済学の議論は、まずパレートあるいは、それを修正した意味での「効率性」基準に基づいて状態の優劣を定めます。
 このレベルの議論で達成された「効率性」は、分配の公平性を何ら保証しません。
 とりわけ一般の人に理解しがたいのは、最初の時点における資源の分配、もっと有り体にいえば貧富の差は効率性基準によって顧みられないことです。
 ただ、これを以て経済学は弱者に冷たいというのは早計です。「効率性」の問題と「分配」の問題をひとまず切り離すことは、それによって争点を整理するという方法論であって、それ自体が目的ではないはずです。
 パイの話にたとえれば、まずパイを大きくするためにはどうすればいいのかを議論して、パイを大きくしてから分けましょうという議論の仕方です。
 もっとも、そうきれいに両者を分けられるわけでもなく、パイを大きくするモチベーションを十分に与えるためには、大きくした後の分け前の仕方についても自然と考えざるを得ません。例えば、よくがんばった人にはたくさんあげるよ、といった動機付けです。
 多くの場合、このパイを大きくするための議論に際して、参加者に適切な動機付けを行うような分け前を考えていくと、自然と参加者にとって納得度の高い分配となるため、明示的に分配の議論を行う必要はありません。別の言い方をすれば、契約理論など個々の主体のインセンティブを十分に考慮した上で効率性を議論していくことによって、分配の公正性の問題が効率性の向上と一緒に解消されることも多いということです。
 ただ、こうした効率性議論は、(理由の如何を問わず)パイを大きくすることに貢献できない立場の人たちの救済のロジックは生まれてきません。
 ここに至ると再分配の問題に向き合わないといけません。もっとも、再分配というのは所得移転ですから、インセンティブの阻害やモラル・ハザードの問題をそれ自体含んでいますし、そもそも、そのような効率性に直接貢献しない所得移転のあり方についてのコンセンサス形成は非常に難しい話です。更にいえば、経済成長が期待できる場合には世代間所得移転なども考えられますが、不況期にはそういうわけにもいきません。
 いきおい、再分配の問題になると、誰しもトーンが弱くなり、最低限のセーフティネットは必要だが、財源は・・・という話になります。

 それでも、パイを大きくするための効率性の観点からの議論には大きな価値がありますが、その過程で出てくる「弱者」への配慮を欠いているととられると、やはり相互理解の障壁となってしまいます。

「法律家」の二つの側面

 思ったより長くなったので、法律家による経済学への誤解だけではなく、「法律家」への誤解にも触れておこうと思います。
 この話を書こうと思っていたら、小倉秀夫弁護士がtwitter上で端的に問題をつぶやいていたので、引用させてもらいます。

@cloudgrabber @ny47th でも、法律家、とりわけ実務家って、対症療法を行うことを第1に求められているのです。経済学者の意見に従って対症療法を放棄ないし拒絶するようになったら終わりではないかと思ったりします。

 私を含めローエコが好きな法律家は、制度論を語るのが好きなので誤解を受けるかも知れませんが、小倉弁護士の指摘のとおり、実務法律家の責務は目の前にある事件の解決、より端的にいえば依頼者の利益の保護です。
 そして、実務法律家の依頼者は、社会的強者とは限らず、往々にして社会的弱者であり、その利益の保護は伝統的に実務法律家の存在理由の一つです。たとえて言えば、病人を助ける医者のようなもので、目の前に困っている人がいれば、法的なスキルを用いて、その人の困っている状況を改善してあげたい、というのは実務法律家の行動原理です*2
 
 医療保険の保険料を惜しんだために保険未加入の患者が運び込まれた時に、現場の医者に対して、「そんな奴を治療すると医療保険を支払うインセンティブを失わせるから治療すべきではない」といえば、まあ、100人中99人は反発するんではないでしょうか?
 私も、多分、反発します(笑)

 そのような意味では、法律実務家のそうした現場の医者としての職務について制度論の観点から不合理だといわれれば、まあ、カチンとすることは当たり前というところもあります*3

 一方で、法律家というのは、制度設計者としての側面を持つ場合もあります。そうした制度設計の議論を行うときには、現場の都合だけではなく、制度設計のバランスということも、やはり大切だろうと思います。現場で働く法律家にとってみても、苦しむ人自体が減るような制度設計であれば、本来は反対する理由はないはずです*4。 

というわけで

何か思いつきで書いていたら、結構長くなりましたが、他にも、経済学徒の方は日本での判例法的なものを含めた法やルールの形成過程が、かなり柔軟なものであることや、実質的に立法的な作用を担っていることについて誤解しているところがあるんではないかとか、法律家は価格メカニズムや市場の失敗の含意について誤解しているんではないかと思われる節もあるんですが、とりあえず今日のところは、こんなところで。

ともかく、私の願いは、ローとエコの人がそれぞれの知見を組み合わせて、今の日本にとってよりよい「制度」は何かを活発に議論できるといいな、ということで。

*1:たとえていえば、解が存在することは分かっているが、その解が具体的にどんなものかを導き出すのはきわめて困難か、現実的には不可能というような状況でしょうか

*2:それ自体が合理的かどうかも経済学的には興味深いと思いますが、経済学徒の方は、「そのような行動様式をとることが法律家という職業のレントを維持するために望ましいからである」とでも思って、とりあえずはそういうものであるとして聞いておいてもらえると助かります

*3:また、そうした現場の人間の行動原理としては、目の前で手を施せずに人が苦しむというコストと感謝されるという心理的なベネフィットのネットのベネフィットと、その治療にかかる機会費用と金銭的な追加ベネフィットのネットの比較で前者を好むということは経済学的にみても不合理な行動ではありません。それを防止したければ、そもそも現場の医者のインセンティブ構造に手をつけなくてはいけません。もちろん、そのような極端な場合を想定したインセンティブスキームは副作用を及ぼす恐れがあるわけですが

*4:「本来は・・・はず」と書いたのは、苦しむ人がいることでレントを得られるということを暗黙のうちに理解している場合には、建前はともかく、苦しむ人が出てくる現状そのものを改善するインセンティブは乏しいからです。こういうことに限らず、制度設計を論ずる人とその影響を受ける人との間のエイジェンシー問題というのは、本当は相当に深刻な問題です

ちょっと蛇足ながら、何故株主と従業員の対立構造に私がアレルギーを覚えるかについて

昨日のエントリーには、twitter上でも色々と反響を頂き、ちょっと怖いなあという感じです。
もっとも、ここ数日のつぶやきとブログを見て、この弁護士よっぽど暇なんだろうなぁ、と、思った方もいるんだろうな、と。
ま、ある意味、物理的に時間がとれなければ身動きがとれないので、確かにそういう面があることは否定しないのですが、さりとて「経済がわかっていない相手」に対して知識をひけらかして悦にいるというだけの動機でやるには、時間とかレピュテーションという観点からコストが割高だったりします。

それでも、昨日のようなエントリーを書こうと思った理由について、蛇足とは思いつつ、補足を。

問題のすりかえ

きっかけこそ米国発の金融危機ですが、そこによって浮き彫りとなった日本経済の問題点は成長力の欠如です。(私だけの意見では信憑性がないかも知れませんので、例えば、harry_gさんの記事なども見てください。)
たとえ、一時的に経済がダメージを受けても、成長期待があれば将来の高いリターンを期待した投資資金が集まります。もちろん、事業規模の縮小が余儀なくされる分野はあるでしょうが、その代わりそうした成長性の高い分野への投資が新たな雇用を創出します。
しかし、そのような成長期待がなければ、一時的な経済ショックに対して縮小した事業規模を埋め合わせる雇用が生まれません。雇用が生まれなければ、国内における需要回復が見込めない以上、それを見越した投資家はますます投資意欲を減退させ、投資資金は日本に集まりません。

このような状況の中で働き場所がなく苦しんでいる人を救うには、地道ですが成長政策を立案し、それを実行していくしかありません*1
ただ、このような成長政策は、そもそも効果ある政策立案には相当の労力をかける必要があり、更に成長は経済構造の変化を伴うため既得権益の調整という非常に政治的にリスクを伴う作業が必要であり、少なくとも一時的には予算も必要です。
いうまでもなく、これには王道的な政策立案・実行能力が必要です。

問われるべきは、こうした成長戦略であるところ、それを「今の労働者の窮状は株主から搾取されているからである」「労働者の窮状は株主の強欲さのためである」といった、真の問題とはかけはなれた対立構造の議論に持っていくことは、本来議論されるべきことから目をそらすだけのものであり、結局は、労働者、ひいては国民を幸せから遠ざける途だと信じるから・・・これが、ここ数日私がそれなりのコストをかけてもいいと考えて理由の一つです。

現状のさらなる悪化

もちろん、政策論議は全ての意味が等しいと言うことはなく、なかには無駄なものもあるでしょうし、それにいちいち目くじらをたてるのは重箱の隅をはしでつつくようなものです。

私もそんな話であれば、どうぞご自由に、と思います*2

しかし、労働者の窮状を株主の強欲さのせいにすることは、現在の労働者を更に困窮させる可能性があります。

一つ目は、例えば、そうした対立構造を強調して投資家のリターンの享受を制限したり、従業員への追加分配を強制する制度を導入することは、実効的には、投資に対する課税強化と同じです。ただでさえ、日本への投資意欲が減退しているときに、そのようなことをやれば、ますます日本企業への資金の供給主体は減っていきます。

二つ目は、これ以上日本企業への追加投資をせずに資金を引き上げる方向性を投資家が決めた場合には、投資対象の企業の将来的な成長性を確保するよりも、今の目の前のキャッシュフローを最大化することが望ましい選択になります。株主による残余コントロール権の濫用(例えば、収益性は高いが株式市場の低迷で一時的にPBRが低くなっているような企業の清算や、年金資産等の取り崩し)を防いでいるのは、関係が将来にわたっても続くことに対する期待や評判ですが、そういう関係を大事にする必要がなくなれば、実際に残余コントロール権の濫用が起きる可能性は高くなります。つまり、「株主と従業員は利害対立するものであり、政府は従業員への利益移転を支持する」というアナウンスそのものによって、今まで調整されていた株主と従業員の利害が、本当に先鋭化してしまう可能性があるわけです。

三つ目は、二つ目の裏側です。株主が残余コントロール権を用いて自分たちからの利益移転を行う可能性が現実的に高まると予想すれば、労働者側もそのような動きに対応した行動をとることが予想されます。具体的には、いつ株主がそのような機会的行動をとるか分からないとすれば、その会社にいれば価値があればよそにいくと価値のない技能を習得することには消極的となり、実際の事業に関係するか否かを問わず資格のようなより汎用性の高い技能の習得をすることを優先したりするかも知れません。また、報酬についても、退職金割合を減らすことを要求することになり、結果として企業の資金繰りを更に苦しくすることになるかも知れません。

株主と従業員の利害対立が本当は先鋭化していないにもかかわらず、それを先鋭化しているかのように強調して制度を変更することは、「嘘から出たまこと」になって、今まで存在していなかった利害対立を先鋭化させる契機となり得ると私は考えています。

これが、私が株主と従業員の利害対立をスケープゴートが、単に本題から目をそらすということにとどまらず、それ自体として危険な結果となると思っている根拠です。

デジャビュ〜上限金利規制

もっとも、今回のような議論構造は、実はそれほど珍しいことではありません。
かつても、「消費者金融による借り手からの搾取に歯止めをかける」というスローガンを掲げてなされた上限金利規制について、私は当時ブログ上で、それが借り手保護どころか、借り手を却って酷な地位におくものであることを、何か結構な労力を使って論じました(その時の議論について中間整理をしたエントリーはこちら)。

どうも、「あなたのためです」と一見聞こえのいいことをいい、だけど、それが実はその人の状況を更に悪化させるような政策論というのは、私の中の何かのスイッチを入れてしまうようです*3

というわけで、前の記事にTBをくださったid:dongfang99さんが指摘されているように「貧困や雇用をめぐる悲惨な現実への憂慮や憤りの表明なし」に経済議論を行ってしまったことによって真意が伝わりにくかったというご指摘はその通りだと思いますので、一応今回のエントリーで*4私なりにそうした憂慮や憤りを強く持っているからこそ、そうした困窮している人たちの耳にささやかれる甘言に対して、これだけ強く反応してしまうということを表明したいなと思った次第です。


(追記その1)・・・でも、読み直してみて思ったのは、求められているのは、こういう理屈の話ではないのかも知れませんね。ただ、私の場合、その感情を不特定の人の前でさらすのは、どうも苦手ですのでお許しください。*5

(追記その2)成長戦略さえやれば十分ということではなく、勿論、こういう経済ショックや、成長過程に入っても経済構造の変化で生活基盤が危うくなる人たちは出てきます。こうした人たちへのセーフティネットは必要です。ただ、これもどういう形で行うかというのは非常に難しい問題で、全ての関係者が皆満足するようなキレイな解決方法は見あたらないので、政治的にはウケが今ひとつなわけです。

*1:なお、誤解する人はいないかも知れませんが、経済成長策が大事ということは、金融/財政政策が重要でないことは意味しないと私は考えています。

*2:実際、監査役に従業員代表を一人加えるという話は、理論的な整合性は色々と問題はあるでしょうが、実務法律家である私からすれば、色々な方が指摘されているように、今の日本の現状を大きく変えるものではないので、そのぐらいの話にいちいち嘴を突っ込む気にはなりません。

*3:そういえば、経済成長を目標にするのはもうやめようといった議論に対しても、何だか熱くなった覚えがあります

*4:それでも経済学の理屈が立ってしまっていますが、これは芸風なのでお許しください

*5:お酒のはいったところで、その人の目を見ながらであれば、自分の見た実際のエピソードを交えながら話すこともできるます。ただ、その種の個人的体験を前提とした感情を文章にのせることによるミスコミュニケーションのリスクが気になってしまいます。これはリアルの立場と結びつけてブログをやっているということも理由の一つかも知れませんね

「株主主権」「株主至上主義」の正体

最近、一部*1流行語大賞候補なのは、「株主主権」やら「株主至上主義」やら言った言葉です。
歴史は繰り返すというのか、何だか2005年、2006年の頃にも、よく聞いた言葉で、その時にも、こうした用語を使った議論がいかに不毛かということを、オブラートに包んでブログに書いたりしました。

最近、歳をとってきたせいか、気が短くなってきていて、昔のよりも物言いがきつくなってきたところがあるのですが、この言葉を濫用する議論は、多くの場合「水からの伝言」議論と同じで、要は「会社従業員の暮らしがきついのは、株主がもうけすぎているからだ」、更にいえば、「成長政策や再分配政策の不備ではない」という結論のために、あちらこちらから便利に使えそうな議論やデータを持ってきているだけだったりではないかと、意地悪な見方をしがちになってしまいます。

・・・と、140時制限のあるtwitterだと、そいういう愚痴で終わってしまうだけだので、会社法やコーポレート・ファイナンスで行われているスタンダードな議論は、どっちが主権者とか所有者とかなんて荒っぽいものではないことを簡単にお話しておこうかなと思います。

まあ、スタンダードなんて誰が判断するんだよ、お前がそんなスタンダードを決める権限あるのかよ、と、言われると困るんですが、私の話で信じられない方はポール・ミルグロム教授とジョン・ロバーツ教授の教科書『組織の経済学』(Economics, Organization & Management)の第9章とか『リーディングス日本の企業システム』第Ⅱ期第2巻企業とガバナンスの伊藤秀史先生の序文辺りを、会社法の議論については、落合誠一先生の「会社法の目的」『現代の法7』所収や江頭先生の教科書(『株式会社法(第3版)』)19-23頁辺りをご参照ください。


コーポレート・ファイナンスにおける企業の「所有」問題

経済学的な意味における「所有」≠法的な「所有権」

コーポレート・ファイナンスや経済学でも、企業の「所有」(ownership)問題はよくとりあげられるテーマですが、注意しなければならないのは、ここでいう「所有」は経済学的な用語であって、法的な「所有権」とは一致していないことです。なので「 」をつけたわけですが、議論の混乱は大体この辺りから生じます。

ミルグロム=ロバーツの件の教科書を引用しておきましょう。(321頁(下線は私))

会社を所有しているならば、(省略)・・・等々の権利を有する。経済分析のうえでは、「資産を所有する」という関係を、残余コントロール権(residual rights of control)―すなわち、法の定めや契約によって他人に割り当てられている以外の資産運用法についての決定権―を意味していると理解するのが有用である。

既にここに回答があるのですが、そもそもコーポレート・ファイナンスの議論では、「所有」していれば何でもできるなんて、全く考えていません。
会社の有する資産の中には、法律や契約によって他人がコントロールする権利があることを前提として、そうした事前の取り決めのない資産について誰がコントロールすべきか、あるいは、どのようにコントロールされるべきかを論じているだけです。

では、このような残余コントロール権を誰に与えるのが望ましいでしょう?
経済学的にいえば*2、そうした残余コントロールの下にある資源を最も有効に活用できるインセンティブを持っている人に与えるのが一つの解決になります*3
こういうインセンティブを持っている人というのは、会社の保有している資産から生まれる経済的利益*4のうち、これまた税金のように法律で払わなくてはいけないもの、利子のように契約によって支払わなければいけないものをのぞいた、それ以外の経済的利益=「残余利益」を得られる者ということになります。
これを残余権者=residual claimantというわけです。

誰が「残余権者」か?

さて、では企業の場合には誰が「残余権者」でしょう?

資金提供者という側面から見ていくと、銀行などの債権者はまさに「契約によって取り分が決まっている」人たちですので残余権者ではありません*5
これに対して、株主は確実に会社から経済的利益の分配を受けることができるわけではありません。企業の業績が悪ければ配当がないどころか、株式価値は下落します。
これは、法的に、株主は他の会社債権者に劣後することが定められているからです。
この意味で、株主を「残余権者」と位置づけることについては、それほど異論はありません。

もっとも、株主だけが「残余権者」かについては、議論があり得ます。

例えば、従業員の賃金債権自体は契約や法律(最低賃金)によって株主に優先しますが、業績の変動によって解雇されたりされなかったりということがあるとすれば、やはり残余利益がどうなるかについて強い関心を持っています。

あるいは、経営者も同じように業績の変動によって地位が危うくこともあれば、そもそも業績によって報酬額が変動するとすれば、やはり残余利益の多寡に強い関心を持つことになります。

・・・さて、「残余権者」を見つけることができれば、コントロール権の所在は決まると思っていたんですが・・・困ったことに、ちょっと考えただけでも、「残余権者」候補には株主、従業員、経営者があります。
場合によっては、地域社会の基幹産業(デトロイト自動車産業みたいな奴ですね)だとすると、関連企業や、学校、住宅デベロッパーなんかも、間接的な残余権者といえそうです。

と、ここで勘の言い方はお気づきだと思いますが、この種の間接的につながるいろんな人が「ステークホルダー」と呼ばれるわけです。

「残余権者」の中でどのようにコントロールを分配すべきか?

さて、ではこうしたたくさんの「残余権者」候補の中の、「誰が」あるいは「どの組み合わせ」が最も望ましいのでしょう?
経済学的な観点で問題となるのは「取引コスト」、より具体的にいえば、「エイジェンシー・コスト」と呼ばれる問題です*6
株主も、経営者も、労働者も、あるいは、取引先も、それぞれがそれぞれに自分固有の利益を持っています。
なので、残余権のコントロールを委ねた場合には、残余財産の総価値を高めることよりも、本来他の残余権者に帰属すべき部分を自分に持ってくる(wealth transfer)可能性もあるわけです。
こうすると、残余財産の総価値を高めるというインセンティブを持たない人がコントロール権を持つことになるという意味でも非効率的ですし、それを防止するために、お互いがお互いを牽制したりするということになると、これまで無駄なコストがかかります。
こうしたコストをエイジェンシー・コストというわけですが、これを最も少なくする組み合わせが最も望ましいということになります。

どのような組み合わせが最適か、ということについては、きわめて実証的な話になります。
ただし、以下のような理由から、「従業員にコントロール権を与える」という結論になることは希です。

  • 従業員は、従業員の中でも、本人の能力、担当職務、地位、年齢等により利害が対立しており、この従業員間でのエイジェンシー問題の解決には膨大なコストが必要となる。
  • 従業員のインセンティブを阻害することは、結果として企業の生産性を削ぐため、どの残余権者からみても得策ではない。従って、従業員の生産性を向上するような制度をとることは、他の残余権者にとっても利益であり、エイジェンシー問題は緩和される。
  • 従業員が会社から受ける利益の主要なものが賃金であるとすれば、それ自体は法律や契約で一定の保護がなされる*7
  • 80年代、90年代の企業買収ブームの際に、買主が支払ったプレミアムの源泉が従業員からの価値移転ではないかを調べたSchleiferらの研究を含め、実証的に株主が従業員から価値移転を行っているという仮説をサポートするものが乏しい
  • 成功している会社のほとんどが現に株主に残余コントロール権を付与する形で運営されている(もし、そうした設計が残余権の最大化に不利であれば生き残れない)
日本は特別?

さて、上の議論は米国で発展したものです。それを日本にそのままあてはめるのはどうかと言われるかも知れませんが、理論的なところは、きわめて普遍的な話です。その普遍的な部分以外のところで日本の独自性があり、それ故に米国とは異なる制度設計が望ましいというのであれば、それなりの論拠は必要です。例えば、以下の点について積極的な主張が必要だろうと思います。

  • 日本企業では従業員間のエイジェンシー問題の解決は容易である。
  • 従業員にコントロール権を与えても、株主からの価値移転を行わない*8と株主に信じてもらえるインセンティブ的な保証がある*9
  • 実証的にみて、株主が従業員からの価値移転を行っていることを疑う十分な証拠がある*10

株主利益最大化を「ひとまずの」目標とした上で、従業員を含めた他のステークホルダーとのバランスが崩れる可能性のあるところは個別立法で対応するという枠組みは、米国でも、そして日本でも従来それなりにうまくいってきたわけですから、それを変えようというのであれば、やはり、それはそう主張する側に立証責任があると考えるべきではないかと思います。

ところで、「株主主権」とか「至上主義」ってどこ?

さて、以上に整理したように、株主利益最大化原則は、あくまで法律や契約で取り分が決まっているもの以外の残余の資産のコントロール権に関する議論であり、そもそもその対象が限られています。
そして、その残余部分へのコントロール権の付与にあたっても、何も考えず宗教のように株主が最高権力者といったことで決めているのではなく、残余権者たり得る者が複数存在することを前提に、その中で比較的エイジェンシー問題が相対的に低い組み合わせは何かということを分析した上で、株主利益最大化をひとまずの前提としているだけです。
何か「民主主義」と同じような一種のポリシーとしての「株主主権」があるわけでも、株主様は絶対不可侵でるかのような「株主至上主義」が掲げられているわけでもありません。

まあ、そういう対立構図に持ち込むことで、自分の言わんとすることに理由をつけようとする試み自体は、別に日本に限らずどこの国でも起きたことですが*11、「株主主権」とか「株主至上主義」は、本当は存在しない仮想敵国でしかないということは、やはり指摘しないと寝覚めが悪いと思うわけです。

ちなみに、今の日本の会社法は?

もう一つ、これは逆の立場から「日本は法律で株主が会社の所有者に決まっている」といった発言があり*12 、それがまた仮想敵国が実在するかのような幻想を却ってあおっているということになってしまっているようです。

しかし、ここで法律家の端くれとして、はっきりと言っておきます。

どの条文であれ、会社法には会社の所有者なんて、どこにも書いていません。そもそも、「会社の所有権」なんて概念自体が存在していません*13

むしろ、会社法は、株主は株主総会を通じて「法令又は定款に定められた」限定的な事項について決定権を有するというだけであり、その意味では、株主の有する残余権コントロールも制限的なものでしかないということで、株主の多数決によるコントロールに制約を加えています。また、取締役の義務内容も、色々な議論はありましたが、あえてその義務の名宛人は「株主」ではなく「会社」とされています。(会社法355条)
そして、取締役が会社の業務執行にあたって任務懈怠によって、(株主以外も含む)第三者に対して損害を与えた場合には、個人責任を負う構造となっています(429条)。

その上で、上記のようなコーポレート・ファイナンスにおける議論と同様の議論を経て、あくまで解釈論として、取締役は第一義的には株主利益最大化を尊重すべきと言う義務を認める論者が多いというに過ぎません。そうした論者もまた、そうした株主利益最大化原則は、あくまで色々な制度設計の可能性がある中で、経営者による利益相反問題をコントロールするという会社法の目的の上では、株主利益最大化原則が望ましいといっているだけです。
私の言葉だけで信じられないかも知れないので、江頭先生の教科書の記述を引用しておきましょう(江頭『株式会社法(第3版)』20頁。

株式会社においては、対外的経済活動における利潤最大化を始めとする「株主の利益最大化」が、会社を取り巻く関係者の利害調整の原則になる。・・・もっとも、右の原則は、他の利害調整原則を排除してどこまでも貫かれるべき性質のものではない。したがって、その原則の効果の帰結としての法的効果は、次に例示するように、法規範としては緩いものである。

このように、会社法の世界でも絶対性を示唆するような「株主主権」や「株主至上主義」は主張されたことはありません。
実は、これはアメリカでも、ほぼ同じ議論(というよりもアメリカにおける議論をなぞっている)です。

実際、アメリカの企業に対する、証券市場における開示規制、環境規制、労働者に対する差別的雇用・解雇、反トラスト法などの競争法などの規制は、日本よりも遙かに厳しいものです。
これらを遵守することは、上場会社として当たり前のことであり、コンプライアンスという概念やそれを重視する姿勢自体、米国企業が最も進んでいたわけです。
米国における株主利益最大化は、上に述べたように法律や契約において確保されたものを遵守するという前提の中で、その残余の最大化に向けられたものです。

私も日米の議論を網羅しているわけではありませんが、こうした限定された意味での株主利益最大化と異なる絶対的な教義のような意味での「株主主権」や「株主至上主義」を主張している人というのをあげろと言われても、実は全く思いつきません*14

というわけで・・・

まあ、そういうわけで真面目に書こうと思うと、やっぱり大変な分量になりそうなんで、はしょったりなんだりしていてぐだぐだしてきましたが、私が言いたいのは、こういうことということで。

  • 「株主主権」とか「株主至上主義」というのは、それを攻撃するためにする仮想敵国であり、実際には極端な意味でのそういうものは存在しないし、米国も含めてそういう制度にはなっていない。
  • 現在、日米の解釈論として受け入れられている「取締役ないし経営陣の第一義的な目的は株主利益最大化である」ということが意味する範囲は、残余コントロール権の問題であり、限定された範囲のものである。
  • また、「株主利益最大化原則」はともかく株主は偉いとかいう教義的な発想から生まれているのではなく、従業員や他の者に残余コントロール権を与える議論も踏まえ、そうした論者との議論を経つつ、それらの議論に堪えつつ、それでも実際に採り得る制度の中では最善のものとして採択されているものである。
  • そうした理論的なバックボーンに対して、理論面あるいは適切な実証データを用いた議論は生産的だが、存在しない教義的な仮想敵国をつくりあげて、それのおかしさを論難するだけの議論は不毛なのでやめませんか

ということです。

・・・まあ、何かやっぱり書き終わって見てみると、分かる人はそうだよねということで分かるし、これを分かりたくない人には伝わらないかもなと思いつつ、まあ、こんなところで、今日は勘弁してください。

*1:twitter界隈

*2:複数の選択肢の何れが望ましいかということの判定基準として(パレートの意味での)効率性を用いるということだと理解してください。効率性が政策目的として適切ではないという議論の当否については、それ自体一大テーマなので、今回は扱いません

*3:もちろん、その資産を有効に活用できる人を世界中から見つけ出して、その人にやらせればよりいいでしょう。しかし、このようなことはコストがかかるというか、そもそもそんなこと事前に判別することは無理といってさしつかえありません。そこで、まずはインセンティブに着目して、更にインセンティブを有する人たちの間での取引を通じて、その資産を一番有効に活用できる可能性の高い人が自ずから名乗り出ることを期待するわけです。

*4:キャッシュフローとして表現されることが多いので、いわゆるSecurity Designの世界ではコントロール権と対比してキャッシュフロー権という言い方をします

*5:この辺りも、劣後債とか業績連動債、あるいはCBとかは微妙です。こうした資金提供者間でのコントロール権とキャッシュフロー権の分配をどのように行うのが効率的かということについては、近時Security Designということで着目されています。詳しくは、森田果先生がどっかで書いてた論文(民商だっけ?)をどうぞ

*6:まあ、本当はさらに判断コストの問題があって、株主のような集合は集合行為問題を抱えているので適切な意思決定をできないという問題があるので、実際には株主を残余権者として位置づけしつつ、経営者ないし取締役をその代理人として位置づけて、実際の権限は経営者に与えるということになるわけですが、今回の議論の中では本題ではないので割愛します。一つだけ言っておくと、事実問題として経営者がコントロールを有しているのは、残余権者としてではなく、あくまで残余権者たる株主の代理人としてです。これは経営者は出資者である株主の財産を移転しようとする強いインセンティブを、従業員と同様に(あるいは従業員よりも権限があるだけより強く)持っているから、経営者が個人的な利益を追求することを前提としたコントロール権の付与は不適切となる可能性が高いからです。

*7:「一定の」と留保をつけたのは、ホールドアップ問題があるからですが、ややこしくなるので、ここでは割愛します。ただ、雇用者と被用者間のホールドアップ問題は、この両者の間での契約アレンジで対処できる部分も多く、会社の残余コントロール権まで与える必要は高くありません。

*8:例えば、株主が出資した資金を、会社価値を高めるプロジェクトに投資するのではなく、自分たちの賃金上昇に回しませんと株主が信じるかどうかです。これは基本的に起業家と出資者との間のホールドアップ問題と同じ話ですので、繰り返しゲーム状況を考えれば、そういう流用をやってしまうとその後の資金調達ができなくなるという形で、最後のゲームの直前までは満たされる可能性はあります。もっとも、従業員の場合には、やはり内部での利害状況の対立が深刻となる可能性があるでしょう。例えば、定年間近の従業員は流用のインセンティブが高く、若い従業員は低いとかです。これを応用すると、若い従業員にコントロール権を付与するシステムの方が出資者に信頼されやすいということになるかも知れませんね。まあ、これはこれで考え出すといくらでも議論できそうな話ですが。

*9:詳しくは述べませんが、プロジェクトの実行から得られる利益の一部は必ず他の債権者や株主に還元しなくてはいけない状況において、従業員がそれを自分への分配に回さず、リスクのあるプロジェクトへ投資するためには、それなりに色々な前提条件が必要です

*10:ここでいう証拠は、単に労働分配率が、とか、リストラがとかいう印象論ではありません。例えば、従業員持株比率が拒否権を有する水準まで持っている企業とそうでない企業(そんな企業がそもそもあるのかという話ですが)と従業員への賃金レベルが他の変数をコントロールした上で統計上有意に差を有するとかいったものです。

*11:米国でも90年代にLBOが従業員から株主への利益移転を促進していると議会で話題になったようです。

*12:しかも、これは反論になっていません。簡単にいえば、「それなら、その法律を改正すればいいだけ」だからです。立法論や制度論を議論している時に、「今の法律がカクカクシカジカ」というのは、何ら正統性の根拠になりません。ただ、これもしばしば法律=倫理的にも正しいというすりかえで用いられます。これまた法の限界を知る法律家からすると悲しいことです。

*13:ちなみに、会社法105条は株主は「その有する株式につき」論じたものです(当然ながら財産権としての株式には所有権はあります)。また、105条は逆にいえば、ここに書かれたもの以上の権利を認めていないということの裏返しであり、「会社に対する所有権」など定めたものではありません

*14:ある意味、全ての問題は財政政策で解決できるといっているリフレ派みたなもの?