ゲームでの死の表現をめぐって

RGNでの発表された内容からは、矛盾点やゲームから離れたものを混同していているところがあったので、少々つっこみを入れてみようかなと思いました。

死の表現の悪影響論

これは、「写実的に描けば『残酷だ』と言われ、逆に隠蔽すれば『死の重みがない』と言われ、どっちなんだよ!どうすりゃいいんだよ!」という板ばさみの状態のことですね。これは確かにあるなぁ、と思いました。でもゲームに限らず。アニメにしても映画にしても、同様に言われるでしょう。例の残虐ゲーム販売規制の話題に石原都知事が「映画ロッキーはおかしい。ヘビー級ボクサーが殴り合ったら、どちらもただではすまない。(→現実と違う、間違ったことを描いているのでけしからん。)」というやつです。ちょっとばかり知識がある人が「知識をひけらかしたくてか、現実と違うことを指摘してしまう」のです。

復活不可能

死のリアルをさして、「FFⅦのエアリスの死」を例に挙げていました。でも、エアリスはゲームのルールで死んだわけでなく、ゲームの外で「死んだことになった」のです。また、ゲームを最初からやり直せば、死のイベントに至るまでは再び生きたエアリスに会えます。これは、ビデオを巻き戻せば、というのと同じです。ジェットストリームアタックが来るまでは、マチルダさんは生きているのです。

架空の人物の死

「ミス・ノルウェイの死」というのは興味深いが、他にも例は多数あります。明日のジョーの力石の死も、異例の「アニメキャラの葬儀」というものがありました。それよりさかのぼってシャーロックホームズも、ライヘンバッハの滝に落ちて死んだとなったとき、リアルタイムで読んでいた読者達は、ホームズの死を悼み、喪章を付けたといいます。
FFⅩのティーダがエンディングで消滅(死と同義)するということに対して、FFⅩ2にて復活してしまう、とのこと。これはファンの要望に負けたものだが、ゲームルールとしての「ゲームキャラの復活特権」はそこには意識されないものだろうと思います。シャーロックホームズもまた、読者の要望に応えて復活するわけですが、ホームズはリアリズムの塊『推理の機械』で、フィクションに甘えない作品でさえも、こうして捻じ曲げざるおえないことがある、ということです。

ゲームとゲームに付随したもの

結局、ゲーム独自の事柄をもっと採取すべきだったのかなと思いました。ゲームの独自性を考え、ゲームの手法を分析する方にいかないと、どうしても「映画や小説の手法のまねごと」以上にはなれないのではないでしょうか。