にゃんこ先生の学習帳

2015-06-03

[]ブログ『鴨着く島』−邪馬台国九州説・神武東遷実在説・任那実在説−

今年になって松下高明さんが主催する『鴨着く島』http://kamodoku.dee.cc/index.html

という研究会のHPを見つけた。

感服した!!!

細かい異見はあるものの、ほぼ完全に説得された。

これでファイナルアンサーじゃね。

邪馬台国真論―まぼろしの月支(つくし)国

邪馬台国真論―まぼろしの月支(つくし)国

2013-06-17

[]奴国と狗奴国

ときどき奴国・狗奴国について考える。

どうしてこの問題はあまり話題にならないのだろう?

古代大型集落が発見されたなら邪馬台国と同時に奴国を疑うべきだろう。

 

・ 57年:奴国は漢に外交官=太夫を派遣し金印をもらう。★

・107年:奴国から「倭国王」スイショウ(帥升)が遣使朝貢。

・172年:ヒメミコ生まれる。

・178年:倭国大乱。

・184年:ヒメミコ共立。戦争終わる。

・220年:魏建国。

・238年:ヤマトのヒメミコ(卑弥呼)がナシメ(難升米)を魏に送り倭国王と認められる。金印をもらう。★

・240年:魏皇帝、2代皇帝即位に際し出張所(帯方郡)から倭に人を送って倭国王認定を継続することを示す。

・243年:ヤマトのヒメミコ、太夫を魏に遣使朝貢。

・245年:魏皇帝、出張所から倭に人を送り軍旗を与える。

・247年:狗奴国の副官クコチヒコ(狗古智卑狗)が朝貢するが卑弥呼の使者が邪魔をする。

      魏の大使張政が軍旗を携え倭国に至りナシメと会見。

・248年:ヒメミコ死ぬ。76歳。騒乱起こる。

・249年:ヒメミコを継いだトヨにより張政は魏に帰還。報告の中で狗奴国はヒミコ支持の奴国の南と報告。

・264年:狗奴国降伏。

・265年:トヨが晋に遣使。★

・1778年:志賀島で金印発見される。

 

奴国の位置であるが、志賀島がポイントになる。

志賀島は海上交通の要所、安曇氏の聖地である。

安曇氏のネットワークは全国に連なる。

つまり地中海におけるフェニキアのような連合国家だったと考えられる。

奴国の官職名、シマコ、ヒナモリ(兕馬觚・卑奴母離)は、海上交通長官と都市長を意味すると思われる。

 

張政はヤマトの外交機関のある北九州大宰府あたり(伊都国)にしか滞在していない。

倭国の地理情報は伝聞で、前提として日本列島が東西ではなく南北に伸びていると想定している。

すると東南の奴国は実際には東北にあたり、出雲に比定できる。

 

というわけで、漏れの結論は、出雲=奴国。

 

最初は出雲の奴国が日本を統治していた。

大和は後から北部九州から瀬戸内海を領分として成長。

覇権を賭けて争うが決着付かずいったん休戦、ヒメミコを共立する。

だがヒメミコは勝手に魏に朝貢し倭国王に認定される。

これでまた戦争となるが、こんどは奴国連合のうち出雲がはやばやと大和に帰順。

このときに多数の剣は大和に献上され金印は聖地に埋められた。

奴国の残りは東国を拠点に抗戦する。これが狗奴国と呼ばれる。

やがて古代の小田原攻めを経てついに陥落、大和による全国統一がなされる。

この報告に晋に遣使。

  

なお、そもそもなんで奴国は漢に遣使したのか?

それは軍事的な理由しか考えられない。

なんらかの危機があったのだ。

それは大和の前身たるある一族による大和平野の占領だろう。

そのヒーローこそイワレヒコ=神武天皇だっと思うが、それはまた別の話。。

  

追記)

さらにいうと、このあたりの史実が日本書記・古事記の神代記に残響している気がする。

出雲といえばスサノオで、スサノオは兵主神であり、

なんでスサノオが海を治めろといわれるかといえば、海人族だからでしょう。

   

2012-09-13

[]昔の大人向け漫画

 

あったなあ、こういう絵。

ネット時代、どっこいまだ生息しているんだ。

どんな読者像なのか。

 

http://namekujinagaya.blog31.fc2.com/

 

2012-09-11

2012-09-06

[]四道将軍

 

 

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最北の畿内型古墳、未盗掘で発見 日本海の王、ヤマト政権と同盟

2012.9.6 14:00

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120906/wlf12090614000011-n1.htm

 

 新潟県胎内(たいない)市にある「城(じょう)の山古墳」(4世紀前半)から、長大な舟形木棺や矢を入れる靫(ゆぎ)、刀剣、銅鏡などが未盗掘の状態で出土し同市教委が6日、発表した。北部日本海側では例のない、ヤマト政権期の畿内的要素を持っており、市教委は「初期ヤマト政権と同盟関係にあった王の墓」とみている。この時期、畿内の影響は能登半島付近までしか確認されておらず、専門家も「ヤマト政権の北限が書き換えられる発見」としている。

ヤマト政権、もっと広大な勢力か

 城の山古墳は同市大塚にある全長41メートルの楕円墳。主体部から長さ8メートル、幅1・4〜1・8メートルの舟形木棺が見つかった。人骨片も残り、頭部を北東に向け、木棺やそれを覆う粘土には多量の赤色顔料(水銀朱とベンガラ)がまかれていた。

 副葬品は直径9センチの小型銅鏡やヒスイの勾玉(まがたま)、ガラス玉、銅鏃(どうぞく)など畿内の古墳にみられる遺物が残っていた。靫は鮮やかな黒い漆塗りだった。築造時期は4世紀第2四半期(316年−330年)。

 市教委は「ヤマト政権と同盟関係があったため築造を許された」としている。日本海側で畿内と深い関係を持つ前期古墳は、石川、富山両県までしか確認されていない。

 

 日本書紀には、第10代崇神(すじん)天皇の10年、北陸道を治めるため四道(しどう)将軍の一人、大彦命(おおひこのみこと)が派遣されたと記される。同古墳は、四道将軍伝承象徴される日本海側での政権の勢力伸張を裏付け遺跡といえそうだ。

 福永伸哉・大阪大学教授(考古学)の話「邪馬台国の女王・卑弥呼の没後、数世代しかたってない4世紀前半のこの地に、これほど畿内色を持った古墳が築かれていたことに驚いた。ヤマト政権の勢力伸長の理由は、農具や武器の材料の鉄を独占的に供給できたことだろう」

 【用語解説】ヤマト政権 大和朝廷との呼称が一般的だが、近年は国としての大和を越えた広域の連合王国だったとの見方が広がったことなどからカタカナ表記が普及している。卑弥呼の邪馬台国後の、3世紀後半から7世紀前半にいたる古墳時代に、奈良盆地など近畿地方を中心として本州、四国、九州に勢力を伸ばしたことが、遺跡などから確認されている。

2012-09-04

[]陰部をみせる踊り

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兵頭二十八 2012/08/30

※岡田啓介が海軍兵学校を卒業した直後(明治22年)の練習航海で、サモアのパゴパゴ港に上陸した。そこで、原住民の若い女たちが、歓迎の踊りを見せてくれたのだが、それは腰巻を持ち上げて裸体を見せるものであったのでまったく困った、と回想している。天の岩戸の前でのダンスとは、このようなものだったのだろう。天皇制のルーツを発見したのは、日本人ではなく、米国のルース・ベネディクト女史だった。米国が前世紀からサモアやハワイに関与していたおかけで、そんなフィールド・ワークが可能だったのだ。

2012-09-03

[]台東区はなぜ荒川区と合併しないのか?

 

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荒川区は小さい。

台東区の北側という感じだ。

だったら、合体させて一つの区にすりゃいいのに、と思う。

しかし、そこには歴史的因縁があるのだ。

台東区は穢多頭弾左衛門の支配地で、荒川区は非人頭車善七の支配地なのだ。

形式的には穢多が非人のうえだが、実態は対立していた。

だもんだから、いまだに両者は分かれているのだった。

 

http://www.asahi-net.or.jp/~mg5s-hsgw/tkburaku/history/index.html

弾左衛門家の家伝によれば、弾左衛門の歴史は次のようになっています。

― 平安後期から鎌倉初期に摂津国から鎌倉に移り住み、

鎌倉幕府を起こした源頼朝によって被差別民の支配権を与えられた。

その後江戸に移り住み、江戸近在の被差別民を支配するようになる。

やがて戦国末期、徳川氏康が江戸に入府したとき(1590年)これを出迎え、

鎌倉以来の家の由緒を述べた。

そして徳川氏から全関東の被差別民支配の特権を与えられた。

http://blog.goo.ne.jp/bittercup02/e/b07e55783079183c3d2b92e36f4e3d08

『男はつらいよ』の公開は昭和44(1969)年。

フーテンの寅さん」と呼ばれた車寅次郎が16歳で家出して旅暮らしの香具師となり、20年ぶりに故郷の葛飾柴又に戻ってきた、

という設定になっている。香具師の本拠地は浅草。江戸の非人頭の名前が「車善七」だった 

江戸時代の制度化された身分では「士・農・工商」の下に「エタ・非人」という賤民身分が存在した。

江戸・東京こそが差別の原点だ。

関東八州における被差別民の支配者「エタ頭」が弾左衛門で、非人も支配下に置いた。

4人いた非人頭のなかでもっとも大きな勢力を持っていたのが車善七である。

浅草の非人たちをすべて統括するのが非人頭の車善七の仕事だった。

http://bittercup.blog81.fc2.com/blog-date-20100418.html

『男はつらいよ』の寅さんはテキヤです。

商品を抱えて行かないと行商にならないのに、寅さんは旅する時は何も持っていない。

各府県に親分がいて、そこで商品を仮り、売った分だけが取り分となるシステムになっている。

生れ故郷は柴又となっているが、本当は浅草だ。

テキヤは浅草に住む非人頭の車善七の手下だから、車寅次郎を名乗らせている。

こうしたことを知って見るとまた違った味わいがある。

http://blog.livedoor.jp/daddy101s/archives/50966835.html

同じ浅草にエタ頭と非人頭がいました。この二人は皮革産業の利権をめぐり、争いを繰り返してました。

しかし、最終的には非人衆はエタ頭の支配下にするという寺社奉行の決断が下されます。

けれどもエタ頭の支配下から抜け出る非人衆もでてきます。それが歌舞伎や能の役者たちです。

http://www.asahi-net.or.jp/~mg5s-hsgw/tkburaku/history/danzaemon02.html

 ところが、中世末期から近世初期にかけて、一般社会の側は長吏・かわたを指して「穢多」と呼ぶようになります。そしてこれが徐々に浸透していき、江戸幕府も正式な身分呼称として「穢多」を用いるようになるのです。

 長吏・かわた身分の人たちは、このような呼び名には納得できませんでした。ですから彼らは、自分たちを「穢多」と呼んで差別することに対して何度も抗議しています。東日本全域の被差別民の頭である弾左衛門も、長吏身分に属する身でした。だから歴代弾左衛門は、幕府に対しても誰に対しても、自らのことを誇りを持って「長吏・弾左衛門」あるいは「長吏頭・弾左衛門」と自称し続けたのです。