ゴジラとヤマトと僕らの民主主義

      

ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義

ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義

      
漏れはむかしポストモダンを勉強したときに、そもそもニホンってポストモダンなの?プレモダンじゃないの?モダンってそんなに簡単に終わるもの?みんなの言うモダンってどういうこと?と、いつもいつも疑問だった。
そんで結局「ニホンはまだモダンではない。いま必要なのはモダンの徹底である」という結論に達した。
ところが悪いことに「モダンの徹底」とは「ステートの徹底」を含むのであって、これはニホンではウヨクとされてしまうのだった。で、漏れはサヨクから脱落し、寂しい青春時代を送ることになったのだった。(T^T)
   
それだから後に副島隆彦の日本プレモダン論を知ってどれだけ勇気づけられたか。
しかしだからといって単純にモダンマンセーなのかというと、やっぱり耳学問ではモダンの限界論を知っているわけで、そうもいかない。行き詰まることを知りつつ徹底すべしという後発近代の悲哀を感じるのだった。
そもそもモダンとは神を僭称する狂気ではないか?と考えていたのだが、それを皮膚感覚でよく感得させられたのが中島ギドーの「ウィーン愛憎」だった。
  

ウィーン愛憎―ヨーロッパ精神との格闘 (中公新書)

ウィーン愛憎―ヨーロッパ精神との格闘 (中公新書)

   
つまり、近代を徹底すると皆が皆超越主観に立とうという無限抗争になっちゃうんじゃあるまいか。ということだ。
   
で、話を戻すと、近代主義者である佐藤さんがアニメに映った”戦後民主主義”を点検したのがこの本である。
ただそんな難しいことを言っているのではなくて、日本アニメを見て感じる気持ち悪さ、居心地の悪さ、違和感、を言葉で摘出し、それがそのまま拗くれた近代主義である”戦後民主主義”批判になっているというわけだ。
おのおのの作品に対する突っ込みは漏れもまったく同じように感じてきたことばっかりなので驚いた。
あぁ、やっぱり漏れも近代主義者なんだなあ、と再確認するとともに、漏れだけじゃなかったんだ、と深い安心を得た。
  
で、内容だけど、まず天下のジブリの2作品批判から始まる。
   
追記)
ところで最近漏れはある人に、なぜこんなに本ばかり読んでいるのか、聞かれた。
もちろん非モテで活字依存症であることが理由のひとつなのだが、もうひとつは、偉そうに言えば思想の模索なんだろうと思う。
漏れは激しい頭痛持ちだ。
漏れはこの頭痛は漏れが一貫した世界観、世界認識=自己認識を持てない拗れから来ていると考えている。
逆に言えば子供の頃の漏れは頭痛もないし頭の回転が早くスッキリしていた。
それが長じるにつれ思想を変遷し、それまでの自我が崩壊し、いまだ確固たるものが再建されていない。
その混沌とした軋轢こそが頭痛の震源なのだと感じている。
それは漏れの個人史であると同時に”戦後民主主義”の現況そのものなのではないか?
漏れの頭痛からの解放はそのまま日本の思想的混濁を蒸溜する過程なのだ。
だから金城哲夫のエピソードは胸に迫るものがある。